2008-09-29 00:49:13

ステレオ 3

テーマ:ステレオ

「あのな、お前が言っているマイは病気なんだよ。病気。」

「もしかして、君はマイさんが昨日言っていた妹さんですか?」

「違うよ、バカ。マイに妹なんかいねぇよ。」

「でも、昨日、たしかに妹の話をしていたんだけど・・・。」

彼女は何かを迷っているようだった。底なしに暗い湖の水面を見るような目で僕を見た。それは、さっきまでの攻撃的な彼女とはあまりに違った。

解離性同一性障害って分かるか?」

「カイリセイ・・・ドウイツセイ・・・ショウガイ・・・・。」

「分かんねぇよな。じゃあ、多重人格なら分かるか?」

「ビリー・ミリガンのやつ?」

「まあ、そうだな、それだ。厳密には、そのふたつは同じもんじゃないけど、まあ似たようなもんだ。マイは、その多重人格という病気なんだよ。病人なんだよ。だから、マイに変な気を起こすんじゃねぇぞ。」

彼女は、壁に刺さっている果物ナイフと包丁を目で追いながら言った。

「あの・・・もしかして、君は・・・そのマイさんの・・・何て言ったらいいのか・・・つまり、多重人格だから・・・。」

「そうだ。別人格だよ。マイにとって都合の悪いものを受け持ったり、処理したりする人格部分だよ。多分、マイはこの部屋で眠ったんだよ。眠ると、あいつはいつも同じ夢を見る。小さな頃から毎日見てしまうどうしようもなく嫌な夢をね。夢から覚めると、入れ替わるんだよ。その夢の後、目を覚ますのは、わたしなんだよ。」

「目覚めたら、知らない部屋に来ていたと・・・。」

「まあ、そういうことだ。起きてみたら、本とCDが少しあるだけの殺風景な部屋でびっくりしたぜ。この部屋の住人・・・お前がいなかったから、そのまま帰ろうかと思ったけど、どんなツラした奴が鼻の下伸ばして帰ってくるか見てみたくなった。少しばかり、痛みつけてやろうと思って、ナイフと包丁を研いで待ってたんだよ。そこにお前がのこのこ帰ってきたというわけさ。災難だったな。悪く思うなよ。」

 彼女の話している内容は分かるけど、きちんと理解するのはいささか困難だ。目の前にいる女性の姿は、僕にとって、今朝までのマイさんそのものだった。だけど、どうやら彼女はマイさんじゃないらしい。マイさんの姿かたちをした女性が、自分はマイさんじゃないと言う。マイさんは病気・・・カイリセイなんとかという多重人格のような病気で、この女性は、マイさんの別人格だと。こんなことって、本当にあるのだろうか。いや、あるにはあるにちがいない。だって、目の前にいるマイさんと思われる女性は、今朝まで一緒にいたマイさんとは、どう考えても別人だ。演技でないことは、鈍感な僕でも分かる。第一、演技をする必要性はない。

「あの信じてないわけじゃないんだけど、と言うより、むしろ信じざるをえないと思っているくらいなんだけど、君がもしマイさんの別人格だとしたら、君にも君の名前があったりするのですか?」

「当たり前だよ、バーカ。何度も言うけど、わたしはマイじゃないっつうんだよ。わたしの名前は、ユカ。愉快な時間なんてこれっぽっちもない・・・苦しかったり、痛かったり、悲しかったり、怖かったりする時間だけを背負っているユカさんだよ。愉快のユカじゃなくて、不愉快のユカだよ。」

「ユカさんか・・・はじめまして、ユカさん。」

「うっせぇよ、バーか。お前となんか、金輪際会わねぇよ。いいか、マイに変なことするんじゃねぇぞ。て言うか、もうマイとは会うんじゃねぇぞ。言っとくけど、マイとヤるのは無理だからな。マイがこんな病気になったのは、小さな頃の地獄のような虐待が原因なんだ。獣のような奴らに受けた性的な虐待もあった。だから、マイにとって、セックスは病気の核に触れてしまいようなもんなんだ。ヤろうとした瞬間にマイは、わたしに入れ替わってしまうのさ。目が覚めたときに目の前にニタニタしたお前がいたら、間違いなく半殺しにするよ。本気だぜ。昨日の男もそうだよ。どこでどうやって、あんな不細工な男を拾ってきたのか知らないけど、とりあえず血祭りにあげてやった。」

