ガーナに入って、なんだかんだもう2週間以上が経ちます。
ここは、ブルキナみたいに日夜どこでも生の音楽が鳴り響いてるわけじゃないので、
夜は早めに宿に戻り、ゆっくり本読んだり、気が向けばこうして文章書いたり・・
最初はそんなガーナが退屈に感じたけど、
浮き足立ってた(?)マリ・ブルキナと比べると、地に足がついた感じで、落ち着いてきました。
ネットも少しは早くなったので、けっこう更新しています。
とういことを、一番上のメッセージボードに書きたいんですが、どういうわけかいつもエラーで更新できません。
アメブロさん、何とかしてください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Dissinからワゴンに乗り、強烈な日差しと戦った6時間後、
ブルキナファソの首都OUAGADOUGOU(ワガドゥグ、通称ワガ)に到着した。
ブルキナファソ各地では、今年3月下旬以降、
政府の手当てに不満を持つ軍関係者が、破壊活動を繰り広げていた。
特に首都ワガでは、4月に、軍人がツーリストの集まる高いホテルを襲撃し、商店を略奪・放火し、
対する警察は、数時間の威嚇発砲を続け、
犠牲となってる商人らは抗議のデモ活動を始め・・、とかなり情勢が乱れていた。
(ボボや田舎にいる限りでは、そんな不穏な空気は微塵たりとも感じられなかったけれど。)
夜間外出禁止令まで発出し、そもそもワガがいいという話を聞いたことがないし、
長居は無用、全く期待せずに向かったのだけど、期せずしていい出会いがいくつかあった。
ワガ郊外でワゴンを降りると、
ボボデュラッソで出会った、ワガのAIDS対策委員会で働くSomolaさんに電話をかけてみた。
「ワガに来たら電話してね」と番号をくれていたのだ。
すると、すぐにバイクで迎えに来てくれ、
泊まろうと思っていたミッションカソリック教会内の宿泊施設まで連れて行ってくれた。
※Mission Catholique又はCathedralで聞けば、誰でも知ってます。
本当は私のようなバックパッカー用ではなく、シスターや巡礼者、奉仕者用施設だが、快く泊めてくれる。
シングルで4,000CFA、シャワー別だが室内に洗面所あり。綺麗!ワガでは最安値の部類。
宿を確保すると、Somolaさんに、FESPACO事務局や映画館を案内してもらう。
FESPACOとは、40年以上前に始まったアフリカ一大きい映画祭で、
毎年2月頃開催され、ハリウッドスターなども招かれる。
ちなみに映画館では、ハリウッド映画とインド映画が興行中。
フレンチ吹き替えのみなので鑑賞はなし。
それにしても、なんせ、貧しい集落滞在明けの私。
都会の人々を見て驚くばかり。
服装が全然違うのは当たり前としても、体系!!
力仕事系の人は変わらず締まった身体をしているが、
バイクに乗る若い人々はぽっちゃり、
座って雑談してる綺麗な布をまとったおばちゃん達はとズドーンとお腹が出ている。
あそこみたいに、毎日何キロも水運んだり、建設・農作業しなくていいんだもんね。
アフリカ人の身体の美しさは、もともと筋肉質なのもあろうが、日々鍛錬されたものだった、と実感。
そんなことを考えてたら、Somolaさんの自宅に到着。
紹介された奥様が、まさにドドーン!体系だった。
教養ある雰囲気の彼女はナースで、何と英語が上手!
更なるステップアップを目指し、国家試験に向けて勉強中とのこと。
こんなに英語を話せる女性にあったのは、西アフリカ入って初めて。会話ができるって素晴らしい!
さらにこのお宅は、アフリカで訪れた民家の中で、ダントツの上流ぶりだった。
リビングには、TV、冷蔵庫、PC、CDコンポに大スピーカー、各ジャンルのCDがぎっしりと並び、
すぐにコーヒーをマグカップに入れて出してくれた!
(屋台でも家庭でも、飲み物は水浴びと同様のプラスチックカップに注がれるのが主流。)
そんな上流家庭でも、家賃は、電気代込みで9,000円/月。(水道が通っていたらもっと高いはず)
ボボでは一月2,000円出せば簡素な部屋が借りられると聞いたので、
彼らの平均収入からするとかなり高い方なのだ。
その奥さまが、大量のサラダを大皿にたーっぷり作ってくれたので感動してしまった。
Somolaさんは、会ってすぐ私が、
「今日は屋台でサラダを食べるのを楽しみにしてる」と言ってたのを聞き逃していなかったのだ!
