旅日記(第49話)これで馬買いなよ!山内一豊☆巧名が辻
こんにちわ!今日の旅日記(第49話)は土佐の山内一豊ですけど・・・・
戦国大名で~徳川=東軍です!
ハイぼん!なに~?
こいつ像ばっかだすな?
像好きなんだよ!
Σ(・ω・ノ)ノ!
高知城にある・・とても新しくて・・大きい像です!かっこい~な!(ノ´▽`)ノ
馬が!キター Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒(。A。)!!!
と・・・そこで今日のサイト紹介は・・・
ひで@みかわさんです!
開いて頂ければ・・きっとホーっヽ(*'0'*)ツてなると思います!!
甲冑着てます・・・戦国研究家のみなさんです~!
関が原にいます!
最高ですね!!最高!!関が原ってでも凄いよね~
地元の方ですので~かなり・・細かくて面白いです・・・
ちゃんと現場に行って・・戦国武将のそれこそ・・現場調査ですね・・・その
レポートです・・・!
いいな~って思います・・・・郷土を誇りに・・・いいサイトだな!と思います
これからの更新も楽しみにしてるサイトです!![]()
関が原はいつも通るのですが、ゆっくり下りた事が私はないです!
長男くんが、去年お友達と回って2人で自慢してましたね!
なっかね~そのお友達のお父さんが戦国マニアらしぃのよ!
関が原での・・・
薩摩ですけど・・・1500人で駆けつけて・・
「あ~そんな少し?いらねぇわ!」みたく言われたみたいですね・・!
そりゃ怒るわ!!
こんな大イベントに参加できないなんてさ!ヽ( )`ε´( )ノ
長州は~120万石あげるよ!とか言われて・・実際30万石しか貰えず
毛利家が徳川にハメラレタみたいです・・・
そりゃ怒るわ!!120万石よこせ!!よ!ヽ( )`ε´( )ノ
山内一豊は・・・内助の功で有名ですけど・・・千代さんですね・・!
関が原で徳川を勝利に導いた将軍です!
話ちょっと逸れますが・・・
土佐藩は~長宗我部と~山内が分裂してて~竜馬は~長宗我部の出なんで
お父さんもいじめにあってたみたいですけど・・・
竜馬・・・本当・・可愛そうですね・・・!本当可愛そう・・竜馬!!( p_q)
龍馬丸裸じゃねぇか!!( p_q)
では・・なぜ?山内一豊が・・徳川を勝利に導いたか?ですが・・!
山内一豊は・・・関が原で・・石田光成が攻めてくるけどどうしようか?
という会議・・・小山会議で・・・徳川に尽力します!
城も領地も家康さんに全部差し上げます!
と言ったもんだから・・
東海の武士も従わざる得なくて・・・徳川は勝った・・といいますけど・・・
こういう状態はよくありますね・・
例えば・・結婚式で何万包むか?とか・・・ありますあります!
2万でいいだろ?と思ったら・・友達が3万包んでいた!(/_;)/~~
あの人がそこまで~いう?・・徳川は凄いだろう?と思うって事はあると思います!
群集心理って奴ですね・・じゃ~俺もやろうかな?って感じです!
略歴: 山内一豊
でわ・・内助の功って・・・どんなことしたのよ?のコーナーです!
夫が馬を買うお金がなかったので~これで~買いな!と
と差し上げた・・・!
山内一豊といえば、その奥方の内助の功の話で有名である。
彼がまだ織田家の侍であったころ、馬を買う金がなかった。困っているのを見かねた奥方が、手鏡の中から、黄金10枚をとりだし、「これでお買いなさい」と一豊に与え、馬を買うことができたという。この「美談」で一豊は織田の家中で一種の名士となった。
山内一豊は、豪傑というわけでもなく、名将智将というわけでもない。強いて言えば、ひどく生真面目で律義だというのが取柄の人物であった。律義といえば婦人にも律義であった。実子がいない(女の子がいたが地震で死亡)にもかかわらず、当時の武将としては稀有なことに
妻のほかに側室を持たなかった。
よかったですね・・・・・黒田かんべいとかも側室持ったないけど・・・秀吉は最低ですね!!その面でわね・・!
