犬の社長ティっくんとその秘書日記。

犬の社長ティっくんとその秘書日記。

原宿のドッグショップALOALOの社長TIKI(ティキ)と、その秘書であるTIKIMATSU(ティキマツ)の日常。+本郷高校ラグビー部のこと。

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年を経るごとに、時代が移るごとに社会は成熟し、物事の方法論は進化していく。


これは、当たり前のこと。


当然、社会の産物であるといえる、現代の子供達と向き合うとき、


『我々の時代は~だったから』という理由で、前時代の理屈と方法論を振りかざすのは、


すなわち、『わたくし、思考停止してますよ。』と周囲に宣言しているのと同じで、


恥ずべきことだ。


教育現場で子供たちと対峙するオトナは、学校指導要綱とは別に、現代の子供たち個々をリード


していくために、個々の能力や性格を踏まえたうえで、時代に則した方法や技術を研究し、


学ぶことを諦めてはならない。



スポーツトレーニングの原則というものがある。


詳細はググってもらうとして、その中の一つに、『個別性の原則』というものがある。


これは、『トレーニングの効果を最大限に引き出すためには、個々にマッチしたトレーニング内容を


考慮する必要があるという原則である。


トレーニングはしばしば集団で行われるが、その中でも個人の能力や性別、体力、目的など、


様々な要素を考慮してトレーニングプログラムを提供する必要がある。』



これを前提とした上で。




昨今の『体罰問題』、多少なりとも子供達と接する機会があるから、スルーできない話題だ。


スポーツの技術を指導するのに、殴る蹴るは原則必要ないと、僕も思う。


自分は学生時代、ぶん殴られもしたし人格を否定するほどの言葉も浴びてきた。


だからといって、顧問の先生に対して恨みに思ったこともないし、どちらかというと


感謝することのほうが多い。


トンチを効かせて小さな反抗をしたり、恐怖政治の中でしか体験できない、ある種の“楽しみ”


を見つけたりしていたことは、このブログの『むかし話し』でも何度か書いた。


ネタとして今では笑い話にもなるし、この話題を肴に、一晩中仲間と酒が飲める。


たぶんそれは、当時の監督が、『個別性の原則』を無意識的に実行していたことを、ぼくらにも


わかっていたからかもしれない。



もちろん、昔のやり方がすべて正しかったとも、微塵も思わない。


なぜなら、競技そのものが進化しているのに比例して、指導法やコーチング理論なども進化し


続けていることを知っているからだ。


当時は正義だったことが、今は誤りであることも多いことも知っている。




しかし以前から変わらないのは、学校での『部活動』の場合、そこで学ぶことは


スポーツの技術だけではないというのが、これまで認識されてきた不文律だ。


部活動には、卒業して社会に出た時に通用するような、集団の中での社会性であったり、礼儀、


規律などを身に付け、人間形成の場としての側面があるから、あえて厳しさを承知で、


もっと言えば、親も子供もそれらを習得することを期待し、『自ら選択して』入部する。



スポーツとは、本来『遊び』の延長だ。


いや、『遊び』の範疇にあるとも言える。


だからこそ、ゲームに勝つことが喜びなわけだ。


だからこそ、トップレベルの選手から、勝つことを目的としながらも、


『試合を楽しむ』という単語が発せられるわけだ。


そして、そこまでにたどり着くためには、対戦相手を尊重し、尊敬し、規律を重んじ、


仲間を大切にし、自分に厳しくすることが、勝利を追求することへの大切な


ファクターだと言われてきた。


こうしたプロセスを経て、『楽しむ』ことがスポーツであると。


これは、スポーツを行う全世界の共通認識だ。



しかし、それを人間形成の場所として結びつけてきた日本特有の『部活動文化』のなかでの


スポーツは、時として『苦労至上主義』として捉えられきた歴史があることは否定できない。


『これだけ苦労したんだから勝たないといけない』とか、『今の苦痛、苦労は、必ず結果に


結びつく』、だから、不条理な環境にも耐えるべきだ、というメンタリズムは、その競技で


勝利するためのプロセスとして、部活動の世界には自然に存在してきた。




もちろん、一般的なスポーツにおいても、不条理はどうしても存在する。


納得のいかないジャッジがゲーム中にあったとしても、それを受け入れなければならないし、


他を圧倒するパフォーマンスができる能力があるのに、だれかの怪我やアクシデントで、


それを十分に表現できないことだって、よくあることだ。


むしろその不条理がスポーツの醍醐味である場合もあるし、だからこそ、それを受け入れた先に


ある勝利に向かうプロセスに人々は感情移入し、ドラマを見る。


欧米にも、そうした感覚はある程度は存在するだろうが、どちらかというと、努力しないでも


楽しんで結果を出す才能のほうが、尊敬の対象になりやすいと感じる。



日本の『部活動文化』で育まれてきたスポーツは、本来のスポーツが


持っている『遊び』の部分よりも、『勝利至上主義』のウラ側にある『苦労至上主義』という考え方


をベースにしてきたキライがあり、またそれを良しとしてきた指導現場と


子供の親たちの認識が、土壌としてあったと思う。


言い方を変えれば、学校(部活動)と家庭との関係は、家庭が部活動(顧問の先生)


