そもそも、JazzのLiveに本格的に通い出したのは三重県から単身赴任から戻って来た2001年頃。

前から知ってたエアジンやBar Bar Barが主だったが、ふとしたことからJass isの存在を知り、以来そこに通いつめる事になる。

マスターはニューヨークから帰ってきたばかりで、ナベサダさんとも演ってた今井さん。

古き良き時代の懐かしい、かつ、かっこいい写真を沢山見せて頂いた。
皆、輝いてた!

まだJazz isをオープンして1年の頃だった。
まだ、KAMOMEも上町も無かった。

最初の数年は週に2.3回は行ってた。

その内に色んなミュージシャンとも知り合いになり、訪れる店もどんどん増え、最盛期は関内、東京と20店以上にボトルキープが有ったが、今はもう8軒程度しか残っていない。

若い頃、NHK FMのセッション105でしか聞いたことの無かった峰さん、山本剛さん、古野さんなど。

最初の横浜赴任時代によく聴いてた大隅さんなど、毎日、どこかで有名なミュージシャンが、狭い関内のどこかで演奏している。

しかも歩いて行ける範囲内の距離に!

こんなに素晴らしい環境とは!
世界広しといえど、関内には勝てない!
NYは店はたくさんあるが点在してるため、徒歩でのハシゴは結構きつい。


しかも、そんな有名なミュージシャン方達と会話が出来るなどとは夢にも思わず。

大隅寿男さん、古野光昭さん、山本剛さんのスーパートリオでのライブもKAMOMEでプロデュースもさせてもらった。
photo:01



着物 de Jazz実行委員会の初代委員長。
一回きりでしたが(笑)

他にも鎌倉の建長寺でのMijiaのライブのプロデュースをやったり、友人の音楽院の発表会の手伝いをしたりと、
かなり積極的に音楽活動を行っていた。

つまり、あまり仕事が忙しく無かったってことなんだけど(笑)


2008年に仕事が代わり、海外出張が急に多くなり、ライブはもっぱら海外へ。

結構 訪問先のライブスケジュールをチェックしながら日程、フライトを決めてたこともあったかな(笑)

月日はどんどん経ち、関内のライブハウスもかなり客の入りも寂しくなって来た。

ジャズプロムナードなんかは、あんなに人がわんさか居るのに、いつもは何処にいるんだろうなー?

CDはいつ聴いても同じ演奏、ライブは違う。同じなんてあり得ない。CDの売上じゃ飯食うのも大変。

ライブに行って応援してあげなきゃ、ミュージシャンも店も、最近大変そうみたいだしねー。

店が無けりゃライブも聴けないしね。

ま、だけど、毎日Jazzのライブを聴ける人種はそう多くも無さそうかな。

Jazzがオシャレ感覚の一貫として捉えられている様では頭打ちかな。

あまりむつかしくて、長いインプロビゼーションも、正直疲れるしね。

何処かに、何か接点を求めなきゃ、そこが分からないからむつかしい??




キープの有る店、有った店。

[横浜地区]
JAZZ IS
BAR 3
KAMOME
DORPHY
AIRGIN
SPEAK LOW
APPLE
酔いどれ伯爵
上町63
5star

[東京地区]
Alfie
Naru
Satindoll
Body and soul
GH9
Bb
小岩 コチ
カフェクレール


ライブに使ったお金は、軽くレクサスくらいか。

ま、私の周りの友人にはそんなの一杯いるけど、 以外と女性が多い??
小学4年から中学生くらいまでの小倉での食べ物の話。

まずは家での食事。

男4人兄弟で貧乏だったから、推して知るべし。食事はある種の戦い。
あまり、遠慮なんてしてられない。

市場のパン屋にサンドイッチの切れ端の耳を袋一杯もらって(ただでくれてた)、それが主食だったり(端に少しでもマヨネーズやからし、ましてハムの切れ端など見つけようなものなら、それこそ奪い合い!)、

夜のおかずは生玉子1個(今はやりの卵かけご飯)だったり、かまぼこ1本をみんなで分けたり、肉のちょっぴり入った肉じゃが、カレー、四角いソーセージを焼いたハンバーグ(大人になるまで、これがハンバーグだと信じてた)、自分で作った野菜での野菜炒め、漬物。マルタイらーめん、インスタントラーメンこれだ、チャルメラに醤油2滴

とにかく、味ではなく、いかに空腹を満たすかが最重要課題!