「そんなこと、これっぽっちも考えてなかった。本当です。」

「嘘こけ!かっこつけるな、インポ野郎!」

それにしても、言葉遣いの悪い女性だ。綿菓子のようなしゃべり方をするマイさんと、ひとつの身体を共有しているとは思えない。病気と言えども、理解に苦しむな。

「あの、ひとつ聞きたいんだけど、多重人格であることをマイさんは知っているの?」

「マイは知らねぇよ。マイは、自分のことを身体が弱いから一日中寝て過ごすしかないと思っているみたいだけど、本当に壊れているのは身体じゃなくて心なんだよ。それに、多重人格だからと言って、誰かが生活費をくれるわけじゃねぇから、マイが生きていくためにわたしが夜、飲み屋で働いているんだよ。朝近くまでやっている店でラストまで働いているんだよ。だから、昼間は寝てばかりいるのさ。わたしが一晩中働くために、マイは一日中寝ているというわけさ。わたしはわたしで、大変なんだよ。」

「そうなんだね・・・ユカさんも大変そうだね。」

「うっせぇよ、バーか。お前なんかに同情されたくねぇよ。いいか、もうマイのことは忘れろ。もう会うな。会ってもヤれないんだから、他の女のところにとっと行けや。」

そう言うと、彼女はマイさんが持ってきた小さなバッグを手に取り、玄関に向かった。

「いいか、もう会うな。ヤれない女と付き合っても面白くねぇぞ。だから、もう会うな。」

 彼女は少々乱暴にドアを閉め、帰って行った。

 マイとユカ、多重人格・・・あまりに不思議な出来事が嵐のように去って行った部屋と残された僕の心は、密度の薄いスポンジのように、そこにあるけど空虚の塊のようにフリーズしてしまった。

 あれほど鳴いていた蝉は、違う国に行ってしまったかのように鳴くことをやめていた。それは、まるで昨日から続く不思議な一日の終わりと告げているようだった。

 しかし、終わりではなかった。終わりに向かう終わりのような恋の始まりだった。
2008-09-29 00:46:53

ステレオ 2

テーマ:ステレオ
奇妙な夜の感触を残したまま、石鹸の梱包作業をいつも通りこなした。この日のアルバイトは、いつにも増していつも通りに進み、終わった。僕が中心の世界で何が起ころうとも、僕が中心でない世界には何も影響を及ぼさない。まあ、そんなもんだ。世の中にとって、僕の役割とは何なんだろう?うとうとと帰りのバスの中で考えてみたけど、1ミリも答えに近づくこともないまま、いつも通り、きっかり15分で自宅近くのバス停に到着した。

 バス停の目の前が僕の住むアパートだ。異性が待つ自分の部屋に帰るのは、はじめての経験で、少しばかり浮かれた気分でドアを開けた。

 しかし、世の中はそんなに甘くない。部屋の中では、僕が中学生のときに買ったジミー・ヘンドリックスのアルバムが、耳を劈くばかりの爆音でかかっていた。昨晩に聞いた話では、彼女の好きな音楽はボサノバなどのナチュラルテイストのものがメインで、こういった攻撃的な音楽は嫌いというより苦手だと言っていたような気がするが・・・。あまりの轟音にドアごと吹っ飛ばされそうになった。

 冬の深い夕闇を迎えている時間帯、カーテンを締め切った北向きの部屋は真っ暗だった。両手で耳を塞ぎ、何故か腰を屈めた姿勢で部屋に入った。

「ただいま!電気点けるよ!」

ジミヘンがかき鳴らすギターに負けないような大声で言ってから、スイッチを押した。ソファーに立て膝ついて座る彼女がいた。射抜くように僕を見据えている。

「お前は誰だ?」

今朝までの彼女とは明らかに目つきの違う彼女が言った。僕は誰だ?誰なんだ?というより、彼女は誰だ?誰なんだ?

