2010-12-09 18:44:55

くぼた旧町名物語 (8)武家のまち「内町」編

テーマ:くぼた旧町名物語
(8)武家のまち「内町」編
「けやき」と「松」が静かに四百年を語りかけるまち

 商人・職人などが住んだ外町に対し、佐竹家の家臣をはじめとする、侍屋敷が軒を連ねた内町。その町割りもまた、久保田城築城とともに進められました。
 こうした武家のまちは、久保田城の本丸・二の丸を取り囲む三の丸や、現在の旭川よりも東側の千秋、中通、手形などに配置され、城に近いほど佐竹家の重臣が住んでいました。


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大手門と中土橋門には重臣が居住

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渋江邸跡(現県民会館)にあるけやき。城下の歴史を見守ってきました
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明徳館跡を示す碑の向かいに建設された「秋田明徳館高校」



 城内三の丸にあった「上中城町」「下中城町」には、いずれも藩を支えた重臣が屋敷を構えました。
 「上中城町」は、城の正面玄関となる大手門通り付近、「下中城町」は、中土橋付近にありました。
 大手門は明治初年に取り壊されその面影は残っていませんが、家老の渋江邸、梅津邸があった県民会館、県立美術館の高台には、城下の歴史を見守ってきた樹齢300年ともいわれる大きなけやきや黒松が、今も力強く根を張り、城の守りと言わんばかりに、外から見るものを威圧しているようにも見えます。
 その中土橋を下った所にある「東根小屋町」「西根小屋町」は、藩主の参勤交代の通路にあたり、上級家臣の屋敷がありました。「根小屋」とは「城を控えた城下の村」という意味があります。
 九代藩主・佐竹義和(よしまさ)は、寛政元年(1789年)、藩政改革を担う人材育成を目的に、この町に藩の学校「明徳館」(※)を開設しました。明徳館では、儒学、武芸、医学、国学などが教えられ、明治4年に廃藩置県とともに廃校となるまで、多くの高名な学者を輩出。希望に満ち、志の高い藩士たちがここで一生懸命勉強しました。
※「明徳館」という名称は、文化8年(1811年)から。


公式行事「鷹狩り」のもう一つの意味

 城に仕えるものたちの役職にまつわる町名がついた「台所町」と「鷹匠町」は、ともに寛永8年(1631年)の町割りで作られました。
 「台所町」は城の厨(くりや=台所)で働いた人たちのまち、「鷹匠町」は鷹を訓練し、鳥やウサギなどの野生動物の狩りをする鷹匠が代々住んだまちでした。
 ちなみに、初代藩主・義宣は鷹狩りを好み、年10回を超えるほど、鷹狩りに出かけました。おもに太平、下北手といった近場から、八郎潟、男鹿半島まで出かけ、白鳥やキジなどを捕獲したようです。その後、鷹狩りは、藩の年中行事に位置づけられるようになり、正月四日には、年始の行事として「御初野(おはつの)」と称される鷹狩りが行われるようになりました。
 公式行事のため随行者も多かった鷹狩りですが、実は単なるレジャーだけではなく、領内視察という意味もあり、政策的な意図もあったようです。


城下を治める要のまち

 外町の川端と旭川を挟んで対面する土手長町は、中級武士の屋敷が並びました。町名は、築城にともなう旭川掘替えの際にできた土手に由来するものです。
 土手は昭和20年代の道路拡幅により取り払われましたが、当時のままに保存されている「鷹の松」と「鑑(かがみ)の松」を支える土塁がその土手の高さを知る上で貴重なものとなっています。
 また、武家の町と町人のまちとの間に位置した土手長町には、寛永20年(1643年)、町奉行が勤務する町処が設けられました。明治時代に、秋田県庁と市役所が土手長町に開庁したのは藩政時代の名残といえるでしょう。

 活気に満ちあふれた外町と、城下の秩序を守る凛(りん)とした雰囲気が漂う内町。「動」と「静」のエネルギーのバランスが取れたまち。現代のまちづくりにも共通するキーワードかもしれません。

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大正のころの「鷹の松」(保戸野川反橋近く。赤れんが郷土館所蔵・写真絵葉書)

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現在の「鷹の松」

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「鑑の松」(保戸野新橋近く)