さりげなく奥さんに電話し、私のためにサラダを作るよう伝えていたようだ。
サバ缶まで開けて、ボリューム満点・特製ドレッシングをかけてくれた。
美味しすぎる!
サラダをお腹一杯に食べられるという贅沢。
集落では、野菜をほとんど摂取できていなかったので、本当に嬉しい。
食後は、マンゴーをナイフで切って、フォークを刺して出してくれた。
こんな風にアフリカで食べるの初めて。
現地の人の食べ方を観察し、皮をしゃぶりつつ剥き、あむっと頬張り、
種もしゃぶって終了、という流儀をかなりマスターしつつあった。
でもやっぱり、むしゃぶりつくのが一番美味しい。
翌々日も、Somolaさんは、夕食に招いてくださった。
私が、村で食べたトウの作り方を知りたい、と言ったので、奥さんが作って見せてくれることに。
トウモロコシとカサバをひいた粉を水でとき、火でぐつぐつ煮込むと、カサバからモチッと粘り気が出てくる。
配合の違いなのか、黄と白と2色のトウを作ってくれた。
これにソース(トマト、玉ねぎ、魚、パセリ、チリ、油たっぷり)をかけて頂く。
これまたとーっても美味しく、たくさん作ってくれたので、ついお腹一杯まで頂いてしまった。
村での空腹感を切々と思い出しながら、ビックリしている胃腸をさする。。
でも、やっぱり。
杵とうすでついて、焚き火で煮た村の味と、既製品の粉とガスによる都会の味は、まったく別物だった。
村の味が恋しい。。
ともあれ、いつも笑っていて本当に親切なSomolaさんご夫妻、楽しいひと時をありがとう!!
もうひとつの出会いは、宿で私の向かいの部屋に泊まっていたサラ。
一見して日本人かと思ったけれど、韓国生まれにして、
生後数ヶ月でデンマークに養子縁組したという歳の近い女性だった。
何と彼女、冒頭に書いた暴動が起きた頃、まさに軍人が襲撃したホテルに泊まっていたのだそう。
銃声と共に突然、部屋に軍人が乗り込んできて、現金、PCなど貴重品を奪われてしまったそうだ。
しかし、別のホテルでは暴行された西洋人女性もいたそうで、「私はまだラッキーだった」と。。
その後しばらくは、17時以降の外出禁止令が出されていて不便極まりなかったよう。
私も本当ならあの時期、ワガに到着予定だったんだよなぁ(怖)。。
そんな騒動があり、この教会内に移ってきたそうだが、
そもそも彼女は、教会が運営する孤児院でボランティアをしていたので、都合が良かったよう。
私も一度、その孤児院にお邪魔し、お手伝いさせてもらった。
この孤児院では、生後すぐ~1歳までの赤ん坊、5歳までの幼児、そして12歳くらいまでの子供、
と3セクションに分かれており、
サラは、数名のシスター、フレンチの医者と共に、約20名の赤ちゃんの面倒を見ていた。
中には、2日前に生まれたばかりの子まで預けられていた。
未熟児として生まれ、1,000gしかなく、その手足はかろうじて形成されているがとても小さく、皮膚もカサカサ。
子供たちがここに来る理由は様々で、
母親が亡くなって父親が預けたり(成長してからひきとる場合もある)、
道に捨てられているのを警察が確保して届けたり、
育てる経済的余裕が無い母親が自ら預けたり・・・。
訪れたヨーロピアンが養子としてひきとっていくことも稀にあるそうだ。
仕事は、哺乳瓶に入った食事をさせたり、オムツ替えたり、
入浴させたり、泣いている子をあやしたり、寝かしつけたり。
かわいいなぁ。アフリカの赤ちゃんも。純真そのものだ。
両親がいなくて、人の温もりが一番必要なんだなぁと思うと、抱きしめる腕に力がこもる。
一人一人の名を教えてくれるサラは、本当に子供が大好きで、
特にお気に入りの子をわが子のように溺愛していた。
仕事の後、ワガ滞在先輩の彼女が、街を案内してくれた。
モスクの前の巨大スーパーマーケットは、さすが首都、品揃えが半端なかった!
