2012年02月18日(土)
『魯山人陶説』
テーマ:ブログ
ずぅーとほったらかしにしてた本を読み始めた。

『魯山人陶説』。
いまから30年近くまえにスピリッツで『美味しんぼ』が始まったのだけど、そこではじめて北大路魯山人の名前を知った。それからいろんなところで目にするようになり、ずっと気になってたのだが茨城に合宿免許でバイクの免許を取りにいったとき、空き時間に春風萬里荘に行った。
春風萬里荘 - 笠間日動美術館 (クリックで飛びます)
そこではじめて実物をみたのだけど。
それまでいろいろ本を読んでいると、やはり傲岸不遜、唯我独尊な鼻もちならない俗物で、人としてどうしようもねえなあという印象しかなかったのだけど、どうもなにかそうやって片づけられない魅力がどうしてもあり。で、たまたま機会があったので出掛けて行ったのである。
駅でレンタサイクル借りてえっちらおっちら行ったのだ。閉館時間も近い夕方。
まあそれについては以前書いたのでもういいや。
ん?イメージスキーマの話もちゃんと書いてるぢゃねえか。ふむふむ。そうかそういうことだったっけか。忘れてたわ。なるほど。
言語と異なり、イメージスキーマにはそれらが表象するものと本来無関係の気まぐれなシンボルはない。そうではなく、イメージスキーマは、知覚的経験に直接根ざしていると考えられている。
イメージスキーマは恣意的なものでなく、知覚的カテゴリーを根拠とした経験を直接的に表象するものである。
ごく幼い乳児は、最初の物事の表象をイメージスキーマから発達させると考えられている。
イメージスキーマの本来の機能は、物理的世界を1枚の図にまとめる、一連の運動を結合することにあるようである。
たとえば。「上方」「下方」という一般化されたイメージスキーマは、自分が落下したり、ほかの物が落下するのを見て、自分が物を持ち上げたり、ほかの物が上に昇るのを見るという活動から派生したと思われる。
これらの表象の一部は、後に言語構造を決定するようである。すなわち、言語は、その発達の途中で前言語的で、前概念的な構造の線に沿って自らのイメージスキーマを構築することがあるのである。したがってイメージスキーマは経験の概念化の橋渡し役をするようである。
イメージスキーマの形式に一般化される人間の初歩的な経験には、前述の上方と下方、空間的な中心、他の事象と何らかの因果関係によってつながる事象、目標に向かう道を進む移動、容器-あるいは「外側」と「内側」-などの経験がある。
こうしたイメージスキーマのすべてが、必然的になんらかの「空間」を必要とするが、それは必ずしも個別的な(詳細な)具体的イメージである必要はない。これらは、世界がどのように機能するかというわれわれの考えにとって非常に基本的なものであり、逐語的な形で使用されるだけでなく、比喩的に使用されて、ほかの抽象的なタイプの考えを表現する。
われわれは、イメージスキーマを毎日、何度も、それについて全く考えることなく使用している。
結局陶器の見方というのも、イメージスキーマと関係していて、ていうか、より形而下よりの非言語的な表象メタファーって言うほうがいいのかな、日本の陶器はその題材の多くを自然に採っている。あるいは、魯山人の場合、題材を過去の名品そのものに採っているものが多く。その部分がコピーだといわれる原因で、しかも所詮旦那芸ではあるのだけど、そのコピーの仕方が抜群に上手くて。まあそれはいいのだが。
考えてみれば、漢字だってもともと象形文字なわけだし、楷書→行書→草書という流れもそう。この場合は、筆の動きというか筆運びすら表象化されていて。魯山人は書も書くのだが、結局、彼はこの表象イメージを感知する能力とそれを実際にモノに表す能力がハンパないのだと思う。
もともと、そんなふうな省略されたものから全体を補って見ようとする心の動きが、日本人の場合平均的に優れているのだろうと。見えないものを補う脳の働きだったり、実際にそこからモノを作り出していくコピー文化的な能力だったり。そこからいろんなふうに派生してるというか。