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城下町御休み処
変わらぬ流れ 建都の遺産・旭川
   “あさ日川 夕日の色もせき入れて
  くれなゐふかき 梅のした水”

 これは、江戸時代の紀行家・菅江真澄が詠んだ和歌です。歌にも出てくる「旭川」は、その源流が太平山の旭岳に端を発することから、九代藩主・佐竹義和の命を受けた真澄が名付けたと伝えられています。
 久保田城築城とともに着手した旭川の堀替え工事は、通町から川口境までの区間で行われた一大公共事業でした。作業に駆り出された農民は延べ10万人を超えたとも言われます。
 当時の旭川は、内町と外町の境界を成す水域であるとともに、貴重な生活用水の供給源でもありました。川端の所々には、いくつかの町が共同で管理する、「川戸」「川道」と呼ばれる水汲み場があり、そこは、飲料水を汲み上げるほか、洗い物、洗濯をする場所としても利用されていました。
 また、川沿いに「塵(ちり)塚」(ごみ捨て場)も数か所に設置され、ごみを積んだ舟が川を下ったりもしていました。しかしその一方でごみの不法投棄が後を絶たなかったという残念な記述も残されています。
 ともあれ、城下の人びとの生活に欠かすことができなかった旭川。400年経った今も、その流れは心いやしてくれる貴重な存在となっています。

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記事提供/ 秋田市広報課 
広報あきた2004年12月10日号No.1591
http://www.city.akita.akita.jp/city/pl/pb/koho/htm/20041210/12-10.html

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2010-12-09 17:33:18

くぼた旧町名物語 (7)寺屋敷のまち「寺町」編

テーマ:くぼた旧町名物語
(7)寺屋敷のまち「寺町」編
外町の西に端然と並ぶ寺院群

 久保田のまちづくり…城が築かれた神明山(現千秋公園)の南には、城に仕える侍たちが住む「内町」、そして旭川をはさんで、まちを活気づけた町人たちが住む「外町」、さらにその西側には端然と寺屋敷が並ぶ「寺町」がありました。


現在の寺町通り(旭北寺町)


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寺町には40の寺を配置

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昭和58年、寺町通りは「市民が選ぶ都市景観賞」を受賞しています



  久保田の町の形がほぼできあがったとされるのが寛永年間のころ(1624~43年)。寛文3年(1663年)の「外町屋敷間数(けんすう)絵図」(県立図書館蔵)を見ると、寺町には40ほどのお寺があったようです。そしてそれらはおおむね三つの種類に分けられます。
 一つ目は、転封前の佐竹義宣が住んでいた地、常陸の国から義宣を追うように移ってきたお寺。鱗勝院、龍泉寺、一乗院、東清寺がそれにあたります。
 国替えを命じられた当初、義宣は常陸の諸寺院に対し、常陸に残るよう勧めました。それでも、いくつかの寺院は佐竹氏に随従したのです。
 二つ目は、まちづくりのために土崎湊から呼ばれた町人と同様、土崎湊周辺(現在の土崎、寺内、飯島)から移ったお寺。「湊三か寺」と呼ばれていた大悲寺、妙覚寺、光明寺をはじめ、浄願寺、西善寺、東福(当福)寺、釈迦堂など18のお寺が移転してきました。
 そして三つ目が、久保田の町で開かれたお寺。弘願院、誓願寺、普伝寺などが挙げられます。


戦が始まれば強靱な防護壁に

 お寺を外町の西側に並べたことには、戦(いくさ)の時の防衛体制、戦略的な要素も含まれていました。大きく丈夫な建物と広い敷地を備えた寺院は、敵を迎え撃つときの格好の待機場所となったでしょうし、攻め入る敵の“壁”となって、一時的にその足を止めることにもなります。そして寺院をすき間なく並べて配置することで、その壁をより強固なものにしたのでしょう。
 全国にはたくさんの城下町がありますが、必ずと言っていいほど寺町が存在し、同様の役割を果たしていたようです。義宣も江戸や京(都)でたくさんの城下町を目にしていたでしょうから、どこかの町を参考にまちづくりを始めたのかもしれません。


