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2011-03-05 01:51:27

LOST

テーマ:海外ドラマ
「LOST」は、稀有のドラマ作品である。

 (軽くネタバレします)

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私は、すでに記事に書いたように、海外ドラマ作品の中では「24 -TwentyFour-」の熱心なファンなのだが、この「LOST」のファイナル・シーズン(シーズン6)の第一話を観たとき、一瞬、「LOST」は、「24 -TwentyFour-」を越えた・・・、と思わされてしまった。
それほどに感動してしまった。
このような性質の感銘を観る者に与える作品は、他にちょっと考えられない。

どのような性質か。

「もし、私の人生に今とちがった人生があったとしたら」

・・・「LOST」というドラマの本質はそこにあったといえる。

この作品は、当初から、謎に満ちたプロットが観る者を引き込んでいくのだが、その謎が、さらに謎を呼び・・・さらに謎、・・・と。
謎が解消されないままに、あらたな謎が加わり、シーズンが重ねられていく。
最初は、それが快感でもあるのだが、そのうちだんだんイヤになってくる(笑)

・・・のだが、しかし、途中まで観たのだから、という義務感のような気持ちで、ファイナルシーズンまで、がんばって観てよかった。ファイナルシーズンに至って、それまで観てきたドラマの重なりが、深い感動を生み出す。
むしろ、求めていた謎解きへの希求が後退し、見ている者の人生と生活の意味が浮かび上がり、人間が生きていくことがどのようなことか・・・という、生きること、生きていること、の中に暗黙に潜んでいる、人間の抱える偶有性の設問が静かに迫ってくる。
それは、願い。
そして、止むことのないおもい。であるのだろう。

おそらく、この感動は、感じる人と、感じない人がいるだろう。

辛い経験を重ねた人ほど、その味わいは深いのではないだろうか。

すこしネタバレしておくと、「LOST」が観始めて強く惹きつける要素として、ジャンル不明、という雰囲気をうまくかもし出している、という面があるといえる。それはまた、村上春樹による「LOST」というドラマへの「観る者の感情のひだをうまく引きだしている」という評価にも通じているだろう。
しかし、最後までジャンル不明とは、やはりいかない。
シーズン3、4あたりで次第に明らかになってくるのだが、「LOST」は、ジャンル的には、SFである。
ただし、単純なSF作品ではなく、SFにおける、複数のテーマを複合させたつくりになっている。
すなわち、タイムスリップ(時間旅行)ものと、パラレルワールド(並行世界)ものの複合である。
この着想はすごい。そして、そのSF的要素が、それとまったく意識させないぐらいの絶妙さで、人間の生の在り方そのものを描き出すプロットに結実している。

やはり、稀有の作品としかいいようがないのである。




LOST シーズン1 COMPLETE SLIM BOX [DVD]

2011-03-05 01:47:06

風雲児たち

テーマ:マンガ
今月、吉田松陰が死んだ。

連載中の「風雲児たち」での話しである。
(「コミック乱」3月号)

あまりにも、高潔な姿である。

刑死するにおよんで、遣り残したことを全生命をかけて書き残し、なお、刑場に望み微笑んでいたという松蔭の死に際の潔さ。美しさ。
感動などという言葉ではもはや言い表すことが出来ない。

自らの命をかけてあまりある生の目的を見つけた人は、きっと幸せであろう。

人生と生活の目的を、見つけ、見失い、また見つけ、そしてまた失う。
わが人生のなんと悲しく、情けないことだろうか。




みなもと 太郎

風雲児たち (幕末編1)

2010-05-19 23:54:14

一階でも二階でもない夜

テーマ:エッセイ
最近の書店はつまらない。
ような気がする。
いぜんは、買わなくても1日に1回、足を運ばなければ気がすまないかんじだったのだが。
もう半年に1回いくかどうか、という風になってしまった。
個別の書店の問題か。一般的なながれなのか。あるいは自分の問題か。

「営業まわりをしているのでもないかぎり正常な勤め人ならまず出没しないような時間帯に繁華街からはずれた通りを歩いていていちばん気になるのは、というより足を休めるために気にせざるをえないのは、ビルとビルのはざまや私鉄のガード下や私道の一部にしか見えない場所にとつぜん魔界の口をあけている小公園で、学齢まえの幼児を遊ばせているお母さんたちの姿が消え、放課後は友だちの家でしか群れなくなっている小学生のうちわずかな例外ともいえる連中の声が短時間響くまでの、たぶん午後三時半から四時半近くにかけてのひと気のない空間に私は足を踏み入れ、なるべく乾いたベンチを選んで腰を下ろす。」(静かの海)

ひとつには、ネットで事足りている、という側面がある。
楽天やAmazonで本を買うほうが、物理的に楽なのである。
送料無料がそれを後押しした。

「と、悦ちゃんは、笑い崩れた。 「ママハハというのは、ママとハハが一緒になったンだから、一番いいお母さんなのよ。みんな田舎ッ平だなァ、なんにも知らないや!」 このさわやかな啖呵ひとつで、彼女がどれほど母親を求めていたか、いまどれほど幸せなのかが鮮やかに示される。(中略)ママとハハという異質な要素を足して、それを受け入れ、慈しむ勇気を讃えるような小説など、いまどこにもありはしないのだ。獅子文六を、ぜひとも復刊しなければならない。」(湿り気のない感傷 獅子文六)

