文章は、想像により膨らますものだが、行動は、削るものである。
行動原理が違うので、必ずしも文章でいろいろなことを考えられる人が、それを行動に移せているか、行動が彼の思想を反映しているのかと言うと、自分のことを考えても、はなはだ疑問である。
なにかをあるレンジで計画して行動するということとは別に、普段なにげなくしている行動は、その場でのいろんな情報・情況から、即座に判断を下して、体が反応するようにして実施される。
その場合、基本的に出来ることは限られている。それは、今、その人が持っているモノに大きく影響される。
長い間のトライアルアンドエラーで自身が経験してきたモノが出てくる。
このモノが、想像で培ったものであることはまずない。普段の行動で実際に得てきた、自分の中にある経験を削りだして出てきたモノが行動となる。
行動することにおいて、人が己の中に持てるものというものは少ない。そこに、想像していた何かを付け加えていくとしても、付け加えたさきから、変節させられたり、削られたりする。そういう意味で、想像していることなどは、行動する上でほとんど役に立たない。
行動する瞬間に、なにかが体の中から突然出てくることがある。これは、一体なにに起因しているのだろうか。
普段考えてたことが蒸留されて、それが、心理情況によって出てくるのかと甘いことも考えたが、頭で考えたようなことは出てこない。自ら経験したことのエッセンスが出てくるのみである。そう、やはり、経験したことしか出てこないのである。
深く考えたことでも、体の内部にまで、行動を手助けする何かになるまで、落とし込むということはほとんどできない。いろんな哲学書を読んだけれども、その著者である彼らが実際にした行動と彼らの哲学に開きがあるのはそういうことであろう。
彼ら自身が実践できていないことと、彼らの哲学とは関係がない。それでも彼らの哲学や思索にも意味はあると、誰かは言っていたけれど、それは自分の行動の合理化のために言っているようにしか聞こえない。自分は、誰だってかわいいし、そういう自己を守るための行動原理からは逃れることは、思っているよりはるかに難しいのだ。
ためになる哲学書なんてほとんどない。河合隼雄さんが、
『桑原武夫さんが「文学でもホンマにおもろいのを読むと、脇から汗が流れてくるんでっせ」といわれたのは本当に印象的だった。逆に言うと、身体にまで効果を及ぼさないような書物は、オモロナイのだ』
と言われていた。
そういう腹にこたえる、人間全体としてインパクトを受けるものしか、オモロイものしか、経験にはならない。経験にならない書物は、たいして、ためにもならなければ、役にもたたない。
逆に言えば、自分で文章を書いていて、そういう身体にまで影響を及ぼさない文章など自分の役にもたたない。
そんな文章は、まだ書けない。