歴史を物語る数々の遺産が残る

 寺町のお寺には、歴史的価値の高い文化財が数多く残っています。中には県や市から指定を受けている文化財もありますが、なにしろ、寺町の空間自体が歴史資料のようなものですから、指定を受けたもの以外にも貴重な文化財がたくさん、そして大事に保存されています。
 
 寺町通りを歩いているとなぜか気が引き締まります。威光を放つ大きな門、樹齢を重ねた巨木、静かに流れる空気…。
 信仰と戦略という、異なった二つの側面を持ったまち。久保田の安定に決して欠かすことのできなかったまちです。

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紙本墨画寒山拾得(大悲寺蔵)

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梵鐘(西善寺蔵)

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釈迦三尊像図(当福寺蔵)

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木造聖観音(歓喜寺蔵)

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木造釈迦如来座像(應供寺蔵)

※これらの展示は千秋美術館で。


 
城下町御休み処
幾度もの大火を乗り越えて
 初代秋田藩主・佐竹義宣によりまちづくりが進められた久保田の町は、大きな火災を繰り返した悲しい歴史も持ち合わせています。
 久保田城ができあがったのは寛永8年(1631)ごろとされていますが、そのわずか2年後の寛永10年の火災で城の本丸が焼失しています。その後も城は何度か火災に見舞われ、明治13年(1880)の火災を最後に、城のほとんどが焼失してしまいました。
 また、城下の町にしても、慶安3年(1650年)の大火では、2,000軒余の家が焼失したとされ、その後も焼失軒数1,000軒を超える大きな火災を幾度も経験しました。
 そして、最も被害が大きかったとされるのが“俵屋(たわらや)火事”と呼ばれる、明治19年(1886年)に起こった大火。外町で上がった火の手は強風にあおられて勢いを増し、八橋、寺内にまで及びました。3,500軒以上の家が焼失、お寺や学校、銀行なども燃えてしまい、外町は焼け野原状態だったといいます。寺町で被災を免れたお寺は、たった2軒しかありませんでした。犠牲者17人、186人もの負傷者を出し、2,000人を超える人たちが避難生活を余儀なくされました。
 何度となく町を襲った大火。そのたびに復興に費やされた努力はどれほどか知れません。悲しい歴史を二度と繰り返すことのないよう、火の扱いには十分気をつけたいものです。
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記事提供/ 秋田市広報課 
広報あきた2004年11月12日号No.1589
http://www.city.akita.akita.jp/city/pl/pb/koho/htm/20041112/11-12.html

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2010-12-09 13:24:27

くぼた旧町名物語 (6)職人のまち「外町」編

テーマ:くぼた旧町名物語
(6)職人のまち「外町」編
久保田職人の腕が鳴り 城下のモノが生まれた

 外町には、家督権を与えられ繁栄した商人町とともに、職人町もありました。
 生活に欠かせない、鍛冶、大工、桶屋、染屋、髪結など、30種類以上のさまざまな技能をもった職人たちが、このまちで技を磨き、物を作り、生活していました。


■外町の町割り色字が家督町


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旧町の位置図(平成16年当時との対比)





土崎湊から移り住んだ職人たち
 寛永6年(1629年)に土崎から移ってきた鍛冶町(上鍛冶町・下鍛冶町)は、その名のとおり、鍛冶職人のまち。久保田城の築城に奉仕した土崎湊の鍛冶18軒が久保田に移って、鍛冶町をつくりました。
 鍛冶町は、築城に奉仕した見返りとして、元和年間(1615~1623年)に藩から「鍛冶家督」という特権を与えられました。これは、城下3里(約12キロ)四方における鍛冶細工の仕事を独占するもので、藩の厚い保護を受け、農具などの金物の製造を一手に引き受けていました。
 同じく慶長・元和ごろに後城町(現在の寺内後城)の一部が移ってつくられた城町の名は、寺内にあったときの町名に由来します。ここには、大工、左官などの職人が多く暮らしていました。



秋田の歩き方 - 秋田市のイベント&観光情報はおまかせ ビビッとチャンネル Akitachi 鍛冶町文書(中央図書館明徳館蔵)
 鍛冶町に残る町内の記録。この中の1冊「歳代記」には、鍛冶町の町掟が記されています。神事に関することのほか、炭を買いだめしてはならない、職人を横取りしてはならないなど、鍛冶職人として守るべきことが定められています。この掟を破ったものは、本人はおろか師匠まで鍛冶の仕事ができなくなる厳しいものでした。ここには、個人ではなく、職人集団としての町全体の繁栄を願う共存共栄の考え方がみられます。
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そのまちに暮らす職人が町名の由来