しかし、昨年、職場近くの書店が閉店した後、おなじ場所に別の大手チェーンの書店が入れ替わりにオープンした。
これが個人的にはよかった。
店舗内のレイアウトが、ファッション性重視から、実用的なそれへと変わりそれなりに楽しみを見つけられるようになった。具体的には、通路を広くとりつつ、平積みが減り、店頭の在庫数がいぜんのチェーンのときより1~2割ぐらい増えている印象を受ける。と同時に、入り口付近で大きくスペースをとっていた洋書コーナーなどはなくなり、かわりに知的刺激を与えるような新刊書をピックアップしてディスプレイしている。
書店を訪れる楽しみとは、未知のものに出会う楽しみであるといえるがそれが感じられるようになったかんじがするのだ。

「面白いけれど結論がない。それなりに読めるけれど、たいした筋もない。これは他人ごとではなかった。当時、私は二冊の散文集を上梓していたのだが、得られた評の大半は、ほぼこのとおりだったからである。それが不当だと感じたのでも、失望したのでもない。まさしくそのような感覚をもたらす散文をこそ書きたいと望んでいる者にはあまりにも当然の感想で、なぜそれほどわかりきったことに言及しなければならないのか、理解に苦しんだというだけの話だ。」(存在の明るみに向かって)

さて。本文と引用文とのあいだになにも関連も脈絡もない内容になってしまった。申し訳ない。
本書については、著者のことも、収録されている各エッセイのこともなにもわたしは知らない。ただ、書店の店頭で、ふと気になって買った文庫本だ。しかも、この本は「回送電車」という本のいわゆる「パート2」という内容でわたしは、その1作目を持ってないし、読んでない。
こんな気まぐれが起きるのも、書店での買い物をする楽しみの1つだ。
読んでみて、なかなか面白いと思った。
人間の営みを文章で表現するということは・・・などということをあらめて考えたりした。

「何年生まれですか、と遠まわしに年齢をたずねられた場合、私はよく、「東名高速道路と新幹線が開通した年、つまり東京オリンピックの年の生まれです」などと、おなじく遠まわしに答える。年長の方は、なるほどお若いですなあと感心してくれるし、年下の友人や学生たちは、ずいぶん古い話ですねと目をまるくする。」(誕生日の宝石)

読み終える直前で、わたしは、この著者が同い年であると知った。



一階でも二階でもない夜 - 回送電車II
堀江 敏幸
(中公文庫)

2010-04-23 06:51:26

桜の栞

テーマ:[CD]ポップス
一聴して心に触れた。
たぶん、わたしは合唱音楽が好きなので、そのせいだろうとおもう。

 桜の花は
 別れの栞
 ひらひらと手を振った
 友の顔が浮かぶ
 桜の花は
 涙の栞
 大切なこの瞬間(とき)を
 いつまでも忘れぬように・・・

だが、この曲自体が名曲ともいえる。
奇を衒う事のないまっとうな合唱曲であり、ハーモニーも美しい。
この曲とともに卒業の季節をくぐった者はしあわせだ。やさしさと厳しさにあふれ、静かに深く感動が満ちる。
拠り所なく迷い戸惑いながら生きねばならない今の時代に多感な人生の時期を過ごした彼らは、この曲を口にしながら、苦さのいっぱいにつまった自らのまだ短い来し方を振り返り、そのつらさや悔しさや悲しさのそれ自体がもつ価値を知ったことだろう。そうしてそれと同時に、まだ来ない新たな日々の困難への慄きと喜びへの期待を、鮮やかに描き出す。それは、人生には生きる価値があるのだ、と確かめ、味あわせることでもある。

 空を見上げれば
 その大きさに
 果てしなく続く
 道の長さを知った

AKB48の歌唱も、美しい。
稚拙な発声技術も、ここでは率直さの表現となって心にしみる。また、たんに拙いだけではなく、レガートとテヌートによる旋律の表現が秀逸であることも指摘しておいてよいだろう。
個人的には、iTunesの1曲リピートをこれほど有効に使ったのは、これがはじめてかもしれない。何度も聴き、何度も泣いた。
ところで、わたしはAKB48のファンというわけではないが、これを機にいくつか聴いてみようかと思っている・・・のだが・・・・じつは私の知り合いに、「まえあつ通り」というサイトを運営している人がいる。このサイトは、たとえばYahooの検索窓でガイド機能をONした状態で、まえあ、と3文字入れるとすぐに表示されるという、その筋(どの筋?)ではかなり有名なサイトといってよいのだが、・・・・いつかその人と語り合ってみたいな、などと最近ではおもっている。


