judee sill

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judee sill ジュディ・シル。1970年代の1stが再発されていたのが目にとまり購入。

もとはヒッピーでコミューン生活をしていた彼女。

60年代後半に起こったベトナム反戦戦争、ヒッピームーブメントが一段落し、ミーイズムと言われる個人へ向かう社会的風潮がアメリカ西海岸にひろまった70年代初頭、シンガーソングライターなる言葉が生まれました。はじめはアコースティクで素朴なサウンドのなか自分自身を投影した日記のような歌詞が共感を得ていた音楽のようです。いまでも続いているタイプのものですね。そのなかでも政治問題を扱うようになったり、環境問題を扱うようになったり、ストレートに音楽と言葉を利用したメッセージの発信者がシンガーソングライターです。鼻歌入力。

そういえば、meismという言葉ですが、自己中心主義と訳されています。エゴイズムとは区別された考え方で一人淡々と物事をとらえ処理するといった傾向を持つとあります。当てはまる人がおおいのではないでしょうか?エゴイストよりも多数存在するように思います。とらえかたと処理の仕方が現代では複雑化、カオス化している分、危険思想の人間にもあてはまるようにおもいます。

ちなみにmeism個人が集団となりweism。矛盾しているようですが、個人思想の集団は全共闘時代から日本でも多数あります。コミューンだって結局そうだったはずです。

意識共有について去年は多数書きましたが、安易で平坦で青臭い答えしか見つかりません。

意識の問題を言葉や文字で表すから、歯がゆい部分が多数でてくるのでしょう。

何冊かの関連本を読んだり、精神分析の本も読みましたが、言ってる事は結局宇宙の真理です。

そこまでは良いんですが、要するに宇宙の心理を理解しえない人間が宇宙の真理を理解した気になっているのが危険なんです。中途半端に関連本を読んでいたら、この心理を自分自身植え付けられていました。

書物に対して、信頼している部分が低脳の自分にはどこかしらあったので、改めたいとおもいます。

自己の存在を疑問に思うには簡単です。答えがありませんから。死ねば分かるとかいってるヤツは死ねばいいです。結局意識の問題にもたっしてないから。

疑問に思うことより(何かに支配されているとおもうより)想像することに意味があります。よって武者小路実篤の理論も今の自分の考えでは否定的に考えます。

考えるより想う。単純な事でした。


judee sillの音楽からのインスピレーションです。

最近までこの人の音楽を知りませんでしたが、数々のミュージシャンがマスターピースにあげるように自分自身初のマスターピースになりえる音楽と感じました。

今まで何十万と曲を聴きましたが、そんな一枚に出会うためにレコード買いまくってるようなところもありますからね。



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オラファー・エリアソン 影の光

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先日連休だったので友人と品川でデート。原美術館にさそわれるままに行くと、オラファー・エリアソン 「光の影」展が催されていました。

まー知らないんですが、どうやらベルリン(生まれはアイスランド人の両親のもとデンマークでうまれたようです。)の人気アーティストの一人なのです。

原美術館に行くと上の写真の作品「beauty」がメインにデザインされているポスターがはっている。

ガラスばりの入り口から少し中の様子がうかがえて結構な来館数であることはすぐにわかった。

混んでる美術館はなんか気持ちが半減するのは皆おなじ事だろうなと思いながら、受付へ。

「beauty」の為に増設された暗室へはいると、寒気を一番はじめに感じた。その時は水を使った作品であることや暗闇、静けさが関係して寒気を感じたのだとおもっていたけれど、後から外のプレハブ小屋みたいなノリの建物ということがわかり、普通に寒かっただけだったという事実を知り、自己陶酔半減。

光の角度と水だけで虹のような効果を作っていて、後は見るものの動きの変化で作品も進行していくという感じのもの。水に油が混ざってる説を友人に唱えるもお構いなしにされる。

ここでは結構やばい写真がとれた。


となりの部屋へ。


「円を描く虹」。

部屋のセンターに円形のオブジェがぶら下がりゆっくりと回っているところにスポットライトが当たる。そうする事でカラフルな円やメビウスの輪や楕円、その集合体が壁面に映し出される。というもの。

これはもうトリップ寸前。一定の間隔でものがうごいているわけではないので、終わりがない。永遠と閉館時間まで繰り返される作品。どこかで気がつかないと、やばいことになる。