それでも、遠足や運動会だけは、ちらし寿司を作ってくれてた。

中学の弁当は、本当に日の丸のみだったり、黄な粉だけだったり、食パン2枚だけだったり、とても皆の前では恥ずかしくて食べれず、校舎の裏で隠れて食べてた。

それでも、中学生後半から高校生にかけては自分で探したバイトも始め、まともな物を外で食べるようになった。

買い食いで想い出に残ってるのは、

揚子江の豚まん、UCCのナポリタンスパゲティー、小倉駅前右奥の立ち喰いうどん、学校帰りの駄菓子屋の大きな揚げせんべい、破れ饅頭、チェリオ、マーブルチョコ、ハイクラウンチョコ、チロルチョコ、イチゴの形をした、口の中が切れそうなくらい固い砂糖のついたひもつきくじの飴、

旦過の屋台のラーメン、、いかり印のソース、ロケットパン、井筒屋屋上の焼きそばアルミホイル包みなど。


そういえば、食事以外に、父がジョニ赤が好きで、いつも水屋の中にボトルが入っていた。
ある日、どんな味なのか試して見ると、喉が焼けるような快感と、飲んだ後のふらふら感。
たちまち虜になり、どんどん減って行った。
ある日、ラベルにマジックで印が付いてるのを発見!
早速麦茶を濃い目に炊いたやつを別の瓶に作り、飲んだ量を補充して行った。
ところが、この頃父はあまり飲んでなく、飲んでるのは私だけ、
結局、どんどんジョニ赤は不味くなり、ついに父にばれた。

ハイライトも時々数本頂戴してた。
中学生の頃。


40年ぶりにやっと、煙草を忘れる事が出来ました。 ふ~っ

酒はどうかな?

少量のワインとモルト、美味しい日本酒を味わうくらいは許してもらえるかー。








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今日は退院日、友人から退院と誕生日のメッセージが届き、ひとつ思い出した事が。

あれは高校受験の際、提出書類の中に戸籍謄本写しが必要だった。
自分にとつて初めてみる自分の出生の証。
で、父母の入籍日や、母の名前(私にとっては1番重要) そして出生日。

なんと、いままで自分が知らされていた誕生日と違うではないか。

ショック!

母からも父からも16日と聞いていたのに。 いままですべての書類は16日と書いて来たのに。

子供の誕生日を間違えるとはひどい!と、ずいぶんあとで母に問いただした。
結果は生まれたのは16日で、父が19日で役所に届けたらしい。

なので、役所手続き上面倒なので19日を正式としてるが、気持ちは16日。

こういう人って結構いるんじゃないかなー?

運勢判断なんか、微妙だよね。






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私が高校3年の途中まで住んでた小倉の町について。

住んでた町は中井、
小倉でも西側の戸畑より、なので当時の八幡製鉄所に近い。

近くには何本もの高い煙突から一日中休むことなく始終煙が、
空は夜になっても真っ赤に明るい、溶鉱炉の鉄が空に反射してるから。町全体はどこもが鉄色の赤茶けた色。

いかにも空気は悪そう。これに時々中国からの黄砂も来るからたまったもんじゃない。

丁度今入院している川崎病院の近くもそんな感じだったのではないかな?