日本で印象派が人気があるのもそういう理由だろうし、マンガだってそうだし。フランス人との親和性はそういうところにあるんだろうなと思う。なにもフランスで印象派が隆盛したのは偶然ではないのだ。紙媒体のマンガが彼の地で人気があるのもそういう理由だろう。アメリカではそういうのは無理なのだ。認知の仕方に得意・不得意な分野っていうのはどうしてもあるらしい。それが人種なのか文化なのかはわからないけれど。もともとそういうふうにはっきり分けられるものじゃないしね。そういう根本的な認識の土台も含めて動くから生き続けられるわけで。
ただ、でも日本はアメリカにはなれない。そこを目指してもたぶん負ける。それぞれに合った場所を埋めにいったほうが良いのだけど、このまま資本主義社会が進んでいくと日本人は淘汰されるのかもしれないという危機意識を誰もがどこかで持っている。それもまあ置いておく。
抽象絵画はそういう脳内の認知方式の発見をしようとするムーブメントの中でおこった。印象派からキュビズム、フォーヴィスム、そして抽象表現主義へ。だがあまりに抽象化されてしまうと逆に現実からの接点を失う。そうやって漂うように描かれた作品もあるし、抽象思考そのものの動きを絵画でとらえようとするものもある。カンディンスキーとかってそういうものだと思っているのだが。コンポジションⅧとかね。あそこまで行くともうゲシュタルト的認知とチャンクとか音楽認知の方法とかまで絵で表そうとしてるというか。まあ、それも置いておこう。
省略されたものの中に共通のイメージを見る。そういう人間の心の動き。「イメージは生命力を持つが明確さを欠き、概念は明確であるが生命力を欠く」というユングの言葉。イメージというのは、脳内にある種の運動を起こさせる。たぶん、あいまいである分、複数の神経回路でそれを把握しようとするような動きがあって、それを固定化させるようなスパークが起ったとき、アハ体験が起こってそれが快感につながるんだと思う。複数の神経回路での同時発火が起こる時に、直観とか直感とかいわれるものが働くわけで。そうして、そういうのが繰り返し何度も起こると、そこの繋がりが強化されて新しい神経回路が作られることにもなるんだろう。
美術というものが、ただ美を愛でるものから、そういうものの見方を得ようとするものに変わってきたターニングポイントがどこにあるのかはわからないけれど、自分が美術館で観ようとしている、掴もうとしているのはそういうもので。
「ああーそういうことか」と、陶器を見ながら、陶器を通して心の中で自然全体を眺めて、そしてまた陶器に目を戻す。そういう動きのなかで人間の脳は真理を掴む。実際に陶器を手に入れる人は、さらにその先に行く。その陶器を手で愛でるのみならず、使ってみるところまで。そこで初めて、生活と美術が融合して生きた智慧というのが生まれる。料理というのはそういうものだと。色の配色だとか、形だとか。なにかを実際に使ってみて、さらには自分の手で作ってみて、そうやっていろいろなものが繋がる。繋がっていく。
逆に言えば、そういう心の動きがないところでは賢くなれない。一旦、不安定な状態を作り出し、それを再度固定化させる。それを繰り返し行う。試行錯誤する。どこかで安定するポイントがある。そうすることによって今までと違った神経回路がつくられていく。智慧というのはそういうふうにして得るもので、知識とは違う。脳内に認識システムを作ること。ものの見方を作ること。あるいは、それを実際に使う先の方まで行ける人においては、ものごとに対する処し方を身につけていく。。それが本来の人の生の有り様なのだと思う。
残念ながら、現代ではそういう時間が取れない。仕事が忙しくていろんなものに深くコミットする時間がない。欲望を充足させるモノも極端に多くなっていて、逆に欲求不満ばかりがたまり、結果空き時間は、短絡的、直接的な快感だけを求める。埋め合わせをするように。その快感の求め方は、生物的な原始的な動物の反射のみ、モノに反応しているだけ。そんな時間の過ごし方をしてしまっている。
