体調zappa

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大々的な部屋の模様替えを済ました後いつも後悔することが、before afterの写真の撮り忘れである。
大型のソファ購入予定と、ターンテーブルとpc机が離れていたことから思い立った今回の模様替えは私に疲れと病を残しました。
久しぶりに身体が弱っているのです。頭やら鼻やら喉やら普段と様子が違う。
東京にきて6年くらい経つのですが、病院など一度も係ったことがないのです。
普段よりダラダラして、いいモン食って、だらしない音楽聴いて、読む本を漫画にして、チョコでも食えば治る。
それとタバコと酒はひかえる。
病院嫌いのばーちゃんと滅多に薬を進めない看護士の母に育てられたからだろうか。
病院や薬という発想がまりでてこない。
父幸雄は病院と薬と検査が大好きなのだが・・・。

身体の変化を脳が捉えて痛いだダルイだ感知するのだろうけど、体調が悪いという感覚は幼少期にうえつけられたものではないです。
心理的に滅入るのは先人からの植え付けだと思うのですが。滅入るというのは心配されている分、比例して不安度もあがってしまうアレです。
それも病気に限ることではないですね。
心配するだけ損なのです。


3時間後


実際に3時間経った。
だるすぎて座っていることができず、書くのも面倒になっていたのだ。
zappaのjazz from hellを聴きながらの睡眠は複雑なものだ。
身体のだるさをzappaの音楽によるものと責任転換することで脳や身体を錯覚させる方法は失敗に終わる。

それにしてもこんなにじっくりjazz from hellを聴いたのはひさしぶりだ。


だめだ、寝よう・・・。

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座禅会

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6月までは会社が忙しく平均3時間睡眠が続くという噂が社内をかけずりまわる。
3時間の睡眠は身体は対応できても精神が落ち着ける時間ではないといいます。
潜在意識とのコンタクトに遠ざかるわけです。
瞑想しようとするとそのまま寝てしまう毎日。
バランスめちゃくちゃ。
こないだの休みの早朝、近くの寺の座禅会に行ってきました。
以前鎌倉でやったときがあるのですが、その時とは違い坊さんがバシバシ叩いてきます。
本人は安定して集中し意識拡大を行っているつもりでしたが、あとあと坊さんに、なぜあんなに叩くか聞いたところ、視界が定まっていませんでしたと一括される。
くそ坊主め!と思いながらも納得。
入り込もうとするばかり方向性を考えてしまい気持ちが散乱していたのです。
鎌倉の坊主よりも見透かしているのか、自分の気持ちが最近フラフラしているのが問題なのか。
日々精進。

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スコット=ド・ワシュレー

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仕事が変わり、名刺入れがゴチャついてきたので整理していると、音響の仕事でもらった名刺が出てきました。

とある病院の精神科医の先生の名刺です。

裏に私のメモで「音楽療法」と書いてあります。

記憶にあまり残っていなかったのですが、音楽療法学会で知り合ったとある精神科医であることに間違いないようです。


音響の仕事は医療学会、株主総会などもやっていました。一般人はまず聞くことのできない内容のものです。私達は何すればいいかというと、言ってしまえば拡声と記憶のみです。

音響さんは派手なライブやコンサート以外のもこうゆう拡声の原点回帰的業務も日々行います。

仕事の内容的には、セットさえしてしまえば、後は機材様に仕事を委ねるのみです。

「今日も壊れずお願いします。」


そんな暇な業務なゆえ、本番中は手があいてしまいます。

大概の人は寝ますが自分の場合、睡眠自体に日々悪を感じているので寝ることはありません。

学会を聞いたり、メモしたりします。

もちろん内容はさっぱりですが、用語さえ省けば医者がどうゆう研究をしていてどうゆう結果になるかというのはわかってきます。

脳死学会、外科学会、痴呆なんとか学会、大腸うんたら学会など等、学会自体もかなり細分化されているため専門性が高いのですが、内容を聞いていると、専門外の部位への影響などは、一般企業と同じなわけです。