 何が何だか分からないまま、僕は彼女のことを観察してみた。少なくとも、彼女は僕のことを歓迎していないようだ。不法侵入者を見るような目で僕を見ている。でも、ここは僕の部屋で、どちらかというと僕は敵意と受けるより感謝されるべき存在だと思う。僕が石鹸の梱包をしている間にこの部屋で何かあったのだろうか。何はともあれ、彼女の態度は、誤解からくるものだと思う。その誤解を解かなければ、どうも具合が悪い。居心地が悪い。こういうときは、なるべく相手を刺激しない態度・・・あくまで、普通の会話らしく何気ない流れを心がけるべきだ。僕は、彼女とキッチンに立って食事を一緒に作っている光景を頭に思い浮かべた。玉子焼きは、砂糖入りが好きかどうか聞くようにこう尋ねてみた。

「なんだか、今朝までと様子が違うけど、どうかしたの?」

と言い終わってなかったと思う。目の前が一瞬光った。光は僕の耳元をかすめ、鋭縁な音が走り抜けた。振り返ると、壁にナイフが刺さっていた。僕がいつも使っている果物ナイフ。僕は条件反射のように両手をあげた。情けないけど、無意識にそうしていた。戦意喪失の合図だ。というよりも、戦意なんてはじめからない。どちらかと言えば、好意しかなかった。彼女の待つ僕の部屋に一刻も早く戻りたく、小走りに近い早歩きで帰ってきたくらいだ。ただ、こういった状況には当たり前だけど慣れていない。戦う術も知らない。というわけで、僕の取りうる最大限の防御反応して、本能が瞬時に選んだのが、ホールドアップだったようだ。かっこ良くはないけど、悪くない選択だったと思う。

「お前は誰だ?」

彼女は、同じ質問をした。なぜ、今朝あったことを他人事のように聞くのだろう?

「公園で・・・缶コーヒーを一緒に飲んだのを覚えてない・・・かな。」

僕は、玉子焼きには砂糖を入れるほうが好きなんだよと言うように、両腕を上げたままの姿勢で答えた。幾分、声が震えていた。

「もう1度聞く。オ・マ・エ・ハ・ダ・レ・ダ?」

どうやら、彼女の記憶から僕という存在、そして多分、昨晩から今朝にかけての出来事が消えているらしい。らしいけど、そんなことってあるのだろうか?寝起きで寝ぼけているのだろうか。だったら、早く目を覚まして欲しい。

「・・・僕の名前は、シンヤ・・・電柱の前で気を失ったように立っていた君のことが心配で声をかけて、その後、公園で缶コーヒーを一緒に朝まで飲んで、君が妹と一緒に住んでいるアパートには帰れない・・・なんか、怪我をした異性がいるとかどうとかで・・・それで、こんな厚い中、その公園でずっと過ごすというから、それは過酷だなぁと思って、それじゃあ、僕の部屋で休んでいてもいいよと提案したら、じゃあ、そうしますということで・・・それで、多分、今、こういう状況になっているというか・・・あ、でも、僕の記憶違いだったらごめん。」

「なんで、お前は初対面の女を部屋に連れ込んだりしたんだ?」

「連れ込む・・・連れ込んだつもりはないよ。君が自分の部屋に帰れない上にその公園で日中過ごすというから、こんな炎天下に。身体もあまり強くないというし、僕は気ままな一人暮らしだし・・・だったら、適当に僕の部屋を使えばいいと提案したら、君は喜んで同意してくれた・・・たしか、そんな流れなんだけど・・・記憶違いだったら、ごめん。本当にごめん。」

我ながら情けない姿だったと思う。両手は天井に届かんばかりに真っ直ぐ伸ばされ、幾分、支離滅裂になりながら、声は時折、裏返り、必死にこの状況から逃れようと言葉を選んで、彼女を刺激しないような言葉を選んで彼女に説明した。でも、よくよく考えてみれば、ここは僕の部屋なのだ。スポーツでいうところでのホームだ。これじゃ、まるでアウェイだよ。

「微塵でも嘘をついたら、お前は死ぬよ。壁に突き刺さっているナイフとは別に、もう一本あるからね。さっき、顔をすり抜けたのは偶然じゃないよ。狙ったんだからね。この距離だったら、お前の着ているシャツについている左胸ポケットの真ん中を百発百中させる自信があるからね。だから、嘘をつくんじゃないよ。」

