Sitting On The Fence

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破れかけたマフラーが、後方に白煙を撒き散らすのがミラー越し
に見える。助手席側の足許に開いている穴から、断末魔の呻き声
のような騒音が、不快な排気ガスの匂いと共に容赦なく車内に入っ
てくる。それでも僕は、アクセルを目一杯に踏み込む。
 14歳まで過ごしたこの町に、僕は25年ぶりにやってきた。
 全てが変わってしまったようにも見えるし、何一つ変わってないよ
うなにも見える。ただ、25年という歳月のことを思うと、僕にとってこ
の町は、近くて遠い場所だったのだろう。
 
 僕は、響灘(ひびきなだ)と呼ばれる海をのぞむ町で生まれ育っ
た。ケミカル色のガスが排出される煙突が乱立し、ガリガリに痩せた
野良犬たちの群れが、カラスの大群と餌の奪い合う埋立地に作ら
れた小さな町。そこは、工場地帯を包囲するように建てられたすす
けた社宅や市営住宅に労働者とその家族たちが、ひしめき合うよう
に住んでいた。
潰れた工場の跡地で野球ばかりしていた当時の僕らは知るよし
もなかったけど、大人たちからすれば、決して好んで住むような地
区ではなかったらしい。
 こんなエピソードがある。
 僕らが毎日のように通っていた駄菓子屋があった。そこの店番は、
割烹着姿の意地悪ばあさんときれいなブルーのアイシャドーが印
象的なお姉ちゃんが交代でつとめていた。子供心に、お姉ちゃん
が店番をしていると嬉しかったものだ。
 その駄菓子屋の奥には、6畳の小上がりがあった。窓のない薄暗
いその部屋に入っちゃいけないと意地悪ばあさんから何度も何度
も言われた。それでも入ろうとすることを止めなかった僕らは、その
度にきつく叱られた。
 ケチなばあさんだ、早く死ねなどと、2日に1度は友達同士で話し
たものだ。そして、思春期の入り口に立った頃、その理由を知っ
た。
 そこは駄菓子屋の看板を掲げた売春宿だったのだ。ばあさんが
受付業務を担当し、お姉ちゃんが客と寝る。あの小上がりは、その
ためのスペースだったわけだ。ここの他にも、たこ焼き屋やゲーム
センターなんかで表営業している売春宿が、点在していた。それら
は、響灘を埋め立てた場所で働く工場労働者たちを相手にしてい
たものらしい。
 
 中学1年の夏休み、僕は、親によって進学塾に放り込まれた。父
親の知り合いが始めたばかりの塾で、親同士の付き合いに僕も付
き合わされたようなものだ。
「ねえ、終わったら家に遊びに来ない?」
 同じ夏期講習に通っていた同級生のルミが、声をかけてきた。彼
女は、学年一の優等生であり、僕ら悪ガキ連中イチオシのかわい
い女の子だった。もちろん、僕は即答でYESの返事をした。
 彼女の自宅は、僕らの住む町では数少ない一軒家だ。玄関を入
ってすぐのカビくさい応接間に通された。2DKのアパートに住んで
いた僕は、座り慣れていない革張りのソファーに座って、出された
麦茶を飲んだ。
「これ、どう思う?」
 ルミは、1枚のレコードをセットし、針を落とす。まとわりつくよ
うな声の外国人が歌うはじめて聴くタイプの音楽だった。1曲目が終
わったところで、僕のほうを振り向いた。
「どう?」
正直なところ、曲の良し悪しもルミが僕を呼んでまで聴かせた意
図も、さっぱり分からなかった。ただ、かっこ悪いところを見せるわ
けにはいかない。
「うん、かっこよか。外国っちゅう雰囲気をばりばり感じる」
「そう思う?よかったあ。これ、ローリング・ストーンズっちゅうイギリス
のグループなの。最先端の音楽よ。ロックン・ロールっちゅう音楽な
んよ。」
「なんか聞いたことある。ローリング・ストーンズのロックン・ロールっ
ちゅうのが流行っとるっち聞いたことある。」
 もちろん、口からでまかせだった。ロックン・ロールと言えば、 “横
浜銀蝿”というテレビの歌番組によく出ていた4人組がやっている
音楽のことで、学校のほうきをギターに見立てて、「ツッパリ ハイス
クール ロックン・ロール 登校編」や「お前サラサラサーファーガー
ル おいらテカテカロックンローラー」を歌うぐらいの知識しかなかっ
た。
「宮田くんなら分かってくれるっち思ったんよ。持って帰って聴いて
もいいよ。」
 ルミは頬を上気させて、ローリング・ストーンズの素晴らしさをひと
しきり喋り続けて、そう言った。
「いや、弟がレコードを傷つけたらいかんけ、持って帰れん」
 嘘だった。我が家は、小さなラジカセ止まりでレコード・プレイヤ
ーがなかったのだ。
「じゃあ、好きなときに聴きに来て。ローリング・ストーンズが好きそう
な人、連れてきてもいいよ。」
「うん、そうする。」
 ローリング・ストーンズなんて、どうでもよかった。ただ、もしかした
ら、ローリング・ストーンズのことを好きになれば、ルミと付き合える
かもしれないという中学生くらいの男にありがちな短絡的な期待に
胸が高鳴った。
 帰宅してすぐにレコード・プレイヤーを買ってくれと母親にせがん
だ。
「2学期の中間試験でクラス5番以内に入ったらね。」
 母親は、当時の僕にとって無理難題に近い交換条件を提示して
きた。僕は、それを了解した。
この時期の男は、不純な動機であればあるほど、驚くべき集中
力を発揮させる。
 僕は5番ジャストの順位を手中にし、ポータブルのレコード・プレ
イヤーとルミの家で聴いたローリング・ストーンズのレコード“刺青の
男”を手に入れた。
 また、その頃、ルミの家には、僕のほかに、サッカーの上手い矢
部という男と、ルミの親友だったヨシコの4人が集まるようになって
いた。『ロックン・ロール会』と名づけられたその集まりで、僕らは、
毎週末、少ないレコードとエアチェックしたカセットテープを持ち寄
っては、ロックン・ロールを聴き続けた。

 ポンコツ車は、相変わらず白煙と騒音を撒き散らしながら、目的
地へ向かってくれている。あと、5分くらいで到着する。少々、話を
急ごう。

 『ロックン・ロール会』は、それぞれが別の高校に進学しても、しば
らく続いた……いや、しばらくして終わった。狭い水槽を回遊する
ような生活をしている10代の僕らにとって、違う高校に通うというこ
とは、別々の国に住むようなものだったからだ。
 また、いつからか矢部とヨシコが付き合い始め、『ロックン・ロール
会』よりもデートを優先するようになった。自然と、僕とルミの二人き
りの『ロックン・ロール会』となった。


