◇純粋であろうとする精神
かっこうの叫びが耳に残っている。叫びを分かりやすい言葉に置き換えてくれたのは宮沢賢治である。
夜、壊れた水車小屋を訪ねてきたかっこうの求めに応じ、セロ弾きのゴーシュがチェロでかっこうの鳴き声をまねた音程を弾くと、「あなたのはいいようだけれどもすこしちがうんです」と、かっこうから指摘される。チェロをチューニングしたのに「ちがう」と言われ、叫び続けるかっこうに合わせて弾いているうちに、ゴーシュはふと「何だかこれは鳥の方がほんとうのドレミファにはまっているかなあ」という気がする。だがゴーシュは怒りだし、かっこうをたたき出してしまう。
窓ガラスに何度もぶつかって、夜空に高く遠く一直線に逃げてゆくかっこうの姿は、「セロ弾きのゴーシュ」全編に悲哀をただよわせる基になっているのではないだろうか。真実を告げているのに追放されてしまった姿と言ってもいい。
かっこうが願い求めていたのは3度の音程(たとえばミ、ド)が完全に調和する美しさである。3度を純正に合わせることによってハーモニーが溶け合う。ゴーシュは現代の平均律の音程で弾いたので、純正に調和せずに濁ったのであろう。純正調では、ほかの音程にいびつな部分が生じて、さまざまな転調や展開ができにくくなるため、近現代の平均律は、どの音程も近似値にすることで、機能的に合理的な展開ができるようにした。かっこうは、それが違うと叫んでいる。
佐藤俊介(バイオリン)、鈴木秀美(チェロ)、クリスティーネ・ショルンスハイム(フォルテピアノ)のトリオのコンサートでは、作曲された当時の楽器の助けも借りて、純正なハーモニーがいかに美しいかという原点が改めて示された(2月27日、紀尾井ホール)。
取り上げられたのはベートーベンのピアノ三重奏曲第7番変ロ長調「大公」とメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番ニ短調。ショルンスハイムが弾いたフォルテピアノは1820年頃に制作されたウィーン式のもので、弦楽器的な音色を持っている。現代ピアノより弱い音量とこの音色によって、三つの楽器のバランスが基本的に均等になる。3人の奏者が対抗せず融和しようとし、音楽がひとつになる。決して各奏者が主張しないわけではない。たとえば佐藤は時折グリッサンド風に音程をずりあげたりするが、それが互いの楽器の邪魔にならない。とりわけベートーベンでは、チェロがフォルテピアノの低い弦を受け継いでまるでその音になりかわり、今度はチェロの音をフォルテピアノが引き継ぐ。バイオリンもフォルテピアノの高音になりかわって一体となる。バイオリンとチェロのノンビブラートのハーモニーが透きとおるように調和し、そこから弦だけでなく、ほかの楽器、たとえば木管の響きなども聞こえ、さらには世界に対して純粋であろうとする精神まで響いてくる。純正な和声は、一切の無駄をはぎ取ると同時に、哀楽の感情をかきたてる。
かっこうはヨーロッパで中世から、はずれ者、愚か者の象徴であった。体制に乗らない者こそ、見通す目を持てるという思想が背景にある。だからこそ宮沢賢治は、近代合理主義によって失われた純正な響きを求める者として、かっこうを登場させたのであろう。
このトリオを聴けば、かっこうもまた戻ってくるかもしれない。(専門編集委員)=毎月1回掲載します
毎日新聞 2012年3月29日 東京夕刊
http://mainichi.jp/enta/art/news/20120329dde018040032000c.html
佐藤俊介
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