いにしえの人のほうにより智慧がある。そんなふうに思えてしまうのは、そういう時間の使い方をしていることを暗に悔いているからかもしれない。村上龍は、貧困と無知というのがニ大罪悪で、高度成長期にはそれを克服することを目的としていたというようなことを言っているのだが、彼のいう無知の「知」の部分は智慧ではなく知識のことなのだけど。ただ、それが本当に残念なことだったかどうかというのは自分にはわからない。どちらも大切なのだけど、どちらも等分にかつ充分に得るということが本当に可能だったのかってわからない。
また、生物的な反射の快楽というのに溺れることだけを目的にした長生きをすることを是としているようにみえる今の世の中が正しいのか誤ってるのかとかね。そんな長生きに意味あんのかね?なんて思ってしまう。なんだかどうも浅いし偏ってる感はあるのだけど。まあ、どうでもいいんだけどね。人それぞれだから。ただ、その価値観を人に押し付けないで欲しいんだよな。そういう押し付けのほうがよっぽどわがままだよと、自由奔放なB型の人間はおもふ。
だからモノを作ってる人を尊敬するのだよね。音楽もそうだし、なんだっていい。なんなら写真が趣味っていう人とかでもいい。そういう人のブログをよく眺めてしまう。すげえなあって感心する。エネルギーを貰うのだ。
まあそれはさておき。
たぶん音とか音楽はこういう認知体系じゃないんだよな。システムが違う気がする。だいたい音楽に明確なメタファーなんてないし。メタファーか。そうかそういうことか。。だから同じたとえば『美』という俎上に乗せようとしても、同じやり方はできないというか通じないんだよ。どういう音楽が歴史的に一番でどうしたこうしたという議論についても、まったく地平からして違うから、認知科学的に。
絵画や美術についての情動というのはだいたい自分の中では納得できる筋道はあるのだけど、ほんと音楽だけは、リズムについてはなんとなくわかるのだけど、メロディーと情動の関係がぜんっぜんわからん。根本的なところがわからない。リズムは人間の身体の中に、というか運動の中にあるから、それと情動の関係を紐解いていけばなんとなく理解できるけど。でも、自然界にメロディーなんてないじゃんさ。ほんと、どーいうことなのだ?誰かマジで教えてくれ!
ちなみにこの『魯山人陶説』の表紙の写真。じーっと眺めていて、なんだか気になるなあと思ったら、蟹の絵の下の赤い部分がミソだったんだよ。子供の頃の記憶まで遡らないとわからなかった。このブログ写真だと色が悪いからわからないかもしれないけど、それが何かぼんやりでもわかる人は、多分魯山人の陶器全般にすごく魅かれる筈。
でもたぶん、この色に見覚えがある人は、カブトムシがどんな木にいてどうやって採るのかを知ってるような自然の中で遊んだ世代の人で、あるいはスーパーでなく、自然のものを自分で採りにいって自分で料ることを愉しみにしている人とか。だんだんそういう人も少なくなって、そのうち魯山人の名前も消えてゆくのかも知れない。文化というのはそういうものなのだろう。
だから、なにが一番だとかどうとか言う議論はまったく不毛で、「後世にオレの名を残す」なんてことを考えてモノ作ってるやつのエゴってほんとバカまるだしだなあと思うのだけど、そういう意識がないと良いものは作れない。そうやってなにやっても無駄無駄言ってるヤツは今生きている値打ちもない。なにが優れているかを求められないオマエの存在自体無駄じゃ、氏ねと。そういう矛盾を抱えながら人は生きるのだ。まる。
でも、無心でモノを作ってる人のココロというのはね、あれはなんちゅーんだろ。なんかそういう人の心に意識を合わせようとすると、自分の心が震えるのよね。作品を観るのは、ほんとはさ、認知の方法うんぬんより、そういう心が震える瞬間を体験することだったり。古いタイプの自分はそう思ったりもする。認知の方式を知るなんてことよりも、そういう心が震える瞬間を体験することが創造の本当の源なのだと。たとえそれが誤解だったとしても。自己満足だったとしても。ライブもそういうものだよな。