に対し、『ウチの子供に苦労させて鍛えてください。よろしくおねがいします。』というものであった。


子供の親たちは、その場所に子供を任せた以上、指導方法や方針に対し、


口を挟む余地はなかった。


当の子供たちも、一度入部したからには、どんな理不尽や不条理に直面したとしても、


それを受け入れるか、部活を退部する以外に逃げ道はなかった。



人生には、どうやったって逃げられないことがたくさんある。


納得できないことだって、不条理だって、山のように存在する。


10分の遅刻が、莫大な損害を自分や自分の属する組織に与えてしまうことだってあり得る。


このようなことを部活動の中で習得できることは、競技そのものの結果にも、少なからず結びつく


だろうし、それが子供の人間形成に役立つのではないか、という親たちの『なんとなく』の


認識があったことも否めない。






さて、前置きが長くなった。


部活動の現場で、殴られたことが原因で子供が亡くなってしまったことは、とても悲しい


事件だと思う。


また、こうした事実に対して真摯に対応しない学校組織にも、問題があると思う。



しかし今、こうした悲しい事件をキッカケにして社会が成熟する過渡期なのであれば、


『体罰』という『行為』だけを過剰に取り上げて、教育・指導現場だけをターゲットにして


糾弾し、法整備によって指導者をがんじがらめにすることが、果たして正解なのかは、


甚だ疑問だ。


まるで、子供と向き合っているのは学校もしくは部活動だけ、みたいな風潮に見えるのは


僕だけか。


信じて任せた顧問に、かわいい我が子供が潰されはしないか、ということだけに


視線が行って、なんらかの効果を期待して、『自ら選択して』入部した事実は、いったいどこに


いってしまったのだろうか。


本来、子供の心の教育に関しては、学校も家庭も、並列であるべきで、


両者はお互いをフォローし合う相互協力関係であるべきじゃないのか。


視線の先は、いつも子供に向いているべきではないのか。




どうも最近の風潮は、『監視する側』と『監視される側』の構図になろうとしているように


見える。


教育現場が加害者で、子供を預ける親と子供たちは被害者、みたいにも見える。


それが新たな『モンスター』(僕はこの言葉は嫌いだが)を生むことになり、また新たな


『犠牲者』が出てくることになりはしないか。



昨日、生徒に『ハゲ』と言われて、その生徒をぶっ飛ばした先生の記事が新聞に出ていた。


このナーバスな時期に、“あえて殴った”と、この先生が釈明したのなら、


僕個人としては全面的にこの先生を支持しただろうけど、この先生、すぐ謝罪しちゃったから、


『ただの空気の読めないオトナだった』っていう残念なオチだったのだけれど。



まあたしかに、この先生のように『怒る』と『叱る』の区別がつかない先生も存在しているから、


糾弾されても仕方のない部分もあるけれど、じゃあ、こういうクソガキを殴らずに、


『ダメなもんはダメ!』


といちいち噛んで含んで諭さなきゃならないのは、先生たちにとって、ものすごい負担だと思う。


調子に乗ったクソガキたちが増えていくのと比例して、心が折れてしまう先生もたくさん


出てくるだろう。


学校側は先生と学校そのものを守るためにさらに厳しい校則で生徒たちを縛らざるを得ず、


そこでスポイルされた子供たちは結局、それぞれの親元で、心身の教育を受けるしかなくなる。


そうして突然自分のもとへ戻ってきた子供に対し、いったいどれだけの親が責任をもって


向き合うことができるのだろう。


そうなることが目に見えているにもかかわらず、社会と子供の親たちは、


教育現場だけをターゲットにして、負担を強い続けるのだろうか。


これって、杞憂なんだろうか。






ラグビーに限らず、スポーツの試合において、『体力(フィジカル)の差が勝因(敗因)だ。』


というコメントを聞くことがある。


スポーツトレーニングにおける『体力』とは、広義では『身体的要素(体力)』と


『精神的要素(体力)』を合わせたものとして捉えられ、それぞれに、


『身体的・精神的ストレスに対する抵抗力』という要素が含まれる。


トレーニングの過程でこの部分を避けて通ることは、すなわち貧弱な競技結果と直結する。



しかしながら、今の風潮下では、どこまでがトレーニングで、どこからが『シボリ=体罰』なのか、


現在明確な線引きがない以上、また、『監視する側』の認識がマチマチである以上、


現場の指導者は、だれかの視線に怯えながらグラウンドに立つことになる。



現時点で結果が出ている一部のトップチームは、『実績』という後ろ盾があるから