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明治36年、旭川を往来する船(現在の刈穂橋下、川の左側が外町)




  鉄砲町、大工町、船大工町は、そこに住んでいた職人の職種が町名の由来です。
 通町の隣りに位置する大工町は、「番匠町」とも呼ばれ(番匠=大工)、藩の仕事をしていたようです。
 旭川沿いの川端一・二・三・四・五丁目に続く船大工町は、六丁目川端と言われ、旭川の水運に関わって発展しました。当時はここに船大工がいるほど、旭川は船でにぎわっていたのです。
 川端の旭川岸は、県南方面から川を通って運ばれてくる物資の荷上げ場として使われ、毎日数十の船が上り下りして、米やくだもの、木材などを運んできました。そのため、船大工町には米蔵や材木屋がありました。

髪結床は町人いこいの場
 「指物(さしもの)町」とも言われた本町六丁目は、指物師、挽物(ひきもの)師、桶屋で構成されたまちでした。木工品が売りのこのまちは、その後「家具のまち」となり、今もその面影を残しています。
 柳町には、佐竹氏に伴って秋田入りした桶屋が住んでいました。藩御用の桶屋がいたことから、「桶屋町」ともいわれました。  
 茶町筋の西隣りに並ぶ上亀ノ丁・下亀ノ丁は、小商人と職人が暮らすまちで、桶屋、石切などのの職人が住んでいました。下亀ノ丁には火のしと呼ばれる炭火で加熱するアイロンをかける職人がいたほか、髪結床(理髪店)も多くあり、町人のいこいの場としてにぎわいました。
 自分の腕一つで城下の人々の暮らしを支えた、久保田の職人たち。その熟練の技、威勢のいい声、にぎやかな作業の音で、まちは活気にあふれていたことでしょう。
 また、同じ職種の人間が集まって暮らす職人まちは、それぞれの技術を師から弟子へ確実に伝えていくという、後継者育成の役割も果たしていました。

 
久保田の職人
●大工 ●木挽(こびき) ●檜物師(ひものし)(ヒノキで薄い曲げ物を作る) ●指物師(さしものし)(木の板をさしあわせて組み立て、机やたんすなどを作る)  ●鍛冶 ●石工 ●金具師 ●鋳物師 ●提灯張(ちょうちんはり) ●傘張(かさはり) ●表具師 ●張付師 ●仏師 ●染屋職人 ●仕裁師 ●袋物師 ●織り師 ●研師 ●鞘師(さやし) ●柄物師 ●紙漉(かみすき) ●鏡研(かがみとぎ) ●鼈甲(べっこう)細工 ●塗物師 ●筆師 ●畳刺 ●桶屋 ●桐油職(とうゆしょく) ●煙管張(きせるはり) ●足駄指 ●髪結 ●莨切(たばこきり)(たばこを切り刻む) ●挽物師(ひきものし)(ろくろを使って木を削り、いすの足や器などを作る) ●綿ふかし ●壁塗

城下町御休み処
髪結が奉行所の聞きこみ!?
 江戸時代の髪結(かみゆい)、今で言う美容院や理髪店は、髪を整えるほかに、もうひとつ、とても意外で重要な役割を持っていました。
 当時の髪結床は、風呂屋とともに町人のいこいの場で、社交サロンのような場所でした。町人たちはここで、ほかの客や髪結と近所の出来事やうわさ話など、たわいのない話で盛り上がり、おしゃべりに花を咲かせていました。
 ここに目を付けたのが町奉行所。髪結はすべて「悪者吟味」を任務とするとし、文化13年(1816)には、3人の髪結を町同心(まちどうしん)の目先役に選び、聞き込み係として町の警察機能の末端を担わせていました。そして、この目先役に選ばれた者には、髪結仲間から供出されたお金の中から手間賃が与えられたのです。
 確かに、客商売である髪結は、客本人についてはもちろんのこと、客とのやりとりや客同士のやりとりの中から豊富な町の情報を得ることができます。このことをうまく利用して、町奉行所は庶民の世界からさまざまな情報を集めたのでした。文政元年(1818年)には、久保田のまちに60人の髪結がいたそうで、その情報収集の力はとても大きなものだったと言えます。
 しかし、中には奉行所の同心と知り合いであることをいいことに、料理屋で言いがかりをつけ、町を追い出された者もいたそうです。まさに「お上の威光をかさにきた」行い。時代劇で見たことがあるような…。
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記事提供/ 秋田市広報課 
広報あきた2004年10月8日号No.1587
http://www.city.akita.akita.jp/city/pl/pb/koho/htm/20041008/10-08.html