 忘れもしない、高校1年の夏休み……ルミが前年に購入したロー
リング・ストーンズの“アンダーカバー”のレコードを二人きりで聴い
ていた。
「最近、メンバーの仲が悪いらしいよ」
「うん、そうらしいね。でも、アルバムはかっこいいよな」
「そうね。だから、心配ないと思うんだけど。バラバラになっちゃ嫌
だな。せっかく、ミックやキースたちが出会って作り出したバンドな
んだから、仲良く仲間としてやり続けて欲しいの」
「どうなんだろうな。ロックン・ロールのミュージシャンって、我慢が足
りんそうやけん、バラバラになってしまいそうな気がせん?」
「だから、心配なのよ。私たちが仲良くなったのも、ロックン・ロール
のおかげでしょ?心配なの……ローリング・ストーンズも私たちも。
バラバラはいやなの」
 ちょうど、A面が終わり、居心地の悪い沈黙が降りてきた。青臭い
話には付き合ってられないとばかりに、最新機種のプレイヤーは、
自動でレコードをB面へひっくり返す。プツプツとその沈黙を突付
くようなレコード・ノイズの後、軽快なディスコ・ラインをベースが奏で
始めた。
 トゥー・マッチ・ブラッド!このアルバム中で、僕が最も好きな曲だ。
僕の気分は、ぐんぐんと高揚していく。ここは、男として決めんとい
かん。トゥー・マッチ・ブラッドな感じで、決めんといかん。
「大丈夫ぜ。そんなことになったりせん。もし、そうなっても、ロック
ン・ロールを捨てんかったら、大丈夫。別れっぱなしにはならん。遠
く離れても、ロックン・ロールで繋がり続けるのが、ロックン・ロール
やけん」
 ルミは、しくしく泣き始めた。「俺の言葉に感動している」と思い、
横に座っていたルミの肩を抱いた。そうされたルミは、僕のTシャツ
の袖を握り締めて、泣きじゃくった。
 トゥー・マッチ・ブラッドな感じに間違いない……そう確信した。
 曲は佳境に入り、ミックがシャウトを続ける。僕は、意を決して、ル
ミの両肩を掴み、顔を近づる。決死のファースト・キス。
火花が錯乱した。
ルミの握った拳で、鼻の付け根を打ち砕かれた。
両方の鼻の穴から、血が流れ出てきた。
 まさしく、トゥー・マッチ・ブラッドだった。
「ごめん、宮田くん……本当にごめんなさい。わたし、結婚するまで
は、そういうのダメだって決めてるの……わぁ、すごい血……どうし
よう。ごめんなさい。ティッシュ使って、いっぱい使って!」
 じんじんと痛む鼻の奥に照れくさい罪悪感を隠して、僕は台所で
夕食の準備をしていたルミの母親に挨拶をしてから帰宅した。
携帯電話もメールもない時代の話だ。ごめんの一言が言いづら
く、どうしたもんかと考え続けたけど、名案、妙案浮かぶことなく2週
間が過ぎた。
ルミから電話があった。
「元気?」
「ああ、元気だよ……」
「まだ痛い?」
「あ……いや、もう痛くない」
「ごめんね」
「いや、こっちこそごめん。変なことしてごめん」
「変なこと……じゃないんだろうけど、わたし、そういうのまだダメな
の。ごめんね。宮田くんのこと嫌いとかじゃなくて、結婚するまで、
誰とでもダメなの」
「ああ、分かっとる。俺もそうする」
「嘘つき」
「嘘ついたりせん。結婚するまで、キスも他のこともせん」
 その後、結果的に嘘になったけど、あの時の決心は本気だった。
だけど、男子たるもの、ナニがアレだからさ、なかなか難しいのだ。
「……あのね、もう『ロックン・ロール会』出来ないの。本当は、ちゃ
んと会って言いたかったけど、電話でごめんね」
 やっぱり、あの出来事を気にしているに違いない。
「なんで?もう、絶対にあんなことはせん。約束する、絶対にせ
ん!」
 ジー、ガチャン。公衆電話の硬貨が落ちる音が、受話器越しに聞
こえた。どうやら、ルミは公衆電話から掛けてきているらしい。そう
言えば、聞こえてくる声も遠いような気がする。
 嫌な予感がしたときの僕は、胸の鼓動が早くなる。そして、大抵の
場合、その予感は的中する。
「わたし、昨日、あの家から引っ越したの。今、お母さんの実家」
「なんで?急じゃない?」
「急でもないの。なかなか言い出せなかっただけ。色々あって、お
父さんとお母さんの仲が悪くなってしまって……離婚したんだ。だ
から……」
 ルミは、それ以上何も話すことが出来ず、僕もかけるべき言葉を
失い続けた。ルミの右手に強く握り締められた緑色の受話器が震
えていることが、遠く離れた僕の持つ黒い受話器にはっきりと伝わ
ってくる。
「宮田君……急にごめんね。ありがとう。また、電話するね」
「うん」
 その日以来、ルミから連絡はなかったし、僕はルミの連絡先を知
らなかった。
 『ロックン・ロール会』も自然消滅した。ミックのいないローリング・
ストーンズが成立しないように、ルミを失った『ロックン・ロール会』が
続くはずもない。
 僕は、それまで体験してきた痛みや悲しみとは微妙に違う何かを
しばらく引きずった。世界中が冷奴になったようだった。ひんやりと
深遠な喪失感。
 それからしばらくして、僕は貯金をはたいてギターを買った。ギタ
ーとともにバンドを組み、何人かの女の子と付き合い、そのうち2人
と寝た。その後、大学へは進学せず、音楽関係の専門学校へ行っ
た。卒業してからは、楽器屋やイベント会社などを転々とし、ここ10
年間は、ローカル・エフエム局で番組制作を続けている。
あの日から25年、「片時もルミのことを忘れたことはない」というこ
とでもなかったけど、何かの拍子に思い出すことはよくあった。
 25年の間、それなりに色々なものを失った。それは、女の子だっ
たり、友人だったり、信用だったり、目標や夢だったり、父親の転勤
と共に去ったこの町の風景だったり、時には自分自身だったりもし
た。だけど、ルミがいなくなったあの日以降のような独特で得体の
知れない世界に引きずり込まれることはなかった。
一方で、1度たりとも僕の前から去ることのなかったものが、ひと
つだけある。
 ロックン・ロールだ。
ロックン・ロールだけは、いつも一緒だった。そのおかげで、現在
の仕事であるラジオ製作を任されるようになったとも言える。担当す
る音楽番組は、ちょうど10年目を迎えた。年収にして、200万円に
届かない生活は決して楽じゃないけど、なんとかやっていけている。
 そしてなによりも、ロックン・ロールだけで構成されるこの番組が、
僕を25年ぶりにこの場所へ呼んでくれたのだ。
 “ロッキン・ソファー”というタイトルの僕がナビゲートする番組に、
昨日、ルミがメールを送ってきたのだ。本名そのままで活動してい
る僕の名前を、新聞の端っこで見つけたらしい。
 ルミからのメールとは気づかずに読み始めたそれは、メールらし
からぬとても丁寧で新鮮なものだった。『前略』から始まり、時候の
挨拶へ続く。そして、25年前のことを詫び、結びの挨拶から『草々』
と締められていた。1行空けて記されたルミの名前を見たとき、僕は
瞬時にキーを打って、返信した。

25時に仕事は終わります。電話してくれませんか?
090-22**-**69

25時以降握り締め続けていた携帯電話が鳴ってからのことはよ
く覚えていない。ただ、朝になってもお互い、さようならを言おうとは
しなかった。その中で僕は、ルミが2年前に離婚したこと、あの町に
建った新しいマンションに住んでいること、そしてローリング・ストー
ンズをはじめとするロックン・ロールを聴き続けていることを知った。
お互いの部屋から見えた空があまりにきれいで、僕らはどちらから
ともなくこう言った。
「これから会おうよ。」

 さて、到着だ。現在では廃校となり、校舎が取り壊されグラウンド
だけになった僕らが通っていた小学校の校門をフルスピードで突
破した。
 想像していたよりも小柄な女性が、昔のまま残っている海沿いの
錆びたフェンスに腰掛け、運転する僕の方を向いて、小さく手を振
っていた。彼女の背後に、巨大な風力発電機群が並んでいるのが
目に入る。僕は、カー・ステレオのボリュームを最大にしてから、車
の窓を開け放った。僕らが、ロックン・ロールに出会い、夢中になっ
た頃、すでに伝説になろうとしていたこの町出身のロック・アーティ
ストが歌う。

フェンスに腰掛け 明るい空の下
考えているところ これから何をやろうかな
(#ルースターズ『Sitting On The Fence』より)

エッジのきいたギター・サウンドが海風に乗り、フェンスの向こう
へ突き抜ける。風力発電機のプロペラたちが、ぐんとスピードを上
げたように感じた。

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AIR SILKY 02 発売

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やっとやっと、“02”がリリースされます。
今春に発売する予定が、この時期になってしまいました。
理由は、僕らがルーズだからです。
すみません・・・。
戒めを込めて、スケジュール帳機能をつけました。
来年のスケジュール帳としてもいかがですか?

初版は200部ですが、お蔭様で150部くらいは行く先が決まってしまいました。
残り50部・・・せかすわけじゃないけど、お早めにw。

北九州市小倉周辺に住んでいる方は、クエストにて販売予定ですので
足を運んでみてください。
採算度外視の1000円(文庫本サイズ/モノクロ/1000円送料込み)です。
ショップなどに置いてくれる方も募集します。(その際は、増刷します)
詳細は以下で。
【Air Silky】http://airsilky.com/

よろしくお願いいたします。

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夜食用のサンドウィッチと缶コーヒーを近所のコンビニで購入した後、僕は家族が眠る自宅に歩いて向かっている。なだらかな坂に映る僕の長い影は、道路の凹凸に合わせて時々歪む。平均年齢60歳をはるかに超えている我が町内の深夜4時過ぎは、これから来る朝を待つのでなく、そのまま世の中の終わりに向かっているような深遠な静けさに満ちている。

24時間営業のコンビニがいくら増えようとも、今も昔も変わらず、間違いなく夜は来る。毎晩訪れる夜であるが、金曜日の夜だけは、他と違った意味を持っている。夜明け前、二つの世界に切り離されるのだ。便宜的に、あちら側の世界とこちら側の世界と呼んで僕らは分けている。こちら側の世界にとどまるのは、世界中に60人程度いるらしい。僕の家族を例にとると・・・妻と二人の子供たちはあちら側の世界の住人となり、僕だけがこちらの世界に残る。この時間、あちら側にいる人々と、僕らこちら側にいる人々は交信することは出来ない。携帯電話を没収された恋人のようなものだ。叫んでも叫んでも、すとんと声は吸い込まれてしまう。何故そうなるのかは分からない。分からないけど、そうなるのだ。脈々と受け継がれてきた金曜日の夜の仕組みは、曲げようがない。
 静かに鍵を回し、ドアをあける。深夜4時の我が家は、この時間、あちら側の世界に属している。あちら側の世界で、こちら側の世界の住人が呼吸をすることは禁じられている。両者が交じり合うと、果てしないメルトダウンが始まるそうだ。それは、世界の終わりに繋がっているらしい。息を止めたまま、妻と2人の小さな子供たちが目を覚まさないように静かにゆっくり階段を上がる。2階の廊下を突きあたりが僕の部屋だ。モンゴルの岩塩とペルーの赤土を混ぜたもので結界を張ったその部屋は、この時間のこの家の中で唯一こちら側の世界に属している。部屋に入り、一気に息を吐き、そして吸った。今夜も無事に帰還出来たことに小さくガッツポーズをする。
 窓際に椅子を寄せ、サンドウィッチ、缶コーヒー、携帯電話を5センチ幅ほどの窓枠スペースに置く。
 昼間の空と同様、夜空にも色々な表情がある。こちら側の世界の住人になって、夜空について詳しくなった。今夜は、タイプPⅢと呼ばれる南半球の洋上でよく観測されるタイプのものだ。北半球のちょうど真ん中あたりに位置するこの窓からは、年に2,3度程度のみしか見ることの出来ない珍しいタイプのものだ。なんとなく得をしたような気分がして、僕はククット下を向いて笑った。
 5時39分・・・今日の日の出時間まで、あと2分だ。うっすらと空は地球色を帯びてきている。
 大勢のカラスたちが、寝床にしている下水管から次々と現れ、空を周回し始めた。

 【シュシュッ】

 5時41分。FM音源を使って自作したメールの着信音が短く鳴った。時を同じくして、あちら側の世界とこちら側の世界を分けていた境界線が瞬時に落ちる。ふたつの世界は、ほんの少しだけ躊躇った後、カフェオレボールに注がれるミルクとコーヒーのように柔らかく交じり合い、溶けていく。僕は、携帯電話を手に取り、届いたメッセージを開いた。

『おはようございます。点検・保守の完了をお知らせします。今週の陥落地区はゼロです。ご協力ありがとうございました。来週もよろしくお願いいたします。(二夜公団統括)』