桜の栞(TypeA)(DVD付)/AKB48



桜の栞(TypeB)(DVD付)/AKB48
2009-12-28 06:27:52

犬と猫と人間と

テーマ:ねこ
この映画は、必ず観に行くと前から決めていた。
がしかし、ついつい観に行く機会を逸してしまっていた。この映画はいわゆるインディーズ系の映画なので、上映している映画館も少なく、それぞれの上映期間も短い。わたしは、なんとか横浜での公開の最終日に観に行くことができた。最終日には、監督と映画に出てきた人たちによる舞台挨拶が行われた。
この映画は、日本における犬・猫と人間の関わりについての現状をテーマにしたドキュメンタリー映画である。
観た印象は、ときどき深夜にやっているテレビのノンフィクション番組のようなタッチであるといえる。監督のモノローグによって構成され、素直で見やすい。
年間30万頭。
現在われわれが生きている日本社会における犬猫の殺処分の数である。
このあまりにも苛烈な現状について、しかし、カメラを回し始めた時点では、監督:飯田基晴は、まだほとんど何も知らなかったという。制作の依頼を受けた飯田監督の、犬と猫と人間の関わりをめぐる旅が、そこから始まる。そして、とまどいも迷いも多かったその制作プロセスをそのまま大切にしながら1本の映画にまとめあげているところに、その素直さ、見やすさがあるといえる。
しかしもちろん見やすいだけでは終わらない。
まず、3年以上にわたってまわされたカメラのテープを2時間の映画作品としてまとめてあるので、当然ながらその情報量は多い。
そして、さらに言うなら、わたしもねこという動物を愛する一人なので、胸をえぐられるようなシーンがいくつもでてくる。しかし、それを、社会を非難する説教くささとしてでなく、その「罪」にじつは、どのようにしたって自分もかかわらざるを得ないいまのこのわれわれ自身について、監督自身をふくめたさまざまな人間をフレームの中におさめながら、ときにやむにやまれず撮っている対象にかかわり、ときに、距離をおきながらカメラを回し続ける、その飯田監督の視線に、ふかくこころにしみて来るものがあるのだ。飯田監督の作家性が前面に出た作品という言い方もできるかもしれない。わたしは、そんなふうにかんじた。
映画の中にでてくるひょうきんなキャラに、「しろえもん」「にゃんだぼ」 という犬と猫がいる。映画の主な舞台となっている神奈川県動物愛護協会にいる犬、猫である。
しろえもんは、人なつっこい活発な白い犬。ただ、活発すぎて興奮すると走り回ったりして手がつけられなくなるので、一度、もらわれた先から返されてしまった。いまは愛護協会でしつけのトレーニング中だ。やんちゃ坊主である。
にゃんだぼは、愛護協会のまわりに住む野良猫。気のおもむくまま出たり入ったり、愛護協会に顔パスなねこだ。ときに協会に保護されている犬をからかい、ときに他の猫の食事を横取りして食う。
いまも元気にしているだろうか。
そういえば、上映終了後の舞台挨拶での、飯田監督、愛護協会の人たちの話の中に、しろえもんも元気でやっている、しつけのトレーニングはいったんお休み中、という話がでてきていた。
また、舞台挨拶の話では、映画にもでてきた山梨県の「犬捨て山」のこともふれられていた。400頭といわれた捨て犬が、いまでは、人々の努力により80頭まで減ったという。そして、その「犬捨て山」で学生としてボランティアで関わっていた若者が、その後、神奈川県動物愛護協会に就職、舞台挨拶にも登場していた。話しぶりもまじめで謙虚でお仕着せがましいところがまったくなく、現場ではたらきつづけている人の静かな迫力をかんじ、立派だ、すばらしいとおもった。
そして、もう一人、愛護協会の会長さん(会長と呼ぶには若い女性の人だ)も舞台挨拶に来ていたが、その人もやさしく控えめで懸命さを感じさせる人柄のようにおもった。疲れているようにも見えた。まるで、前日に娘を亡くした母親のような表情をしている、とおもったのは、わたしの穿ちすぎであろうか。
わたしは、いつも映画はなるべく前の席で観る。今回も前から3列目ぐらいで観た。すぐ後ろには、2列ほど貸しきり状態のようにして小学生が制服を着てすわっていた。教師がみせるべきと考えてのことだろう。見終わった後、他の人たちにも伝えてね、と子供達に話していた。予想に反して、上映中はじっと静かに観ていた。
前の席に座っていたので、舞台挨拶のとき飯田監督の顔がよく見れた。映画が好きで、好奇心旺盛、いたずら好きの少年のような表情をする人だなぁという印象を受けた。ちょっとファンになってしまったかもしれない。
ジャック&ベティという映画館での上映だったが、この映画館で見るのははじめてだったが、またここで映画を見たいとおもった。このあたりは決して上品な街ではない。それもまたいい。飯田監督も横浜の人だそうでこの映画館のことを好きだと言っていた。

この映画には、いろいろと犬や猫と人間との関係を考えさせられるものがあった。
考えさせられる、というセリフは、感想をうまく言葉にできないときの決まり文句のようなもので、じつは何も考えていなかったりする。だが、ここではそういう意味ではない。いろいろと私は考えた。あたりまえだが私は人間なので、わたしがこの映画をみおわって考えることといえば、人間について、つまり人間のありようについて、そして人間にできることについて、・・・というようなことである。だがしかし、それをいちいちここで書くのはやめておこう。内容が、いろいろ過ぎて散漫になってしまう。またそれは別の形でこのBlogに書こうとおもう。

さて。
観終わって一週間以上たって、ようやく感想を文章にできた。
この作品は、わたしにとっては、とても、深い印象を残す映画だった。切なさと悲しみと希望と。たぶん私は、この映画の印象を一生ひきずって生きていくことになるのだろう、という予感がある。
わたしは、自分の家でねこを飼い始めるまでは、犬にも猫にもあまり関心のない人間だった。いまでは、猫に関心などもたなかったら、たぶんもっと楽に生きられたかもしれないなぁ・・・などと思うこともある。しかし、もう後戻りはできない。路傍のねこを見つけると、元気にしているか、やせていないか、飼い猫か、野良猫だったとしてまわりに世話している人がいるのかどうか・・・などをかならずチェックせずにはいられなくなってしまった。もし、空腹でさまよっている様子であれば、外出時にできるだけ携行するようにしているキャットフード(水分も同時に補給できるネコ缶がよいレトルトパック入りが携行しやすい)を器にいれて与える。忘れてはならないのは、食べ終わったのを見届けてきちんとかたずけることだ。近隣の住民とのトラブルを回避しなくてはならない。
映画を観終わって出てくるとき、せめてもの寄付の気持ちで、愛護協会のポストカードを購入した。そこにはこんな言葉がのっていた。