彼女は左手に隠し持っていた包丁を右手に持ち替えた。

「嘘はついてないよ。神様にでも何でも誓っていい。君の名前だって知っている。」

彼女は顔がピクリと動いた。

「言ってみな。」

「マイさんだろ。」

「・・・ヤッたのか?」

彼女は何を言っているのだろう。したのかしてないのかは、自分が一番知っているはずだ。今朝、僕がこの部屋に5分間もいなかったと思う。着替えて、顔を洗っただけだ。寝起きで寝ぼけているんだったら、そろそろ正気に戻ってほしい。

「してないよ。誓ってしてない。言っておくけど、証明なんて出来ないよ。昨日の夜から朝にかけて、僕は君と公園にいただけで他の誰とも会ってないし、朝になって部屋に帰ってからは、僕は着替えただけで、君はその間、キッチンで待ってた。つまり、君と会って以来、第三者は誰も存在してないんだ。だから証明できない。証明できないけど、嘘はついていない。誓って嘘はついていない。」

 目の前が光った。果物ナイフに比べて大きい分だけ、その音は耳元でいくらか太く唸った。死ぬときなんてあっけないもんだ。とっさに身を守ろうとした僕の本能は、顔の前で腕をクロスさせた。そこじゃい!守るのところは、胸だ。左胸だ。心臓だ。心の臓だ!

 ドスッと音を立てて、包丁は僕を中心に果物ナイフとは、反対側・・・左側の壁に突き刺さった。僕は、両手をクロスさせたまま腰から落ちた。どうやら、まだ生きているようだ。勘弁して欲しい。

「だろうな。あいつが、ヤれるわけないからな。」

 外は、夏が終わることに精一杯、抵抗をするかのように蝉が鳴いている。雨が降っているのだろうか。遠くで雷が鳴る音がする。彼女はなにやら考え事をしている。胡坐を組んだ膝に両肘を乗せて、目だけ僕の方に向けて頭を抱えた。

2008-09-29 00:45:47

ステレオ 1

テーマ:ステレオ

市街地を戦車が列をなして整然と進んで行く。舗装された道路には、幾筋ものキャタピラの跡が走り、それはまるで頬を伝う涙のようだ。初秋を彩るはずの色彩などどこにも見えず、窓の外の光景は、古いモノクロ映画のようにノイズ混じりで暗いトーンに沈んでいる。

ここはどこだろう。石造りの古ビルの3階・・・窓際に立ち、カーテンの隙間から道行く戦車を眺めている。

ひときわ大きな戦車がビルの正面で止まった。音というより振動に近い微弱な低音とともに砲台が動きだした。身を隠しているこの部屋で、砲口の先が静止した。戦車砲の先で何かが動く。

動いているのは、ポニーテールに髪を結わえた少女だった。右手だけを前方に突き出した少女時代のわたしだった。彼女は無邪気に微笑み、何かを叫んだ。戦車砲に何かが装填される。ガチャ・・・その音は、この部屋を破壊する意思となって、わたしに届いた。

「わたしは味方よ!!!」

カーテンを引き裂き、窓を開けた。

 少女はゆっくりと右手を頭上に掲げ、勢いよく振り下ろした。轟音とともに、真っ白い光の膜がすべての視界を奪った。

 僕とマイは、3年前、深夜の路上で出会った。コンビニで数日分の朝食用にと缶コーヒーとヨーグルトを購入しての帰り道、電柱の脇で呆然と立ち尽くすマイに出会った。日ごろの僕は、見知らぬ女性に声をかけるようなタイプではない。そんな勇気はない。知り合いの女性であっても、確固たる用事がなければ、話しかけることもほとんどない。一人でいることが好きなこともあるが、異性との接し方というのが、どうも分からない。しかし、彼女をそのまま放って帰るには、少しばかり躊躇われる様相を彼女はしていた。僕を見た彼女は、シクシク泣き始めたのだ。帰るべき家を失った少女のようだった。どうしたものかと僕は、彼女の手前3メートルの場所で立ち止まった。やがて、しゃくりあげるように泣きだし、街灯に照らされたアスファルトに落ちた涙がはっきり分かるくらい泣き続けた。