その部屋には動けなくなった人々が集まり、みなボーとしていた。ちなみにお洒落で気取った女もアホ顔、芸術員気取りの外人2人組もアホ顔、もちろん友人もアホ顔(常時)。

美術館で芸術に触れるとき人は、普段では考えられない行動や思考になりやすい。真剣に作品に取り組むがゆえ作品のまわりを回ったり、おそるおそる触れたり、無意味に意味と問っていたり。はたから見ると総精神病患者(リハビリ)状態だ。芸術には精神で触れているということでもある。


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さらに奥にいくと上のような黄色というかオレンジの部屋がある。入り口に数個のファンがあり、空間を仕切っているように感じた。短周波ライトによってあてられたものは色を失うというか、白黒の世界がそこにある。

暖かい色の空間に居ながら温度のない色をした自分や客の姿がそこにある。服の色も様々に変わり、元の色を思い出すことができない。あれは錯覚の一種になるのだろうか?

向かいの人達をみているのが面白くて、それは多分お互い様なのだろう、やけに目が合う。その人にとって自分が作品として利用されているという感じ。お互いさま。作者の作為なのだろうか、非現実空間でのコミュニケーションは場合によっては効果的だ。非現実を共有しているという事実だけで安心感、安堵感がうまれるのだろうか。とくにコミュニティーは生まれなかったものの、可能性を感じた次第。



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反精神医学運動

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「心神喪失者医療観察法」という法律が日本にはあります。「精神病」者を危険視し、社会から隔離・排除する法律です。

友人に薦められた本に、久しぶりの感銘を受け、(そもそも自分や自分のまわりは感銘など受ける人種ではないのですが、感銘に対して抵抗心を思春期につくり上げてしまったタイプの人間が多いようです。今になって作曲や創作に懸命になるのは、受けてこなかった感銘に対するオマージュともいえ、こうゆうタイプの人間は受けてくるべき感銘のエネルギー量の乏しさに気づいた時、犯罪への道(契機)にもつながるのだと思った。みなさん気をつけましょう。)

「」が長かったのでもう一度。

友人に薦められた本に、久しぶりの感銘を受け、アール・ブリュットに没頭している最近。

言葉の意味は違えど、いままではアウトサイダーアートとして自分が認識していた部類のアートです。

アウトサイダーアートという名称には差別感を感じてはいたが、そもそも日本含む少数の国でしか認知されていない言語のようです。アウトサイダーという単語にうける印象をいいようにとらえる人は、少数の人達です。勝新太郎がジャパニーズアウトサイダーとされる事がおおいですねw 大好きなんですけど。

ただ勝新に用いる意味のアウトサイダーと精神異常者(精神異常という言葉は使いたくないのですが、異常という言葉の意味をマイナスに考えずにこの言葉をとらえてほしいです)に用いられるアウトサイダーでは根本が違ってきてしまいます。

精神異常の発見は肉体的な病気のあとにくるものらしいです。伝染病にかかった人間を隔離するという行為からその施設(場所)から発生(発見)したのが精神異常と呼ばれているようです。もちろん精神異常に定義などないのですが、人間がある程度社会を作り上げてからは異常者とよばれるものは常に存在していたはずです。白土三平は「狂人」という言葉をつかっていたりします。


隔離施設から発見される絵や作品は歓喜にみちたものが多いようです。

外部から隔離されているのは、肉体だけの話とでもいうのでしょうか。そもそも彼らの絵や作品は、彼らにとって絵や作品でないこと。自分自身や社会そのものであるという考えかたもあります。


正直 あまり絵をみていると恐怖感や不安感が自分にめばえるのがわかります。感銘のうちの一つ。

異常者の個性的な人生と作品自体を混沌にするべきではないという言葉が自分を安心させるんだけれど、自分にとっての絵は音楽とおなじでどうやら人そのものにあるようなのです。作品より前に人をみる、作品がよくても人をみて良否が変わってくる。自分はそれでいいとおもっていて、その考えかたに偏りがあるのもわかっています。

笑顔でアール・ブリュットをみるのができないという事ですね。



友達が新婚旅行でいっていた行ったフランス、イタリアから帰ってきました。お土産のブックカバーに最初にいれたのは「ヘンリーダーカー 非現実の王国で」。

かっこいいブックカバーありがとう。

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