「猫好きの人がいる。犬好きの人がいる。人間好きの動物はどれだけいるのだろう。」

わたしは泣きながら映画を観たが、脳が泣きつかれたのかかえってきて半日ほど爆睡してしまった。
後日、パンフレットを読んでいたら、いちばん後ろのページに、この映画の製作を依頼した猫おばあちゃんを描いたイラストがのっていた。この猫おばあちゃんは、自分の満期になる生命保険を資金として提供し、この映画の製作を依頼した人だ。残念ながら映画の完成を待たずに2007年に亡くなっている。
そのイラストを見ると、映画を観終わった人々が映画館を去っていく中で、一人、はじっこのシートにすわって微笑んでいる絵だ。ひざの上には茶トラのねこが穏やかな表情で抱かれている。猫おばあちゃんは、きっとこの映画に満足し、犬と猫と人間の未来を見つめながら、飯田監督をはじめこの映画を作った人、そして観た人、応援している人たちに、「ありがとう」とつぶやいているのだろう。その声が聞こえてくるようで、わたしはそのイラストを見てまた泣いた。
全国の映画館で、これからも少しづつこの映画は上映されていくようだ。わたしもささやかながら応援したい。
そのすべての会場の片隅には、きっと、イラストのようにあの猫おばあちゃんが観に来ているのだろう、と思う。




犬と猫と人間と [DVD]

2009-12-08 00:30:14

パレード

テーマ:小説
先日、読んだ「DIVE!!」を私に薦めた知人に、そのお返しにわたしが薦めたのがこの小説だ。
この小説を私が読んだきっかけは、職場近くの書店の棚に掲げられた店員の手書きの紹介文だった。
マンションの一室で共同生活を営む男女5人の爽やかな青春群像、などと思ったら・・・ちがうっこれはとんでもない大傑作だ!!・・・というふうに、そのPOPは全力でこの本を薦めていた。わたしはその宣伝文句にまんまとのせられてしまったわけだ(笑)
先の記事の「DIVE!!」のような小説があまり好みでない人には、こちらはむしろいいかもしれない(へんな説明)
意外性を持った傑作であることは間違いない。ただし、絶対にネタバレ厳禁の作品である。読み始めていまいちだな、と感じても、とりあえず、さいごのさいごまで読みすすめることをおすすめしておこう。ただし、読後の好悪は人によって分かれるかもしれないが・・・。まぁもしそうだとしてもソレも傑作であることのあらわれかもしれない。
この著者の文体はこんなかんじである。

「晴れた日曜の午後、なぜぼくがこうやってベランダから眼下の通りを眺めているかというと、理由は一つ、退屈だからだ。
こう退屈だと、なんというか、時間というものが、実は直線ではなく、その両端が結ばれた輪っかのようなものに思えてきて、さっき過ごしたはずの時間を、もう一度、過ごし直しているような感覚になる。真実味がないというのは、もしかするとこんな状態のことを言うのかもしれない。たとえば今、このベランダから飛び降りたとする。もちろんここは四階だから、運がよくても骨折だろうし、運が悪ければ即死する。ただ、輪っかのような時間の中にいる場合、一度目は即死だったとしても、二度目がある。一度目の即死を踏まえて、今度は軽い捻挫で済むくらいの飛び降り方を試してみられる。三度目にはもう、飛び降りることに飽きてしまい、柵を跨ぐことすら面倒になる。飛び降りなければ、何の変化も起こらない。起こらなければ、元の退屈な時間が待っている。」

そういえば、先週の「AERA」(No.58) の表紙は、吉田修一だった。その号の記事によれば、この小説は来年2月に映画化されて公開されるらしい。映画が先か小説が先か。観てから読むか読んでから観るか。
むむ・・・。
観てから読んだほうが=読む前に観たほうが=観るまで読まなかったほうが、面白かったかも(笑)



吉田修一
パレード (幻冬舎文庫)

2009-12-08 00:09:37

DIVE!!(ダイブ!!)

テーマ:小説
この本は、かなり以前に知人から薦められ、文庫版の上下2巻を買ってあったのだが、長いあいだそれに手をつけていなかった。先日、なんとなくふと読む気になって、読んでみた。この小説は、飛込みというマイナーなスポーツの世界を舞台に、女コーチと10代の選手たちが繰り広げるドラマを描いたものである。
なかなか面白かった。
まったく馴染みがないはずの飛込みという競技が持つその醍醐味を、鮮烈に美しく印象付ける描写がじつに見事で、気がつくと、この競技の試合をじっさいに観に足を運んでみようかと真剣に考えてしまっていたぐらいだった。そしておもしろいことに、なぜか読んでいる途中で、アニメ「エヴァンゲリオン」とイメージがかぶってきたりした。

