年を経るごとに、時代が移るごとに社会は成熟し、物事の方法論は進化していく。
これは、当たり前のこと。
当然、社会の産物であるといえる、現代の子供達と向き合うとき、
『我々の時代は~だったから』という理由で、前時代の理屈と方法論を振りかざすのは、
すなわち、『わたくし、思考停止してますよ。』と周囲に宣言しているのと同じで、
恥ずべきことだ。
教育現場で子供たちと対峙するオトナは、学校指導要綱とは別に、現代の子供たち個々をリード
していくために、個々の能力や性格を踏まえたうえで、時代に則した方法や技術を研究し、
学ぶことを諦めてはならない。
スポーツトレーニングの原則というものがある。
詳細はググってもらうとして、その中の一つに、『個別性の原則』というものがある。
これは、『トレーニングの効果を最大限に引き出すためには、個々にマッチしたトレーニング内容を
考慮する必要があるという原則である。
トレーニングはしばしば集団で行われるが、その中でも個人の能力や性別、体力、目的など、
様々な要素を考慮してトレーニングプログラムを提供する必要がある。』
これを前提とした上で。
昨今の『体罰問題』、多少なりとも子供達と接する機会があるから、スルーできない話題だ。
スポーツの技術を指導するのに、殴る蹴るは原則必要ないと、僕も思う。
自分は学生時代、ぶん殴られもしたし人格を否定するほどの言葉も浴びてきた。
だからといって、顧問の先生に対して恨みに思ったこともないし、どちらかというと
感謝することのほうが多い。
トンチを効かせて小さな反抗をしたり、恐怖政治の中でしか体験できない、ある種の“楽しみ”
を見つけたりしていたことは、このブログの『むかし話し』でも何度か書いた。
ネタとして今では笑い話にもなるし、この話題を肴に、一晩中仲間と酒が飲める。
たぶんそれは、当時の監督が、『個別性の原則』を無意識的に実行していたことを、ぼくらにも
わかっていたからかもしれない。
もちろん、昔のやり方がすべて正しかったとも、微塵も思わない。
なぜなら、競技そのものが進化しているのに比例して、指導法やコーチング理論なども進化し
続けていることを知っているからだ。
当時は正義だったことが、今は誤りであることも多いことも知っている。
しかし以前から変わらないのは、学校での『部活動』の場合、そこで学ぶことは
スポーツの技術だけではないというのが、これまで認識されてきた不文律だ。
部活動には、卒業して社会に出た時に通用するような、集団の中での社会性であったり、礼儀、
規律などを身に付け、人間形成の場としての側面があるから、あえて厳しさを承知で、
もっと言えば、親も子供もそれらを習得することを期待し、『自ら選択して』入部する。
スポーツとは、本来『遊び』の延長だ。
いや、『遊び』の範疇にあるとも言える。
だからこそ、ゲームに勝つことが喜びなわけだ。
だからこそ、トップレベルの選手から、勝つことを目的としながらも、
『試合を楽しむ』という単語が発せられるわけだ。
そして、そこまでにたどり着くためには、対戦相手を尊重し、尊敬し、規律を重んじ、
仲間を大切にし、自分に厳しくすることが、勝利を追求することへの大切な
ファクターだと言われてきた。
こうしたプロセスを経て、『楽しむ』ことがスポーツであると。
これは、スポーツを行う全世界の共通認識だ。
しかし、それを人間形成の場所として結びつけてきた日本特有の『部活動文化』のなかでの
スポーツは、時として『苦労至上主義』として捉えられきた歴史があることは否定できない。
『これだけ苦労したんだから勝たないといけない』とか、『今の苦痛、苦労は、必ず結果に
結びつく』、だから、不条理な環境にも耐えるべきだ、というメンタリズムは、その競技で
勝利するためのプロセスとして、部活動の世界には自然に存在してきた。
もちろん、一般的なスポーツにおいても、不条理はどうしても存在する。
納得のいかないジャッジがゲーム中にあったとしても、それを受け入れなければならないし、
他を圧倒するパフォーマンスができる能力があるのに、だれかの怪我やアクシデントで、