要は「部署が違います」である。

専門性を高めるためにはしかたないのですが・・・。



とある精神科医です。

音楽療法学会 というのがあり、進んで仕事を請けたことがあったのですがその時の話です。

学会は一日に何人もの先生が発表し質疑しあいます。

その中には若い(30~40くらい)の先生もいて大概緊張しています。その分野の専門家のなかで演説するのですから、緊張するに違いありません。

音楽家が音楽家の中でライブするようなものでしょうか。


私はそのなかの音響ブースにいるわけですが、私はシステムを複雑(というよりはいろんな機材と使う)にする「癖」があり、ブースからはみ出すことが多々ありました。

はみ出すととても目立つわけです。

プロジェクターの明かりしかない会場で音響ブースは手元の明かりが漏れて目にはいるわけです。

そんなことをしていると発表まじかの先生方がいろいろ声をかけてくるわけです。「何時ですか?」「トイレはどこですか?」「なにしてるの?」などなど。


私が名刺をもらった先生もその中の一人でした。

クラシック音楽(モーツァルト)とpopミュージックの療法効果と差異の研究結果と進行状況について述べ終えたその先生は壇上から降りるとなぜか音響ブースにきてすぐ横に座ります。


「いやー終わったー」等と軽い感じで話しかけてくるので無視するわけにもいかず相づちをうちます。

このまま一日ここに座って他の先生の発表を聞くらしいのです。

確かに音響ブースは見えやすい位置に設置されることがおおく、その日も会場後方の落ち着いて見える位置に設置していました。

一人ごとなのか話かけているのかわからないのですが、たびたびこちらのほうを軽く向いてなにやら言っています。

正直厄介だなとおもっていました。

そんななか、ある先生の発表の映像で高い周波数が流れるビデオがありました。

「ニコライだね~」ととなりでつぶやく医師。

カールステンニコライ ですか?」と聞くと。

「そうだね~」

映像が切り替わり轟音へ

メルツバウ だね~、知ってる?」

「聴きはしないですが名前は・・・」

このへんの一部始終が自前のicレコーダーに録音されているのだが、とても学会とはおもえないくらい。

これじゃレコード屋の親父との会話だ。

ビデオの内容に異常な興味があったので隣にすわった先生に聞くと、どうやら患者は記憶障害で難聴なのである。

どちらもストレスによるもので難聴に至っては丁度一般的な男性の声の周波数のみ聞き取ることができないというもの。

超低音と高音域を認知できているというテスト結果の映像である。

へんな話ドヤバイ映像である。プロモになりえるものだ。

テストにニコライとメルツバウとは・・・。

ニコライの先生が終わるとその先生も音響ブースにきて横に座った先生に挨拶しまくっている。

どうやら私の横に座った先生は偉いようである。

「音響さんも興味持ってたよw」などと横にいる先生がニコライメルツバウ先生にいうとニコライメルツバウ先生がニヤニヤする。

もちろん私もニヤニヤする。

テストに変なの使うんですねーと感想を述べると、ニコライメルツバウ先生は極端なほうがいいからねーと笑う。

「なんかいいのない?」と先生が聞いてきたので、澤井妙冶 のライブに行って耳がピコピコと振動して恐怖さえしたことを伝える。

先生はとても興味をもってライブ情報を聞いてくるが、その時澤井妙冶はパリ在住である。

ライブがあったら連絡をくれと名刺を渡される。

質問あったらメールしてくれとも言ってくれた。


その後一度だけ先生が精神科医ということもあり、アウトサイダーアートについてメールしてみると、その先生の患者さんにはそうゆう才能のある人はいないよということだった。

ただ記憶障害者で面白い人がいて・・・・とスコット=ド・ワシュレー という人を紹介された。


先日transfigureさんからスコット=ド・ワシュレーの展示会があることをメールで連絡いただき上記の話を思い出した次第なんです。

つながるっておもしろいもんですね。

どんな人かというと、スコット=ド・ワシュレーはもともとエンジニアで25歳のとき交通事故に合い脳に異常が残り記憶障害となりました。

記憶が1日しか持たない。

記憶障害ではよくあることですし、誰かが小説化しているもので近いものを見たこともあります。

彼は芸術家ではありません。

25歳までのエンジニアとしての能力をもつ記憶障害者です。

彼は日々記憶障害保管装置をつくります。彼にとっては自らの為の作品なわけですが、一日が経つとその装置の使い方や目的も記憶から消えていきます。

彼の姉がその作品群をナンバリングし、使用方法などをメモしているため、作品としてなりたっているのです。 今回のその作品群が展示されるとのことです。芸術としてとらえるのは残酷すぎる展示会でもありますね。 transfigureさん教えてくれてどうもです。

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奥多摩

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こないだaon さんの記事をみて奥多摩に行きたくなったのでいつもみるメンツで行ってきた。
何も決めず行くわけにもいかないので軽く検索していると、奥多摩近くの日原というところに鍾乳洞がある。
洞窟というだけでテンションがあがってしまい、そこに行くことに決定。