こっちは日本鋼管だったけど。

昭和の重工業時代の中心のひとつ。

長崎の原爆は、本当は八幡製鉄所の小倉に落とされる予定だったのは有名な話し。

だとしたら、私は生まれていなかったかも。

今でも、その当時住んでいた団地はそのまま残っている。(Google航空写真でしっかり見えたのには感激)
近所の同級生の吉永小児科もそのまま。懐かしいというか、町全体の進歩が止まったままというか。

下関も同じ様に歴史が止まってしまった町のように感じた。


ラジオは日本語放送を探すのが大変。つまり、韓国語放送が多かった。

夏の夜になると、日本の盆踊りとはかなり異なるリズムの民族音楽があちこちから響いていた。

部落という言葉がまだ使われていた時代。(今は差別用語として使ってないはず) 近所にもあちこちにそういう所があったし。友達もいた。


僕が住んでた当時、小倉の町はまだ賑わっていたように思う。

広島の山*組の抗争事件で、その関係の方が、たくさん小倉に移住して来た(笑)という話を聞いたことが有る。

競艇、競馬、競輪 、風俗、ネオン街なんでも有りだしね。

しょっちゅう、町の中はドンぱち。

銀天街、紺屋町はビッチリ決めたスーツ姿の御一行さまがあちこちに。という感じでしたよ、本当にまじで。

母の弟、一行おじさんも紺屋町界隈にスナックやクラブを数軒やってたので、中学、高校時代にはすでにこの手のお店は常時ただでお世話になっていたf^_^; とっくに時効成立 )

小倉駅周辺には月世界を始めたくさんのキャバレーがあった。

バンドマンもたくさん町の中にいたなー。 友人も何人かバンドマンになった奴がいる。 Jazzは居なかったけどね(笑)

とにかく町全体に活気があった様に思う。

町の中はなぜかたくさんの丸源ビル、南国ビル、花菱ビル。

路面電車、銀天街、旦過市場
祇園太鼓、小文字焼き、
八坂神社、ダイエー、玉屋、
小倉城の敷地内にもジェットコースターがあった。
小倉駅の海側には大きな展示場があって中国物産展の記憶が。

小倉の町の雰囲気を堪能したのは高校生活の約3年弱だけど、シッカリと記憶に残ってる町である。

元気が出たら、昔の軌跡をたどりに訪れようと思ってる。

その時は、小倉に残ってる末っ子弟、稔君の世話になり小倉の町の美味しい物も食べにね。

だって、普通高校生分際では美味いもの食えるはずないもんね。

小倉の美味いもんて、あまり知らないのが本音!






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報告です。

肺がん再発の為、さる7月14日より再度入院していましたが、放射線治療の結果、、副作用、肺炎の併発などでかなり長引きましたが、ようやく今週末土曜日に退院の予定となりました。 これもひとえに皆様方の暖かい励ましのお陰と感謝しております。

入院後、副作用による食欲減退、体力低下などで体重が40kgを下回るほど痩せてしまい、このリハビリに自宅で数ヶ月かかりそうです。
また、社会復帰の際にはよろしくお願いいたします。

ずいぶん固い文章だな。

ということで、お見舞いに来ていただいた方々へのメールの文章借用でした(笑)

無事家庭での酸素の手配も終り、あと2日、ここで過ごすだけだが、ナースコールが無くなるのはやはり最大の不安。

ま、頑張ろう!

年内は家でおとなしく静養の予定です。


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子供は三人いる。
29才 長男、26才次男、21才長女。
それぞれの子が生まれた時、その時点で一生懸命考えてつけた名前なのだが。

長男 竜也
出生地、鹿児島

私自身の名前がきらいで、
自分の子供たちにはあだ名として呼ばれやすい名前をと考えていた。

名前の由来。
中学の時の友人に竜三郎という名前の子が居て、竜という字にすごくあこがれていた。
それで竜という字を使い、字画もしっかりと研究の上決めた。


彼はファミリーの中では1番頭が良かったが、今では1番のおばかさん。

中学3年当時、県内トップクラスの柏陽に入れるのではと思ったが、その下のクラスの港南台へ。 大学は浪人は認めないと言ったら、なんとかTDUへ現役合格。
ここ迄は良かったが、途中でバイトに明け暮れ、遊び放題、単位不足で留年が発覚。