 6年前に受け取ったこちら側の世界への招待メールをきっかけに、毎週金曜日の早朝は窓際で空を眺めながら迎えるようになった。あちら側とこちら側の世界の違いなんて何一つ分からないし、僕のやっていることが、どう役に立っているのかも知らない。それを上手く混ぜ合わせることに失敗する・・・つまり、陥落すると起こるらしいメルトダウンとは何なのかも不明だ。なんでも時計の針が刻んでいる横軸の時間でなく、縦軸の時間が暴走し飛び散ってしまうことらしいが、それが実際どういうことなのか皆目見当つかない。ただ、世の中というか世界中に難解な出来事が増えているのは、どうもこのふたつの世界が交じり合ってしまった地区が増えていることが原因らしい。
 まあ、僕には分からないことだらけだけど、なんとなく世の中に役立っているのかもという予感と期待だけで、6年間続けてきた。ただ、窓の外をじっと見上げるだけでいいのだから、不器用な僕でも何とかなると思ったし、実際、何とかなっている。6年たった現在でも、この日を指折り数えて待っていたりする。
 金曜の朝から始まる新しい1週間が始まった。
 窓を開け、缶コーヒーのプルタブを引っ張り、朝の引き締まった空気と共に飲み込む。
 世界のみんな、おはようございます。

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ステレオ 3

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「あのな、お前が言っているマイは病気なんだよ。病気。」

「もしかして、君はマイさんが昨日言っていた妹さんですか?」

「違うよ、バカ。マイに妹なんかいねぇよ。」

「でも、昨日、たしかに妹の話をしていたんだけど・・・。」

彼女は何かを迷っているようだった。底なしに暗い湖の水面を見るような目で僕を見た。それは、さっきまでの攻撃的な彼女とはあまりに違った。

解離性同一性障害って分かるか?」

「カイリセイ・・・ドウイツセイ・・・ショウガイ・・・・。」

「分かんねぇよな。じゃあ、多重人格なら分かるか?」

「ビリー・ミリガンのやつ?」

「まあ、そうだな、それだ。厳密には、そのふたつは同じもんじゃないけど、まあ似たようなもんだ。マイは、その多重人格という病気なんだよ。病人なんだよ。だから、マイに変な気を起こすんじゃねぇぞ。」

彼女は、壁に刺さっている果物ナイフと包丁を目で追いながら言った。

「あの・・・もしかして、君は・・・そのマイさんの・・・何て言ったらいいのか・・・つまり、多重人格だから・・・。」

「そうだ。別人格だよ。マイにとって都合の悪いものを受け持ったり、処理したりする人格部分だよ。多分、マイはこの部屋で眠ったんだよ。眠ると、あいつはいつも同じ夢を見る。小さな頃から毎日見てしまうどうしようもなく嫌な夢をね。夢から覚めると、入れ替わるんだよ。その夢の後、目を覚ますのは、わたしなんだよ。」

「目覚めたら、知らない部屋に来ていたと・・・。」

「まあ、そういうことだ。起きてみたら、本とCDが少しあるだけの殺風景な部屋でびっくりしたぜ。この部屋の住人・・・お前がいなかったから、そのまま帰ろうかと思ったけど、どんなツラした奴が鼻の下伸ばして帰ってくるか見てみたくなった。少しばかり、痛みつけてやろうと思って、ナイフと包丁を研いで待ってたんだよ。そこにお前がのこのこ帰ってきたというわけさ。災難だったな。悪く思うなよ。」

 彼女の話している内容は分かるけど、きちんと理解するのはいささか困難だ。目の前にいる女性の姿は、僕にとって、今朝までのマイさんそのものだった。だけど、どうやら彼女はマイさんじゃないらしい。マイさんの姿かたちをした女性が、自分はマイさんじゃないと言う。マイさんは病気・・・カイリセイなんとかという多重人格のような病気で、この女性は、マイさんの別人格だと。こんなことって、本当にあるのだろうか。いや、あるにはあるにちがいない。だって、目の前にいるマイさんと思われる女性は、今朝まで一緒にいたマイさんとは、どう考えても別人だ。演技でないことは、鈍感な僕でも分かる。第一、演技をする必要性はない。

「あの信じてないわけじゃないんだけど、と言うより、むしろ信じざるをえないと思っているくらいなんだけど、君がもしマイさんの別人格だとしたら、君にも君の名前があったりするのですか?」

「当たり前だよ、バーカ。何度も言うけど、わたしはマイじゃないっつうんだよ。わたしの名前は、ユカ。愉快な時間なんてこれっぽっちもない・・・苦しかったり、痛かったり、悲しかったり、怖かったりする時間だけを背負っているユカさんだよ。愉快のユカじゃなくて、不愉快のユカだよ。」

「ユカさんか・・・はじめまして、ユカさん。」

「うっせぇよ、バーか。お前となんか、金輪際会わねぇよ。いいか、マイに変なことするんじゃねぇぞ。て言うか、もうマイとは会うんじゃねぇぞ。言っとくけど、マイとヤるのは無理だからな。マイがこんな病気になったのは、小さな頃の地獄のような虐待が原因なんだ。獣のような奴らに受けた性的な虐待もあった。だから、マイにとって、セックスは病気の核に触れてしまいようなもんなんだ。ヤろうとした瞬間にマイは、わたしに入れ替わってしまうのさ。目が覚めたときに目の前にニタニタしたお前がいたら、間違いなく半殺しにするよ。本気だぜ。昨日の男もそうだよ。どこでどうやって、あんな不細工な男を拾ってきたのか知らないけど、とりあえず血祭りにあげてやった。」

「そんなこと、これっぽっちも考えてなかった。本当です。」

「嘘こけ!かっこつけるな、インポ野郎!」

それにしても、言葉遣いの悪い女性だ。綿菓子のようなしゃべり方をするマイさんと、ひとつの身体を共有しているとは思えない。病気と言えども、理解に苦しむな。

「あの、ひとつ聞きたいんだけど、多重人格であることをマイさんは知っているの?」

「マイは知らねぇよ。マイは、自分のことを身体が弱いから一日中寝て過ごすしかないと思っているみたいだけど、本当に壊れているのは身体じゃなくて心なんだよ。それに、多重人格だからと言って、誰かが生活費をくれるわけじゃねぇから、マイが生きていくためにわたしが夜、飲み屋で働いているんだよ。朝近くまでやっている店でラストまで働いているんだよ。だから、昼間は寝てばかりいるのさ。わたしが一晩中働くために、マイは一日中寝ているというわけさ。わたしはわたしで、大変なんだよ。」

「そうなんだね・・・ユカさんも大変そうだね。」

「うっせぇよ、バーか。お前なんかに同情されたくねぇよ。いいか、もうマイのことは忘れろ。もう会うな。会ってもヤれないんだから、他の女のところにとっと行けや。」

そう言うと、彼女はマイさんが持ってきた小さなバッグを手に取り、玄関に向かった。

「いいか、もう会うな。ヤれない女と付き合っても面白くねぇぞ。だから、もう会うな。」

 彼女は少々乱暴にドアを閉め、帰って行った。

 マイとユカ、多重人格・・・あまりに不思議な出来事が嵐のように去って行った部屋と残された僕の心は、密度の薄いスポンジのように、そこにあるけど空虚の塊のようにフリーズしてしまった。

 あれほど鳴いていた蝉は、違う国に行ってしまったかのように鳴くことをやめていた。それは、まるで昨日から続く不思議な一日の終わりと告げているようだった。

 しかし、終わりではなかった。終わりに向かう終わりのような恋の始まりだった。

ステレオ 2

テーマ:
奇妙な夜の感触を残したまま、石鹸の梱包作業をいつも通りこなした。この日のアルバイトは、いつにも増していつも通りに進み、終わった。僕が中心の世界で何が起ころうとも、僕が中心でない世界には何も影響を及ぼさない。まあ、そんなもんだ。世の中にとって、僕の役割とは何なんだろう?うとうとと帰りのバスの中で考えてみたけど、1ミリも答えに近づくこともないまま、いつも通り、きっかり15分で自宅近くのバス停に到着した。

 バス停の目の前が僕の住むアパートだ。異性が待つ自分の部屋に帰るのは、はじめての経験で、少しばかり浮かれた気分でドアを開けた。

 しかし、世の中はそんなに甘くない。部屋の中では、僕が中学生のときに買ったジミー・ヘンドリックスのアルバムが、耳を劈くばかりの爆音でかかっていた。昨晩に聞いた話では、彼女の好きな音楽はボサノバなどのナチュラルテイストのものがメインで、こういった攻撃的な音楽は嫌いというより苦手だと言っていたような気がするが・・・。あまりの轟音にドアごと吹っ飛ばされそうになった。

 冬の深い夕闇を迎えている時間帯、カーテンを締め切った北向きの部屋は真っ暗だった。両手で耳を塞ぎ、何故か腰を屈めた姿勢で部屋に入った。

「ただいま!電気点けるよ!」

ジミヘンがかき鳴らすギターに負けないような大声で言ってから、スイッチを押した。ソファーに立て膝ついて座る彼女がいた。射抜くように僕を見据えている。

「お前は誰だ?」

今朝までの彼女とは明らかに目つきの違う彼女が言った。僕は誰だ?誰なんだ?というより、彼女は誰だ?誰なんだ?

 何が何だか分からないまま、僕は彼女のことを観察してみた。少なくとも、彼女は僕のことを歓迎していないようだ。不法侵入者を見るような目で僕を見ている。でも、ここは僕の部屋で、どちらかというと僕は敵意と受けるより感謝されるべき存在だと思う。僕が石鹸の梱包をしている間にこの部屋で何かあったのだろうか。何はともあれ、彼女の態度は、誤解からくるものだと思う。その誤解を解かなければ、どうも具合が悪い。居心地が悪い。こういうときは、なるべく相手を刺激しない態度・・・あくまで、普通の会話らしく何気ない流れを心がけるべきだ。僕は、彼女とキッチンに立って食事を一緒に作っている光景を頭に思い浮かべた。玉子焼きは、砂糖入りが好きかどうか聞くようにこう尋ねてみた。

「なんだか、今朝までと様子が違うけど、どうかしたの?」

と言い終わってなかったと思う。目の前が一瞬光った。光は僕の耳元をかすめ、鋭縁な音が走り抜けた。振り返ると、壁にナイフが刺さっていた。僕がいつも使っている果物ナイフ。僕は条件反射のように両手をあげた。情けないけど、無意識にそうしていた。戦意喪失の合図だ。というよりも、戦意なんてはじめからない。どちらかと言えば、好意しかなかった。彼女の待つ僕の部屋に一刻も早く戻りたく、小走りに近い早歩きで帰ってきたくらいだ。ただ、こういった状況には当たり前だけど慣れていない。戦う術も知らない。というわけで、僕の取りうる最大限の防御反応して、本能が瞬時に選んだのが、ホールドアップだったようだ。かっこ良くはないけど、悪くない選択だったと思う。

「お前は誰だ?」

彼女は、同じ質問をした。なぜ、今朝あったことを他人事のように聞くのだろう?