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2010-12-09 08:55:49

くぼた旧町名物語 (5)家督のまち「外町」編

テーマ:くぼた旧町名物語
(5)家督のまち「外町」編
商売人の心意気
町の“看板”に誇りあり

 外町には、城下町の商業を統制するため秋田藩から特定の商品を独占販売する権利を与えられた「家督町(かとくちょう)」がありました。今は近所のスーパーマーケットで何でも買えますが、当時は“その町”でしか取り扱えない物があったのです。
 久保田城の築城とともにいち早く家督権を与えられた大町、茶町のほか、「魚の町」「米の町」などが商売をしていました。


■外町の町割り色字が家督町


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旧町の位置図(平成16年当時との対比)


■外町の家督町

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藩内の魚商品の流通もチェック


秋田の歩き方 - 秋田市のイベント&観光情報はおまかせ ビビッとチャンネル Akitachi-上肴町神社

住宅とビルの谷間にある上肴町の神社



 慶長17年(1612年)に土崎から移ってきた上肴町は、土崎時代、すでに肴(魚)商売の家督を与えられていたとも伝えられ、外町に移ってからも、ほどなく家督を得たものと思われます。上肴町から南に四町隔て、同じく土崎から移り住んだ下肴町は、秋田藩に願って、寛永8年(1631)前後に、肴家督を取得。寛文12年(1672年)には、これまで一切禁止されていた鳥の販売も両町の家督に含まれるようになりました。
 また、土崎の肴商人が仙北方面へ肴をたくさん卸して商売するため、久保田城下においてしばしば肴が不足し、その値段が上昇することがありました。このため、藩は、享保5年(1720年)、土崎から仙北方面へ生肴、塩肴を直送することを禁じ、上・下肴町が毎日それをチェックして、入荷量の3分の1を仙北方面へ送ることに定め、両町は藩内の肴の流通にも深く関わっていました。


米小売の掟も定めた米町

 上米町一丁目・二丁目、下米町一丁目・二丁目の四町は、慶長18年(1613年)、土崎の穀丁から移り住み、米家督を与えられました。 米町四町は、外町での米の振売(近距離を売り歩く行商)を、米町が与えた米小売の札を持った者に限るなどの米売りの掟を定めました。
 しかし、外町近郊で、隠れて米の小売りをする者などが後を絶たず、藩は規制を緩め、元禄15年(1702年)、楢山の米沢町、十軒町(ともに現在の南中町あたり)にも米家督を与えました。当時の楢山地区は侍屋敷や足軽屋敷などがある町でしたが、この二町だけは米家督があったことから外町と同じ町人の町としての性格をもっていたようです。