「あの・・・夜も遅いので、そろそろ帰った方がいいと思うのですが・・・。」

なにはともあれ、間違いなく正しいことを言ってみようと、そう言ってみた。ここで泣き続けるよりも家で泣いたほうが、安全なはず。僕の言ったことは、間違っていないはずだ。

しかし、彼女は一向に泣きやむ気配さえ見せない。こんな時、僕は、このまま帰った方がよかったりするのだろうか?それが、そっとしてやるということなのだろうか?いや、田舎町と言えども、深夜は物騒なことも多い昨今、それは良くないと思う。参ったな・・・なんとか打開策はないものか・・・帰ろうに帰れない。僕は、出したことのないタイプの勇気を出すことにした。

「あのですね、ここいらも夜は危ないと思うのです。僕は、これから公園に行って、缶コーヒーを飲もうと思っているのですが、よければ一緒に行きませんか?あくまで、よければですけど。缶コーヒーもブラックから微糖タイプ、カフェオレなんか色々買ってあるので・・・よければですけど、一緒に缶コーヒーを飲んだりしませんか?」

ぴたりと彼女は泣きやんだ。缶コーヒーに反応したのかどうか分からないけど、結果的に泣きやんだということに僕は、ほっとした。

「一緒に行ってもいいのですか?」

はじめて聞く彼女の声だった。小指の先で触るだけで折れてしまいそうなか細い声。

「あ、あ、は、はい。あくまで、よければですけど。」

そろりそろりと彼女の左手が差し出された。ん?挨拶の握手にしては、反対の手だぞ。あ、もしかて手を繋ぐということか?彼女が左手ということは、僕は右手か・・・なんか、汗かいてきた。でも、ま、まあ、そういうことなのかも。そういう状況に慣れてない・・・というか、こういうことが日常的にあるのも変だけど・・・近くで怖いお兄さんがスタンバイしていることなんかないよな・・・。僕は顔を動かさず、眼球の動く範囲だけを素早く見渡し、周囲に誰もいないことを確認しつつズボンの脇で汗ばんだ手を拭いてから、彼女の左手を受け取り、公園に向かった。冷え切った彼女の手は、僕の手の中で小刻みに震え続けていて、彼女の心が普通じゃない場所にいることは容易に想像出来た。

 僕らは5分ほど歩いた場所にあるジャングルジムだけが設置されている小さな公園のベンチに並んで座った。

そこで何を話したか、よく覚えていない。とりとめのない話・・・お互いに好きなもの、それは本だったり音楽だったり、色だったり匂いだったり、季節だったり景色だったり。話す方も聞く方も不快な気分にならないことについて話し、聞き続けた。ただ、彼女の話し方は少々歪んでいた。延々と話し続けたかと思うと唐突に終わり、終わることを恐れているかのように無理して次の好きなものについて話し始める。そして、引きちぎるように終わり、また話し始める。時間の流れが止まることに激しく抵抗するかのように、沈黙を言葉で埋め続けた。

 夜が明けた。何かを達成したわけでない徹夜明けの朝は、いつも決まって曇り空だ。

「あの・・・申し訳ないんだけど、これからバイトに行かなくてはいけないんで・・・。」

「え?あ・・・はい。すみませんでした。そうですよね、今日はたしか・・・木曜日でしたよね。お仕事ですよね・・・そうですよね・・・すみませんでした。」

「いや、まあ大した仕事じゃないんで、僕がいなくても問題なしなんだけどね。でも、こう・・・なんとなく、一応ね・・・石鹸をつくる会社で梱包作業をやってるんだ。不思議だよね、僕が今日のバイトを休んでも、お風呂に入って身体を洗う石鹸がなくて困る人なんてどこにもいないだろうにね。それどころか、使われずに押し入れなんかの中に入れっぱなしになったまま忘れられている石鹸だらけだと思う、この世の中は。これ以上、しばらくは作る必要のないものを作り続けるための仕事の意味って何だろうと時々考えてしまうんだ。世の中の歯車にさえなれない僕の役割って何だろうとね。君にも僕にも、きっと何かの役割があって生まれてきたんだと信じたいよね。だからかな?休むわけにはいかないと思ってしまうなんて・・・まるで、飼いならされたシモベだね。ところで、君は、今日休みなの?」

