akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

座右の銘、「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分にはじまり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)の道を歩み、この一年も感性だけの写真を添えて日記を綴る。


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Vol.250-1/3に続けてご覧ください。


人生は他動的。

まさに人生他動的。人は人によって動かされている。ただ、自分ができることは、そのための準備だけだ。


中西太(なかにし・ふとし)は、1933(8)411日生。高松市出身で、高松一高から1952年に西鉄入団。内野手、右投右打。58年当時1メートル7390キロ。ニックネームは「怪童」。

打撃部門二冠王は4回を数え、62年に28歳の若さで選手兼任監督となり、63年パ・リーグ優勝。


69年に引退。現役通算は1262安打、244本塁打、打率37厘。
引退後、義父の三原脩ヤクルト監督の下で71年から3年間ヘッドコーチを務め、三原が球団社長となった日本ハムでは74年に初代監督となった。阪神ではコーチ、監督を歴任。

:仰木彬監督の参謀役として近鉄、オリックスでは打撃、ヘッドコーチとなり名コンビを組んだ。
巨人、ロッテでもコーチとして活躍した。


MVP(56)、本塁打王5(535658)、打点王3(535657)、首位打者2(5558)52新人王、ベストナイン7(535861)、オールスター出場7回、99年に野球殿堂入り。何事も苦しんだことがすべての基礎となる「何苦礎
(なにくそ)」が指導の原点。

早稲田進学の決意を固くした中西は、高校での最後の試合となる島根県出雲市での親善試合に出場することになっていた。国体で野球部の活動は引退し、練習にも出ていなかったが、招待した側の「どうしても怪童をみたい」というリクエストに応える形で、新チームに混じって出場することになった。

そのころ郷里高松では、中西の早稲田への憧れを知ってか知らずか、別の動きがあった。「中西プロ入り」に向けて、西鉄と同じパ・リーグの雄、毎日オリオンズ(:葉ロッテマリーンズ)が本人不在の中、家族を切り崩しにかかっていた。



中西「東京には1週間くらいいたんやけど、高松一高が出雲で新人チームの招待試合をやるから、中西は甲子園で活躍して、人気者だから特別に出なさいということになったんよ。そしたら、三原さんも生で僕のプレーを見たことがないから行くということになった」。「出雲まで肩並べて座って、夜行列車や。これにはまいったな。三原さんはグーグー寝ているけど、僕は寝られるわけがない。神様と同席しているようなものだからね。ほとんど徹夜状態で、岡山でチームメイトと合流したのを覚えとるよ。でも、出雲の試合で僕は確か44だったんだ。ホームラン2本で。それで三原さんも“おっ、この兄ちゃんなかなかやるな”ってことになったんだな」

「ところが、久しぶりに会った舛形監督から、とんでもないことを聞かされたんよ。“毎日の若林(忠志)監督が高松に来て、毎日新聞の高松支局長と一緒に兄さんを口説いとるぞ”って。急いで高松に戻ると、ウチの兄貴が窓口になって、毎日と契約の調印直前という状況だった。慌てたのは三原さんさ。出雲から一緒に高松入りして、とにかく調印だけは先延ばしにした」

三原はスカウトを伴い、中西の母・小浪さんを説得することに努めた。西鉄も毎日に獲得されるのがシャクだから、急に動いたわけではなかった。中西の力を早くからマーク。三原は早大進学を考えている中西に接し、チャンスがあれば進学させずに入団させたいという希望を密かにもっていた。

水面下で動いていた毎日の行動が表面化すると、中西を取り巻く人々も深くかかわっていった。郷里の英雄、三原の背後には高松一高の野球部後援会や市会議員らも後押しし、毎日に取られるくらいなら、西鉄に、という動きが加速していった。早大進学を熱望する中西少年の気持ちより、大人の世界の駆け引きに怪童の運命は巻き込まれた形となった。

小浪さんは息子の大学進学の意思を知っていた。しかし、事が思いのほか大きくなり、西鉄か毎日か決断しなければならない状況に追い込まれていった。

小浪さんが決断するに至った経緯を三原はこう代弁している。

「九州というところは遠い。子供をそういうところへやるということについては、非常に大きな不安がある。しかし、-()-人間どういうことが幸福になるか、またどういうことが不幸になるか、それは分からない。郷里の先輩の貴方を信じ、貴方を頼って行かせることが今の私どもの状態とすれば、一番いいと思うし、それ以外にはない。だから、そう決心しましょう」(週刊ベースボール195924日号、三原脩「中西太を獲得するまで」)

中西「お袋は、“フトシ、勘弁してくれ”って泣いてたなあ。周囲の状況で息子を希望する道に進ませてあげられなかったことがつらかったんだな。ワシも泣いたよ。早稲田に行けなくなったことも悲しかったけど、プロ野球でやっていく自信が全くなかったから、怖かったんだ。高校の2年先輩の山下健捕手が阪急に入ったけど、僕はプロなんて到底無理と思っていたからね」

まあ、その後の人生もそうだけど、まさに“人生他動的”やね。人生は思い通りに進まんものよ。

世の中や係する人に左右されて、自分がこうしたいという方向と逆になってしまうことが多い。

でも、その流れにってみて、そこから自分の力で道を開拓していく、この持ちがないと男はだめやね。ドラフトで自分の意中の球に指名されないと、ゴネるやつもおるけど、希望球に入ったからっていいとは限らん。プロは入ってからが勝負や。最初は嫌でも、そこで道が開けることも多い。

好きな球に入っておしまいという選手はかなりみてきた

はね、ジャイアンツからも誘いがあったって後で聞いたんよ。監督の水原()さんは高松商の出身。高校2年生のときに“中西を高松商に引きいてくれ”なんて話もあったんだ。川上さんやら、千葉さんのいた金時代のジャイアンツに入ってたら、どうなってたかな。まあ、同のよしみで水原さんも1度は試して使ってくれたかもしれないが、まだ子供やったし、多摩川でやってこいって言われてずっと2軍暮らしだったかもしれんなぁ。日やったら、どうやろ?大だって慶からもがかかった。西で野球やるなんて、夢にも思わんかったけど、それがかえって良かった。人生他動的もくないんや


中西は母の支えがあればこそ、野球が存分にできたと感謝の気持ちを今でも忘れていないという。

引き続き、Vol.250-3/3をご覧ください。

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