「公園で・・・缶コーヒーを一緒に飲んだのを覚えてない・・・かな。」

僕は、玉子焼きには砂糖を入れるほうが好きなんだよと言うように、両腕を上げたままの姿勢で答えた。幾分、声が震えていた。

「もう1度聞く。オ・マ・エ・ハ・ダ・レ・ダ?」

どうやら、彼女の記憶から僕という存在、そして多分、昨晩から今朝にかけての出来事が消えているらしい。らしいけど、そんなことってあるのだろうか?寝起きで寝ぼけているのだろうか。だったら、早く目を覚まして欲しい。

「・・・僕の名前は、シンヤ・・・電柱の前で気を失ったように立っていた君のことが心配で声をかけて、その後、公園で缶コーヒーを一緒に朝まで飲んで、君が妹と一緒に住んでいるアパートには帰れない・・・なんか、怪我をした異性がいるとかどうとかで・・・それで、こんな厚い中、その公園でずっと過ごすというから、それは過酷だなぁと思って、それじゃあ、僕の部屋で休んでいてもいいよと提案したら、じゃあ、そうしますということで・・・それで、多分、今、こういう状況になっているというか・・・あ、でも、僕の記憶違いだったらごめん。」

「なんで、お前は初対面の女を部屋に連れ込んだりしたんだ?」

「連れ込む・・・連れ込んだつもりはないよ。君が自分の部屋に帰れない上にその公園で日中過ごすというから、こんな炎天下に。身体もあまり強くないというし、僕は気ままな一人暮らしだし・・・だったら、適当に僕の部屋を使えばいいと提案したら、君は喜んで同意してくれた・・・たしか、そんな流れなんだけど・・・記憶違いだったら、ごめん。本当にごめん。」

我ながら情けない姿だったと思う。両手は天井に届かんばかりに真っ直ぐ伸ばされ、幾分、支離滅裂になりながら、声は時折、裏返り、必死にこの状況から逃れようと言葉を選んで、彼女を刺激しないような言葉を選んで彼女に説明した。でも、よくよく考えてみれば、ここは僕の部屋なのだ。スポーツでいうところでのホームだ。これじゃ、まるでアウェイだよ。

「微塵でも嘘をついたら、お前は死ぬよ。壁に突き刺さっているナイフとは別に、もう一本あるからね。さっき、顔をすり抜けたのは偶然じゃないよ。狙ったんだからね。この距離だったら、お前の着ているシャツについている左胸ポケットの真ん中を百発百中させる自信があるからね。だから、嘘をつくんじゃないよ。」

彼女は左手に隠し持っていた包丁を右手に持ち替えた。

「嘘はついてないよ。神様にでも何でも誓っていい。君の名前だって知っている。」

彼女は顔がピクリと動いた。

「言ってみな。」

「マイさんだろ。」

「・・・ヤッたのか?」

彼女は何を言っているのだろう。したのかしてないのかは、自分が一番知っているはずだ。今朝、僕がこの部屋に5分間もいなかったと思う。着替えて、顔を洗っただけだ。寝起きで寝ぼけているんだったら、そろそろ正気に戻ってほしい。

「してないよ。誓ってしてない。言っておくけど、証明なんて出来ないよ。昨日の夜から朝にかけて、僕は君と公園にいただけで他の誰とも会ってないし、朝になって部屋に帰ってからは、僕は着替えただけで、君はその間、キッチンで待ってた。つまり、君と会って以来、第三者は誰も存在してないんだ。だから証明できない。証明できないけど、嘘はついていない。誓って嘘はついていない。」

 目の前が光った。果物ナイフに比べて大きい分だけ、その音は耳元でいくらか太く唸った。死ぬときなんてあっけないもんだ。とっさに身を守ろうとした僕の本能は、顔の前で腕をクロスさせた。そこじゃい!守るのところは、胸だ。左胸だ。心臓だ。心の臓だ!

 ドスッと音を立てて、包丁は僕を中心に果物ナイフとは、反対側・・・左側の壁に突き刺さった。僕は、両手をクロスさせたまま腰から落ちた。どうやら、まだ生きているようだ。勘弁して欲しい。

「だろうな。あいつが、ヤれるわけないからな。」

 外は、夏が終わることに精一杯、抵抗をするかのように蝉が鳴いている。雨が降っているのだろうか。遠くで雷が鳴る音がする。彼女はなにやら考え事をしている。胡坐を組んだ膝に両肘を乗せて、目だけ僕の方に向けて頭を抱えた。

ステレオ 1

テーマ:

市街地を戦車が列をなして整然と進んで行く。舗装された道路には、幾筋ものキャタピラの跡が走り、それはまるで頬を伝う涙のようだ。初秋を彩るはずの色彩などどこにも見えず、窓の外の光景は、古いモノクロ映画のようにノイズ混じりで暗いトーンに沈んでいる。

ここはどこだろう。石造りの古ビルの3階・・・窓際に立ち、カーテンの隙間から道行く戦車を眺めている。

ひときわ大きな戦車がビルの正面で止まった。音というより振動に近い微弱な低音とともに砲台が動きだした。身を隠しているこの部屋で、砲口の先が静止した。戦車砲の先で何かが動く。

動いているのは、ポニーテールに髪を結わえた少女だった。右手だけを前方に突き出した少女時代のわたしだった。彼女は無邪気に微笑み、何かを叫んだ。戦車砲に何かが装填される。ガチャ・・・その音は、この部屋を破壊する意思となって、わたしに届いた。

「わたしは味方よ!!!」

カーテンを引き裂き、窓を開けた。

 少女はゆっくりと右手を頭上に掲げ、勢いよく振り下ろした。轟音とともに、真っ白い光の膜がすべての視界を奪った。

 僕とマイは、3年前、深夜の路上で出会った。コンビニで数日分の朝食用にと缶コーヒーとヨーグルトを購入しての帰り道、電柱の脇で呆然と立ち尽くすマイに出会った。日ごろの僕は、見知らぬ女性に声をかけるようなタイプではない。そんな勇気はない。知り合いの女性であっても、確固たる用事がなければ、話しかけることもほとんどない。一人でいることが好きなこともあるが、異性との接し方というのが、どうも分からない。しかし、彼女をそのまま放って帰るには、少しばかり躊躇われる様相を彼女はしていた。僕を見た彼女は、シクシク泣き始めたのだ。帰るべき家を失った少女のようだった。どうしたものかと僕は、彼女の手前3メートルの場所で立ち止まった。やがて、しゃくりあげるように泣きだし、街灯に照らされたアスファルトに落ちた涙がはっきり分かるくらい泣き続けた。

「あの・・・夜も遅いので、そろそろ帰った方がいいと思うのですが・・・。」

なにはともあれ、間違いなく正しいことを言ってみようと、そう言ってみた。ここで泣き続けるよりも家で泣いたほうが、安全なはず。僕の言ったことは、間違っていないはずだ。

しかし、彼女は一向に泣きやむ気配さえ見せない。こんな時、僕は、このまま帰った方がよかったりするのだろうか?それが、そっとしてやるということなのだろうか?いや、田舎町と言えども、深夜は物騒なことも多い昨今、それは良くないと思う。参ったな・・・なんとか打開策はないものか・・・帰ろうに帰れない。僕は、出したことのないタイプの勇気を出すことにした。

「あのですね、ここいらも夜は危ないと思うのです。僕は、これから公園に行って、缶コーヒーを飲もうと思っているのですが、よければ一緒に行きませんか?あくまで、よければですけど。缶コーヒーもブラックから微糖タイプ、カフェオレなんか色々買ってあるので・・・よければですけど、一緒に缶コーヒーを飲んだりしませんか?」

ぴたりと彼女は泣きやんだ。缶コーヒーに反応したのかどうか分からないけど、結果的に泣きやんだということに僕は、ほっとした。

「一緒に行ってもいいのですか?」

はじめて聞く彼女の声だった。小指の先で触るだけで折れてしまいそうなか細い声。

「あ、あ、は、はい。あくまで、よければですけど。」

そろりそろりと彼女の左手が差し出された。ん?挨拶の握手にしては、反対の手だぞ。あ、もしかて手を繋ぐということか?彼女が左手ということは、僕は右手か・・・なんか、汗かいてきた。でも、ま、まあ、そういうことなのかも。そういう状況に慣れてない・・・というか、こういうことが日常的にあるのも変だけど・・・近くで怖いお兄さんがスタンバイしていることなんかないよな・・・。僕は顔を動かさず、眼球の動く範囲だけを素早く見渡し、周囲に誰もいないことを確認しつつズボンの脇で汗ばんだ手を拭いてから、彼女の左手を受け取り、公園に向かった。冷え切った彼女の手は、僕の手の中で小刻みに震え続けていて、彼女の心が普通じゃない場所にいることは容易に想像出来た。

 僕らは5分ほど歩いた場所にあるジャングルジムだけが設置されている小さな公園のベンチに並んで座った。

そこで何を話したか、よく覚えていない。とりとめのない話・・・お互いに好きなもの、それは本だったり音楽だったり、色だったり匂いだったり、季節だったり景色だったり。話す方も聞く方も不快な気分にならないことについて話し、聞き続けた。ただ、彼女の話し方は少々歪んでいた。延々と話し続けたかと思うと唐突に終わり、終わることを恐れているかのように無理して次の好きなものについて話し始める。そして、引きちぎるように終わり、また話し始める。時間の流れが止まることに激しく抵抗するかのように、沈黙を言葉で埋め続けた。

