旅日記・太宰治・・・斜陽館は立派です!!
テーマ:旅日記(青森)太宰治といえば・・走れメロスは
大変いいお話ですね・・!あの友情かなり好きですわ~![]()
文体が綺麗で・・読み進みますけど・・
太宰本人の人生は・・どうですかね?
私からは・・怖いですけど・・
うちの父方の家系の方に太宰風の男性が何人か・いますので・
ちょっと受け入れられないですけど・・
琵琶法師のお祖父ちゃんは・・坂口安吾系なんで・・
坂口安吾の方が私は好きです。
次男の叔父さんが・・若い女と・・失踪してますから・・
私は・・太宰はそんな好きじゃないというのも
泳ぎがうまいから・・2度心中しても・・
自分だけ助かり・・
最後玉川上水で入水自殺した女性は・・・とても綺麗な人ですけど・・
魔性の男なんでしょうね・・・!たらし!好き?
やだよ!たらし!
といいつつ・・・私も魔性の男にひっかかるかも~
ですけど・・
最後は結局
木更津なめんじゃ~ねぇ~よ~!!
と木更津に帰ると思うけどさ!![]()
こころのサプリさんに文学はゴシップで
味わうのは・・文体との・・ご意見頂きましたので
その通りですんで・・しかし・・ゴシップ好きだわ~!![]()
ゴシップ面白いですよね?![]()
津軽の文章を味わいつつ
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html
もう一度読みたい方もそうでない方も・・どうぞ!↑津軽です!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回斜陽館なんて・・いけると・・その時まで思ってなかったので
降って湧いた様に嬉しくて・・
やはり・・この目で見れてよかったですけど・・
太宰は・・TVでよく特集やってたので・・
斜陽館は・・映像で見たけど・・
周りの風景と合わせると・・・
如何に太宰が・・良家の息子であったか・・わかりますけど・・
周りは・・畑ばかりで・・ぽつんと凄い家が建ってる感じなんですよ。
これだけ大きいと・・友達呼び放題で・・いいと思うし・・
来てもわかんないと思います・・
うちの母の実家が佐渡が島で・・10LDKでこんな感じなんですけど・・
造りはもっとぼろいです!
昔は従兄弟が11人・・そこへ・・
集まって修学旅行みたいで
とても楽しかったんですが・・海すぐそこです!
今度・・また従兄弟の写真でも・・!色んな人いて・・面白いですから~![]()
斜陽館入り口です。一般が500円で
学割で・・300円で・・
匂いがよかったです。
床がキュッキュっと・・二条城みたいだった!!
経済学科の息子も・・最近文学にも興味を持つようになったんですが・
三内丸山遺跡の方が・・見たかったみたいです。遺跡好きな人多いですね・・!
しょうじ君も太宰とは程遠い感じのガイルですけど・・!
それでわ・・斜陽館についてです!![]()
肉眼で見ると・・印象違いますね・・!
青函とんねるずも・・!!![]()
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
建物は1907年 に太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって立てられたもの。
太宰が中学進学に伴い1923年 に青森市 へ転居するまでこの家でくらした。
東京へ出た後、共産党 の非合法活動に協力したり、
何度か心中を繰り返したため郷里から勘当された。
勘気を許されてこの家に戻る事が許されたのは1942年 に太宰の母タネが亡くなった後である。
その後1945年 太宰は戦況悪化に伴い妻子を連れて疎開 翌年までこの地にとどまり、
文筆活動を続ける。
小説『思い出』や『津軽』等には太宰がこの家に対して抱いてイメージが記されている。
太宰の死後1950年 に津島家はこの家を売却。
町内の旅館経営者が買収し太宰治文学記念館を併設した旅館として改装され
太宰の小説『斜陽』から「斜陽館」と命名された。
旅館時代の斜陽館は太宰ファンが多く宿泊に訪れており、
中には喫茶店も併設されていた。
又文学記念館は宿泊者以外にも開放され、多くの太宰ファンでにぎわった。
その後旅館の経営が悪化し経営者が手放す旨を発表した。
これに対して金木町(当時)は経営者から斜陽館を買い取り町営の文学記念館として再出発する事になった。
こうして1998年 名称が現在の太宰治記念館 「斜陽館」と改められて改装オープンした。
新しく改装された斜陽館では従来のような宿泊は出来なくなったもの太宰の文学史料、
又昭和初期の大地主であった津島家の貴重な史料を展示する史料館として多くの観光客、太宰ファンが訪れている。
太宰治さん・・こんな方です!↓
しかし・・克己君も・・太宰ではないですね・・!
きっとここへ来てくれる女性陣ちょっと太宰風女性なんで・・きっとね!
太宰風の男性じゃない人と付き合ってる気します・・
ター君も・・美緒様も・・アッキー王子も・・エトセトラ・・で・・
太宰じゃないと思ってますけど・・
ん~どうでしょう??
