日野コンテッサ/貴婦人と呼ばれたセダン | 乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ

日野コンテッサ/貴婦人と呼ばれたセダン



現代、乗用車の生産から完全に撤退しているメーカーの過去の作品の中には、その設計陣の情熱を今でも強く感じることができるクルマが少なくない。日野コンテッサ。それは弱小メーカーの夢作品に他ならなかった。


1961年4月、日野自動車にとって初めてのオリジナル設計の乗用車であったコンテッサ900が発売されて2か月が過ぎたある日、本社からイタリアに向けて1通の封書が発送された。宛先は新進気鋭のデザイナー、ジョバンニ・ミケロッティの工房である。封書の内容は他でもない、コンテッサ900に次ぐ、新しい乗用車の外観デザイン依頼書だった。


日野自動車にとって2作目となるオリジナル乗用車は、こうして開発が始まった。発売予定は3年後の1964年秋。エンジンのキャパシティは当時の小型乗用車の中では余裕があった1300が選択された。もちろん基本デザインは作り慣れたRRである。しかしこの排気量アップに伴うパワーアップが、後にコンテッサ1300と呼ばれるクルマの開発を困難な道とすることとなったのである。


それはこういうことである。コンテッサ900はメカニカル・コンポーネンツの基本レイアウトを見る限り、日野自動車が戦後の乗用車生産のノウハウを学ぶ過程でライセンス生産を担当したルノー4CVの延長線上にあった。しかし最高出力35psのコンテッサ900に対して、55psを狙っていた1300の場合、コンテッサ900と同じ冷却系のデザインでは満足のいく冷却性能を持たせることが不可能に近かったのである。


開発陣がこの事実に直面したのは、ミケロッティから送られてきたデザイン案を見た時だったといわれている。すなわち、「前方に向けて約1500平方センチの冷却用空気取り入れ口を設けること」という日野自動車側のリクエストに対するミケロッティの回答は、大きく無骨な吸気口をリアフェンダーにセットしていたというミケロッティらしからぬ雑なもの。これはある意味で事実上まともなデザイン処理の不可能を示唆するものだったといえなくもなかった。


ここからがエンジン設計陣の踏ん張り所だった。そう、日野のエンジニア陣はエンジンの設計と共に、満足のいく冷却性能を確保するために、ミケロッティのオリジナルデザインの中で、日野独自のエンジンルーム内の設計にも着手することとなったのである。


コンテッサ900流のリアシート後方のラジエター配置とリアフェンダー部からの冷却風導入を諦めざるを得なかったことに対する解決策は、レイアウトの根本的な変更だった。折しも1961年のジュネーブショーで発表されたルノー8は、やはりパワーアップに際してラジエターをエンジンルーム後端に移動、吸い込みファンを付けて熱気はエンジンルームの下に抜くという方法を採っていることが分かった。


こうしてコンテッサの新型はルノー8流のレイアウトを採用することとなった。もちろんこれらはルノーのデッドコピーではなく、問題を一つ一つクリアしていった上で導き出された結果である。この設計過程ではルーフからリアウインドウ、そしてエンジンフードに至る空気の流れの圧力分布を解明するために、徹底的な風洞実験が実施された。さらにラジエターとファンの組み合わせにおける優劣の評価も精密に行われたといわれている。


日野コンテッサ1300は紆余曲折の末、当初の予定通り1964年9月にデビューした。ミケロッティのデザインを活かしながらもエンジンルーム回りとリアグリルのデザインは日野オリジナルというそのスタイルは、当時の国産乗用車の中では異彩を放っていた。細いピラー、グリルレスのシンプルなフェイス、そしてフラッシュサーフェス化されたドアハンドルやストレートを基調としたキャラクターライン。そのどれもが新鮮だった。伯爵婦人を意味する車名はダテでは無かったのである。


当初デラックスとスタンダードのセダンのみでデビューしたコンテッサ1300は、発売から7か月後の1965年4月には、よりスタイリッシュかつエンジンを65psにパワーアップしたスポーツモデルの1300クーペをラインナップに加えた。さらに同年11月にはクーペのエンジンをセダンに搭載した1300Sを追加するなどバリエーションを追加していった。


しかし1967年4月に至り、計画されていた日野自動車とトヨタ自動車との業務提携締結が決まったことで生産中止となってしまう。この時点でエンジンをDOHC化したクーペSが発売間近の状態にあったものの、結局お蔵入りとなってしまったのは残念である。


なお日野コンテッサ1300とモータースポーツの関係だが、1966年の日野プロトといったワークス活動を除くと基本的に稀薄だったことは否めない。ただし1966年8月には純正スポーツキットも発売されていたし、日野プロトの開発及びコンテッサのエンジンに対して様々なハイパフォーマンスチューンを行っていた「デル」こと塩沢商工といったコンストラクターの存在もあって、アマチュアレースでその姿を見ることは決して難しくなかった。


さらに熱心なコンテッサファンだった米軍人のロバート・ダンハムはコンテッサを帰国の際にアメリカに持ち帰り、コブラ・デイトナクーペのデザインでおなじみのピート・ブロックと共にチームBREを結成しSCCA Cセダンを戦っている。


ピート・ブロックと日野との関係は1967年の第4回日本グランプリに突如として登場した日野サムライプロトとして大きな実を結んだ。このレースでのサムライプロトは、トラブルによって急遽装着したノーマルオイルパンのために最低車高不足を引き起こし結局車検落ちとなって本戦出場は適わなかったものの、その流麗なスタイルに憧れる人物は今でも少なくない。


なお冒頭に掲げた写真はロンドンの科学博物館に収蔵展示されているコンテッサ1300セダンである。この権威ある科学博物館において、フォルクスワーゲン・ビートルやシトロエン2CVなどと共に自動車史に残るエポックメイキングな作品として展示されていることに大きな意味があることは言うまでもない。