 夜が明けた。何かを達成したわけでない徹夜明けの朝は、いつも決まって曇り空だ。

「あの・・・申し訳ないんだけど、これからバイトに行かなくてはいけないんで・・・。」

「え?あ・・・はい。すみませんでした。そうですよね、今日はたしか・・・木曜日でしたよね。お仕事ですよね・・・そうですよね・・・すみませんでした。」

「いや、まあ大した仕事じゃないんで、僕がいなくても問題なしなんだけどね。でも、こう・・・なんとなく、一応ね・・・石鹸をつくる会社で梱包作業をやってるんだ。不思議だよね、僕が今日のバイトを休んでも、お風呂に入って身体を洗う石鹸がなくて困る人なんてどこにもいないだろうにね。それどころか、使われずに押し入れなんかの中に入れっぱなしになったまま忘れられている石鹸だらけだと思う、この世の中は。これ以上、しばらくは作る必要のないものを作り続けるための仕事の意味って何だろうと時々考えてしまうんだ。世の中の歯車にさえなれない僕の役割って何だろうとね。君にも僕にも、きっと何かの役割があって生まれてきたんだと信じたいよね。だからかな?休むわけにはいかないと思ってしまうなんて・・・まるで、飼いならされたシモベだね。ところで、君は、今日休みなの?」

「わたしは仕事をしていないんです、今。一緒に暮らしている妹にお世話になっています。夜勤ばかりの仕事だから身体が心配です。わたしがもう少ししっかりしなきゃいけないんですけど・・・だらしない姉なんです。」

「聞いていいのかどうか分からないけど、どこか悪いの?」

「・・・どこが悪いというわけじゃないみたいです。病院に何度か行ってみたんですけど、どこの先生も頭をひねるばかりで。ただ、一日の大半を眠って過ごさないと身体がもたないんです。すぐに疲れてしまうんです。」

「そうなんだね。じゃあ、もう休んだほうがいいよ。自宅に帰って眠らないとね。」

「はい・・・・・・。」

「それじゃ・・・・・・。」

僕はベンチから立ち上がり、彼女にヨーグルトの入ったコンビニ袋を差し出した。

「疲労の回復に効果あるみたいだから、きらいじゃなかったらどうぞ。」

彼女は、コンビニ袋に手を伸ばし・・・ヨーグルトではなく僕の右手を握った。その手は、公園に向かったときのように小刻みに震えていた。

「あの・・・アルバイトっていつ終わるんですか?」

「・・・3時くらいには終わると思うけど。」

彼女は何かを考え込んでいるようだった。そして、うな垂れるように下を向いたまま言った。

「あの・・・ここで待っていたら、また来てくれますか?」

 今度は僕が考え込む番だった。深夜の不思議な出会いから彼女と話した数時間は決して苦痛なものではなかった。いや、むしろ久々にきちんと自分以外の人、それも異性と話せた時間だったような気がする。僕自身、また会えるといいなと、さっきから思っていたりもした。でも、いざ、そうなりそうになると、むむむとなってしまう。それに、ここで待つといっても、季節は8月。今年の夏は、記録的な猛暑だ、なんだと連日、テレビで連呼しているくらい暴力的な暑さが続いている。そう言えば、一日の大半を眠って過ごすと言ってなかったっけ?ここで寝たりすると、間違いなく倒れる。ヘビー級の格闘家でも倒れるだろう。

「答えはYESだよ。ここに来るのは約束する。でも、ここで待っているというのはどうかな?暑いよ、多分というか絶対。必ず来るから、一度自宅に帰ったほうがいいと思うんだけど。部屋で少し寝たほうがいいよ。」

 彼女はゆっくりといやいやをした。

「今日はまだ帰れないんです。多分、妹のお友達だと思うんですけど、怪我をした知らない男の人が部屋で倒れているんです。昨日の夜に目が覚めたら、部屋の中に血だらけの男の人が倒れていたんです。それで、テーブルの上に置き手紙あって・・・妹からの手紙だったんですけど、わたしに危害を加えることはないから気にするなっていう内容だったんですけど、気にしますよね。怖くて怖くて、身体が震えてきて・・・怖くて怖くて・・・それで部屋を出たんです。部屋を出たのはいいけど、どこに行っていいか分からなくて、せめて明るいところにいようと思って、あの電灯の下にいたんです。多分、まだ、あの男の人が部屋にいると思います。だから・・・だから、ここで待ちます。待つのは平気ですから。夕方までだったら、あっという間です。」

 僕がバイトを終えて、ここに来ることが出来るのは、10時間後だ。10時間もこの炎天下にいるなんて無理に決まっている。バイトの時間も迫っている。どうしたもんか。

「じゃあ、こうしませんか?君は、これから汚い僕の部屋に来て、ヨーグルトを食べながら待つというのはどうですか?」

彼女の顔がこちらを向く。

「え?でも、そんな・・・いいんですか?」

「君さえよければ、僕は構いません。男の一人暮らしなんで、時間つぶしが出来るようなものは何もないですけど。ただ、ベッドはあるので、眠ることくらいは出来るよ。」

彼女は、僕の手を握ったまま立ち上がり、頭を下げた。

「すみません・・・おじゃまさせていただきます。」

 僕たちは手を繋いだままアパートに到着した。そして、部屋にあるものは何でも使っていいし、冷蔵庫の中にあるものは何でも食べていいことを伝えて、僕は、バイトに向かった。             

 

満月前夜のプレイボール 後編

テーマ:

わたしたちは、10年前まで通っていた高校に向かうなだらかな坂道を歩いている。胸の鼓動は、10年前のあの日と同じく痛いくらい鳴っている。

はじめて彼と手をつないだあの夜と同じように。

「結婚してるのか?」

「してないよ。」

「付き合っている人は?」

「いないよ。」

「なぜ?」

「こんな田舎にいい人いないもん。」

「そっか。じゃあ、失礼します。」

そう言うと彼は、わたしの左手を握った。身体中のすべての器官が彼の右手に覆われたような心地よさ・・・あのひんやりと柔らかな手は、10年前といっしょだった。頬を流れる夜風に乗って、このまま溶けてしまいそう。

わたしたちは、終始無言で歩き続けた。

予想どおり、校門は閉ざされていた。それを見た彼は、手をつないだまま、進行方向を右に変えた。そのままフェンスづたいに歩く。フェンスは張り替えられたばかりなのだろう。錆びた枠の中に、真新しい緑色の格子が闇夜の中にどこまでも続いている。それはまるで、夜の海に光る珊瑚のようだった。

「ぜったいあると思うんだよなぁ。」

フェンスひとつひとつを確認していく彼はうれしそうだ。

「やっぱりあった、これだ。」

小さな赤いリボンが結ばれてあるフェンスを指差して言った。そのまま腰をかがめ、リボンの真下にあるこぶし大の石をはぐると、小さなプラスティック製の印鑑ケースがあった。彼は、その中に入っている鍵を取り出した。

「よしよし。我ら野球部の伝統は、いまだに守られているようだ。」

「なんかうれしいね。この色あせた赤いリボンも鍵が入っているケースも同じ。」

わたしたちはどちらからともなく、グラウンド脇にある通用門に向かって走りだした。というか、手はつないだままだったから、一人が走ればもう一人も走らざるをえない。手を繋いで走るなんて、高校を卒業して以来だ。

正門の真裏に位置する通用門に到着した。しかし、当たり前のように通用門は閉まっている。だけど、わたしたちには鍵がある。学校に内緒でコピーした野球部伝統の合鍵。それを使って落書きだらけの南京錠を開け、通用門をぐるぐるに巻いている鎖を解き放った。鎖は軽快な音ともに地面になだれ落ちる。落ちた鎖を脇の草むらに寄せ、鉄製の重い門をスライドさせる。岩をくだくような音とともに通用門を二人で移動させた。ガラガラガラ。わたしたちは、校内に足を踏み入れた。そこは、10年ぶりのグラウンドだ。

走ってきた道からたった一歩だけ足を踏み入れた世界は、おそろしく静かだった。しんと静まり返った土の呼吸さえ聴こえてくるようだ。森の中を彷徨った後にたどり着いた広大な湖。何もないがゆえの美しさ。言葉を失い、わたしたちは、ただその光景を見つめ続けた。わたしは左手にちょっぴり力を込めた。

「スター選手がやる引退試合をやってみたいんだ。球団を辞めたのは自分からだけど、どうもまだ終わってないような気がするから。」

「いいんじゃない。同級生たちなんか集めてやろうよ。同窓会絡めて試合やろうよ。わたし協力するよ。何人か連絡つくし。」

「いやそうじゃなくて。今からここでやりたい。」

「今?ここ?どうやって?わたしと?」

「そう。今からここで君と。」

いまいち彼の言っていることが分からなかった。いや、さっぱり分からなかった。でも、なんでもいい。彼と一緒にいられるなら、なんでもいい。

「・・・いいよ。で、わたしはどうしたらいいの?」

「まずは準備運動だね。筋肉への急激な負担の付加は故障の元凶だからね。まあ、肘を壊したピッチャーが言うなという話だけど。」

冗談めかして言った彼は、わたしから手を離しゆっくりとグラウンドの外周を走り始めた。わたしはグラウンドの端っこに立って彼の姿を目で追う。悠然と走るその姿に、実は何も変わってないんじゃないかと思ってしまう自分がいた。彼もわたしも、わたしと彼も。わたしの左手には、彼の感触がまだ残っている。彼は時折スピードを速めたり、ジグザクに足を交差させて走っている。澄みきった空気は、彼の吐く息さえ見せてくれた。

「マネージャーさーん。ラスト1周でーす。」

彼の声が聞こえた。我が野球部の伝統を思い出す。ラスト1周は、マネージャーも一緒に走る。わたしはサンダルを脱ぎ、裸足になってから、23度屈伸をした。彼が近づいてくる。柔和な表情は、わたしの緊張をゆるやかにほぐしてくれた。