『魯山人陶説』。
いまから30年近くまえにスピリッツで『美味しんぼ』が始まったのだけど、そこではじめて北大路魯山人の名前を知った。それからいろんなところで目にするようになり、ずっと気になってたのだが茨城に合宿免許でバイクの免許を取りにいったとき、空き時間に春風萬里荘に行った。
春風萬里荘 - 笠間日動美術館 (クリックで飛びます)
そこではじめて実物をみたのだけど。
それまでいろいろ本を読んでいると、やはり傲岸不遜、唯我独尊な鼻もちならない俗物で、人としてどうしようもねえなあという印象しかなかったのだけど、どうもなにかそうやって片づけられない魅力がどうしてもあり。で、たまたま機会があったので出掛けて行ったのである。
駅でレンタサイクル借りてえっちらおっちら行ったのだ。閉館時間も近い夕方。
まあそれについては以前書いたのでもういいや。
ん?イメージスキーマの話もちゃんと書いてるぢゃねえか。ふむふむ。そうかそういうことだったっけか。忘れてたわ。なるほど。
言語と異なり、イメージスキーマにはそれらが表象するものと本来無関係の気まぐれなシンボルはない。そうではなく、イメージスキーマは、知覚的経験に直接根ざしていると考えられている。
イメージスキーマは恣意的なものでなく、知覚的カテゴリーを根拠とした経験を直接的に表象するものである。
ごく幼い乳児は、最初の物事の表象をイメージスキーマから発達させると考えられている。
イメージスキーマの本来の機能は、物理的世界を1枚の図にまとめる、一連の運動を結合することにあるようである。
たとえば。「上方」「下方」という一般化されたイメージスキーマは、自分が落下したり、ほかの物が落下するのを見て、自分が物を持ち上げたり、ほかの物が上に昇るのを見るという活動から派生したと思われる。
これらの表象の一部は、後に言語構造を決定するようである。すなわち、言語は、その発達の途中で前言語的で、前概念的な構造の線に沿って自らのイメージスキーマを構築することがあるのである。したがってイメージスキーマは経験の概念化の橋渡し役をするようである。
イメージスキーマの形式に一般化される人間の初歩的な経験には、前述の上方と下方、空間的な中心、他の事象と何らかの因果関係によってつながる事象、目標に向かう道を進む移動、容器-あるいは「外側」と「内側」-などの経験がある。
こうしたイメージスキーマのすべてが、必然的になんらかの「空間」を必要とするが、それは必ずしも個別的な(詳細な)具体的イメージである必要はない。これらは、世界がどのように機能するかというわれわれの考えにとって非常に基本的なものであり、逐語的な形で使用されるだけでなく、比喩的に使用されて、ほかの抽象的なタイプの考えを表現する。
われわれは、イメージスキーマを毎日、何度も、それについて全く考えることなく使用している。
結局陶器の見方というのも、イメージスキーマと関係していて、ていうか、より形而下よりの非言語的な表象メタファーって言うほうがいいのかな、日本の陶器はその題材の多くを自然に採っている。あるいは、魯山人の場合、題材を過去の名品そのものに採っているものが多く。その部分がコピーだといわれる原因で、しかも所詮旦那芸ではあるのだけど、そのコピーの仕方が抜群に上手くて。まあそれはいいのだが。
考えてみれば、漢字だってもともと象形文字なわけだし、楷書→行書→草書という流れもそう。この場合は、筆の動きというか筆運びすら表象化されていて。魯山人は書も書くのだが、結局、彼はこの表象イメージを感知する能力とそれを実際にモノに表す能力がハンパないのだと思う。
もともと、そんなふうな省略されたものから全体を補って見ようとする心の動きが、日本人の場合平均的に優れているのだろうと。見えないものを補う脳の働きだったり、実際にそこからモノを作り出していくコピー文化的な能力だったり。そこからいろんなふうに派生してるというか。
