人種の坩堝と言うか・・・現在では
「痰壺」のような・・・布哇・・・
北野たけしがその昔、自分の父親を主人公にしたTVドラマが放映された時に、こう発言していた・・・
「放送禁止用語でも、本人が自分の実生活上に於いての立場に関して、その用語を使用しても禁止の対象にはならない。」と言うような趣旨の発言をしていたのが、私の心の中に強く印象として残っている。
さて・・・
差別とは、いったい何なのか・・・
まず何故に、その言葉が「表現上、創られたのか?」それを最初に考えてみたい。
例として「乞食」を挙げてみよう。
漢字の意味合いからすれば、「食べ物を乞う人」である。
では、何故この言葉が、「差別」となるのか・・・
この人間は、何らなの原因によって自分自身で「生きて」いけずに、
人に「乞う」立場になってしまった境遇の人間である。
その発端となった「原因」は「本人」が自ら招いた物なのか、外的不可抗力でなってしまったのか、
その「原因発端」には差別に対する重要な意味を持ってくる。
自らの人間としての「生きる心を放棄」した者は、正に「身から出た錆」であり、
自分の「責任」に於いて、その自ら招いた環境や、他人からの批評を甘んじて受けなくてはならない。
かたや、「不可抗力」で本人の意志とは関係なく、その境遇になってしまった人間はどうであろう。
もし、その人間が「真っ当」な感覚を持っているなら、その境遇から「自ら」抜け出そうと
「努力」する筈である。
故に、私の中でのその人間の
「乞食として、生きている現状としての価」は・・・
前者:生きようが死のうが、冷たく見捨てる只の自己責任の無い「乞食」。
後者:不幸な立場から抜け出そうと、頑張っている「努力」に対して「人間」として「力」を
貸してあげたい、愛す♥べき「乞食」。
・・・である。
同じ「乞食」と言う「言葉」ではあるが、
その意味合いは、全然別の物であることは
「明白」である。
では、何故に一色単に差別用語である「乞食」を使うのか・・・
結論から言うと、
エセ・ヒューマニストの只の「言葉の言い換え」に付き合う必要など絶対にない!! 最初に北野たけしの話をしたが、彼の父親の職業は「ペンキ屋」である。
何故、ペンキ屋という言葉が差別用語なのか・・・
ハッキリ!!と言っておくが、「職人」の心意気と言うのはその「職業」に対する物であり
自分の職業に「腕前/プライド/心意気」がない者が「差別」だと騒ぐだけなのである。
もし「真っ当な腕前/プライド/心意気」を持つ職人だったら「ペンキ屋」と言う言葉を
「侮蔑」の意味を込めて他人から言われたとしたら「馬鹿野郎!!」と
怒鳴られて気が短けぇ~江戸っ子職人だったらぁ~二三発殴られて、終わりである。
又、「ペンキ屋」と言わないで「塗装業の方」なんてぇ~言ったらぁ~
「この野郎!!おちょくってやがんのかぁ~」と又、二三発見舞われるのが落ちかもしれない。
大体、いつから日本人は「本気」と「洒落」の発言が判別できなくなったのであろう?
言う方も、言われる方もきちっとそこの所は、
「わきまえて、判別」が出来たのにねぇ~
では、実例として映像で「差別」を語ってみよう。閑話休題:'''
今は無き、オーラの泉であるが・・・
何故、着物姿の「かまッポイ野郎」は批判されるのに「美輪明宏」は批判されていないのか・・・?
そして・・・彼も又「霊」が見えるのか・・・
基督教徒としての私の解釈は・・・此から紹介する映像↓↓↓の中にその答えがあると考えている。
「美輪明宏」自身が言っている通り・・・彼は
「海千山千」の人間なのだから・・・
彼は「ミスター・マリック」と同じ
「芸」を使って我々を
「煙に巻いている」愛すべき
「おかまバーのママ♥」なのだと私は考えているのだが・・・でも・・・
もしかしたら・・・本当に
「霊」がみえるのかも・・・しれない
これぞ!!本当の
「ゲイは身を助ける!!」(^_^)♪では映像をどうぞ↓↓↓「差別」に関する一つの答えとして・・・
この映像の中にある「美輪明宏」の人間としての「生き様」が挙げられる。
彼の生き様は・・・
彼をして既に「差別」を超越している。
彼には、自分の人生・職業・生き方に誇りを持っている人間の「毅然たる姿」が存在している。
私は、メソジストの基督教徒である。
ハッキリ言って「おかま」であろうが、なんであろうが、彼はへたなクリスチャンよりは、
「天国」への門が「広い」と思っている。
何処かの、偉いと言われる作家が「弱者」という言葉を使って「差別」を評していたが、
自分から何もしない、即ち「人間としての生きる事への向上心」が欠如している「弱者」には
「差別」されていると言う「クレーム」を言う資格などは無い!!と考えられるし、
その投げかけられた「言葉」に反論する「余地」すら存在しない。
この事から差別されていると発言している人間の
「人間としての生き方」から・・・
馬鹿野郎!!な白人は「毛唐」であり。
黒人は「くろんぼ」であり。
物乞いは「乞食」であり。
朝鮮人は「チョン」であり。
部落民は「非人」である。
そして、人間の生き方として真っ当な方は・・・
白人の方
黒人の方
朝鮮の方
チューリップのアップリケの方
で、ある。
私的結論:言葉狩りをして、只言葉を換えてみても、何の「差別」の解決にはならない!!
人によっては、
「言葉を換える事」が差別となる。イエスが「医者を必要としているのは、病人である。」と言われた通り、
私もイエスと同じく、「弱者」に愛を持って♥接することにやぶさかではない。
しかし、その「弱者」の行動に於いて「生き様の心」が映し出された時に・・・
その生き様が、間違っていると感じたら・・・
私は、断固として「言葉」ではなく「心」で差別する。