わたしと彼は並んで走った。

「なんか懐かしいね。」

「だね。」

足の裏から伝わるグラウンドの湿めやかなぬくもりが10年前の病院で持ちえなかった勇気を与えてくれた。

「あのときは、こうやってずっと走っていられると思ってたんだよな、誰もがみんな。」

「なんであんなに毎日が楽しかったのかしら。」

「毎日毎日、新しい毎日・・・新しい日常だったからじゃないかな。」

彼らしい言い回しだ。非日常じゃなくて、新しい日常。

「10年間おつかれれさまでした。」

「ははは。まあ、ぱっとしない10年間だったけどね。」

「ごめんなさい。」

「また、あやっまてる。あやまることなんかしてないだろ。個人的には結構楽しかったんだよ、この10年。たくさんのプロ野球選手を間近で見られたしね。これ、職業的特権。勝ち負け関係なく、毎日、野球出来たのも僕向きだった。勝てば天国、負ければ地獄といったプロの世界はどうも向いてなかったみたい。リハビリ期間中も、リハビリが終わっても1軍のマウンドに立ちたいという気持ちが湧いてこなかった。いや、むしろ拒絶していたくらい。ただ、もくもくとボールを投げていたい、それだけを望んだ。そしてその通りに出来た。バッティング・ピッチャーは楽しかったよ。バッターを討ち取るために投げるのでなく、調子を上げてもらうために投げるんだ。お医者さんのようなもの。向いていると思わない?」

「思う。思うけど、やっぱり・・・ごめんなさい。一番、大事なときにわたしのバカっぷりにつき合ったばっかりに・・・。」

「だから、そんなんじゃないんだって。まあ、いいや。じゃあというのも変だけど、引退試合に付き合ってくれるよね。」

「うん。なにをしたらいいの?」

おもむろに彼は走るのを止め、立ち止まった。息を整え、進行方向を変え、歩き始めた。グラウンドの中のこんもり盛り上がっている場所・・・マウンドに向かう。一瞬取り残されそうになったけど、わたしも彼の後を追った。

マウンドの頂点で彼は立ち止まり、わたしを見据える。わたしは、ちょうどホームベースのあたりで立ち止まった。

「やっぱり、ここはいいね。今日もいい風が吹いている。」

いったい、この人は何を始めようとしているのだろう。

「じゃあ、今から引退試合を始めるね。たった一球だけだ。僕はここから投げる。そして、君はそこで打つ。」

「ボールもバットもないよ。」

「あるよ。ほら。」

右手を差し出した。あのときと同じだ。彼が右腕をやってしまったあの試合のときと同じ。柔らかく微笑み、わたしに向けた右腕の先にはしっかりと白球が握られていた…ように感じた。

「わたしのバットは?」

彼はその差し出した手の人差し指だけをピンと伸ばし、わたしを指差した。なるほど、わたしも持ってたんだ。

「ごめん、ごめん。」

わたしは左バッターボックスに足を踏み入れる。そして、イチローばりに右手に持ったバットを彼に突き出し、左手でシャツの腕をつまんだ。彼ははじめてマウンドに上がった子供のようににっこりと微笑み、センター方向…つまりわたしに背を向け、大きく伸びをして言った。

「ありがとう。もうひとついいかな。」

「いいよ。なんでもござれ。」

バットを持った右手を差し出したまま答えた。彼の声は、校舎に跳ね返ってわたしに届く。

「ど真ん中に投げ込むから、フルスウィングして欲しい。絶対にど真ん中に投げるから。」

「ぶつけないでよ。」

「大丈夫、セイケのお墨付きピッチャーだから。」

「・・・はい。」

「じゃあ、いくよ。」

「ちょっと待って!」

ぴくりと止まる。

「何?」

「・・・なんか、わたしも引退したくなっちゃった。」

「何から?」

「色々・・・この10年間の色々。」

「じゃあ、ちゃんと打てよ。」

「ちゃんと投げてよ。“ど・ま・ん・な・か”に。プロ野球選手なんだから。」

「“元”だけどね。」

そう言うと、彼はゆっくりわたしに対峙した。マウンド上にいる彼は、10年ぶりに見ても何ひとつ変わっていない。

彼が振りかぶった。わたしは、バットを自分のほうに引き寄せる。そして、わたしは目を閉じた。マウンドから吹く風が彼の投球フォームを運んでくれる。

上半身をひねった彼の背中に描かれた背番号『14』・・・18メートルあまり先の彼の背中でぴんと張り詰める。しなやかな右腕の動きは、完璧だ。折れそうなくらいしなった釣竿のような右腕が、夜の空間を真っ二つに斬る。

ビュン

右腕からボールが放たれる。地面に向かって投げ下ろされたボールは、途中で意思を持ったようにその頭をもたげ、最高のポイントで風を掴んだ帆船のごとく、ぐんとスピードをあげる。

わたしは閉じていた目を開いた。

まっすぐまっすぐ・・・そう、ど真ん中のストレート。

夢中でバットを振りぬいた。渾身のフルスウィング。

キーン

真芯で捉えたボールはまっすぐ彼の頭上を走り抜ける。彼もわたしもそのボールの軌道を追う。

わたしたちの視線の先には、満月前夜の月が大きく大きく輝いている。ほんの少しの欠けは、今のわたしたちにちょうどいい。

白球は、その欠けを補完するかのようにどこまでもどこまでも伸びていく。

わたしはバットを放り投げ、ボールを追うように駆け出す。

満月前夜の月の麓には彼がいる。長い長いサイレンが鳴り響いた。わたしは、10年間分の想いを込めて、彼に飛び込んだ。マウンド上のふたりのシルエットが重なる。

さあ、新しいシーズンのはじまりだ。

プレイボール

満月前夜のプレイボール 中編

テーマ:

「もしもし・・・分かる?」

彼に連絡するもっともらしい理由を考えたが、思いつくはずもなかった。10年間という時間は、そういったものだ。残酷な10年間は、甘美な10年後となるのだろうか。意を決して、わたしは教えられた彼の携帯番号をコールした。1回半のコールで忘れようのない彼の声が飛び込んできた。ベッドサイドの小さな窓から見えるほんの少しだけ不完全な満月に語りかける。

「・・・もしもし。」

「ひさしぶりだね・・・元気?」

「まあまあ元気。トウマくんは?」

「元気だよ。元気です。」

「ホームページ見たよ。」

「ホームページ?ああ。優勝したもんね。今年の彼らはすごかったよね。あんなチームは、これから先しばらく出てこないんじゃないかなぁ。」

「・・・そうじゃなくて、セイケ選手の優勝コメント。」

「セイケ?ああ、あれね。あれは、褒めすぎだよ。彼が言ってるようなピッチャーだったら、僕がそんなに優秀だったら、一軍で投げているはずだし、この年齢で引退もしてないよ。」

「肘・・・よくないの?」

「うーん、野球するには不合格かな。日常生活では大丈夫だけどね。もうだませそうになくなった。」

「あのね・・・ごめんなさい。わたしがトウマくんの人生を台無しにしてしまって・・・ごめんなさい。」

「何を言ってるんだよ?あやまるようなことしてないだろ、何にも。」

「・・・・・・。」

何が何だか分からないくらい涙が頬を伝う。

「そうだ、これから会わない?」

「会わない?どこにいるの、今?わたし、実家よ。」

「分かってるよ。僕も実家にいるから。」

「え?実家?どうして?奥さんや子どもさんは?」

「うーん、どうしてって...まあ、色々とあるわけさ。球団から引退、奥さんから解雇通告。現在、住所不定・無職の30前男は実家に帰っています。アハハ。」

急いで身支度をする。お気に入りの化粧、お気に入りの香水、お気に入りの下着。この10年の間にわたしを武装した道具たちだ。それらを身にまといかけたが、ほんの少しのためらいの後、思いっきり壁に投げつけた。今すぐにでも会いたい。

ジーンズにガーゼ素材のシャツ・・・ボタンをかけるのももどかしく、わたしは、家を飛び出した。待ち合わせ場所は、高校のすぐそばに今も昔もあるレンタルビデオショップの駐車場。

自宅の車だろう軽トラックの荷台に座って夜空を見上げている彼がいた。

「こんばんは。ひさしぶり。」

「だね。ここは相変わらず、空がきれいだね。」

レンタルビデオショップへ多くの客が出入りするたびに自動ドアが開いては閉じる。その都度、男性アイドルグループのヒット曲が聴こえてくる。

あの青い空は誰のもの

あの青い空は誰のもの

知っているはずのあの人は

いつか必ず僕らの前にやってくる

「10年間おつかれさまでした。」

「ありがとう。」

「どうしよっか、今から。」

「学校行ってみない?」

「校門閉まってるよ。」

「なんとかなるよ。ちょっと付き合ってほしいこともあるし。」

「なにを?」

「まあ、ちょっとね・・・だめかな?」

だめなはずなかった。意識して腹筋を使って声を出さないと声も出ないほど緊張していたけど、なんとか話せた。長い間忘れていたドキドキする感覚で眩暈を起こしそうだ。

満月前夜のプレイボール 前編

テーマ:

わたしたちは、10年前まで通っていた高校に向かうなだらかな坂道を歩いている。胸の鼓動は、10年前のあの日と同じく痛いくらい鳴っている。

はじめて彼と手をつないだあの夜と同じように。

10年前の彼は春夏連覇の偉業を達成した甲子園のスター、我が母校のエースだった。わたしは、その野球部のマネージャーで彼の彼女。

空を見上げると、満月前夜の月が申し訳なさそうに鎮座している。

「オーケー、オーケー!ドンマイ、ドンマイ!」

炎天下のグランド、泥だらけのユニフォーム、真っ白なボールと真っ黒な日焼け。高校生活のすべてだった野球部と甲子園。わたしたちの夏は、どこまでも続くんだと無邪気に思い。疑うこともなかった。永遠に永遠に続くんだ。

そして高校3年生へと進級した。生まれてから18回目の夏。春に続いて、夏の甲子園にも出場した。
 彼が投げた夏の大会は、予選からピンチらしいピンチもない、あっけない優勝だった。超高校級などと騒がれた彼の投げる球は、150キロを超えていた。グラウンドに叩きつけらるように投げられた玉は、重力に逆らって打者の手前でホップする。対戦相手の高校生に打てるはずもなく、バットに当たることさえ稀だった。

