武田双雲オフィシャルブログ「書の力」

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2012-04-17 23:00:14

心のセンター

テーマ:ブログ

世の中には、右や左と自分の価値観を言い表す文化がある。


しかしながら、私は中であると言う人はまず居ない。


そもそも、中を知らずして右か左かなどと議論する事すら違うのだが。



中国古典には中庸と呼ばれる書物がある。


簡単にいえば心の中(センター)を学ぶための古典である。




人は、喜怒哀楽が発すると物事の判断を誤ってしまう。


それぞれ生きて来た環境が異なるのだから、何に喜び、何に怒り、何に哀しみ、何に楽しむのかは千差万別。


しかし、何かの感情に囚われていると、判断する人によって物事の答えは偏ってしまう。


本当に大切な答えから離れてしまうのだ。



一時の感情で行動し、後に後悔する。


人によっては一生悔やむことかもしれない。


だからこそ、喜怒哀楽をコントロールしながら物事を判断することが大切なのだ。




人とは自分をコントロールしなければならない生き物だ。


生まれながらにして立派な欲望のアクセルを持っている。


だからこそ、アクセルに比例したブレーキが必要なのだ。



自分の周りに、強欲で自分本意な人が居たら友達になりたいと思うだろうか?


そんな人よりも、穏やかで、素直で、恭しく、慎ましやかさがあり、控目で節度を持っている人を友達としたいだろう。



社会は他人の集合体である。


その社会で愉快に生きていく方法とは何だろうか?


その答えは、すでに存在する。

2011-12-21 23:04:28

テーマ:ブログ

今の世には、芸人が大勢居る。


言志四録に曰く


「博物にして多識、一過にして誦を成す。芸なり。詞藻縦横に、千言立ちどころに下る。尤も芸なり。」


佐藤一斉に言わせれば、現代教育は芸人を大量育成している養成学校である。


その昔、人には敏鈍の違いこそあれ、己の器を成していた。


それは、内在した己の本質を引き出していたのだ。


しかしながら、学が落ちて芸になったために、能と不能が生まれたのだと説く。


己とは比較対照に値する物では無いのだが、芸になると優劣が付いて回る。



本質的な教育とは実事実学、思考能力を磨くことにある。


思考する事を忘れ、自動的に関連付させた文法を吐き出すマシン。


芸の極みだ。

2011-12-14 21:28:13

富む

テーマ:ブログ

人には性的欲求であるリビドーが備わっている。


自分を満たすために様々な物を欲するのもこのためである。


テレビのCMや電車の中吊り広告、著名な方々が熱心に説明する商品、雑誌・・・「犬も歩けば棒に当たる」ならぬ、道を歩かぬともリビドーを刺激される。


さながら、現代社会においてリビドーを支配するのが勝者であるかのようだ。


それも行き過ぎると、イギリスのようにマスコミによる過剰な報道がまかり通るのだろうか。。。


彼らのことを、私は、 はるか昔、人が心を知る前の本能剥き出しの獣のように感じられる。




「足るを知る」


足りない、もっと欲しい、これもなくちゃダメ、あれも欲しい。。。。


人は、生まれ持った欲望のアクセルを十二分に発揮出来る能力を備えている。


おもちゃコーナーで、地面に大の字になって己の欲求に従う姿を見れば理解出来よう。



しかしながら、アクセルで暴走した自己を止めるブレーキの存在を忘れてはいないだろうか?


「正しいとは、この線で止まれと書いてある」と師が言われた。


それを規範と言ったのだが、今は失われている。



君子は徳を思い、小人は土を思う。君子は刑を思い、小人は恵を思う。


何時の世も、小人は己の利益を考えるに終始する。



得ることではなく、今既に得ていることに感謝し、身の程を知る。



「足るを知るは富む」


本当の富を考える時が必要ではないだろうか?

2011-12-07 22:36:53

中国古典「大学」

テーマ:ブログ

の道は、らかにするに在り。


民に親しむに在り。(多くの人と親友になる)


至善にどまるに在り。(最も良い状態に留まる。親しい人やに囲まれている)


どまるを知りて后まる有り。


まりて后能くかなり。


かにして后能くし。


くして后能くる。


りて后能く


物に本末有り、事に終始有り。


先後する所を知れば、則ちに近し。




とは、人の内在している心を確認していく作業であり、それらを植え付けていくのが両親である。


1才から3才までに、母親からは主観的であり情緒的な慈愛を学び、父親からは客観的、論理的な義愛を学ぶ。


3才から6才になると、慈愛が惻隠の心・羞悪の心となり、義愛が辞譲の心・是非の心へ伸ばす。


これらを四端と言い、これらを伸ばすための教育である四端教育が行われた


これらが成長することで、仁義礼智信となった。


6才~は四書五経の中でも大学から読み始められている。


二宮金次郎の持つ本も大学であると言われている。




とは、心の底から思う事であり、判然としないことは明とは言えない。



とは、自己の最善を他者に尽くしきることであり、感謝の人間関係を作り上げること、すなわち無償の人間関係を作り上げていくことになる。これが本来の人生の豊かさである。


蛇足:松下幸之助曰く「運を良くするには徳をつみなされ」



ここのは、一点の曇りもなく、自然と考えないで行動できる様を表している。



とは、人生の目標である。


とは、右往左往しない。人生が開ける様を表す。



しとは、安定している状態。



るとは、思考力がより一層深まり、他者へはより一層の明徳が明かになる。


とは、望むものが全て手に入り、人が得られる充実感や満足感に満たされている状態を表す。


とは、道義・道理であり、何があろうと変化しない。しかし、人が作り出す法律は変化する。




何かを得ようとするのであれば、物事には本末・終始があり、順番が大切なのである。


現代社会では、得ることだけに注視している様が良くわかるであろう。


本来の教育とは、己の内に秘めたる力を引き出せるようになること、気づくこと、考えることである。


それが学ぶと呼ばれる所以であるように感じる。

2011-09-18 21:22:39

素朴な触れ合い

テーマ:ブログ

私は先日まで青森に出張していました。


合計で約二週間ほど。


私が住んでいる所から、車で8時間。


距離にすると660km程度離れています。



現場に着くと地元に似た景色が広がり、不思議と違和感を感じません。


田畑やりんご畑が広がり、市街地に行けば賑わっている、そんな弘前市。



建物も大正時代に立てられた銀行跡地のようで、最後に残る当時の受付台をカウンターとして利用している、そんなマスターのセンスが光る素敵なバー。


初日に飲みに行ったバーのマスターが、弘前市の桜の事やねぷた祭りの事。


弘前市を気に入って移住したことなど、色々と教えてくれました。



仕事で市街地に行けば、りんご畑で仕事をする農家の方々に時折すれ違います。


そんな時に挨拶すると、笑顔で答えてくれます。


その時の人懐っこい素敵な笑顔に、私も思わず笑みがこぼれました。


農家の方々はお年寄りが多かったのですが、お年寄りの方々のが素敵な笑顔で答えてくれていたのが印象的でもありました。



そんな中でも何人かの方とお話する機会もありました。


以前、津軽弁は聞き取りにくいと聞いていましたが、その通りでした。


しかし、表現の仕方に文化を感じましたし、個人的には温かみを凄く感じました。


方言て良いなと思います。



現実的には色々と大変な面も感じましたが、ラジオの内容が地元密着型でしたし、市内放送でもこんな放送するんだと感じたり、地元をとても大切にしてるんだなと感動しました。



弘前市に住んでも良いかも!と、個人的に思ったりもしました。


今度はプライベートで訪れてみたい、そんな感想を抱いた場所です。

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