美和子の描く僕の絵は、決まって右肩が上がっていた。
最初の何枚かが仕上がったときには気づかなかったのだが、彼女の描く僕の絵が彼女の部屋の壁一面を占めるころ、僕はある一枚の絵を見たときにやっとそのことに気づいた。
その絵は、僕が彼女の部屋のベランダで煙草を吸っている後姿が描かれた絵だった。ベランダの手すりに両肘を置いて部屋側に背中を向け、暮れかけている夕日を見ながら煙草をふかしている僕を、部屋の中から彼女が見た風景を描いたものだ。キャンパスの回りぐるりと描かれた窓枠が、そのまま額縁になっているような構成だった。その僕の右肩がほんの少しだけ上がっているのが、受けている夕日の陽射しと出来た影から、ほかの絵よりも強調されて見えたのだ。
それに気づいた僕は壁に貼られた他の絵を見渡してみた。微妙ではあるが、すべての僕の右肩が上がっていた。自分では意識をしたことなど全くなかったので、これは彼女の絵の中のことだけ、彼女がモチーフにしているものなのかと思っていたのだが、あるとき聞くともなしに彼女に聞いてみたことがあった。
「あら、あなた、リラックスしているときにいつも右肩が上がってるのよ。ほんのちょっとだけどね。自分で気づかなかった?あ、ちょっと頭動かさないで・・・」
と、ロックで入れたウイスキーの氷を左手でカラカラと鳴らし、右手で鉛筆をせわしなく動かしながら、何を今更、というように、美和子は答えた。僕の聞き方もさらっとしたものだったが、返ってきた彼女の答えがあまりにもサバサバしていたので、僕は拍子抜けしてしまったのを覚えている。なんだ、気づかなかったのは僕本人だけなのか?と、しばらく間抜けな顔をしてしまったものだ。
そう、あのときもウイスキーを呑んでいたが、彼女はアルコールを愛していた。といっても、依存症や中毒になっていたわけではない。呑む頻度は月にせいぜい2~3度程度だった。しかし、呑むときにはウイスキーでもウォッカでも決まってストレート、つまみは一切なし、マイペースにひたすら、何時間でも呑む。それでも驚いたことに、一度も泥酔をしたことがなかった。
アルコールを呑んでいるときの美和子は、無性に創作意力が湧きたてられるらしく、一度筆を執ると止まらなくなる。描いて描いて描きまくり、そして、その間もアルコールを呑み続ける。
美和子の作風は、観ている人が反対の壁まで飛ばされるのではないかと思うくらい力強さが溢れているものもあれば、観ている人の内側から何かがはらはらと崩れ溶け、それが涙となって流れてくるような、儚くもの哀しい感情を抱かせるものだったりする。おおよそ、同じ人物が描いたとは思えないくらい、まるで違った作品を作り出すのだ。特に呑みながら描かれた絵はその特徴が強く出るようだった。
また、妙におどけてみることもあり、悪乗りで僕の裸の絵を描くこともたびたびあった。もちろん、彼女の記憶から勝手に描いているのだが。それは時に男性的だったり女性的だったりするのだが、他の人に言わせるとどちらも僕らしさが表現されているらしい。一つのものを全く正反対に表現できるのも、彼女の才能のすごいところだと思う。
そんな、画家の卵なら誰でも羨ましがる才能を持っていながら、彼女は本格的にプロとして絵を描こうとはしなかった。彼女の絵の露出頻度は、絵描き仲間数人と何度か小さな合同展示会を開いたり、それを観た人から熱烈なラブコールを受け何度か個展を開いたり、という形でポツリポツリと発表し、気が向いたときだけ売ったりする程度だった。うわさを聞きつけて個展を観た何とかという有名な絵描きから本格的にプロとして活動してはどうかと声をかけられたりもしたが、悩んではいても、彼女は首を縦に振ろうとはしなかった。美和子ほどの才能を持ち合わせながらプロ活動をしないのを不思議がる人は周りに何人もいた。何となく、僕もその一人だ。
「絵描きのプロになって、それでお金を稼いで生活して、ってなってしまうと、私の作品が私のものでなくなってしまうような気がするの。お金稼ぎの手段にするのでなくて、私の生涯のライフワーク程度に留めておいたほうがいいような気がするのよ。」
美和子の答えはこうだった。
ライフワーク程度に留めているからこんなにも自由で自分らしい作品ができるのだ、という言い分らしい。彼女がそう言うなら、そう思えてしまう。きっと彼女が彼女らしくあるためには、今のまま気ままに描くのがいいのだろう。仕事にしてしまったら、きっと今とは違った彼女になってしまうのだろう、と僕は解釈した。
そんな美和子が、突然ニューヨークに絵の勉強をしに行くと言い出した。
このまま僕の恋人として、またルームメイトとして絵を描き続けるものかと思っていた僕としては、美和子のその発言に驚き、狼狽した。画家としてプロは目指さない彼女のポリシーはいったいどこに行ってしまったのか?それで金が稼げるなら金稼ぎの手段にしてしまう気か?今までの作風が崩れてもいいのか?彼女が彼女でなくなってもいいのか?