私自身が大卒そのものに抵抗感が強かったので本人の意思を確認の上辞めさせる。

私の後悔のひとつ。

一応アパレル関係の会社で社員として採用され、何回か店長まで任されたが、自己管理能力に欠け、
自分の収入以上に金を使い借金に追われる生活を十数年続けている。

自立させる為に家を追い出したが、借金が膨らみ、その返済のためアパートを引き払わせ、今は家に戻って来ている。もうすぐ30にもなるのにいまだ子供。
いまだ、自分のバカさ加減に気付かず。

頼むよ、竜也!
お母さんをよろしく。


次男 慎之介
出生地 三重県久居市
久居国立病院(今はなし)

名前の由来。
将来時代劇の俳優に! と、こんな名前に憧れていたという理由。

実際、彼には小学校低学年から剣道をさせていた。

おっとり型か。

小・中学と大事な時期に私が三重県に単身赴任で、片親状態で思春期を過ごす。
満足に遊んであげる事も出来なかった。

私のもう一つの後悔。

彼は大学には行かずソフトウェアの会社に就職、システムエンジニアとして真面目に頑張っていたが二年目くらいで引きこもり状態に。
仕事が原因なのか、オンラインゲームにはまってしまったのか、よくわからないが仕事を辞めた。

部屋に閉じこもりっきりなので家を追い出した。

そして、自分で新宿で住み込みの仕事を見つけ真面目に働き出した。
彼は立ち直りが早かった。

その後結婚し子供も出来たが、まだ結婚式を挙げていない。

私がこうなってしまったので延び延びに、 申し訳ない。

今は私と同じ会社でエンジニアとして働いている。 一安心。


末っ子長女 瑠美奈
出生地、横浜市港南中央

名前の由来。
光輝くルミナールから。
もうひとつ、横浜駅前 ルミネからも。

小さい頃からとても可愛く目立ってた。 名前のとおり、ひかり輝いていた。
別の項(サックスのきっかけ)に書いたように、彼女はフルートの名手。

私のサックス全部売り払って、いいフルートを一本買ってあげようかな。
と、思ったりも。

高校はフルートのおかげで戸塚高校へ、当然高校でも部活頑張ってた。
本人が希望すれば音大に行かせてもいいと考えていたが、ある理由であきらめ、好きなペット関係の専門学校へ。

今はトリマーとしてセンター北のペットショップで働いている。

家の愛犬 くーちゃんは彼女の所有物。

家から通うには遠くて、仕事場の近くで一人暮らししたいと言い出したが、
「もうちょっと待って」と、お願い。

娘とくーが同時に居なくなっちゃ真っ暗!

素直に待ってくれてる優しい娘。
病院にも何回も来てくれた。(泣)

出来れば花嫁姿を見たかったが、ごめん、無理かも。


一応、一人一人、毎回姓名判断の勉強をしながら一生懸命考え抜いた名前、
大事にしてね!

昨日、ネットで皆んなの姓名判断をしてみたのだが、面白いくらいに当たっていてビックリ!
皆さんも試してみたら??
1974年 昭和49年 17才の夏休み。

高校2年の夏休みの無許可違法バイトの停学処分の罰として修学旅行は行けなくなった。

その代わり、積み立てていた金は返してくれたので、自分一人の修学旅行をする事に。

目的地は北海道!

何となく!