「まずは中高生のダイバーであること。そしてエントリー種目が一定の難易度を満たしていること。大丈夫、あなたたち五人は全員クリアしてるわ。ただし、選考会が開かれるのは約四か月後の七月二十九日。もうあんまり時間がないのよね」

この女コーチ=夏陽子(カヨコ)という登場人物、なんだか、ミサトみたいだ(笑)
さらに、知季(トモキ)はシンジ、飛沫(シブキ)はトウジ、要一はカヲル、・・・などとあてはめたりもできなくもない。さらに、ゲンドウやキールにイメージがかぶってくるキャラもでてくる。そして、物語の章立てが、知季(シンジ)⇒ 飛沫(トウジ)⇒ 要一(カヲル)という順で展開するのも・・・まぁ偶然だろうが(笑)
そういえば、TV版エヴァには「マグマダイバー」という回があった。そこでの「ダイバー」は、アスカ=女子キャラだったが、この小説には女子ダイバーは登場しない。
などと、脈絡の無い連想をしてしまった。
まぁとにかく、読んでかなり楽しめた。とくに下巻は一気に読み終えた。
ただ、率直にいうと、読む前に予想した通りの小説だった、という面もある。
わたしは、ふだんこの手の小説にはほとんど関心がない。一言で言うと、内容はテレビドラマと同じである。しかし別にそれでいいのだ。書き手も読み手もそれをこそ望んでいるのだから。
放送コードの枠内で、一般の日本人が理解できる題材を用いて、登場人物の心理的な葛藤を描く・・・(別に放送コードを逸脱することがよいといいたいのではない、書き手と読み手の求めるもの、その葛藤の深さの問題である、小説中の登場人物に葛藤は存在していても、その小説の書き手と読み手には人間存在そのものを問いとまどうかのような葛藤は不在、ならば実際に一気に読めてしまう読みやすい小説となるわけだ)
この作品は、たしか映画化されていたはずだ。DVDもでているだろう。そのうちに、またふと気が向いたらレンタルでかりて観てみよう。ただし、こんな季節はずれでなく、観るならやっぱり夏だなぁ。きっと面白いだろう。


森 絵都
DIVE!!〈上〉 (角川文庫)



森 絵都
DIVE!!〈下〉 (角川文庫)
2009-11-05 08:02:05

不可能性の時代

テーマ:人間と社会
本書が出たのは、2008年4月だから1年半ほど前だ。
私はその時にすぐに買って読んでいたが、先日読んだ「ニッポンの思想」の中に本書についての言及があったので思いだし、また読みたくなったので再読してみた。
本書は、冒頭、以下の一文から始まる。

 現実は、常に、反現実を参照する。

面白い。
こんな文が目に入ってしまうと、もういけない(笑)
そのまま引き込まれるように読んでしまう。
「現実は・・・」、「・・・・参照する」とはいったいどういうことだろうか。
あきらかに擬人的な表現であり、一種のメタファーである。
「現実」とは、人間が認識する対象である。それが「参照する」という動詞に接続されているのは、その「現実」がもつ性質が、自律的といえるまでに絶対的な必然性をもっているのだ・・・ということを示したいがゆえの強調の表現だろう。
では、その「現実」がもつ性質とは何か。それがつまり「反現実」を参照する・・・つまり、人間が「現実」を現実と認識するということにおいては、かならず「反現実」を無意識の中に前提として抱え込んでいる、ということである。
たとえば、「現実/理想」を、「不幸/幸福」に置き換えてみるといい。
そして動物の例を考えてみる。果たして野良猫が、飢えに苦しみ、寒さに震えながら、「ああ金持ちの家の飼い猫だったらなあ」とか「早く春にならないかなあ」などと考えているだろうか。そんなはずはない、ということは見ていればわかる。もし野良猫がそんな考えをしているのであれば、その行動に、裕福そうな家のまわりに集まったり、春までしのぐために冬支度をするなどといった文化のようなものがみられていてもおかしくない。そんな猫はいない。つまり、野良猫(というより動物一般)は、(本書にでてくる言葉を使って言うと)「偶有性」というものを持つことが無いのであり、「もし自分が○○だったら」「もし自分をとりまく環境が○○だったら」というように考えることができないのである。だから彼らは自分を不幸だなどとは思ってはいない。思うことができない。彼らは、たんに飢え、苦しみ、そして時によろこぶ。ただじぶんの目の前にあるモノや環境に反応し、瞬間瞬間を生きているだけだ。ここに人間と動物のちがいがある。人間は偶有性を抱えながら生きているのだ。
そして、現実は常に反現実を参照する、ということの含意もここにある。
人が、現実はそんなにうまくいかないよと言い、現実は悲惨だと嘆き、あるいは現実主義でいくことの大切さを訴えるとき、そこには、つねに現実ならざるもの、反現実が前提されている。
「理想と違って」現実はそんなにうまくいかないよ、「空想の世界とはちがうんだから」現実は悲惨だ、「机上の空論ではだめだ」現実主義でいくことが大事だ・・・というように、反現実が人間の精神の中に存在することによって、現実の意味というものは組み上げられているのである。そして意味は人間にとって必須であり、したがって人間は現実を現実と認識せずして生きていけない、少なくとも現代社会は成り立っていかない、ということである。
・・・・などと、最初の一文だけで、こんなにもいろいろと考えることができる(笑)
「○○の時代」という言い方は、ドラッカーの「断絶の時代」が最初だっただろうか。この言い方には、時代の本質というものを言い当てようとする社会学的な欲望が強く働いている、といえる。実際、本書の議論は、そんなにはっきり言ってしまっていいの? と思わせるぐらい明瞭に、日本の戦後史における時代区分を提示している。「理想の時代/虚構の時代/不可能性の時代」と戦後史は遷移しているとし、その転換点を、1970年と1995年に見出している。
また、本書の特徴のひとつは、その取り上げられているトピックの多さと多様さである。
戦後のGHQ占領における柳田や折口らの苦悩、永山事件と酒鬼薔薇事件の対比、オタクという現象をめぐる人間精神の在り様の探求、オウム事件や宮崎勤事件をはじめとする「不可解な事件」、日本の住まいの変遷(リビングのある家/ワンルーム)、ルーマンらによるリスク社会論・・・・等々。非常に盛りだくさんである。
たとえばオタクについて論じているところには、こんな話がでてくる。面白いからちょっと引用(笑)