妻を愛していたということもあっただろうが、若い時から苦労を共にしてきた妻に対して義理を欠くと思ったのであろう。
織田、豊臣と2代に仕え、数多くの戦場を駆け巡った一豊が得た所領は遠州掛川6万石。
その彼が一躍、土佐24万石の大大名になるのは関ヶ原合戦の後のこと。54才である。
関ヶ原合戦直前、徳川家康が石田三成の挙兵を聞いたのは、会津の上杉征伐の途上、下野(しもつけ=栃木県)小山の陣においてであった。一豊もその陣にいる。
家康はここに豊臣恩顧の諸将を集め、石田につくか徳川につくかを協議させた。世に言う「小山会議」である。
この会議の席上、「徳川につく」と最初に表明したのは福島正則である。ついで一豊が進み出て、「お味方つかまつる上は、居城掛川城を兵糧ごと内府(家康)に差し上げ、拙者は人数ことごとく引き連れて戦場に臨む所存でござる」
と、思い切ったことを表明した。これによって家康の進路にあたる東海道に城をもつ大名は一豊にならって城も領地も家康に差し出さねばならなくなり、家康に加担することに多少なりともためらっていた一座の大名もことごとく家康に味方せざるをえなくなった。そしてこれが関ヶ原における家康勝利の要因になったのである。
関ヶ原の決戦において、一豊は後方の予備隊におかれ、なんの武功もなかったが、戦後の論功行賞において、家康は彼を掛川6万石から大抜擢し、一躍、土佐24万石に封じた。「かの、対馬守(一豊)になんの武功がござるや」と言う左右の幕僚の意見もあったが、家康は、「戦場においての槍働きなどだれでもできる。山内対馬守の小山での一言こそ関ヶ原の勝利を作ったのだ」といってとりあわなかった。と、すれば一言で土佐一国を得た、と言っていい。変動期でこそ起こりうる話であろう。
土佐という国は、関ヶ原合戦当時、長宗我部(ちょうそかべ)氏が治めていた。
ここなんですけど・・・長宗我部は・・石田光成についたので・・・その後・・土佐は
山内家が支配することになります!竜馬は長宗我部の家系なんで・・・いじめがあったようですね・・!
当主の長宗我部盛親は負けた石田三成についたので、徳川家康に土佐の領土を取り上げられることになった。残った、長宗我部の家臣たちは土佐の国内に浪人として残った。そこへ、「進駐軍」として乗り込んできたのが、山内一豊である。
要するに・・土佐は江戸時代も内乱してて
貧乏だったんです!
でも長宗我部の竜馬は~親も早くなくなって・・本当~あんな風に・・動くしかなかったと思うんですけど、かわいそうだな~本当に・・・・
一匹狼で~でも元気で~そう考えると
薩長を渡り歩いたパワーも納得がいくし・・・
死んでもいいや~と思ってた気がしますね・・!
6万石から24万石に、領地が4倍に増えたわけだから、当然、家臣も増やさなければならない。このような場合、家臣の増員の何割かはは現地でおこなう。そうしなければ浪人になった侍たちが不満をもって反乱をおこす恐れがあるからだ。山内家もそのようにすべきだった。ところが、山内家は家臣の増員を京都、大坂で行い、土佐へ乗り込んだ。当然、土佐では浪人になった長宗我部侍が反乱を起こした。土佐に入国してからの一豊の生涯は、この長宗我部侍の反乱を鎮圧し、弾圧したりするのに費やされた。このようになったのも、いきなり大国を与えられたが故に招いた不手際が原因であった。
一豊の死後だが、山内家では他藩にない制度をつくる。郷士制度である。
旧長宗我部侍への懐柔策が目的で、彼らを正式に郷士とし、田の作り取りを認め、武士の待遇をすることにした。これでようやく反乱が収まった。
「ほらよ!馬買いなよ!あんた~あたし~お金あるからさ」
この方が・・・山内一豊の妻です!千代さんです!首短いですね?とか
( ・д・)/--=≡(((卍この絵文字みたいですね~とか余計な突っ込み
入れないでください!
ホレ!
( ・д・)/--=≡(((馬を買う金))
この方は・・長宗我部元春です!
山内一豊は・・・・上川隆也で見て見ましょう!!
妻千代は仲間由紀恵ちゃんで・・・巧名が辻です!
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上川さんちょっと前~龍馬だったろ?その前大地の子だったな?
いったい誰なんだ???上川隆也わ!!
キター Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒(。A。)!!!
http://www.youtube.com/watch?v=TgzmNqpEDZo
全然関係ないけど・・・
ビキニ島で水爆実験の被害にあった・・・・第5福龍丸です・・・!
放射線を浴びたマグロのマグロ塚です!![]()
水爆実験してんじゃねぇよ!
ヾ(。`Д´。)ノ
それでわ!またお逢いしましょう!!











1 ■戦国時代
江戸っ子お得意の時代です!
というか、男の人って『戦国武将派』と『明治維新派』に分かれる気がしますw(°0°)w
江戸っ子は本業は営業なので
軍師が好きみたいです。
『じゃあ、諸葛孔明は?』と聞いたら
「日本人以外は興味がない」
とバッサリ切られました(ノд<。)゜。