日本で印象派が人気があるのもそういう理由だろうし、マンガだってそうだし。フランス人との親和性はそういうところにあるんだろうなと思う。なにもフランスで印象派が隆盛したのは偶然ではないのだ。紙媒体のマンガが彼の地で人気があるのもそういう理由だろう。アメリカではそういうのは無理なのだ。認知の仕方に得意・不得意な分野っていうのはどうしてもあるらしい。それが人種なのか文化なのかはわからないけれど。もともとそういうふうにはっきり分けられるものじゃないしね。そういう根本的な認識の土台も含めて動くから生き続けられるわけで。
ただ、でも日本はアメリカにはなれない。そこを目指してもたぶん負ける。それぞれに合った場所を埋めにいったほうが良いのだけど、このまま資本主義社会が進んでいくと日本人は淘汰されるのかもしれないという危機意識を誰もがどこかで持っている。それもまあ置いておく。
抽象絵画はそういう脳内の認知方式の発見をしようとするムーブメントの中でおこった。印象派からキュビズム、フォーヴィスム、そして抽象表現主義へ。だがあまりに抽象化されてしまうと逆に現実からの接点を失う。そうやって漂うように描かれた作品もあるし、抽象思考そのものの動きを絵画でとらえようとするものもある。カンディンスキーとかってそういうものだと思っているのだが。コンポジションⅧとかね。あそこまで行くともうゲシュタルト的認知とチャンクとか音楽認知の方法とかまで絵で表そうとしてるというか。まあ、それも置いておこう。
省略されたものの中に共通のイメージを見る。そういう人間の心の動き。「イメージは生命力を持つが明確さを欠き、概念は明確であるが生命力を欠く」というユングの言葉。イメージというのは、脳内にある種の運動を起こさせる。たぶん、あいまいである分、複数の神経回路でそれを把握しようとするような動きがあって、それを固定化させるようなスパークが起ったとき、アハ体験が起こってそれが快感につながるんだと思う。複数の神経回路での同時発火が起こる時に、直観とか直感とかいわれるものが働くわけで。そうして、そういうのが繰り返し何度も起こると、そこの繋がりが強化されて新しい神経回路が作られることにもなるんだろう。
美術というものが、ただ美を愛でるものから、そういうものの見方を得ようとするものに変わってきたターニングポイントがどこにあるのかはわからないけれど、自分が美術館で観ようとしている、掴もうとしているのはそういうもので。
「ああーそういうことか」と、陶器を見ながら、陶器を通して心の中で自然全体を眺めて、そしてまた陶器に目を戻す。そういう動きのなかで人間の脳は真理を掴む。実際に陶器を手に入れる人は、さらにその先に行く。その陶器を手で愛でるのみならず、使ってみるところまで。そこで初めて、生活と美術が融合して生きた智慧というのが生まれる。料理というのはそういうものだと。色の配色だとか、形だとか。なにかを実際に使ってみて、さらには自分の手で作ってみて、そうやっていろいろなものが繋がる。繋がっていく。
逆に言えば、そういう心の動きがないところでは賢くなれない。一旦、不安定な状態を作り出し、それを再度固定化させる。それを繰り返し行う。試行錯誤する。どこかで安定するポイントがある。そうすることによって今までと違った神経回路がつくられていく。智慧というのはそういうふうにして得るもので、知識とは違う。脳内に認識システムを作ること。ものの見方を作ること。あるいは、それを実際に使う先の方まで行ける人においては、ものごとに対する処し方を身につけていく。。それが本来の人の生の有り様なのだと思う。
残念ながら、現代ではそういう時間が取れない。仕事が忙しくていろんなものに深くコミットする時間がない。欲望を充足させるモノも極端に多くなっていて、逆に欲求不満ばかりがたまり、結果空き時間は、短絡的、直接的な快感だけを求める。埋め合わせをするように。その快感の求め方は、生物的な原始的な動物の反射のみ、モノに反応しているだけ。そんな時間の過ごし方をしてしまっている。