思い切った指導ができるかもしれないが、そうではないチームではなおさらこの傾向が


出てくる可能性が有り、ますますトップチームとの実力差を生むことになるかもしれない。


すなわちそれは、長い目で見ればその競技種目の衰退を招かないとも言い切れない。



社会が、子供の親が、部活動にスポーツの技術指導だけを求め、学校には勉強だけを


求めるのであれば、それが日本が求める成熟した社会なのであれば、仕方ないから


それを受け入れ、適応していくしかないだろう。


だが、『勝ちたい』と思う多くの子供たちの声には、残念ながら応えることは出来にくくなる。


もしどうしても勝ちたいのであれば、『体力(フィジカル)』のトレーニングは、


各家庭でお願いしなくてはいけない。


すなわち、学校の部活動はスポーツトレーニングの場所として崩壊する。




テレビのコメンテーターがしたり顔で、『教育には信頼関係が大切』なんて簡単に言ってるが、


本当の信頼関係を築くには、お互いに綺麗事ではない相応の我慢と痛みが必要だと思う。


どこかの元プロ野球選手が、『ボクは体罰の環境で成長できたと感じることはない。だから体罰を


する指導法には、断固反対だ。』と言っていた。


まるで自分ひとりの才能と努力だけでプロ野球選手になれたような言い方に、僕には聞こえた。


自分の育ってきた環境に感謝の気持ちも持てない人間を、僕はどうしても信用することが


できない。


それに、この方が指導すれば大抵の野球少年は目を輝かせて吸収するだろうけど、


元プロ野球選手でもない公立高校の野球部顧問が彼と同じことを言っても、


たぶん舐められて終わる。


どうせ発言するなら、薄っぺらな反対論だけではなく、自身の発言の影響力を踏まえて、もっと


一般的で奥深い指導論を聴きたい。




もう一度言うが、僕はスポーツの指導に体罰は必要ないと思う。


しかし、スポーツで勝つには、身体的にも精神的にも、強いストレスに打ち勝つことが


絶対に必要だ。


そのトレーニングに対して、知識もないまま、感情論だけで向かってくる人を見るのは、


もうさすがにいやだ。


一連の騒動が、学校の部活動が変革する過渡期なのであれば、責任を押し付け合う


ようなことは避け、それぞれの役割と責任を明確にして、つねに矢印は子供たちに向いていて


欲しいと願う。


実際これから、学校と学校の部活動が、どういう方向に向かうのかは分からないけど、少なくとも


我が母校には、子供たちも親も、先生たちも、応援する人たちとも、我慢と痛みを


乗り越えた先の試合に勝って、全員で心から喜び合い、感動を共有したい。


そして卒業するときには、誰にも負けない強いハートを手に入れて、どこへ行っても


可愛がられる人間になって、次のステージに進んでもらいたいよね。




以上、ひさしぶりのひとりごと。












『ラグビーは少年をいちはやく大人にし、大人にいつまでも少年の魂を抱かせる』




ラグビーの魅力を語るときによく引用される、あまりにも有名なこの言葉を発したのが、


元フランス代表FL、ジャン・ピエール・リーヴです。


公称180センチ85キロとなっていますが、おそらく実際はもっと小柄だったと思います。


しかし一度ピッチに立つと、大男たちをハードタックルで次々となぎ倒し、接点では誰よりも


献身的かつハードな仕事をする。


トレードマークである、長く伸ばした金髪を血に染めながらピッチを王様のように駆け回る姿は、


ラグビーを始めたばかりの少年だった僕の情熱に火をつけるには十分でした。



ある日、体育教官室に何かの用事で入ったとき、そこにいた大浦先生に一本のVHSビデオを


渡されました。


それは、リーヴ自ら出演していた、フランカーの教則ビデオでした。


当時はインターネットで簡単に情報が取れる時代ではありません。


たまーに深夜放送されていた5カ国対抗ラグビーくらいしか、海外のラグビーに触れる機会が


なかった時代、そこでしか見たことがなかった憧れの選手が、そのビデオではまるで僕ひとりに


語りかけてくれているようで、夢中になって何度も何度も見返したことを覚えています。



タックルとは、フランカーがすべき仕事とは、など、内容は基本的なことばかりでしたが、


誰に教わるよりも勉強になったと思います。




フランスでは英雄であるリーヴは現在、どういうわけか彫刻家に転身して、ラグビーとは離れた


ところに生活の拠点を置きましたが、これまたどういうわけかフレンチバーバリアンズの団長


だけはオファーを受けています。