週末の夜は朝一で出発したかったので徹夜。
朝を向かえ、そのまま出発。自分はいつも誰の車でも助手席がいい。cdかけ放題。

皆一様に睡眠時間が少なかったり、寝てなかったりでヒドイものだ。
どこにも寄ることなく奥多摩へ向かう。
アポロ13のサントラをプレイヤーにセットすると運転手がテンションを上げている。
後部座席はもう寝るか寝ないかの瀬戸際を彷徨う。
男4人旅行はこんなものだ。
朝ビールを飲むが一向に目がさめず、ウトウトしているうちに山道になり奥多摩到着。

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桜がまだ残っている。
駅でトイレ休憩を済ませさっさと、鍾乳洞へ。
ここからの道がすごい。車幅はなく山間の崖を上っていく感じ。やけに側面がスースーする。

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時間が経つにつれ山がでかくなっている錯覚に陥る。動物注意、落石注意、警笛ならせ、住民優先 等普段あまりみない標識が目に入る。
奥に奥に行くと標識すら減ってくる。もちろん信号などない。20~30分くらい崖道を恐る恐る進むと住居が何件かある。人はどこにでもいるものだ。
そこから10分くらい奥へ進み鍾乳洞の看板がやっと見えてくる。
適当に検索していたのでまさかこんな山奥にあるともわからずだったが、これはこれでおもしろい。
車が行ける限界のところに鍾乳洞がある。


奥に登山道もある様子で人が何人かいる。
車を降りると全部でかい、岩から山から川の水ももちろん綺麗。山水を飲めるところもあり、飲んだりしてみる。

fff
とりあえず腹が減っていたのでその辺に唯一あった観光客ねらいの食堂で飯を済ます。ウドン、カレー、蕎麦といった具合で普通の味だ。
食堂のお土産コーナーで買ったモチっぽいお菓子がやけにうまい。

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腹は満たされ鍾乳洞へ。
チケットを買い、小橋をわたるとそこに入り口がある。

fff
カタログによると洞内をすべてめぐると40分かかるという。関東随一の規模を誇るらしい。
中はある程度の明かりがあり、岩肌がすっかり見えるようになっている。
洞内はどうしてもテンションがあがりワーワー言っていると「洞内は静かに」みたいな看板が立っている。
確かに静かにすると水の音が響いたりと普段耳にしない音がする。こんな時にかぎって録音マシーンは車の中である。
もともと鍾乳洞は地下水の水路のような役割をしているのでいまでも水が洞内を流れる。わざわざ3途の川などと命名された川もある。
まだ死んで7日など経っていないのに渡ることになろうとは・・・。
私は善人なので橋を渡る。ちなみに軽罪のものが浅瀬、重罪のものが流れの速い深みを渡るのだそうだ。生前の業によるものだ。
あまり関係ないと思いますが、もともと自然崇拝者のメッカみたいなところだったようで、洞内にはなにやら宗教的な名前が今も生きていらす。
洞内で圧巻なのが天井知らずと呼ばれるところで、突然馬鹿でかいホール上になり、天井が見えなくなるのだ。

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もう気持ちはロープレのキャラと化している4人組である。
洞内を30分くらいで回り終える。出た頃には足がガクガクいっている。テンションとは反比例して足が強張っているのだ。洞内の足場は濡れていたり急すぎたりで、ご老体ではおそらく回りきれないくらいだ。

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大自然にワーワー騒ぎながら外を歩いていると、警視庁の立て看板がある。
「このあたりで手、足、硬い髪の毛など20~40代の女性のバラバラ死体が発見されました。いついつ怪しい人を見かけて方は情報お待ちしてます。」みたいな看板。
わざわざ観光地にバラバラ死体捨てなくてもいいものを。気がついてほしいのだろうか。女性の身元も不明なところもすごい。あるのねーこうゆうのが。
奥多摩秘境鍾乳洞連続美女殺人バラバラ事件。火サスの出来上がりだ。
鍾乳洞をでてちかくの温泉へ。
ここは小さいし込み合うしテンションがさがる。
登山や釣りをするわけでもないので、長居は無用と、山梨方面からグルーっとドライブしながら帰ることに。

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途中休み休み行くも、山の連続。サルなんかもいる。さすがに飽きる。民家が見えると落ち着いちゃったりなんかする始末。
暗くなり寝ていないこともあり疲れ果てて我が町へ。
焼肉にビールでも気合が入らず、家に帰り、話もそこそこに就寝。