 彼を筆頭に野球部の部員たちは胸にメダルを掲げて地元に帰ってきた。九州ののどかな田舎町で、彼らは英雄のように迎えられた。役場への優勝報告に始まり、ローカルテレビや新聞の取材など、毎日がお祭り騒ぎで、締めは、優勝パレードだった。まばゆいばかりの熱い夏。

地元の商店街を華々しくパレードした翌日、わたしたちはクラブを引退した。引退をさかいに、部員たちは、それぞれの進路に向かって歩み始めることになる。日本一を成し遂げたわたしたちには、こわいものなんてなかった。優勝という2文字は、何事にも代えがたい自信をわたしたちに与えてくれたのだ。人生を制したような気分になっていたと思う。もちろん、わたしもそのうちのひとりだった。

終わらないはずの夏が終わったことに気づいてなかった18歳だった。

「よく俺の携帯の番号分かったね。」

「わたし、私立探偵やってるの、いま。」

「へぇ、そうなんだ。」

「うそよ。」

「知ってるよ。このあいだ、実家のお袋が教えたって言ってた。」

「どう思った?」

「ドキッとした。」

「それだけ?」

「うーん、その後、しばらくドキドキしたな。」

相変わらずで、ほっとする。

高校卒業後の彼は、在京球団にドラフト1位指名され、華々しく入団した。

わたしは、地元から通える短大に進学した。

キャンプが始まると、テレビに新聞にと彼を見ない日はなかった。そして、当たり前のことだけど、プロ野球選手となり寮生活を送る彼と会えなくなった。それまで毎日のように会っていた彼に会えないことは、想像以上につらいことだった。携帯電話をみんなが持つような時代じゃなかったので、もっぱら手紙を書いたのを覚えている。来る日も来る日も短大での授業中に手紙を書き、送った。

書いた内容なんて覚えていない。ただ、短大と自宅を往復するだけのわたしの日常には、刺激的な非日常や劇的な事件なんてそうそうなかった。漫然と過ぎていく毎日を傍観者のように眺めるような内容を延々と書き続けていた。

18、19の小娘は浅はかだ。

九州の南に残ったわたしは、彼との距離にもがき始めた。彼をわたしから奪った野球を恨めしくさえ思うようにさえなった。来る日も来る日もあの夏の光景が切り取られている写真の束を眺めては泣いた。

わたしは、あの夏にしがみついていた。あの夏と、わたしの知る彼はワンセットだった。

オープン戦が始まった。バスと電車を乗り継いで1時間ほどの地元の小さな球場で彼のプロ初登板が球団の監督からアナウンスされた。そのことを報道で知った町の人々は大騒ぎだった。横断幕をつくり、商店街では便乗セール、バス会社は応援ツアーを組んだ。まるでお祭りのようだった。だけど、あの夏のものとは違った。なんだか、安っぽい再現ビデオを見ているみたいだ。交通安全教室で見るアレのよう…まるで紙芝居。

試合の前日、彼の泊まるホテルにこっそり行ってみた。半年前に撮った写真を渡すため。制服姿の二人が写っていた。わたしがバッターボックス、彼がマウンドにいるやつ。夏の甲子園を終えて1週間後に写った写真。

「当たると死ぬよ。」

「そんなヘボしないでしょ。」

「いや、なんか怖い。好きな女の子に向かってなんて怖くて投げれない。」

そう言って彼は振りかぶり、投げるふりだけした。

見えないボールに向かって、わたしは、思いっきりバットを振った。

後輩マネージャーが撮影してくれた写真には、夏々しい笑顔で向き合ったわたしたちがいた。

ホテルには行ったけど、結局、彼に会うのはやめた。会わないかわりに、写真に手紙を添えて、ホテルのスタッフに渡した。手紙に何を書いたか、よく覚えていない。ただ、さようならを伝えたものだった。

翌日、わたしは野球部のOBたちと一緒にオープン戦を観戦した。チケットは彼が手配してくれた。彼が準備してくれた席は、バックネット裏…つまり、投げる彼を正面から見ることが出来る特等席だ。彼に渡した手紙のことを知らない同級生たちは、その中でも最高の位置である真ん中にわたしを座らせた。

1回表。彼のチームは後攻、つまり、いきなり彼の登場だ。

大歓声の中、彼はマウンドに立った。ベテランのキャッチャーと一言二言交わす。グラブを口に当てたまま軽く頷いた彼は、1球、2球と、投球練習を始める。

彼は、しきりにグラブで帽子の上から頭をポンポンと叩いた。それは彼がマウンド上で考え事をするとき…それもマイナス思考のときの癖だ。その動作を1球ごとに繰り返す。その挙動を見てわたしは、昨日のホテルマンが手紙を渡してくれたことを確信した。また彼は、わたしたちがここにいることを分かっているはずなのに、決して見ようとしなかった。

わたしは、悲しみや罪悪感と共に同居する優越感のようなものを感じていた。あの夏からとっとと出て行った彼を引きずり戻してやる。そしてそこに施錠してやる。寂しかったんだから。ガチャリ。

「プレイ!」

審判の地鳴りのような声と球場に轟くサイレン。彼は、わたしたちに背を向け、大きく伸びをした。そして、振り向きざまに白球を握った右手を満面の笑みとともにやさしく突き出した。右手の先は、わたしだった。

「フラれたら、そのときはブン投げるよ。」

写真を撮ったあの日、彼がそう言ったのを思い出す。

わたしを見据えたまま彼は大きく振りかぶる。わたしは、バットのグリップを握り締めるように、右手に持ったハンドタオルに力を込めた。あの夏と同じように、左足を地面から蹴り上げるように上げ、身体をひねって背中のちょうど半分だけこちらに向ける。背番号は、『14』。わたしの誕生日が、1月4日だからと彼が望んでつけた背番号。18歳の彼が背負ったものは、わたしの幼稚な嫉妬心で、陳腐な十字架となってしまったのかもしれないと思った。

テイクバックの後、水面に拡がる円弧のように右腕がしなる。がしりと握られた白球が見えた。その向こう側に彼との3年間がフラッシュ・バックする。

わたしの大好きな彼の右手。しっとりと冷たく、驚くほど柔らかい。その指は細くて長く、華奢な野の花のようだ。

ふたり手をつないで、真っ暗な校庭を横切って駅に向かうのが、練習を終えた私たちの儀式のようなものだった。どんなに暑かろうが寒かろうが、彼の手はいつもひんやりとしていて、彼との記憶は、その手との記憶でもあった。

はじめてのキスで頬に添えられた手は、彼の唇よりも柔らかで、わたしは羽毛に包まれる雛鳥のさえずりを心に聞いた。

お互い初めて同士のセックスはなかなかうまくいかず、何度も失敗した。申し訳なさそうに彼は彼の右手を使ってわたしの上に射精した。そのうち、彼の右手はわたしも左手と繋がれ、わたしの左手が彼の射精を導くようになった。その後、口でするようになっても彼の右手はわたしの左手と繋がれ続けた。生暖かい彼の精液としとやかな手から伝わる彼のひんやりとした体温のギャップが愛らしく不思議で、くすくす笑ってしまうわたしを彼はいつも不思議そうに眺めていたのを思い出す。

ごめん。やっぱり、好きで好きでたまらない。

わたしは跳ね上がるように座席から立ち上がった。彼の右腕はしなり、プロ野球選手としての記念すべき1球が放たれようとしている。球場の歓声はピークに達し、彼だけに視線が注がれる。

パッーーーーーン

ポップコーンがはじけ飛んだような乾いた音が球場を突き抜けた。

その音とともにわたしの記憶は、途絶えている。わたしは、その場に倒れてしまったらしい。

事の顛末を知ったのは、その日の夜、病室のベッドの脇にある小さなテレビからだった。

彼の投げたボールはわたしに届くことなく、彼自身のすぐ後方にぽとりと落ちたシーンが何度も何度も放送された。あのポップコーンがはじける音もはっきり聞こえた。

“右肘骨折。投手生命絶望”

うずくまり、歯を喰いしばりながらも彼の視線はバックネット裏・・・わたしの方を向いていた。哀しくやさしい眼差し。

すぐさま担架がマウンドに持ち込まれ彼を乗せる。それでもなお彼は、担架に横たわったまま、わたしを見ていた。彼の視線の先には、誰も座っていないオレンジ色のシートの前に倒れたわたしがいたはずだ。

その日のわたしは、彼と同じ病院にいたんだと思う。病院前の駐車場には、大勢の報道陣と彼のファンが夜通しいた。カーテンを少しだけ開けて、その光景を見る。彼に会いたい。会って、あやまりたい。やりなおしたい。

だけど、あの時のわたしは、彼に会いに行く勇気がなかった。一晩中、ベッドの中で泣いて、泣いて、泣いた。

あれから10年。

その後の彼は、出口の見えないリハビリを6年間続けた。その間に結婚もしている。リハビリが終わり、2軍の試合に数試合登板した後、あっさりと現役を引退していた。あれほど注目されていた彼の引退を気にかけた人などいなかった。そして、25歳の彼は、バッティング・ピッチャーとしてチームに残り、裏方の野球人となった。その間、わたしは地元の保育園で保母をしながら、何人かの園児の父親と寝た。

彼が所属する球団は、今年、20年ぶりに日本一の座を手中にした。わたしは、球団のオフィシャル・ホームページを読み進めた。今年の優勝の立役者は、なんと言っても4番のセイケだ。ホームラン数、打点、打率すべてがリーグトップだった。三冠王として、年間MVPにも選出された。ホームページの目立つ場所からリンクが張られていた彼のコメントには、こう書かれたいた。

『今年の成績はバッティング・ピッチャーのトウマさんなしでは考えられません。各球団のほとんどのピッチャーの配球パターンやフォームの癖を解説しながら、またそれを再現して投げ込んでくれるんです。あれは神業ですよ。ストレートひとつとっても、何種類も投げ分けるんですから。今シーズンで引退してしまうのが、とても寂しく残念です。来シーズンは僕らの成長した姿を見てもれるよう頑張ります。』