それを十分に表現できないことだって、よくあることだ。
むしろその不条理がスポーツの醍醐味である場合もあるし、だからこそ、それを受け入れた先に
ある勝利に向かうプロセスに人々は感情移入し、ドラマを見る。
欧米にも、そうした感覚はある程度は存在するだろうが、どちらかというと、努力しないでも
楽しんで結果を出す才能のほうが、尊敬の対象になりやすいと感じる。
日本の『部活動文化』で育まれてきたスポーツは、本来のスポーツが
持っている『遊び』の部分よりも、『勝利至上主義』のウラ側にある『苦労至上主義』という考え方
をベースにしてきたキライがあり、またそれを良しとしてきた指導現場と
子供の親たちの認識が、土壌としてあったと思う。
言い方を変えれば、学校(部活動)と家庭との関係は、家庭が部活動(顧問の先生)
に対し、『ウチの子供に苦労させて鍛えてください。よろしくおねがいします。』というものであった。
子供の親たちは、その場所に子供を任せた以上、指導方法や方針に対し、
口を挟む余地はなかった。
当の子供たちも、一度入部したからには、どんな理不尽や不条理に直面したとしても、
それを受け入れるか、部活を退部する以外に逃げ道はなかった。
人生には、どうやったって逃げられないことがたくさんある。
納得できないことだって、不条理だって、山のように存在する。
10分の遅刻が、莫大な損害を自分や自分の属する組織に与えてしまうことだってあり得る。
このようなことを部活動の中で習得できることは、競技そのものの結果にも、少なからず結びつく
だろうし、それが子供の人間形成に役立つのではないか、という親たちの『なんとなく』の
認識があったことも否めない。
さて、前置きが長くなった。
部活動の現場で、殴られたことが原因で子供が亡くなってしまったことは、とても悲しい
事件だと思う。
また、こうした事実に対して真摯に対応しない学校組織にも、問題があると思う。
しかし今、こうした悲しい事件をキッカケにして社会が成熟する過渡期なのであれば、
『体罰』という『行為』だけを過剰に取り上げて、教育・指導現場だけをターゲットにして
糾弾し、法整備によって指導者をがんじがらめにすることが、果たして正解なのかは、
甚だ疑問だ。
まるで、子供と向き合っているのは学校もしくは部活動だけ、みたいな風潮に見えるのは
僕だけか。
信じて任せた顧問に、かわいい我が子供が潰されはしないか、ということだけに
視線が行って、なんらかの効果を期待して、『自ら選択して』入部した事実は、いったいどこに
いってしまったのだろうか。
本来、子供の心の教育に関しては、学校も家庭も、並列であるべきで、
両者はお互いをフォローし合う相互協力関係であるべきじゃないのか。
視線の先は、いつも子供に向いているべきではないのか。
どうも最近の風潮は、『監視する側』と『監視される側』の構図になろうとしているように
見える。
教育現場が加害者で、子供を預ける親と子供たちは被害者、みたいにも見える。
それが新たな『モンスター』(僕はこの言葉は嫌いだが)を生むことになり、また新たな
『犠牲者』が出てくることになりはしないか。
昨日、生徒に『ハゲ』と言われて、その生徒をぶっ飛ばした先生の記事が新聞に出ていた。
このナーバスな時期に、“あえて殴った”と、この先生が釈明したのなら、
僕個人としては全面的にこの先生を支持しただろうけど、この先生、すぐ謝罪しちゃったから、
『ただの空気の読めないオトナだった』っていう残念なオチだったのだけれど。
まあたしかに、この先生のように『怒る』と『叱る』の区別がつかない先生も存在しているから、
糾弾されても仕方のない部分もあるけれど、じゃあ、こういうクソガキを殴らずに、
『ダメなもんはダメ!』
といちいち噛んで含んで諭さなきゃならないのは、先生たちにとって、ものすごい負担だと思う。
調子に乗ったクソガキたちが増えていくのと比例して、心が折れてしまう先生もたくさん
出てくるだろう。
学校側は先生と学校そのものを守るためにさらに厳しい校則で生徒たちを縛らざるを得ず、