おやすみなさい。

藤田嗣治展

テーマ:

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国立近代美術館に藤田嗣治展(つぐはる)を観に行く。
3月終わりくらいにNHKで特集を組んでいて見入ったのがキッカケ。
もっというとテレビつけたとたんにオカッパのメガネの親父が裸婦をフランスで描いている姿にインパクトを感じたのがキッカケ。


展覧会では、エコール・ド・パリ時代、中南米そして日本、ふたたびパリへ。という構成。
単純に一生涯をその時に居た土地で3分割した構成。


場所や土地(環境)に影響力があるのは言うまでもないのですが、藤田氏も例外ではないようです。
土地が人間になんらかの影響をあたえ作品にもなにか変化があるのならば、それはどうゆうことかというとサッパリわからんです。


個人的には万物に対してなんらかの変化があることは、魅力的でもあるし、それが簡易的な場合、嫌悪感さえいだくこともあります。
よく言われる「プロセス」を問題視しているからだということもわかります。
大半の人間がそうであるように、プロセスの複雑化が結果の良し悪しに比例してしまっているタイプです。
凡人である由縁はそこにあるんでしょう。


様々な調査、研究を繰り返し、デザインされ商品化される冷凍食品が「まずい」という事実がそれを物語ります。


「プロセスがある」ということ自体が不自然なのかもしれません。こと芸術に限って言えば不自然でしょうがない。(言い切りたくないですが・・・。)

ただプロセスを意識しないことですでに結果が生まれてしまっているのですが、この文章はすでに藤田嗣治展の話ではなくなっているし、頭の中ではすでに忘れられていたということです。
今は文字という媒体ですから、すこし上に文章が目につき、「藤田嗣治展」の紹介であることに気がつけたのですが、これがマンツーマンの会話ならば、話は違います。
媒体(メディア)はこうゆう利便性や、特徴を踏まえたうえで選んでいかないといけませんね。



藤田嗣治という人です。正直興味はあまりないんです。
ただ、今はいろいろなものを観なければ不安になってしまうという自己暗示のようなものから本来の意味での不安を感じ、
いろいろな物やいろいろな音楽、本、いろいろな人(これが難しい。手っ取りばやいのだけれどね)にふれるようにしているのだけの話。


なにかしら繋がればそれでいいのです。

点を線にとはよくいったものです。星座。


参考までに感想を少々のべると、エコール・ド・パリ時代の作品が圧倒的に綺麗な印象がありました。
エロティシズムのようなものは自分には無為に感じられましたが、「官能的だ」という声も聞かれました。
女性を描いているというよりは色として女性の白をつかっているような印象です。


まーいいや、こうゆう感想は。


平日でも混んでいたので休日に行くことはないです。ゆっくりみたいタイプのものでしたから。

人斬り

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中学の頃に衛星放送で偶然やっていた勝新太郎がでている映画をみて、勝新太郎をうるさい親父だなとおもった。

共演していた石原裕次郎を肴に父が酒を飲んでいる様子をおもいだすキッカケがつい最近。

レンタルビデオで座等市、悪名、兵隊やくざのシリーズ3部作を見終えたので、勝主演の短編モノに手を出してみる。


「人斬り」 製作は1969年。

時代は幕末で人斬りとなれば、すぐに岡田以蔵が頭に浮かぶと思います。

岡田以蔵=人斬りという概念を植えつけられていますが、これは司馬遼太郎の小説の功績によるもので、実際は岡田以蔵という男の詳細は闇に埋もれていて不明のようです。

幕末の話は坂本竜馬や勝海舟(西田敏行の勝海舟はいいんです。)を中心に様々語られますが、もう真実と希望がごちゃついていて、物語の時代という印象を受けます。



人斬り。


以蔵が勝新太郎、竜馬が石原裕次郎、武市半平太が仲代達也、田中新兵衛がなんと三島由紀夫である。三島由紀夫はどうしてもニヤついてしまう。


竜馬が裕次郎というキャストをみて、衛星放送でみたあの映画であることに確信をもちながらみる。

我が父、幸雄は裕次郎が竜馬であることに、おそらく自らを投影していたことだろう。
幸雄か裕次郎かみたいなところが彼にはあるようだ。
勝新太郎の映画をみるのはもう単純に勝新太郎が人間さらけだすから気持ちよくてみているようなところがある。ないものねだりってやつに近い。
座頭市には、男のなにからなにまで詰まっている。