「国鉄さんというくらいだから、鉄道に興味があったのだろう。だが、国鉄鉄民さんは、とりあえず、総武線にしか興味がない。彼は、総武線を複線電化することに、異常な情熱をもっていた。そこで、彼は、複線電化を、鉄道管理局や千葉県知事に繰り返し訴えたのだが、同一の人物が何回も陳情しても効果は薄いので、多くの人の一般的な欲望であるかのごとく偽装すべく、千葉県の各地から、異なる文体、異なる消印、異なる日付の手紙を何通も出したり、声色を変えて頻繁に電話をかけたりしたのだという。
あるいは、こんなエピソードもある。鉄民さんは、電話帳オタクでもあった。ある日、竹熊が、鉄民さんの家に遊びに行くと、鉄民さんは、電話帳を一ページずつ、ていねいに繰りながら何かをノートに書いている。世の中には、「大隈重信」とか「徳川家康」といった、歴史上の人物と同一の氏名を持つ人がいる。鉄民さんは、電話帳で、そういう氏名を見つけては、これをノートに書き写していたのだ。竹熊は、こんな趣味もあるのか、と大いに驚いた、という。」(p.91)

これは、竹熊健太郎「私とハルマゲドン」にあるエピソードを紹介した部分である。
なんで、鉄道オタクが不可能性の時代なのだろうか(笑)
それについては詳しくは本書に書かれているが、要はオタクを論じることで現代社会の特異性を論じることができ、そのオタクの原点には、鉄道マニアや切手マニアがある。交通や通信は、個人を、物理的な生活圏をこえて国家に接続させる、近代の必須の要素であり、そこに個室に閉じこもる一般的なオタクのイメージとはうらはらに、オタク達が持つ世界への志向性を見て取れる、というわけだ。
こういう面白おかしいトピックばかりではない。
永山事件、酒鬼薔薇事件、宮崎勤事件といった事件の犯人の動機を検討しつつ、それらの中に、現代社会を論じる視点を見出す。
とりあえず、これらはほんの一例だが、これらのさまざまなトピックが薄い岩波新書の中に多数取り上げられ、著者の従来のキーワ-ド「第三者の審級」「アイロニカルな没入」を駆使して縦横に論じられる。そこで示されるのは、人間存在における逆説に次ぐ、逆説だ。
人によっては、こういう三面記事的な論じ方を訝しがる人もいるかもしれない。だが、わたしは、やはりこうした事件やトピックの根っこには、人間の観念における世界像の変容がよこたわっているようにシロートながらおもう。したがって、そうした点については、疑念はない。
ただ、本書が全体として十分な説得力をもっているかというと、むしろ逆である。
本書において著者である大澤は、現代人が、現実からの逃避ならぬ「現実への逃避」という傾向性をもっていることを鋭く指摘しており、非常に興味深いのだが、そうした個人の内面を分析する視点と、社会を考察する視点とが脈絡無く接続されている。さらに、終盤には、そうした議論が具体的な政治論の次元へと唐突にすすみ、数学的なモデルまで登場する。つまり、かなり錯綜した議論となっている印象は否めない。
しかし、それをわたしは否定的にはおもわない。
このような書き方は、おそらく新書という場所を意識したスタイルであろう。
時代の本質をとらえ、そこからさらに展望を見出そうとするここでの議論は、今後、著者によりさらに精緻に展開されていくのだろうとおもう。それを待ちたい。以下は「あとがき」にある著者の言葉である。

「ミネルヴァのふくろうは夕暮れに鳴くという。だが、ふくろうを出来事が進行している渦中に、昼間のうちに鳴かすことはできないだろうか。そもそも昼間のうちに鳴くことができないのならば、ふくろうの存在など何であろうか。さらに言おう。昼間はほんとうは、夕暮れのふくろうを一種のユートピア的な期待のようなものとして最初から胚胎させているはずではないか。それならば、先取りされている夕暮れの視座を昼間のうちに占め、そこから昼間を捉え、鳴くことが十分に可能なはずではないか。こういう思いから、私は、本書を執筆した。」(p.287)

なんという激烈な理想追求への決意表明だろうか。
「不可能性の時代」の不可能とは、端的にいえば、理想が不可能ということだ。
20世紀の終盤に理想の挫折を経験しているわれわれは、理想に賭けることにそもそも慎重、というより臆病である。たしかにそれが正しいという面もある。しかし、現在は思想への生命力を欠いた時代である。むしろこの著者のこの決意を肯定して、ささやかながら注視したい、と思う。



