鳥籠

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つい先程、昨日お茶の水でまとめ買いしてきた芸術手帳を読んでいたときのこと。

1969年のマルセル・デュシャン特集の芸術手帳である。(こんな面白いものが3冊で1000円の棚にゴロついている。)

ページを開くと、今は存在するのかしないのか数々の画材屋の広告が並ぶ。

もちろん画材屋だけに筆や具財の広告になるのだけれど、いい加減な広告ばかりで楽しい。

サイケデリックな広告を打ち出す、「宇宙堂画材店」というのもある。(宇宙堂はgoogleで検索したところ、いまでもそこらに点在している)


内容的には「デュシャンを乗り越えるもの」なんて記事がのっている。

69年にも今と同じことが題材となっているんでわけである。

パラパラとめくったところ、芸術に進展は特に見当たらない。

何十年も皆悩んでいるだけである。


人は意識状態にありながら、自分が生きている世界(日常)を理解できないという逆説的立場にいます。

何年しても悩みが同じなのは、上記からくるものではないでしょうか。


「繰り返し」という言葉があり、それは極端に言うと万物すべてに共通オプションのようなものになっていて、音楽は繰り返すだとか、文学だとかなんだとか。


それは単なる類似性にも思われることもある。


類似に関してはマイナスな面すら持っている。

類似物を訴え騒ぎを起こすこと自体、すでになんどもやられてきた類似なのに。





「あせる必要はない」という言葉を耳にしておおいに焦った。

時間(次元)にたいして焦りを持つことから、逃れなければ「繰り返し」の言葉でかたずいてしまう。

1本の線で時間(次元)を見たときに、線上ではなく、点上(視点方向でいう)にいたいと思った。

こんな自分でもその点上を経験した瞬間(瞬間自体、線上の出来事だが・・)は何度かある。(トリップのそれとはおそらく違う)


それは点から線へ復帰?した時しか感じられないものだ。(ただの一種の興奮状態でなのか。)


その時そこに音楽があることが多い。

自分にとって音楽の在り方はそうゆうものだ。(だから自分は音に一方的な意味が生じてしまう「歌」をあまり聞かないわけです)





そんな事を考えていると岩手の友人から電話がくる。

早い時間から少し酔っているようだ。


電話にでた途端、後ろで彼の子供の声がした。どうやら「ママ」もいるようだ。


「冬は帰って来るのか?」

まるで親父みたいだ、と思いながら「多分ね」などと答える。


夏に帰っていないので、帰って話しをしたい友人も多い。(8割が思い出話となってしまうことはわかっているのだけれど)

古い友人といっても共通の話題があるわけではない。声をきけば変化が分かる仲だ。なにを確かめ合うこともなく、安堵感ををともに、話は尽きる。


「ダーレー?」

この声は5歳になる彼の娘だ。


誰といわれてもなんて答えようか。この子が生後間もない頃、彼女の「ママ」によって私の膝に乗せられたことがあるのだけれど、膝に乗った途端泣き叫んだ始末。


生後まもなく向こうから嫌った女から「ダーレー?」などと言われる気持ち。

なんとも腹立たしい。


こちらも返答に困るが、「お父さんだよ」などと言ってみたところ、「フーン」で済まされる。


その後電話の向こうで「お父さんだってー」などと聞こえ実際にお父さん(ここでいう私の友人)に電話が変わられる。


そうじゃなくて・・・。


精一杯のお父さんギャグも、言葉遊びによって巧みにかわされ、5歳の女によって女性不信みたいなものが芽生えたような電話でした。
















地元の友人から電話があり、少し話していた。(もちろん少し岩手訛りを含んでいたに違いない)


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