BY長嶋監督!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
幼年時代
1909年 (明治 42年)6月19日、青森県北津軽郡金木村(現在の青森県 五所川原市 、旧北津軽郡 金木町 )に、県下有数の大地主 である津島源右衛門 (1871-1923)、タ子(たね)(1873-1942)の6男として生まれた。
二人の間には11人の子供がおり、10番目であった(但し、太宰が生まれた時点で既に長兄・次兄は他界)。父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で
県会議員、衆議院議員 、多額納税による貴族院議員 等をつとめた地元の名士であった。
津島家の先祖について、昭和21年に発表した
『苦悩の年鑑』の中で「私の生れた家には、誇るべき系図 も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽 の北端に土着した百姓 が、私たちの祖先なのに違ひない。
私は、無智の、食ふや食はずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父 惣助の時代からであつた」と書いている。惣助は油売りの行商をしながら金貸しで身代を築いていったという。また、津島家は、旧対馬国 から日本海 を渡って津軽に定住した一族であるとする説もある。
学生時代
1916年 、金木第一尋常小学校に入学。
1923年 、青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校 )入学直前の3月、父が死去した。
17歳頃、習作『最後の太閤』を書き、
また同人誌を発行。作家を志望するようになる。
官立弘前高等学校 文科甲類時代には泉鏡花 や芥川龍之介 の作品に傾倒すると共に、
左翼運動に傾倒。
『細胞文芸』を発行すると辻島衆二の名で作品を発表、
井伏鱒二 に指導を受ける。
この頃は他に小菅銀吉、または本名でも文章を書いていた。
1930年 、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。
フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学 仏文科に入学したが、
高水準の講義内容が全く理解できなかった上、
非合法の左翼運動にのめり込み、
学業怠慢から、留年を繰り返した挙句に除籍。
卒業に際して口頭試問を受けたとき、教官の一人から、
教員の名前が言えたら卒業させてやる、と冗談を言われたが、
講義に出なかった太宰は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。
在学中にも、カフェの女給で人妻である田部シメ子 (1912-1930)と出会い、
カルモチン自殺を図っている。だがシメ子だけ死亡した。
小説家時代
1933年 、短編『列車』を『サンデー東奥』に発表。
同人誌『海豹』に参加し、『魚服記』を発表。1935年 、『逆行』を『文藝 』に発表。初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、
第1回芥川賞 候補となった。だが、
都新聞 社に入社できず、またも自殺を図るも失敗。
また、この年、佐藤春夫 を知り師事する。1936年 、前年のパビナール中毒が進行し治療に専念するも、処女作品集『晩年』を刊行。
翌年小山初代 (1912-1944)とカルモチン自殺未遂。
一年間筆を絶ったが、『姨捨』で復活。
1938年(昭和18年)、井伏鱒二 の招きで山梨県 御坂峠 にある天下茶屋を訪れ、
井伏を通じて甲府市 に育った石原美知子 (1912-1997)と結婚。
甲府市御崎町(現朝日)に住み、精神的にも安定。
『富嶽百景』など山梨を舞台とする作品を書いた。
生活のために、黒木舜平という筆名で心理サスペンス小説『断崖の錯覚 』を書いたこともあるが、太宰自身はこの作品を恥じていた。
39年の生涯で5回の自殺未遂を繰り返し、
1948年 (昭和23年)に玉川上水における愛人・山崎富栄 (1917-1948)との入水心中 により生命を絶つ(同6月13日 )。
この事件は当時からさまざまな憶測を生み、愛人による無理心中説、
狂言心中失敗説等が唱えられている。
2人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日の事であった。
この日は桜桃忌(おうとうき)として知られ、
太宰治の出身地・青森県 金木町 でも桜桃忌の行事をおこなっていたが、生地金木には生誕を祝う祭りの方が相応しいとして、遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年 (平成 11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。
金木の生家は、太宰治記念館 「斜陽館」 として公開され、国の重要文化財 に指定されている。
作家研究
5回の自殺未遂や小説のデカダン的とも言える作風のためか、真に迫った作風を好む作家としてのみ捉える向きもあるが、戦時中は『畜犬談』『お伽草紙』『新釈諸国噺』などユーモアの溢れる作品も残している。
深刻な作品のみを挙げて太宰文学を否定した三島由紀夫 は、
ある作家から「それなら君は『お伽草紙』を否定できるか!」と詰め寄られて、一言も言い返せなかった。個人的に太宰と交際があった杉森久英 も、永らく太宰文学を好きになれなかったが、戦後だいぶ経ってから『お伽草紙』や『新釈諸国噺』を読んで感嘆し、それまで太宰を一面的にしか捉えていなかった自分の不明を深く恥じたという。
長編、短編共に優れていたが、「満願」等のように僅か原稿用紙数枚で、見事に書き上げる小説家としても高く評価されている。
また坂口安吾 、織田作之助 、石川淳 と共に「無頼派 」または「新戯作派」の一人に数えられる太宰は、退廃的な作風を好んだ、と一般に言われている。
しかしながら、太宰自身は退廃的な作品を書きながらも同世代の作家の中で最も「神を求めた人」であった、とする研究・評論も多くある。
小説の持つ退廃的な印象とは逆に、
そして聖書に関する作品を幾つか残している。その一つが『駈込み訴へ 』である。『駈込み訴へ』では一般的に裏切り者、背反者として認知されるイスカリオテのユダ の心の葛藤が描かれている。太宰はこの作品を、口述筆記で一気に仕上げた。
太宰自身によると「最悪」の積み重ねが小説になるのだと言う
没後、「太宰治全集」が八雲書店 から刊行されるも売れ残り、同社倒産後、創藝社 が引き継いだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
パピナール中毒の様子が・・人間失格に描かれてましたけど・・!
また・・色々と・・また!
賛否両論だと思うので・・ここわ自粛です!と・・し・・
これで・・太宰君は・・終わりです・・・!
ご清聴ありがとうーございました!
同じテーマの最新記事
- 旅日記・太宰から・・りんごに話がそれて… 08月31日
- 旅日記・青函とんねるず!のみなさんのお… 08月30日
- 旅日記・ごらん!あれが竜飛岬!北のはず… 08月30日


