フランスリーグに籍を置くプレイヤーで結成されるフレンチバーバリアンズが、まもなく来日します。



http://sakura.rugby-japan.jp/japan/2012/id14183.html




もちろんゲームも見たいのですが、僕の興味はベンチにいるであろうリーヴにほとんど


向いてしまうのかも・・・ですね。





犬の社長ティっくんとその秘書日記。



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明日で、震災から一年が経ちます。


いろんなメディアが、いろんな角度から、あの日と向き合う番組やコンテンツを発信するでしょう。



ぼくは昨年の3月11日、原宿にある自分の店にいました。


その時間までは、若者で賑わう普段の金曜日でした。


強い揺れに恐怖を感じて外に飛び出し、パニックになる街を、唖然としながら見渡していたことを


思い出します。


店にテレビはなかったので、ラジオで津波の警戒を呼びかける声をを聞きました。


山手線を含むほとんどの交通機関は運行を停止し、ぼくはスタッフを自宅に送るために隣駅にある


自宅まで歩いてクルマを取りに行きました。


夕方の5時ごろ原宿の店を出てから、大泉、清瀬を回ってまた、代々木の自宅に帰ってきたのは、


明け方の4時半でした。


幹線道路をひたすら歩く人々を横目に見ながら、譲り合いを忘れない、クラクションも聞こえない


渋滞のなか、『この国の人々の美徳は、世界に誇れる』と思ったものです。




それから10日後、息子がこの世に生を受け、ぼくはこの因果について考えざるを得ませんでした。


震災の経過年数と共に年をとっていくことを宿命づけられた息子に対して、父であるぼくは、いったい


どんなものを見て、どんな行動をしたのか、伝えなければいけないと強く思いました。



それから十数回、宮城や福島の被災地に赴き、ぼくの仕事である犬を通した支援活動をしてきました。


ガレキで埋め尽くされた大地、黒焦げになった街を見るのは、辛かったです。


大自然に対して、人間が如何にハカナく弱いものなのか、無常を感じることしばしでした。


しかし、そこから立ち直ろうとする人間の強さも、やはり感じることも多々ありました。


彼の地で人間に寄り添って生活してきた犬たちが、様々な運命に翻弄された現実にも直面しました。


支えようと思ってアクションをしたはずのぼくらが、逆に支えられ、生かされていることを実感することも


多かったです。



震災の影響は、ぼくの仕事にもありました。


正直、人助け、犬助けをしている場合ではなかったかもしれません。


しかし、ぼくは自分の幸せを追求するため、被災地へ行くことを続けたいと思います。


誤解を受けるような表現ですが、自分の行動を、自分の中で『自己犠牲』と捉えてしまうと、


無意識的に『こんなにしてあげたのに・・・』とか『これだけやってあげたんだから・・・』と、なんというか、


内側に貸しを作ってしまい、相手に対価を求めてしまう気がします。


しかし、自分の行動を、『自分の幸せのため』と捉えれば、その対価は自分に対してのみ支払われる


から、相手に何か求めることはありません。


この場合の『自分』の範囲を、家族や仲間、あるいは、自分がタイセツにしている物事などと定義


すれば、自分自身も成長できると感じるのです。


それに、『自己犠牲』は長続きしないけど、『幸せの追求』なら長続きしそうです。


ぼくを作ってきたラグビーはよく、『自己犠牲』のスポーツだと言われます。


しかし、チームの勝利だったり、自分の成長だったりは、いわば『幸せ』。


この『幸せ』が欲しいからこそ、身体を張って痛いプレーを厭わなかったり、仲間のためにチカラを


尽くしたりするのだと思います。


ちょっとリクツっぽいですが、ずっとラグビーをやってきたぼくが、震災を経験し、新しい家族を迎え、


被災地で活動して、行き着いたひとつの答えです。




今年に入ってからも、2度被災地へ行きました。


福島県の南相馬市です。


原発事故で土地ごと奪われた方々と、その犬たちは、狭い仮設住宅で暮らしながら、明るさを


忘れていません。


しかし、ヒトもイヌも、この一年で心に負ったキズは、ひとり一人、いちワン一ワンごとに深く、確実に


存在しています。


奥ゆかしい彼らは声に出して言わないけれど、HELPの手を必要としています。


ぼくはこれからも、ぼくに出来る範囲で、ぼくが守るべきものを、守っていきたいです。


もちろん、『自分の幸せ』のために。。。





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