「鍛冶(かじ)の町」「果物の町」も生まれる


秋田の歩き方 - 秋田市のイベント&観光情報はおまかせ ビビッとチャンネル Akitachi-上鍛冶町鐘

上鍛冶町にある金神社の入口付近にある鐘。「鍛冶組」「明治三十九年十月吉日造之」の文字が刻まれています。



  久保田城築城に奉仕した見返りとして家督が与えられたといわれる上・下鍛冶町。土崎に住む鍛冶職人十八軒が外町に移り、元和年間(1615~1623年)に鍛冶家督を得て、城下周囲3里(約12キロ)にわたり農具などの鍛冶仕事を独占的に引き受けました。
 大町の隣り、羽州街道沿いの本町四丁目は、元和年間に、絹布・木綿・古着の解分(縫い糸を解いて分けて売る)商売が家督として認められました。これらの家督は、すでに大町三町にあったため、これに配慮して、切り売りという制限付きで家督が認められたものです。
 鉄砲職人が住んでいた鉄砲町は天明4年(1784年)、果物の杏、りんご、梨、栗、串柿、青梅の六品について家督が認められました。藩は、河辺郡、仙北郡、平鹿郡、雄勝郡から川下げされる果物六品を、ほかの町が勝手に積み下ろしをすることを禁じ、鉄砲町に独占販売権を与えたのです。
 河辺郡豊島氏の家来だった者が住んでいたと伝えられる豊島町は、文政5年(1822年)、料理屋家督を取得。当時、勝負事などを行う場となっていた料理屋があったのに対し、豊島町は厳重にこれを禁じ、藩もほかの料理屋を廃業させることにしました。
 
 商売をする町の“看板”ともいえる「家督」を与えられた町。久保田城下の住人たちにモノを供給する特別な権利を手に入れた商売人の心意気が偲ばれます。


 
城下町御休み処
福祉のさきがけは町人たちの手で
 江戸時代を通じ幾度となく起きた凶作や飢饉(ききん)が原因となり、久保田の町も、その日の暮らしが困難な人々が増えていきました。
 このような状況を憂い、文政12年(1829年)、外町の町人那波三郎右衛門祐生(ゆうせい)が、中谷久左衛門、塩屋善兵衛ら同志72人を募って、生活に窮する人々などを救済するため立ち上がりました。
 これらの同志たちがお金を出し合い、知行地(武士に与えられた土地)を買い入れ、そこで取れる米などを豊作・凶作に関係なく備蓄し、その救済にあてようとする事業でした。これを聞いた秋田藩10代藩主佐竹義厚(よしひろ)は大いに喜びこれを許可しました。
 その後賛同する人が191人に増え、合計で2千両、銀十貫文となり、これをもって知行地230石(1石で取れる米の量が約150kg)ほどを買い入れ、ここに「感恩講(かんのんこう)」が発足しました。
 文政14年(1831年)には本町六丁目に感恩講の米などを保存する蔵2棟を建造。町奉行からも「藩の運営でもなく、私的なものでもなく、長きにわたって保てるように」と助言を受けました。これ以降、町奉行の監督の下で町人によって運営されていくことになり、折りにふれ救済の手をさしのべてきました。
 秋田の社会福祉は町人たちによってその大きな一歩を踏み出したのです。

秋田の歩き方 - 秋田市のイベント&観光情報はおまかせ ビビッとチャンネル Akitachi-大町6丁目石碑

大町六丁目にある感恩講発祥地を示す碑



記事提供/ 秋田市広報課 
広報あきた2004年9月10日号No.1585
http://www.city.akita.akita.jp/city/pl/pb/koho/htm/20040910/9-10.html

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2010-12-08 16:10:04

くぼた旧町名物語 (4)江戸屋敷跡「台東区・千代田区・足立区」編

テーマ:くぼた旧町名物語
(4)江戸屋敷跡「台東区・千代田区・足立区」編
久保田のまちの礎(いしずえ)
ちから溢れるまち

東京に今も残る“佐竹”の名と紋章


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秋田藩の江戸屋敷の位置図(平成16年当時との対比)


 江戸時代、諸大名は幕府から江戸に土地を与えられ、江戸屋敷を設けていました。参勤交代の制度により諸大名は一年おきにこの江戸屋敷に住み、また、妻子は幕府の人質のようなかたちで江戸へ常駐させられていました。
 秋田藩の佐竹氏も、今の台東区周辺に、上屋敷、中屋敷、下屋敷のほか、自分で確保した土地に抱(かかえ)屋敷を持っていました。
 上屋敷は藩主や家族が暮らした住居。中屋敷には隠居した藩主などが住み、上屋敷が火事になった場合などの備えの役割も兼ねていました。また下屋敷は国元から送られてくる物資の保管場所になっていました。
 佐竹氏の上屋敷は最初、内神田(千代田区)にありましたが1682年に焼失。その後、下谷七軒町(台東区)に移り、明治2年に火災で焼失するまで存在しました。
 内神田の神田駅西口商店街の一角には現在も「佐竹稲荷神社」が残り、下谷七軒町の上屋敷跡には「佐竹商店街」の店が並び、今も佐竹の名が伝えられています。
 JR鶯谷駅の近くには、初代秋田藩主・佐竹義宣が正室正洞院を供養するために建立したお寺「正洞院」があります。また足立区梅田の抱屋敷跡にも「佐竹稲荷神社」が残り、足立区花畑には佐竹家と同じ″五本骨扇に月丸″の紋章を持つ「大鷲(おおとり)神社」があります。
 佐竹義春侯爵(明治23年~昭和19年)の別邸があった千代田区九段には、佐竹家に伝わる資料を展示している「千秋文庫」もあります。
 今も東京各地に残る秋田藩佐竹氏の名と紋章。東京へお出かけの際は、ぜひ訪ねてみてください。


