団塊のマーケッターのブログ
 本文とは関係ありません。日本一といわれる伊勢丹本店



日経ビジネス・オンラインの記事「百貨店で不景気を語るなかれ」の冒頭には、

こう記されていた。


「平日の百貨店を一時間ほど歩くと、それだけで確実に意気消沈する。」


「空気全体が、店員のため息でできているみたいな、そういう独特の湿っぽさを胸一杯に

吸い込むことになるからだ。」

「景気対策上、都心にああいうものを放置しておいてはいけないと思う。いやマジで。」


痛烈である。何処の都心の百貨店なのだろうか。今や、平日の百貨店は何処もかしこも

こうした状況なのだろうか。


私も、ここ数年、地方の百貨店、郊外の百貨店を訪れた際に痛感させられたことではある。

このブログでも、地方郊外の駅を挟んで、似たような百貨店がいくつもあるが、一つで十分

だろうと感想を書き記したこともあった。


低迷、没落、崩壊、溶解と百貨店死滅へのスパイラルが始まっていることを実証させる

風景だ。


小田嶋さんは、文中で「昭和30年代生まれの人々が、デパートの店内のあの淋しさに、

なぜにこれほど強く反応してしまうのだろう。」と自らに問うように綴る。


「好きな子が風邪で休んだ日の教室みたいな、色の褪めた感じ。」

「あるいは、梅雨時のスキー場でリフトが雨に打たれている景色に似ているかもしれない。」

「とにかく、平日の百貨店の広い通路には、枕の草子の中で清少納言が『すさまじきもの』と

して列挙した無残さが横溢している。」


『すさまじきもの』


小田嶋さんはさらに続けて、


たどり着いた海辺で、消波ブロック(テトラポッド)が波に洗われている風景を指しながら、

「オレの旅の最後に待っていたのは、この非人情なコンクリートの構造物なのか?」と。


そして、「旅愁もなにもあったものではない。14時間のロングドライブの果てにああいうもの

を見せられると、日本はもうダメだと、われわれは、つい手近な絶望に走りたくなる。」と日本

のダメさを百貨店の現状とを二重写しにされるのであった。


「百貨店の不況感には、波消しのブロックの景観破壊と相通ずるものがある。」


百貨店の苦境に対して、幅広い層の方々から発言があるのは、ある面では日本の苦境とを

アナロジーして見ているからに他ならないのだろう。


しかし、現在の百貨店のトップが、こうした思いを共有しているかというと疑わしい。小泉政権

時代のアメリカ的な発想に立った「構造改革」路線に乗り、株主資本主義を代弁するアナリス

トの評価を得ようと焦るあまりに、ひたすらリストラを優先してきたつけが、今集中的に現出し

ているからであり、現在の百貨店各社の経営トップはそのリストラ路線を文字通り推進してき

た御仁ばかりなのだ。


成長性は経営統合で、利益はリストラでと高らかに御宣託され、百貨店の大衆化という名目

でファストファッションや駅ビルブランドを誘致し、それをもって新しい時代に対応する百貨店

と断じる感性が、小田嶋さんが描く、今日の百貨店の店内風景をもたらしているのではない

だろうか。


しかし、小田嶋さんは決して冷静さを失うことなく

「よく似たなりゆきで、ちょっとした不況に過ぎないものが、デパートの店内にいる人間には、

底なしの恐慌であるみたいに」感じられるのかもしれないと訝りながら


「『こりゃ、ショッピングどころじゃないぞ』と、なぜか買物にきたはずの人間に、節約と貯蓄を

促す結果をもたらしている。これは非常に深刻な事態だと思う。」と感想を寄せ、


「百貨店の現在の苦境は、日本経済にも起因するが、しかしイコールではない。」

「店内がえらいことになっていたからといって、それが景気の映し絵ということではない。」

「彼らの苦境は彼らの苦境に過ぎない。」


「その彼らの苦境も、本当に致命的な段階の断末魔であるのかどうかは、まだわからない。」

と。


小田嶋さんはマクロの視点から、業態が変化せねばならない時期にあるというだけのことだと

突き放してもみられるのだった。


そして、

「古いタイプの売場は新しい消費者にアピールしなくなっている。それはたぶん事実だ。」

「売場を一新し、売り方を考え直して、百貨店が再生する可能性はゼロではないはずだ。」

と。


昭和のデパートモデルにすがっていくのではない、平成のデパートモデルを構築することに

よって、百貨店の未来を切り開くことを小田嶋さんは、暗に期待されもするのだった。


次の記事の展開では、小田嶋さんは、「百年に一度の不況」の現実については記者の創作に負

うところが大きいと指摘されているが、


次回は、百貨店没落説とメディア報道について考えてみたいと思う。


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