そこでスポイルされた子供たちは結局、それぞれの親元で、心身の教育を受けるしかなくなる。
そうして突然自分のもとへ戻ってきた子供に対し、いったいどれだけの親が責任をもって
向き合うことができるのだろう。
そうなることが目に見えているにもかかわらず、社会と子供の親たちは、
教育現場だけをターゲットにして、負担を強い続けるのだろうか。
これって、杞憂なんだろうか。
ラグビーに限らず、スポーツの試合において、『体力(フィジカル)の差が勝因(敗因)だ。』
というコメントを聞くことがある。
スポーツトレーニングにおける『体力』とは、広義では『身体的要素(体力)』と
『精神的要素(体力)』を合わせたものとして捉えられ、それぞれに、
『身体的・精神的ストレスに対する抵抗力』という要素が含まれる。
トレーニングの過程でこの部分を避けて通ることは、すなわち貧弱な競技結果と直結する。
しかしながら、今の風潮下では、どこまでがトレーニングで、どこからが『シボリ=体罰』なのか、
現在明確な線引きがない以上、また、『監視する側』の認識がマチマチである以上、
現場の指導者は、だれかの視線に怯えながらグラウンドに立つことになる。
現時点で結果が出ている一部のトップチームは、『実績』という後ろ盾があるから
思い切った指導ができるかもしれないが、そうではないチームではなおさらこの傾向が
出てくる可能性が有り、ますますトップチームとの実力差を生むことになるかもしれない。
すなわちそれは、長い目で見ればその競技種目の衰退を招かないとも言い切れない。
社会が、子供の親が、部活動にスポーツの技術指導だけを求め、学校には勉強だけを
求めるのであれば、それが日本が求める成熟した社会なのであれば、仕方ないから
それを受け入れ、適応していくしかないだろう。
だが、『勝ちたい』と思う多くの子供たちの声には、残念ながら応えることは出来にくくなる。
もしどうしても勝ちたいのであれば、『体力(フィジカル)』のトレーニングは、
各家庭でお願いしなくてはいけない。
すなわち、学校の部活動はスポーツトレーニングの場所として崩壊する。
テレビのコメンテーターがしたり顔で、『教育には信頼関係が大切』なんて簡単に言ってるが、
本当の信頼関係を築くには、お互いに綺麗事ではない相応の我慢と痛みが必要だと思う。
どこかの元プロ野球選手が、『ボクは体罰の環境で成長できたと感じることはない。だから体罰を
する指導法には、断固反対だ。』と言っていた。
まるで自分ひとりの才能と努力だけでプロ野球選手になれたような言い方に、僕には聞こえた。
自分の育ってきた環境に感謝の気持ちも持てない人間を、僕はどうしても信用することが
できない。
それに、この方が指導すれば大抵の野球少年は目を輝かせて吸収するだろうけど、
元プロ野球選手でもない公立高校の野球部顧問が彼と同じことを言っても、
たぶん舐められて終わる。
どうせ発言するなら、薄っぺらな反対論だけではなく、自身の発言の影響力を踏まえて、もっと
一般的で奥深い指導論を聴きたい。
もう一度言うが、僕はスポーツの指導に体罰は必要ないと思う。
しかし、スポーツで勝つには、身体的にも精神的にも、強いストレスに打ち勝つことが
絶対に必要だ。
そのトレーニングに対して、知識もないまま、感情論だけで向かってくる人を見るのは、
もうさすがにいやだ。
一連の騒動が、学校の部活動が変革する過渡期なのであれば、責任を押し付け合う
ようなことは避け、それぞれの役割と責任を明確にして、つねに矢印は子供たちに向いていて
欲しいと願う。
実際これから、学校と学校の部活動が、どういう方向に向かうのかは分からないけど、少なくとも
我が母校には、子供たちも親も、先生たちも、応援する人たちとも、我慢と痛みを
乗り越えた先の試合に勝って、全員で心から喜び合い、感動を共有したい。
そして卒業するときには、誰にも負けない強いハートを手に入れて、どこへ行っても
可愛がられる人間になって、次のステージに進んでもらいたいよね。
以上、ひさしぶりのひとりごと。