佐竹商店街(台東区台東三・四丁目)

秋田の歩き方 - 秋田市のイベント&観光情報はおまかせ ビビッとチャンネル Akitachi  下谷七軒町の佐竹家上屋敷は、明治2年に焼失。跡地には明治6年ごろから寄席や見せ物小屋、茶屋などが集まり始め、やがて飲食店や古着屋などの店も軒を並べ、明治30年代には商店街が成立(全国で2番目)。昭和初めまでの全盛期は大勢の客でにぎわい、下町佐竹の名は東京中に響きわたりました。

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商店街振興組合の長谷川理事長(中)、秋本副理事長(左)、酒井さん(平成16年当時の写真)

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佐竹商店街は、全長330メートルの全蓋式アーケードの商店街で、JR御徒町駅から徒歩10分。地下鉄大江戸線(または、つくばエクスプレス)新御徒町駅すぐ。



佐竹稲荷神社(千代田区内神田三丁目)
 上屋敷のあったJR神田駅西口商店街にある「佐竹稲荷神社」。西口商店街では、2年に一度秋田県湯沢市の七夕絵どうろうまつりを開き、人気を集めています。
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下谷七軒町の佐竹家上屋敷を描いた絵(仁平裕一さん蔵)

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下谷七軒町の佐竹家上屋敷を描いた絵(仁平裕一さん蔵)…現在の台東区台東三・四丁目の東半分にあたる広大な敷地(約16,000坪)に、三階建ての豪壮な主屋と7つの蔵がありました。下谷七軒町の上屋敷は1690年ごろ、秋田三代藩主佐竹義処のころに建てられました。屋敷に接する堀は、三味線のような形をしていたので、三味線堀と呼ばれ、この上屋敷も「下谷三味線堀屋敷」と呼ばれていたそうです。

正洞院(台東区下谷二丁目)
「初代秋田藩主・佐竹義宣が慶長6年(1601年)に建立したお寺で、義宣の正室の正洞院(しょうどういん)のお墓があります。長年お寺を守る神野たづ子さん(平成16年当時の写真)が温かく迎えてくれます。
JR鶯谷駅から徒歩10分。地下鉄日比谷線入谷駅から徒歩2分。
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佐竹稲荷神社(足立区梅田六丁目)
佐竹家抱屋敷の屋敷神をまつった、足立区にある「佐竹稲荷神社」。
足立区の住宅街の中にポツンと残り、地元では「いぼ稲荷」とも呼ばれ、豆腐と油揚げを供えて食断ちをするとイボが治るといわれています。
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大鷲神社(足立区花畑七丁目)
「五本骨扇に月丸」の佐竹家と同じ紋章を持つ大鷲神社。佐竹家とのつながりは平安時代にさかのぼり、本殿は源義光の後裔である佐竹氏の寄進によるもので、柱には、左甚五郎の弟子が作った彫刻があるそうです。
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禰宜(ねぎ)の濱中厚生さん(平成16年当時の写真)「秋田のみなさん、ぜひ一度おいでください」


千秋文庫(千代田区九段南二丁目)
「千秋」の名が付く秋田県ゆかりの資料館(写真ビルの1・2階)。
佐竹家に伝わる古文書、絵画、古地図などを展示しています。
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歴代藩主の花押・印章を展示

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学芸員の金森陽さん(平成16年当時の写真)

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記事提供/ 秋田市広報課 
広報あきた2004年8月13日号No.1583
http://www.city.akita.akita.jp/city/pl/pb/koho/htm/20040813/8-13.html
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