トウマくん・・・彼は、いまどこで何をしているのだろう。


タナベの夕べ

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 大学に入ってはじめての夏休みは、アルバイトに明け暮れている。来る日のため・・・それは、禁欲の日々との別離の日、まあ世間で言うところの『デビュー』の日・・・分かるかなぁ、分かりにくいかなぁ、単刀直入に言うと彼女が出来る日のために準備しておこうと思っているんだ。大学で学んでいる『企業広告戦略概論』で言うところの『費用対効果』の項目における『ゲルベウス理論を軸とした分かりやすいアイコン主義』に準じた行動だ。分かるかなぁ、分かりにくいかなぁ、単刀直入に言えば、免許と車が欲しいのだ。それはモテたことのない男子たちが最も最初に思いつく三平方の定理のようなものだ。三平方の定理であるからには、必ず正しいはずだ。理屈がどうであれ、正しいはずだ。そして、僕は夏休みが始めるやいなや、アルバイト情報誌を事細かに分析してみた。なあに時間は無限にあるから朝早いのも夜遅いのもござれだ。体力はあまりないから、力仕事はパス。時給も大切だが、1日の稼ぎ高を重視する。経験者優遇というのも、バイトがはじめての僕にとっては敷居が高い。交通費支給はもちろん、食事付きというのは、ポイントアップ。そんあこんなで選んだバイト先は



【芸能マネージメント。初心者歓迎。イロハのイから教えます。24時間自由出勤。入ったその日からあなたが社長です。がんばり次第で月収100万可能です。】



という駅裏に事務所のあるプロダクションだ。入学式用にばあちゃんに買ってもらったスーツとネクタイを締め、緊張で脇裏を汗だくにして受けた面接はあっけなく2分で終了。即日採用・・・というか、その1分後にデスクを与えられた。窓際の最後尾。机の上には、大きく太字で営業トークが書いてあるA4の紙と、黄色の分厚い本。


「どんどん電話して仕事をとってね。たのむよ、新人君。」


タウンページに掲載されている全国のスナックに電話をして、営業先を見つけるのが僕の役目だ。扱っている商材・・・バイト先の先輩や社員たちはそう呼んでいた・・・は、『調理士免許を持った占いとマジックの出来る演歌歌手』という33歳の女性。



「こんにちわ~。こちらは、九州は福岡からお電話さしあげてます太平洋企画エージェンシーのタナベと申します。お忙しいところを申し訳ありません。5分と言わず、3分と言わず、1分と言わず、ほんの一瞬だけお時間を頂戴して、わたくしタナベのお話にお耳をお貸し願えないでしょうか?全国にいらっしゃる心やさしいママさんたちに、『タナベのゆうべ』と言われ、大変ご好評を頂いております。」



 これが机上のA4用紙に書いているすべて。ちなみに、この部屋には、僕を含めて14名いる。みんなタナベさんで、『タナベのゆうべ』で好評をいただいていることになっている。僕もタナベで、隣のデスクに座っているジャージに革靴のおじさんや、最前列中央に座るスピッツのようなお姉さんもタナベ。総勢14名のタナベで、全国へ『タナベのゆうべ』を電話口で語り続ける。


 何事にもビギナーズ・ラックというのがあるみたいで、僕は6本目の電話で契約に成功した。


「ちょうど占い的なやつをやろうと思ってたのよ。あたしがしてもいいんだけどさ。まあ、プロが来てくれるんだったら任せるわ。安くしてよ。うちのお客さん、みんなお金持ってないから。」


ボヘミア~~~ンと歌っていた女性のようなハスキーボイスのママさんは、いかに金を持ってない客たちを相手に商売するのが難しいかをひとしきり喋った後、お試しコースである金土2日間×2週の依頼をかけてくれた。 何がどうであれ、商談成立だ。
 僕は席を立ち、隣の部屋でナイターを見ていた責任者・・・のような人、面接官に報告した。

「さすがだな、坊主!俺の目に狂いはねぇ。」

そういうと、14人のタナベが並ぶ部屋に入り、こう言った。

「さて皆さん。期待の新人、タナベ君がPコースを1本契約を取りました。では、起立!。」

全員が起立をして、僕を見る。

「はい、ではご唱和ください。我々の同僚・タナベくんが。」

「われわれのーどうりょうータナベくんがー。」

「栄光のステップを駆け上がっています。」

「えいこうのーステップをーかけあがっていまーす。」

「我々も。」

「われわれもー。」

「負けじとタナベくんに続きます。」

「まけじとータナベくんにーつづきまーす。」

「何故ならば。」

「なぜならばー」

「我々も。」

「われわれもー。」

「タナベの夕べのフロンティア。」

「タナベのーゆうべのーフロンティアー。」

「以上!」

「お疲れ様です!」

社会とは不思議な場所だ。


  その2日後、僕はなぜかボヘミア~~~ンのママさんが待つスナック『オーロラ』に向かう電車の中にいた。僕の目の前には、商材と呼ばれている、『調理士免許を持った占いとマジックの出来る演歌歌手』という33歳の女性がいる。太平洋企画エージェンシーの募集要項に掲載されていた『入ったその日からあなたが社長です』というのは、あながち偽りではなく、つまりは自分がとった契約先での営業におけるマネージャー的な仕事も仰せつかったのだ。一張羅のスーツのポケットには、会社から支給された名刺も入っている。名前は、「田辺雄一」。アルバイトをしている14名のうち誰が営業先を見つけてきてもこの名刺ひとつで間に合う。誰かが会社を辞めようと、新しい誰かが入ってこようと名刺を無駄にすることはない。全員が「田辺雄一」で、営業トークと言えば、『タナベのゆうべ』だからだ。究極の経費削減。本物の社長の考えることはすごい。現場の経営学というのは目から鱗だ。ちなみに、目の前に座る女性の名前は、「菅井けい」さん。本名だそうだ。主役が本名で、脇役の僕が偽名。これもなんだか面白い。世の中って、本当におもしろい。



 菅井さんは、電車に乗り、動き始める前に眠ってしまった。1時間くらいがたっただろうか。寒い日だったので、二人分買っておいた温かいウーロン茶は、僕のスーツのポケットの中で人肌以下の温度になってしまった。初対面の菅井さんは、僕にとってはじめて接するタイプの女性だ。けだるく、大人っぽいというか。例えて言うなら、スミレ・セプテンバーといったところ。海沿いの単線から見える工場の煙突たちが出す煙と空の境目を見究めてやろうと凝視していると、腕を組んだままの菅井さんがビクッと身体を震わせ、目を覚ました。軽く伸びをしながら、「おはよう」と言うような調子でこう言った。


「ねえ、タナベくんさぁ、夢ってある?」


「夢ですか?うーん、それを探しているところというか、漠然とはあるんですけど、まだはっきりしてないというか・・・でも、公務員やサラリーマンは嫌なんですよね。」


「どうして?」


「夢がないじゃないですか。男たるもの、やっぱり勝負したいですから。小さくてもいいから、会社をつくりたいんです。」


「どんな?」


「それはまだ分かりません。強いて言うなら、IT関連かバイオ関連。でも、最近、こういったショービジネス的なもことも興味が湧いてきました。」


「ショービジネスねぇ・・・これは、違うよ。これは、ド・サ・マ・ワ・リ。ITとかバイオとかあまり分かんないけど、勉強はしっかりしなよ。」


「はい。ありがとうございます。菅井さんの夢を聞いてもいいですか?」


「わたしの夢?わたしの夢ははっきりしているわ。」


「何ですか?」


「何だと思う?」


「うーん。テレビ的なところに出ることですかね。紅白とか。」


「あははは。タナベくんはおもしろくてやさしいのね。わたしの夢はそんなんじゃなくて、もっとちっぽけなもの。」


「何ですか?猛烈に聞きたいです。」


「タナベくんと話していると、なんか洗われるね。じゃあ、特別に教えてあげよう。誰にも言わないでよ。誰にも話したことないんだから。」


「はい、誓います。」


「わたしの夢はね・・・ふぐの刺身をね、こうやってお箸をずさ~とすくって、口いっぱいにほおばるようにして食べてみたいの。ふぐなんて、閉店間際のスーパーで3割引しているパック詰めのやつを月に1度食べるくらいだからさ。」


「あ、それ分かります。僕は、メロンを主食に、ステーキをおかずにして、お腹いっぱい食べてみたいです。」


「タナベくん、本当におもしろい。あのさ、いつか二人でやろうよ、それ。」


「はい。喜んで。チップでバンバン稼ぎましょう。」


「おう。久しぶりに頑張ってみっか。どれくらいあればいいかな。」


「どれくらいなんでしょう?よく考えてみたら、ふぐもメロンもステーキも値段的なもの知りませんでした。多分、10万円くらいじゃないですかね。」


「10万円、10万円。それくらいあれば足りるのかな。わたしもよく分からないわ。でも、きっとそれくらいね。タナベくんが言うなら、きっとそれくらいよ。」


「はい。きっとそれくらいです。最高級なやつばかりでそれくらいですよ。だって、10万円を2で割ると5万円でしょ。一人5万円の食べ放題なんて聞いたことないから、2人で10万円あれば、お釣り来ますよ、きっと。あれ?そうか。僕らみたいな人ってたくさんいるはずだから、1人5万円の食べ放題のお店やったら儲かるかも。うん、いけると思います。菅井さんありがとうございます。僕の夢が、はっきりしてきました。では、そのテストケースとしてでも、ぜひふぐとメロンとステーキを10万円分食べちゃいましょう。」



 僕らが乗った電車は、指定された駅に着いた。仕事場であるスナックは、その駅裏の路地を入ったところにあるそうだ。菅井さんの衣装や手品セット、そしておつまみを作るための材料である大根などが入った年季の入ったナイロンバッグを背負い、僕らは席を立った。ふぐとメロンとステーキのため、あと3時間後に『タネベのゆうべ・第2幕』が始まる。