冷房ガンガン効いてる中、輸入物の食材、食器、電化製品、化粧品と何でもあって、欧州のそれと劣らない。
ここだけ別世界で、世界3位の最貧国とは思えない。
金持ち地元民、ここで働く外国人が何万CFAという金額をバンバン落としていく。
一方、グラン・マルシェ(市場)へ行くと、敷地内の迷路のような無数の細い道に、
衣類、日用品、食品が雑然と積まれている。
すぐに物売りが寄ってきて離れず、しつこい!
サラと歩くと、アジア顔×2、になるので、「ニーハオ」「チンチョン」が異常にうるさい!二度と行くまい。
それにしても、外見はアジア人の彼女も、中身は完全西洋人なので、
旅先各地で、彼女が現地人にとられる言動、彼女の返答に混乱する現地人、
彼女から見たアジア人、西洋人の話なんかが面白かった。
この後はタンザニアの病院で働くのだそう。
ボボとは食べ物が少し違うここ。道で、初めて見るスウィーツ屋台を発見。
きびから作ったシリアルに、ヨーグルト、ミルク、砂糖、氷を混ぜて頂く、腸に良さそうな優しい味だった。
一杯200CFA(40円)。
こんな風に、街には物や食べ物が溢れかえる一方、
高級ホテルの並ぶ大通りでは、物乞いの子が大勢いた。
これまでは、物乞いといっても、握手すれば嬉しそうにはにかんで、去っていく子ばかりだったのに、
ここではそうはいかなかった。10分以上いつまでーーも付きまとい、常に肩や頬を触ってくる。。
ホームレスもけっこう見る。都会には、村の貧しさとはまた違った性質の貧困があった。
ところで、当時もワガでは、22時以降の外出禁止令が出されていた。
昼間は安全そのものでも、夜更けには軍人が徘徊し始め、
また銃撃戦、襲撃を始めてもおかしくない状況だという。
暗くなったのでサラの勧めでタクシーに乗り、食堂の前で夕食を食べていたその時、
突然、店の男の子がダッシュで大通りから戻って来て、店内へ駆け込んだ。
同時にスタッフが現金箱、机、イスをものすごい速さでしまい始め、中へと引っ込んでしまった。
「私達も続いて!」というサラの声と共に、奥のスタッフの家の中へ逃げ込み、かくまってもらうことに。
何でも、ミリタリーが通りをウロウロしており、銃を撃ったとか撃ってないとか。
まさか、ここまで襲撃してきたらどうしよう!心臓はバクバクであった。
10分後には収まったようだが、「教会まで走って戻るんだよ」と言われ、
すぐ目の前だったけど一目散に走って帰ってきた。
・・・あれ?てか、地元の人たち、こっち見て笑いながら、通りでビール飲んでんじゃん!
このテンションの差がよく分からないが、とにかくツーリストのこっちはやたらと緊張する夜のワガだった。
着いた当初は、まだこの禁止令が継続してるなんて夢にも思わず、
21時過ぎに水買いに出たら、ガーナ人青年が心配して着いてきてくれた。
うっかり22時以降出歩くと、警察に捕まり、罰金をとられるようなことになっていた。
迷惑かつ物騒な日々だったが、私が去る日には、外出禁止令も24時に繰り下がった(5月頭)。
もうすっかり落ち着いただろうか。
教会内の宿では、もうひとつ面白い出会いがあった。
明らかにブルキナ人と見える男性に声をかけられ、
「日本からですか?私もなんです」とのこと。どゆこと?
何と彼、東京、広尾のブルキナファソ大使館で勤務する、臨時代理大使なる肩書きを持つお方だった!
ソウル、フィリピンの大使も東京で兼任しているよう。
韓国には大使館がないのか。どうりでコリアンツーリストを見ない。
3年東京に住んでいたが、この度の震災で大使館は閉鎖、
事態が落ち着くまでブルキナにて待機、だそう。
彼の部屋には、胃薬はじめ日本製品やら、外務大臣の名刺なんかが詰まった分厚いアルバムがあった。
日本に住むブルキナベーコミュニティは、たった20人しかいないんだとか(少な)!
彼がブルキナに戻るや、今回の軍人暴動でJICA隊員は日本へ帰国、
まさか日本人にここで会えると思っていなかったようで、お互い大興奮だった。
そんなこんなで、予期せず面白い滞在となったワガドゥグ、
ここを出ると、いよいよブルキナ滞在も終わりに向かっていく、と思うと悲しかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最後まで読んでいただき、有難うございました。
にほんブログ村