ユースホステル、汽車の切符、
すべて自分で手配。

当時は急行しか使えず、木製客車の通路に新聞紙をひいて寝て2日間かけて上野経由、青函連絡船にも乗って
函館に到着。

小倉とは全く違う空の色、水平線にえらく感激した。

北海道1週 泊まるところのみ確保の旅。

ここでもいろんな人、大人、大学生と接触、社会との関わりが勉強となる。

北の果て、稚内、網走刑務所の門の前で、門が開くのを一日待ったり。

幸福の駅で電車を下りて、次の電車まで何時間も、ただぼーっと待ち。
その後、当時はやってたえりも岬へ。
ここは、電車がなく、バスで。



知らない町でぶらりと下りて、ただ畑や牧場を見たり。

札幌すすきのでラーメン毎日食ったり。

気ままな旅だった。

最後、札幌でポテト売りのバイトを数日手伝いして、貯まった金で予定変更で小樽から敦賀までフェリーに変更と。

この時に買った木彫りの数点は今でも我が家に有る。


結局、ほぼ日本を一周した事になる。 貴重な経験。

自分のちっぽけさが嫌になった。



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母の事で何回か悩んだ事がある。

最初は、自分の結婚式に呼ぶかどうか。 自分としては、よそのおばさんを両親の片割れとしてどうしても座らせたくない。

かと言って、どうすることも出来ず、成り行きのまま、この件は過ぎ去った。

次の悩みは、赤間のばあちゃんからの連絡で母が大きな交通事故にあったという知らせ。 高校生の時に一度店を訪ねて行った時、「私には子供はおらんことなっちょるけ、来たら困るとよ」と、言われた事が気になって、結局は見舞いにも行かなかった事。
生涯、母は居ないと思わなければいけないのかと、


そして、母が60才で店を閉めると言った時、 この頃はすでに親子として堂々と会ってたので、そんなにためらいはなく、一緒に住む事を前提に
「横浜に来る?」と聞いたが、

「私には唐戸しかない、横浜には友達はおらん」とあっさり。


そして、母の亡骸、
母の病床での希望は「唐戸の海へ散骨、それでよか」だった。

希望どおり、一部は唐戸の海へ散骨したが、まだ兄の家と私の家にお骨は残ってる。 入れる墓が無いのである。

これは私の最後のワガママ、残ったお骨は自分の墓に入れてもらうよう、かみさんにお願いしてある。


(追記)

そういえば、会社への正式な訃報通知は実の母で出した。

公休も香典もすべて。

母の実名で、 なので中尾ではない。  変な話?


同じ会社には弟 浩君がいるが、当然あちらは母が違うので訃報通知は出していない。

他人から見れば奇妙な話だったかも(笑)  私のせめてもの父に対する抵抗!





そして今は、母に対する悩みは、何もない。
いくつかの楽しい思い出だけが残っている。

ある面、とても幸せかも。

私も、母も…



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今回の放射線治療のまとめを、今後治療を受ける方々の参考のために。

ちょっと真面目で退屈な話。


尚、私のは肺がんによる左右縦隔リンパ節への転移に対するもので、照射範囲はあくまで食道を中心とした20cm四方の範囲。

照射回数は全33回、約70GLAY程度か。 月曜日から金曜日まで毎日1回。
なので、約7週間かかる。

通常なら通院でも治療は可能だが、私の場合、極端な体力低下で入院治療となった。
7月14日入院なので、ほぼ3ヶ月。


但しこれは放射線治療前の体力回復の為の点滴1週間、放射線治療後の肺炎治療1カ月を含む。

入院時の体重は48kg.