不可能性の時代 (岩波新書)/大澤 真幸


2009-10-24 07:03:16

考・政党

テーマ:人間と社会
昨日の楽天の試合は面白かった。
わたしは、もともとスポーツにはほとんど関心がないが、大きな大会が盛り上がるときは、ささやかな、にわかファンとなって、テレビの前で応援団化する(笑)
あと一敗したら終わりの崖っぷちである。
田中の鬼気迫る力投。鳥肌ものであった。窮地を投げ抜いた気迫。堂々とした勝利の姿だった。ここから起死回生し、怒涛の4連勝で楽天の大逆転劇を見てみたいものである。当の楽天ファンももう無理だとおもってる人も多いだろうが、だからこそ面白い。
さて。
いま、朝日新聞に「考・政党」という連載が載っている。
「このままでは民主党の一人勝ちが続くだろう。自民党に代わる「万年与党」が生まれるだけなら、2大政党がしのぎを削って政治に緊張感をもたらすことを狙った90年代以降の政治改革の意義は失われる」
政党論を考えることが重要だという。おもしろい論調であるとおもう。(月1回程度の連載。最初の2回は、10月22日、10月23日付に掲載)


2009-10-07 01:33:29

ニッポンの思想

テーマ:人間と社会
民主党が政権をとった。
まぁお手並み拝見というところだろう。
以前に書いたようにわたしは民主党という政党も小沢一郎という政治家も信用してないので、期待もしない。
ただし、当面混乱するだろうが、この政治主導への変化はきっと不可逆なものであるだろう。官僚制の悪習の根本は官僚の無責任体質であり、であればそこには変化に抵抗する信念もまた不在だからだ。ただ、それを民主党という政党が担い続けていくことになるのかどうかは非常に不透明である。だいたい2大政党制が日本に根付くかどうかまだまだわからない(つまりこれからまた政界再編も起こりうるということだ)
さてまた前置きが長くなりそうなので、さっさと本書の話題にうつろう。
まず、本書の書名だが、これはなんとなく軽薄な印象を与える。日本を「ニッポン」とカタカナで表記してPOPな感じを演出し、まるであまりふだん読書をしない人々に媚びているかのように見えるからである。
しかし、読んでみると実際はちがう。80年代以降の思想を真正面から読み解こうとしている真摯な内容である。「あとがき」には、この書名が、丸山真男「日本の思想」を意識したものであることが書かれている。
本書をわたしはかなり共感をもって読んだ。
その大きな理由は、この本の著者、佐々木敦とわたしが同年の生まれ、同世代だからだ。
1983年当時の知的風景が懐かしい。浅田彰「構造と力」が、思想関連書籍では異例の10万部を越える売り上げを記録し、大ブームとなった年である。
「構造と力」は、読んでみるとわかるが、冒頭からかなりテンションの高い本である。そして、難解なキーワードをちりばめつつ読むものをぐいぐいと引っ張っていく疾走感に満ちている。いろいろ批判されながらも実は社会を変革する情念を宿した本なのである。
左翼理論が崩壊する前夜の時代、もはや有効性をうしなった思想に魅力を感じることができず、社会にコミットする展望も見出せないまま、行き場を失った知的好奇心を抱え、書店の本棚を徘徊していた当時をおもいだす。人間存在とは何か。この世に生まれ生きている意味は何か。社会とはほんとうのところどのようなものか。そもそもそれらすべてを包み込んで在る宇宙とは何か。それらのさまざまな脈絡のない問いに、応え得るかのような「新しい」装いをもって、さまざまな本が当時の書店に並んでいた。渇いたものが水を求めるようにそれらの本を手に取ったものである。
当時を振り返った浅田の言葉を、本書から孫引きしてみよう。

「その時のぼくの主観的な意図で言うと、この種のものは今やすべてチャート化されているわけで、もう終わったんだ、終わった時点から始めるべきだというふうなスタンスだったにもかかわらず、実はそれが何か新しい始まり、文字通り「新しいアカデミズム」としてとられてしまい、それまでソシュールやアルチュセールやポランニーの忠実な読者だった人たちが突然オリジナルな「思想家」をめざし始めるというような悲喜劇的な事態が起こったりなどして(笑)、壊滅的な状況になった。」(p.42)

本書にも書いてあるが、ここでいわれているのは、丸山圭三郎、今村仁司、栗本慎一郎のことである。
栗本慎一郎の「意味と生命」など、じつに面白かった。でも、いま読むとそれは明らかにオカルトなのである(笑)結局そういうことだったのだ。
さて、懐かしむのもほどほどにして。
たんに同世代であるからということだけでなく、この著者の、自分は「思想読者」である、というスタンスに非常に共感した部分もある。
たとえば、柄谷行人について以下のように述べた部分。

「柄谷にとってマルクスならマルクスの「作品」を読み、理解しようとすることは、マルクス=作品が、「意識していないが行っている」何かを取り出すことです。それこそが柄谷のいう「可能性の中心」です。そして、柄谷の「思想」の最大のポイントは、彼がこのような意識と現実のズレという問題を、書かれて読まれる「作品」というレベルに留まらず、もっと大きな意味で「人間」という存在の根源に横たわる真理として捉えていることです。」(p.124)