「わたしは仕事をしていないんです、今。一緒に暮らしている妹にお世話になっています。夜勤ばかりの仕事だから身体が心配です。わたしがもう少ししっかりしなきゃいけないんですけど・・・だらしない姉なんです。」

「聞いていいのかどうか分からないけど、どこか悪いの?」

「・・・どこが悪いというわけじゃないみたいです。病院に何度か行ってみたんですけど、どこの先生も頭をひねるばかりで。ただ、一日の大半を眠って過ごさないと身体がもたないんです。すぐに疲れてしまうんです。」

「そうなんだね。じゃあ、もう休んだほうがいいよ。自宅に帰って眠らないとね。」

「はい・・・・・・。」

「それじゃ・・・・・・。」

僕はベンチから立ち上がり、彼女にヨーグルトの入ったコンビニ袋を差し出した。

「疲労の回復に効果あるみたいだから、きらいじゃなかったらどうぞ。」

彼女は、コンビニ袋に手を伸ばし・・・ヨーグルトではなく僕の右手を握った。その手は、公園に向かったときのように小刻みに震えていた。

「あの・・・アルバイトっていつ終わるんですか?」

「・・・3時くらいには終わると思うけど。」

彼女は何かを考え込んでいるようだった。そして、うな垂れるように下を向いたまま言った。

「あの・・・ここで待っていたら、また来てくれますか?」

 今度は僕が考え込む番だった。深夜の不思議な出会いから彼女と話した数時間は決して苦痛なものではなかった。いや、むしろ久々にきちんと自分以外の人、それも異性と話せた時間だったような気がする。僕自身、また会えるといいなと、さっきから思っていたりもした。でも、いざ、そうなりそうになると、むむむとなってしまう。それに、ここで待つといっても、季節は8月。今年の夏は、記録的な猛暑だ、なんだと連日、テレビで連呼しているくらい暴力的な暑さが続いている。そう言えば、一日の大半を眠って過ごすと言ってなかったっけ?ここで寝たりすると、間違いなく倒れる。ヘビー級の格闘家でも倒れるだろう。

「答えはYESだよ。ここに来るのは約束する。でも、ここで待っているというのはどうかな?暑いよ、多分というか絶対。必ず来るから、一度自宅に帰ったほうがいいと思うんだけど。部屋で少し寝たほうがいいよ。」

 彼女はゆっくりといやいやをした。

「今日はまだ帰れないんです。多分、妹のお友達だと思うんですけど、怪我をした知らない男の人が部屋で倒れているんです。昨日の夜に目が覚めたら、部屋の中に血だらけの男の人が倒れていたんです。それで、テーブルの上に置き手紙あって・・・妹からの手紙だったんですけど、わたしに危害を加えることはないから気にするなっていう内容だったんですけど、気にしますよね。怖くて怖くて、身体が震えてきて・・・怖くて怖くて・・・それで部屋を出たんです。部屋を出たのはいいけど、どこに行っていいか分からなくて、せめて明るいところにいようと思って、あの電灯の下にいたんです。多分、まだ、あの男の人が部屋にいると思います。だから・・・だから、ここで待ちます。待つのは平気ですから。夕方までだったら、あっという間です。」

 僕がバイトを終えて、ここに来ることが出来るのは、10時間後だ。10時間もこの炎天下にいるなんて無理に決まっている。バイトの時間も迫っている。どうしたもんか。

「じゃあ、こうしませんか?君は、これから汚い僕の部屋に来て、ヨーグルトを食べながら待つというのはどうですか?」

彼女の顔がこちらを向く。

「え?でも、そんな・・・いいんですか?」

「君さえよければ、僕は構いません。男の一人暮らしなんで、時間つぶしが出来るようなものは何もないですけど。ただ、ベッドはあるので、眠ることくらいは出来るよ。」

彼女は、僕の手を握ったまま立ち上がり、頭を下げた。

「すみません・・・おじゃまさせていただきます。」

 僕たちは手を繋いだままアパートに到着した。そして、部屋にあるものは何でも使っていいし、冷蔵庫の中にあるものは何でも食べていいことを伝えて、僕は、バイトに向かった。             

 

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