くぼた旧町名物語 (8)武家のまち「内町」編
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「けやき」と「松」が静かに四百年を語りかけるまち
商人・職人などが住んだ外町に対し、佐竹家の家臣をはじめとする、侍屋敷が軒を連ねた内町。その町割りもまた、久保田城築城とともに進められました。
こうした武家のまちは、久保田城の本丸・二の丸を取り囲む三の丸や、現在の旭川よりも東側の千秋、中通、手形などに配置され、城に近いほど佐竹家の重臣が住んでいました。
大手門と中土橋門には重臣が居住
公式行事「鷹狩り」のもう一つの意味
城に仕えるものたちの役職にまつわる町名がついた「台所町」と「鷹匠町」は、ともに寛永8年(1631年)の町割りで作られました。
「台所町」は城の厨(くりや=台所)で働いた人たちのまち、「鷹匠町」は鷹を訓練し、鳥やウサギなどの野生動物の狩りをする鷹匠が代々住んだまちでした。
ちなみに、初代藩主・義宣は鷹狩りを好み、年10回を超えるほど、鷹狩りに出かけました。おもに太平、下北手といった近場から、八郎潟、男鹿半島まで出かけ、白鳥やキジなどを捕獲したようです。その後、鷹狩りは、藩の年中行事に位置づけられるようになり、正月四日には、年始の行事として「御初野(おはつの)」と称される鷹狩りが行われるようになりました。
公式行事のため随行者も多かった鷹狩りですが、実は単なるレジャーだけではなく、領内視察という意味もあり、政策的な意図もあったようです。
城下を治める要のまち
外町の川端と旭川を挟んで対面する土手長町は、中級武士の屋敷が並びました。町名は、築城にともなう旭川掘替えの際にできた土手に由来するものです。
土手は昭和20年代の道路拡幅により取り払われましたが、当時のままに保存されている「鷹の松」と「鑑(かがみ)の松」を支える土塁がその土手の高さを知る上で貴重なものとなっています。
また、武家の町と町人のまちとの間に位置した土手長町には、寛永20年(1643年)、町奉行が勤務する町処が設けられました。明治時代に、秋田県庁と市役所が土手長町に開庁したのは藩政時代の名残といえるでしょう。
活気に満ちあふれた外町と、城下の秩序を守る凛(りん)とした雰囲気が漂う内町。「動」と「静」のエネルギーのバランスが取れたまち。現代のまちづくりにも共通するキーワードかもしれません。
大正のころの「鷹の松」(保戸野川反橋近く。赤れんが郷土館所蔵・写真絵葉書) |
現在の「鷹の松」 |
「鑑の松」(保戸野新橋近く) |
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城下町御休み処
変わらぬ流れ 建都の遺産・旭川
| 秋田市広報課 広報あきた2004年12月10日号No.1591 http://www.city.akita.akita.jp/city/pl/pb/koho/htm/20041210/12-10.html |
















