そうだ。
わたしもまさに柄谷のそういう部分に惹かれ、いまだに惹かれ続けているのである。わたしは思想読者などではとうていありえず、たんに一介の読者にすぎないが、この佐々木の思想読者としての読み取り方に共感を覚えるのである。
本書には福田和也の柄谷批判も、引用をふまえてしっかりと言及されているが、わたしは福田には魅力を感じない。人間における知の探求という観点からやはり柄谷のほうに強く惹かれるのである。それは思想としての魅力といえるのだろう。
では、思想とは果たして何だろうか。
著者は本書の冒頭で、その問いを自分に投げかけている。
だが、その問いに対する答えは、あいまいにしか書かれていない。
果たして思想とは何だろうか。
言葉の本義を追うことなどはいまここではしない。
たとえば、哲学という言葉と対比しつつ少し考えてみる。
それらの言葉は、ふだんどんなふうな使われ方をするか。
人生哲学。経営哲学。野球哲学。これが俺の哲学だ。・・・哲学という言葉には、他者が介入することを許さない、絶対的な価値観、というような雰囲気が漂う。
翻って思想はどうか。設計思想。思想を再検討する。人生を通じて培われた思想。・・・哲学とは逆に、他者に関わっていく性質が伺える。もちろん哲学と思想とは深くかかわりのある言葉同士であるが、いまは思想の話である。
つまり、思想とは現実にコミットしていく知の体系であろう。ということが、少し考えただけでシロートにも見えてくる。
本書のさいごのほうで、ゼロ年代の思想家として、東浩紀がクローズアップされて取り上げられているが、わたしはこのような視点から、サブカルチャーを詳細に分析する東の仕事について、果たしてそれが思想と呼びうるものなのかどうか、疑念をもってしまう。本書冒頭の答えのあいまいさも、そういうことかもしれない。つまり、思想読者とは別言すれば思想ファン、という面をもっているのではないか。思想の装いをもって提示されたものを追いかけざるを得ない宿命のようなものである。柄谷行人のNAMは、抽象的な思考を徹底させたところから一気に転回し、現実社会へのコミットを示した。そこに、柄谷が思想の原点というものにおいて一貫していたということが見て取れる。むしろ、NAMに触発されるかたちで新たな胎動のようなものが何も生まれ得なかったという、知識人の状況、日本の思想の状況のほうに問題があるといえるのではないか。
シロートの浅はかな直感をあえていえば、日本の80年代以降の思想と呼ばれるものは、じつはそのほとんどすべてが糞だったのではないか。思想ではないものを思想と名づけて呼んでいたのではないか、そんな乱暴な考えさえよぎるのである。
本書は、一面からいうと、思想がなぜ思想たりうるのかをおそらくは自問しつつ、80年代からの思想の推移を追ったものだろう。
たとえば以下のようなカルチュラル・スタディーズ、ポスト・コロニアリズムに関する記述。

「筆者もこれらの分野(カルスタ、ポスコロ:引用註)に属する本を読んでいて、時々「で?」と言いたくなることがありますが、しかし「ゼロ年代」前半の「ニッポンの思想」においては、それでも本が売れたり、「アカデミズム」で出世できたりするなら、それはそれでいいんじゃないの、他に何かありましたっけ? という実感が漂い出していたことも、また事実だと思います。だって別にどうせ「思想」で何かが本当に変わるわけじゃないんだから、というわけです。これもまたニヒリズムとリアリズムです。」(p.274)

言説が思想としての力を失ってゆく状況を見つめる本書のこのような視点には共感する。
するのだが、しかし、やはり、論じている対象、思想らしきものが、そもそも糞・・・だったのかも・・・・。
呉智英「読書家の新技術」の朝日文庫版の「あとがき」に以下のような文章がある。本書の読後、思い出したので引用しておきたい。

「現代思想とは、単に現代の思想ということではなく、フランスを中心とする構造主義以後の思想を一まとめにして言った通称である。(中略)現代思想ないしニュー・アカは、八三年から八四年にかけて大ブームとなり、浅田らの著作は時ならぬ売れ行きを示した。それは、しかし、文字通りブームであり、確たる成果を見せないまま、知的ファッションとして拡散していった。
これについての私の考えは、次の二つである。
まず第一に、活字離れや軽薄短小指向が云々されてはいても、学生を中心とした若者たちの知的関心は、十年や二十年で本質的な変化を見せていないということである。知的関心の対象になる思想家や書物が変わった、すなわち、かつて有効であった思想家や書物が有効でなくなっただけのことである。但、ニュー・アカが一年たらずのブームで終わったように、知的関心に十分に応え得るものは出ていないのである。本文で述べた言い方で言うと、既成の知的世界がゆらいだままになっているということである。
第二に、現代思想は、我々の思想を根源から変革させるような知の体系ではない、ということである。もとより、それぞれ錚々たる思想家の言説であるから、それぞれに示唆に富む。しかし、西洋における思想の文脈・土壌から切り出して、我々の床の間に飾っても何の霊験もない。あくまでも知的装飾品に終わってしまうだろう。それよりも、むしろ、私は、我々の足元を見た方が実り多いのではないかと思う。」(呉智英「読書家の新技術」朝日文庫「文庫版へのあとがき」)

さて。
本書の最後で、著者:佐々木敦は、近いうちに、思想読者の域をこえて、自説を展開する予定があると明かしている、
そして、その書名が「未知との遭遇」というようなものである、ということも。
いまの内閣が、未知との遭遇内閣、などと呼ばれているのを考えるとちょっと面白い偶然である。



ニッポンの思想 佐々木敦 (講談社現代新書)





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