しかしこの人斬りで演じる以蔵はそうでもない。

表面で生きて内面が煮えたぎらず苦悩して、結局表面で戦ってしまう人間。

この内面で苦悩しながらなにも解決できない純な人柄ががみているモノに感動は与えないけど、フツフツくる。


裕次郎の竜馬ドンはイヤミでしょうがない。ただかっこいいとされるのもわかる気がしたのが彼の凄みだ。なんのことだ。

この映画残念ながら仲代達也がいけない。(原作がよくないのかもしれないが)

武市半平太が冷徹策士の政治家としての面しかでていない。

竜馬が以蔵を託した男がこんな人間身のないわけがなく、気持ちに矛盾が生じる。

たんなる幕末ファン心理にすぎないのだけれど・・・。

結果、中学ノスタルジーと父幸雄の裕次郎熱を思い出す結果となっただけのこの映画。

人を力で切るシーンは相変わらずリアル。

刀は数人切ると血がついて切れなくなってしまう。だから突くのだ!!と中学の社会の藤井先生が力強く我々生徒に教えていた意味はまだわからず。

彼もただの歴史ファンの延長で教師をしていたのだろう。

この人斬りの製作が1969年で三島由紀夫が出演しているのが、ふと気になり彼が自殺した年を見てみると1970年とある。
例の自衛隊駐屯地で天皇陛下万歳と3唱し腹を切った最後である。
田中新兵衛もこの映画では切腹して死ぬ。
まったく関係ないのだけれど、こうゆうところに関係性を見出そうとするのも無意味で無責任でいい。






おめでとうございます

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先週一時も一人の時間が持てず少し疲れているようです。

集合も個人もバランス保たないともたないものだと改めて感じましたよ。

今は一人中古屋で買ってきたアフリカンjazzピアノを聴いてぐったり。

ピアノソロでもビート感がものすごい出ていてこれも人種柄なのだと思いつつも、今の自分には少しきつい。


15日に古い友人が結婚するので祝電を送る。

つまらんもん書いてもしょうがないので200字以内で創造と時間軸について書く。

文字が制限されるととてもじゃないけどもまとまらない。

短くて響く言葉を書く人間には背景がある。

背景がなければ説得力に欠けるため文章が長くなる。

限られた人以外が皆長い文章を書き、人に無視されながら書き続ける。

読み飛ばされたり、流し読みされたり、速読されたり。

読むこともできるし読まないこともできる。

祝電は式中に必ず読まれるため、会場にいる全員に伝えている事になるけれども、読まれる時間帯は皆お酒がまわり好きに楽しんでいる頃だ。

そうゆう状況も踏まえて定石にまずあてはまらない文章ではじめてみる。

この一行が勝負w

音楽の頭のインストとおなじ効果ですね。


文字を煮詰めることは今は技術的?にできないと感じさせられた次第です。

曲もミックステープも文字も少しスマートにして行こうとおもいましたが、20年はかかるのではないかとおもいます。


実体論パラダイム

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「自分の身体の中の臓器にMという科学物質が次第に沈着して、これが過敏なセンサーとして働くらしく、こちらの考えることが逐一テレビやラジオ、雑誌で全国に流れている。どうも時計から電波がでているようだ。この化学物質を対外へ流しだす薬を処方してほしい。」

ある大学の電気工学課をでた24歳の男がいった。


彼のように科学に深い"信仰"のある人間は科学者にとてもおおいようです。

物神信仰ともいうらしいです。

対象は”物”であればすべてが対象となるでしょう。

アニメファンが3D(もしくは2D,1D)の中で死んでいくようなものでしょうか?


科学を”物”とする考え方から言えば、宗教も音楽も同意義になりえます。(断言はできませんが)


医者は困るでしょうね。医者も医学という物をもとに治療、処方するのであって、科学者の治療というのは、音楽ファンがイランのギザ地区のリズムがやばいんだとトランスフォーマーファンに言っているようなものだ。

要は、話が違うってことで。


「死にゆく人は死のドラマにおける主役ではなくなり、医療担当者による処方の単なる対象と化してしまった。患者はいかに死ぬべきかは知らず、主役である医師の役割は、患者の肉体的生命をいかに延長するかということだけである。」 A・ヘーゲン


患者はいかに死ぬべきか知らない、または知ろうとしない人間が90%ではあるけども、あとの10%は医学とは別のもので処方すべき厄介な出来事なんだとおもった。

医者にジャンルが増えて、電話しても回されてしまう警視庁状態なのも仕方がないのかもしれないですね。