世界の終焉と生と死の選択の一日 大月橋 | 墜落症候群

墜落症候群

墜ちていくというのは、とても怖くて暗いことのはずなのに、どこか愉しい。

 大月橋

 大絹川によって隔てられる、間戸町と星美市を唯一繋ぐのが、今、私が立っている大月橋。
 立地的には、奥宮ちゃんのいる大自然公園もさほど遠くはないんだけれど(大体五分くらいかな)、高い森林地帯があちらの公園側を囲んでいることで、橋上から目視することはできない。
 奥宮ちゃんの戦いは、もう始まっているだろうね。
 彼女の能力からいって、勝負が既についている可能性だって、なくはない。
 でも、そちら側の戦況について思いを馳せている余裕は、どうやらなさそうだった。
 どうやらこちらでも、そろそろ始まってしまうようだから。
 この真水海、こちとら海の精なんだ。戦いは特に好きじゃあないけれど、常に流れを変え、時には暴れ回る海を住処としてきたんだ、荒事は任せておけって感じ。
 そうして、先輩によって人払いされた、人通りも車もない、大月橋の丁度中央、その五メートルほど宙に浮いた地点に、『それ』は現れた。
 何もないところから暗くて黒い闇が生じ、それは結集する。
 そして、その闇は、人の姿を形取った。
 いや……人型と言っていいのかな? あれは?
 一応、人のようなシルエットを帯びてはいるけれど……。
 なんだか、パッと見は、全身を漆黒のウエディングドレスに包まれているようにも見える。
 しかし、それは髪だった。
 全て髪。
 日本人形のような、和風の幽霊のような――いやもっと言えば、髪を纏った妖怪のような。
 顔も見えず、体型も窺えない。
 こんもりと髪でうず高い砂山を作ったようなその胴体に、ただ艶かしい白い両腕だけを真横に突き出して、かろうじてその身体が全て髪でできているのではないことを(その中身に人のような何者かがいることを)想起させる、そんな姿だった。
 そして、その髪まみれは、喋った。
「ねえ、あなた、『無』とは何か、考えたことはあるかしら?」
 女の声だった。
 しかし、私は《六柱》の一つの問いにわざわざ丁寧に答えるほどに気が長くはなかったので、周囲に潤沢にある大絹川のリソースを使い、まずはその髪まみれを水責めにする。
 以前、屋上で先輩をそうしたように、丸いシャボン玉のような水球の中に、髪まみれを閉じ込める。
 けれど、髪まみれは微動だにしなかった。
 まるで無反応。
 水の中でその大量の髪はゆらゆらと蠢いたものの、それだけだ。
 両腕をバタバタと動かして、水中の苦しさをアピールすることもない。
 何より――その髪の中から気泡が漏れない。
 呼吸していない?
 つまり、あの《六柱》には生命がないのだろうか?
 事前に先輩が説明したところによると、《六柱》の出現場所は特定できても、それぞれの《六柱》の特性や姿形などは未知の領域である、とのことだった。
 だから私達姫君は、それぞれ得意なポジションを任されたわけだけれど。
 現時点で、私に確実にわかるのは、あれが《六柱》であるというただそれだけだ。
 探っていく必要があった。
「あなたは荒事が好きなのかしらね――世界の終わりに際して、動乱を見せるとは、ひどく浅ましく私には映るけれど。まるで普通の人間みたい」
 髪だらけの女は、最初とまったく変わらない調子で言った。
「私が浅ましいなら、アンタは気持ち悪いけどね」
 そう切り返しつつも、もっと重要なポイントに私は気付く。
 水中生物である私は、水中でも声が届けることができるけれど、しかし、空気中にいる時と水中にいる時、テレパシーでもなく、まったく同じ調子で声を響かせることのできるというその異様さに。
「あら、やっと気付いたのかしら?」
「なんかそのとくちょー的な発声方法について、解説とかあるの?」
「ないわ。こんなのは私にとって、至極当然のことだもの。あまりにも普通のことすぎて、別段、語るべきことでもない。《六柱》――この《無》(ナッシング)にとっては、この世界のルールからの逸脱こそが、日常なの」
「日常茶飯事でルールを破っているんなら、ルールに裁かれてとっとと消えちゃえばいーのにね」
「ルール破りなら、あなたもしているでしょうに――あなたは無から有を生み出すことができるのでしょう?」
「それは、何もないところから水を生み出すことを言ってんの? ま、確かに他人から見れば常識外れの行為って、自分でもそうと思わずやっちゃってるもんかもね――でもさ、私のはルールの逸脱に見えるだけで、ちゃんと世界のルールに則っているよ」
「あら、そうなの? 何もないところから水を生み出すなんて、世界を捻じ曲げているようにしか思えないけれど」
「それはアンタがルール破りの常習犯だからでしょ。人は――いや、アンタは人なのかどうなのかも知らないけれどさ、自分の中の現実に当てはめて、他人を理解しようとするものだからね」
「ふうん」
「ねえ、もうちょっとお喋りが過ぎるよ――私とアンタは、別に仲良しこよしってワケでも、ないんだから、さっ!」
 まずは小手調べ、丁度話題にも出たところだったので、大気中に大絹川をリソースとしたのではない――無から生成したかのように見える水の槍を、《無》の周囲に縦横無尽に配置。
 一斉掃射して、串刺しにする――しかし、それらは《無》に突き刺さる感触もなく、一切の抵抗もなく――ただ単に通過した。
「アンタ、本当に気味が悪いや――本当にそこに実体として存在しているの? まさか幽霊とか?」
