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2008-09-05 01:27:18

1963 バド・ムーア マーキュリー・マローダー/ジョー・ウェザーリー

テーマ:セダンレースカー

1963 BUD MOORE MERCURY MARAUDER/JOE WEATHERLY


1964年1月19日。カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のリバーサイド・レースウェイ。NASCARグランナショナル第5戦のモータートレンド500において一人のベテランレーサーが事故死した。ジョー・ウェザーリー。モーターサイクルレースから転身したという当時としては異色の経歴を持っていたドライバーだった。


1922年、ジョー・ウェザーリーは、バージニア州ノーフォークで生を受けた。少年時代のジョーは、早い時期からモーターサイクルレースにのめり込んでいたという。その理由は、身長5フィート7インチ(約168㎝)とアメリカ人としては小柄だった彼にとって、小さな体を最大限に活かすことができるのがモーターサイクルレースだったからに他ならない。実際、彼は大男達を尻目に、多くのレースで勝ちまくっていたといわれている。


第二次世界大戦の勃発に際して、ジョーは陸軍の一兵士としてアフリカに赴任した。ここでの任務は彼にとって過酷なものだった。ある日彼はドイツ軍狙撃兵から銃弾を顔に受け、重傷を負ってしまったのである。現在伝えられているジョーの写真は、残らずこの時の傷がハッキリと残った「スカーフェイス」のものばかりである。そのコワモテゆえ、いかにもアウトロー的なルックスだったジョーではあったものの、その真実は名誉の負傷だったというわけである。


戦争の終結に伴って、復員したジョーはモーターサイクルレースへと復活した。ここで彼が戦っていたのはハーレー・ダビッドソンを駆ってのAMAのフラットトラックレースである。その腕前は戦争前と変わりなく。彼の名は紛れもなくAMAを代表するものだったといって間違いない。


モーターサイクルレースに復活してしばらくたった1950年、ジョーは自身の新たな可能性に挑戦するため、ストックカーレースへのエントリーを始めた。最初に選択したのはトップカテゴリーの「NASCARグランナショナル」ではなく、モディファイドである。ちなみにこのカテゴリーは、フルノーマルのグランナショナルに対して、ある程度の改造が認められていたクラス。人気そのものはグランナショナルに匹敵していた。


モーターサイクルレースで鍛えたジョーの「戦いの勘」は本物だった。1952年には年間83戦にエントリーし49勝を記録。続く1953年には同じく52勝を挙げ、見事NASCARナショナル・モディファイド・チャンピオンの座に輝いたのである。


このジョーの活躍に目をつけたのが1956年からワークスチームを結成するため、有力ドライバーをスカウトしていたフォードだった。そしてジョーはストックカーに転向してから6年目で、ついにワークスチームのシートを獲得したのである。ここで最初に彼が参戦したのは、コンバーチブル・ディビジョンである。


この年、彼はコンバーチブル・ディビジョンを戦う傍らで、グランナショナルにも本格的な参戦を開始した。そして1958年8月10日にはテネシー州ナッシュビルにおいてグランナショナル初優勝を記録。ストックカーレースにおける「リトル・ジョー」の名声は、まさに揺るぎないものとなっていった。


ちなみにこの時代、別にジョーだけに限らずレーサーの服装はヘルメットとグローブを着用しているだけで、後は普段着そのままというものだった。そしてこのことが後にジョーの運命を大きく左右することとなるのである。


1962年、それまでホールマン・ムーディと共にフォードのレースカーで戦ってきたジョーは、25戦9勝、ランキング4位という1961年度の好成績を高く評価され、請われてポンティアックのワークス活動を任されていたサウスカロライナ州スパータンバーグのバド・ムーアへと移籍した。ここでの活躍はまさに圧倒的なものだった。


421SDを搭載したカタリナを駆った彼は1962年に見事チャンピオンの座に、続く1963年はシーズン半ばにバド・ムーアが主力レースカーをポンティアックからマーキュリーに変更するという大きな動きがあったもののジョーのテクニックに変化は無くこの年のチャンピオンの座もジョーのものとなった。この二年間の成績は、実に105戦12勝。1962年など、全52戦中31戦において3位以内でフィニッシュするという離れ業を披露していたのである。ジョーはまさにノリにノっていたといっていい。


しかし好事魔多し。紛れもなくトップドライバーの一人としてNASCARグランナショナルに君臨していたジョーは、冒頭に述べたアクシデントで命を落とすこととなる。彼が命を落とす直接のきっかけとなったのは、その服装もさることながらモーターサイクル的な自由な上半身の動きを好んでいたことから、ショルダーハーネスを装着していなかったことだった。その結果、高速コーナーでコースアウトした彼はドライバーサイドからコース脇の土手に激突。全身打撲で命を落としたのである。


1964年という年はジョーの後、ファイアボール・ロバーツ、ジミー・パデュー、そしてUSACではデイヴ・マクドナルドというスタードライバーが3人も命を落としたという、アメリカのレース界にとってまさに最悪の年だった。しかも彼らが命を落とした直接の原因は、すべてセーフィティ・エクィップメントの不備だったのだから。


彼らの亡き後、NASCARとUSACは、共に協力し合って安全装備の具体化に努めていくこととなる。現在、レーサーがクオリティの高い個人装備や安全なレースカーで戦えるのは、彼ら先人達の犠牲があってのことである。












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