さまざまな感情が沸いてきて、僕は憤慨し、腹立たしい気持ちをなんとか抑えるのがやっとだった。
「あっちで勉強をしたからといって、そのあとプロになるとかじゃないのよ。たぶん絵描きだけで食べていくことは一生しないわ。何ていうかな、ちょっと環境を変えてね、全く別の場所で描くことができたら、どんな絵が描けるかなと思ったの。絵描き仲間があっちに行っててね、ちょっと来てみないかって」
そんな言葉を残して、彼女は海の向こうへ飛び立って行った。
美和子の部屋には、彼女が描いた無数の僕の絵がそのまま残されている。主を失った部屋は少しだけ冷たい空気を帯びている。しかし、いずれ彼女はここに戻ってくるのだ、いつか・・・・。
美和子が渡米して一年ほど、僕らはあまり頻繁には連絡を取っていなかった。機械に疎い彼女は電子メールのやりとりも気の向いたときしかしない。むしろエアメールのほうを好んだ。向こうで描いた作品をいくつか見せてくれ、送ってくれと言っても、ついぞ彼女は一枚の絵も送っては来なかった。そんな風だから、美和子が海の向こうでどう変化したのか、僕には想像もつかない。変化しても、彼女らしさはそのまま残っているのだろうか、あの、時に力強くて、そして時に繊細な画風は変わっているのか、いないのか・・・・。なにより、美和子が美和子自身でい続けられているのか、僕の中でその思いは心配から不安に変わりつつある頃、美和子から一通の電子メールが届いた。
「来週帰国します」
たった一言だけのメッセージだった。美和子が帰ってくる。
美和子の乗った飛行機の到着時間をだいぶ過ぎてから、僕は空港に到着した。事故渋滞にはまってしまって、遅刻は仕方のないことだった。美和子との待ち合わせのロビーで彼女の姿を探す。ここまで走ってきて息が乱れている状態で大勢の人込みのなかから彼女を探すのは思いのほか重労働だった。目の前を足早に過ぎ去っていく人々。ビジネスマン風の人や団体旅行らしい集団、子連れの家族などが次々に通り過ぎていく。
ふと、人々の流れが途切れた先のベンチに、1人の女性の後姿を発見した。髪はだいぶ伸びて少し軽い色になり、多少痩せたようではあるが、それは美和子の後姿だった。
その彼女の右肩が少し上がっていた。少しだけ。
いつだったか、彼女がつぶやいた言葉を思い出す。
「恋人同士はね、離れていても、時が経って変わってしまっても、心が通じ合っていると、お互いの癖が自然と移るそうよ。わたしもそのう右肩が上がるのかしらね?」
そう言って彼女は、こちらを見て、軽く微笑んだ。朝日を逆光で浴びたその笑顔は、柔らかい綿毛のようだった。
ふと、彼女が右肩越しに振り向いた。軽く微笑む。
あの時の笑顔と同じように。柔らかな、綿毛のように・・・・・。
END