いにしえの人のほうにより智慧がある。そんなふうに思えてしまうのは、そういう時間の使い方をしていることを暗に悔いているからかもしれない。村上龍は、貧困と無知というのがニ大罪悪で、高度成長期にはそれを克服することを目的としていたというようなことを言っているのだが、彼のいう無知の「知」の部分は智慧ではなく知識のことなのだけど。ただ、それが本当に残念なことだったかどうかというのは自分にはわからない。どちらも大切なのだけど、どちらも等分にかつ充分に得るということが本当に可能だったのかってわからない。
また、生物的な反射の快楽というのに溺れることだけを目的にした長生きをすることを是としているようにみえる今の世の中が正しいのか誤ってるのかとかね。そんな長生きに意味あんのかね?なんて思ってしまう。なんだかどうも浅いし偏ってる感はあるのだけど。まあ、どうでもいいんだけどね。人それぞれだから。ただ、その価値観を人に押し付けないで欲しいんだよな。そういう押し付けのほうがよっぽどわがままだよと、自由奔放なB型の人間はおもふ。
だからモノを作ってる人を尊敬するのだよね。音楽もそうだし、なんだっていい。なんなら写真が趣味っていう人とかでもいい。そういう人のブログをよく眺めてしまう。すげえなあって感心する。エネルギーを貰うのだ。
まあそれはさておき。
たぶん音とか音楽はこういう認知体系じゃないんだよな。システムが違う気がする。だいたい音楽に明確なメタファーなんてないし。メタファーか。そうかそういうことか。。だから同じたとえば『美』という俎上に乗せようとしても、同じやり方はできないというか通じないんだよ。どういう音楽が歴史的に一番でどうしたこうしたという議論についても、まったく地平からして違うから、認知科学的に。
絵画や美術についての情動というのはだいたい自分の中では納得できる筋道はあるのだけど、ほんと音楽だけは、リズムについてはなんとなくわかるのだけど、メロディーと情動の関係がぜんっぜんわからん。根本的なところがわからない。リズムは人間の身体の中に、というか運動の中にあるから、それと情動の関係を紐解いていけばなんとなく理解できるけど。でも、自然界にメロディーなんてないじゃんさ。ほんと、どーいうことなのだ?誰かマジで教えてくれ!
ちなみにこの『魯山人陶説』の表紙の写真。じーっと眺めていて、なんだか気になるなあと思ったら、蟹の絵の下の赤い部分がミソだったんだよ。子供の頃の記憶まで遡らないとわからなかった。このブログ写真だと色が悪いからわからないかもしれないけど、それが何かぼんやりでもわかる人は、多分魯山人の陶器全般にすごく魅かれる筈。
でもたぶん、この色に見覚えがある人は、カブトムシがどんな木にいてどうやって採るのかを知ってるような自然の中で遊んだ世代の人で、あるいはスーパーでなく、自然のものを自分で採りにいって自分で料ることを愉しみにしている人とか。だんだんそういう人も少なくなって、そのうち魯山人の名前も消えてゆくのかも知れない。文化というのはそういうものなのだろう。
だから、なにが一番だとかどうとか言う議論はまったく不毛で、「後世にオレの名を残す」なんてことを考えてモノ作ってるやつのエゴってほんとバカまるだしだなあと思うのだけど、そういう意識がないと良いものは作れない。そうやってなにやっても無駄無駄言ってるヤツは今生きている値打ちもない。なにが優れているかを求められないオマエの存在自体無駄じゃ、氏ねと。そういう矛盾を抱えながら人は生きるのだ。まる。
でも、無心でモノを作ってる人のココロというのはね、あれはなんちゅーんだろ。なんかそういう人の心に意識を合わせようとすると、自分の心が震えるのよね。作品を観るのは、ほんとはさ、認知の方法うんぬんより、そういう心が震える瞬間を体験することだったり。古いタイプの自分はそう思ったりもする。認知の方式を知るなんてことよりも、そういう心が震える瞬間を体験することが創造の本当の源なのだと。たとえそれが誤解だったとしても。自己満足だったとしても。ライブもそういうものだよな。