1回の治療は治療室までの往復時間込みで1時間未満、実際の照射は数分程度。
痛みなどは何も無い。
ベットが固くて背骨が痛いくらい。

照射照準をマーキングするので治療期間中は入浴不可。シャワーは治療部分をこすらなければ可能。

副作用は10回目くらいから、徐々に
首回りに日焼け状態にただれてくる。

同時に喉の中も同じように焼けただれているような感じで、すべての喉越しが悪くなり、極端に食欲は落ちる。

対処薬は緑色のネバネバしたアルロイドGと、ポンタールシロップ。

20回目くらいからほぼ食欲はゼロ、水分もロクに取れなくなり、点滴に変更。息切れも出て酸素吸入に。


9月9日に放射線治療は終了するも、体調はどんどん悪化、体重は40kgを切った。

この頃から発熱、脇腹、背中の激痛が増加、モルヒネを毎日増量するも効果出ず。
鎮痛剤システムを一段階引き上げる。

歩行も困難になり、寝たきり。

9月20日に39度の熱が出て、ようやく本格的に対処してくれるようになり、27日には放射線性肺炎の診断。
これも、放射線治療の副作用の一貫。


今現在、ようやく熱も下がり食欲も回復。 助かった~って感じ。



今回学んだこと。

痛みは決して我慢せず、大げさなくらいに伝える事。

熱が有ると感じたらすぐに体温を計ってもらい、記録を残す事。

食べれない時は専門の栄養管理者に相談して、少しでも食べれるメニューを考えてもらう事。

効果のない薬に疑問を持ったら率直に医師なり、看護師さんに相談すること。

ナースコールはためらうな!


でないと、医師は動かない…


以上です。(笑)



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今日は再び母の思い出。

1974年 昭和49年 17才頃

母の店の名はCHIKO。唐戸の赤間プラザの二階に有った。

最初にこの店に行ったのは私が高校生の頃、赤間のばあちゃんに内緒で場所を教えてもらった。

会うのは10数年ぶり。分かるだろうか?
高校生とは言え老け顔だったし、普通の大人の格好(本人はそのつもり)で行ったのだが、。

店は鍵が閉まってた。
看板は電気ついてるのに。

と、ガシャ、と鍵が空いた。
「うちは一見さんお断りなんですが、どなたかのご紹介?」
母である。

ということは、ばれてない!ということか。

「あ、いいえ、じゃいいです」と言って帰ろうとしたら、中のお客さん(長谷川先生)が、

「ま、ママ、良さそうな青年じゃけええやんか」と、言ってくれ、

「じや、どうぞ」と、カウンターの隅に座らされる。

「酒はだめよ!」 と小声でいきなり。
なんだ、ばれてたのか…

再会はあっけなかった。。。

母とはお互い近況を聞くでもなく、
二言、三言話しをしただけ。

あとは長谷川先生と適当な世間話。
高校生なのに仕事の話しなど(笑)

涙も見せず、帰り際に手を握りしめ、その中に小さく畳んだ1万円札が。

後で聞いた話しでは、この時の長谷川先生(医者)だけは、母に息子が居ることは知ってたらしい。
母の16才から亡くなるまで50年贔屓にして頂いたお客様である。


銅板張りカウンターにマホガニー枠、椅子は肘掛け付き黒革張り

10席ほどの完全会員制スナック。
内装には相当金をつぎ込んでるように感じた。

唐戸のまりが出す店やけ、ちんけな事は出来んけね」と。
見栄っ張りの血はしっかりと受け継いだかも(笑)

壁には下関市出身で、母の友人でもある赤江瀑さんが書いてくれた書。
「花ざかりの海」

これの所有権問題でひともめあったが、忘れた。


通称 まりちゃん
若い頃の源氏名がそうだったのかも。
唐戸の町では「まりちゃん」で通っていた。

晩年は母に唐戸界隈の喫茶店や飲み屋、唐戸市場と、あちこち連れて行かれたが、どの店でも人気者だった。

ずっと長い間、隠し続けた息子を見せびらかすように、毎日二人で腕を組んで唐戸市場や下関モールも出かけてたな。

客層は医者、政界人、財界人と大物ばかり。
母のアルバムを整理してて、メディアで知ってる人の若い頃の写真が複数有ったのには、ちょっと驚き。

途中男は居たらしいが、その
男に数千万騙し取られる。


母の一般教養は素晴らしかった、筆字も達筆、トークは抜群。
新聞はいくつもくまなく読んでた。

一般時事では「そんなことも知らんとね」と、よく馬鹿にされてた。

近頃のスナックの若いお姉さんとは比較のしようがない。
あれぞお水のプロだね。

着物の着こなしも抜群、ちょっと背丈と鼻が低いのが欠点でもあり、愛嬌でもあったが。

母が亡くなった時、沢山の高価な着物が有ったが、ほとんどは背丈の同じ母の友人が持って行ってしまった。

まー、普通の人は着れない物ばかりだけど、帯とか大島は欲しかったな。




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