「どうかしらね? ご想像にお任せするわ――ただ、もうヒントは言っているし、私はずっと、あなたの返答を待っているのよ? ねえ、『無』って、どんなものだと思うってね」
「そうやって問いかけて、何がしたいっていうの? 私は『無』がなんなのか、考えたこともなければ、これからも考えるつもりもないよ! そっちのペースに巻き込まれるのはごめんだね!」
 一度、水球から解き放った《無》を、超高圧の水のレーザーで寸断し、そして、大絹川を干上がらせかねないような、膨大な質量の水の龍を上から叩きつける。
「……くっそう、何の手応えもないんだよね――」
 水による物理攻撃はまったくの無意味ってことか。私には相性の悪い相手だなあ。
「だから言ったでしょう。荒事は嫌いだって。より正確に言うならば、荒事を仕掛けてくる相手の行動が、全て徒労に終わるその様を、観察しているのもただただ面倒というだけなのだけれど」
「ふうん。でもね、私には――アンタを黙らせる方法はあるよ」
 そして、私は、手を握りしめるようにする。
 《無》は物言わず、パシャ、と水になり、橋に降り注ぎ、そして夏の太陽に熱されて、あっさりと蒸発した。
「アンタは意味深なことを言いながら、何の解説もせずにそうして終わっちゃったけど、私はせっかくだから解説してあげるよ」
 聞いてないだろうけどね。聞くことはできないだろうけれど。
「私は確かに、何もないところから、水を生成することができる――だけどね、そもそも水がない、というのが錯覚に過ぎないんだよ。
 空気中には微量の水分が含まれている――とかそういう話でもない。
 この世界は、観測者がいるから存在する。観測者によって、いかようにも姿を変える。
 私は水を愛しているからね。
 心の底から好き好んで、愛しちゃってやまないからね。
 だからこそ、この世界の在りよう自体を変えることができる。
 そこに空気があるという現実世界そのものの一部を――そこに水があるということに転換できる。
 そもそも、この世界を満たす成分は、ありとあらゆる要素を含んでいるにも関わらず、ある種の観測者の集団幻想によって、ただ一つの現実のように『見えている』だけのようにね――それは宇宙が人間にとって暗黒物質(ダークマター)に満たされているようにしか見えなくても、他の存在の魂からは無限の光(フォトン)として観測できるのと同じこと。
 全てが幻想であり、錯覚であり、観測に過ぎないのなら、そこにある大気という現実から、私は水を愛によって呼び出せる。
 同様に、アンタが《崩壊点》であるっていうのだって、錯覚だったかもしれないじゃないか――ほうら、見てごらん。
 アンタはもう大気に蒸発してしまっただけの、ただの水さ」
 そして、その場に背を向け、去ろうとした次の瞬間、まるで背筋を冷たい手でなぞられたような悪寒を私は感じた。それこそ、錯覚に過ぎないはずなのに。
「なるほどねぇ。世界の在りようを自分の願望のままにしてしまうだなんて、なかなか大がかりな手品じゃないの」
 そのはずなのに、声が聞こえた。
「な、なんで――」
 もう《無》という《六柱》の姿形はない。
 どこにもあの黒い髪と白い腕の気味の悪いコントラストはない。
 あの《六柱》が発するオーラのようなものもどこにも感じ取れない。
 空間には、あの存在の残滓を感じさせるものは何にもない――はずだ。
「これが私が――《無》であるということ」
 それなのに、何も変わらず、私にその身を水と変えられても何の不都合もないかのように、声だけが。
 声だけが――聞こえた。
「あなたは『無』が何であるか、ということについて答えなかったし、考えもしなかったけれど、しかしあなたに仮に突破口があるとしたら、そこにしかなかったのよ?」
「――な、なんでだよっ!」
「なんでと言われても困るわ。私がただ《無》であるというだけのこと。
 ねえ、あなたはこの《世界という泡》がいずれ、《大いなる闇の母》の元へと還ることは知っているわよね?」
「ああ、それが一体なんだって――」
「でもね、それ、全てが還るワケではないのよ」
「……え、」
「知らなかったでしょう。《世界という泡》には、《大いなる闇の母》には還らず、ただ単に消え去る部分がある。
 だって、《世界という泡》が抱えた全要素を、全てそのまま受け入れても、それはそれで新しい変化を生み出せないじゃない?
 新しく生まれたものを受け入れると同時に――ある部分は消去して、《大いなる闇の母》は《世界という泡》を吸収するのよ」
「それはおかしい、だって、そうしたら、《無》であるアンタ自身が、《大いなる闇の母》には含まれないことになるじゃないか」
「私は《大いなる闇の母》と共にある、ある属性なのよ。《空白》と言ってもいいかもしれないわね。《大いなる闇の母》の《闇》という属性は、つまるところ、全てを混合した豊かな黒色というところかしら。
 私は、黒には決して混じり合うことのない、ただの欠損、《空白》としての《無》」
「アンタ、アンタみたいなヤツが――《六柱》に」
「《世界という泡》の何が無に帰するか、それは多くの場合ランダムなんだけれど、だけどその《無》自体が、意志を持つ場合もある」
「アンタ、一体、何をするつもりなんだ」
「ねえ、そろそろ前置きは終わりにしましょう」
 そして、私は気付く。声はまさしく、私の内側から響いてくることに。
「もし、この世界に、一切水というものが『無』かったら――海の精であるあなたって、そもそも生まれてきてたかしら?」
「やめろ、やめてく、」
 そうして、私という全ては『無』に帰する。