テーマ:ユンジェ小説・MIROTIC
73. 月花
カタカタと
キーボードを打つ音がする。
机に座り、
ファイルや資料を広げているユノ。
その背中をそっと眺めたあと、
僕はキッチンに戻ってコーヒーを入れる。
トクトク、と
ユノ専用の青いカップにコーヒーを注いで、
邪魔をしないようにユノの傍らに置いた。
「お、ありがとう」
僕の気配に気づくと、
ユノは振り返って僕の頬にちょっとだけ触れて微笑む。
「ユノ…あのさ…」
「うん?あ、買い物の時間か。
ちょっと待ってて。支度する」
「…ん」
ジュンスのステージを見に行ってから、1か月が過ぎた。
ユノは毎日早く帰宅する。
休みも取ってくれる。
その分の仕事を自宅に持ち帰ってこなしてる。
どんな仕事をしているのかは
僕なんかにはわからないけれど、
ユノの眉間のシワを見ているだけで
難しいことを調べているのだということはわかる。
「ごめん、待たせたな。
行こうか、ジェジュン」
「うん」
ユノは、僕を一人にしない。
外に出るときは特に。
必ず僕の隣に付いて、僕を離さない。
家から少し離れたところにある大きなスーパーには
いつも一緒に買い物に行く。
「今日は何を作るの?」
「ビーフシチューにしようかなって思って」
「いいね!俺大好きだよ。楽しみだなぁ。
あ、ジェジュン。見て」
ユノが指差すその先には
大きな緑の葉をつけた鉢植えの観葉植物があった。
ユノは最近、
大きな鉢をよく買う。
それを小さなベランダに並べて。
「あのホテルのバルコニーみたいになるといいんだけどなぁ~」
そう言って笑う。
ご飯を作って。
一緒に食べて。
食器はユノが洗って。
あったかいお風呂に浸かって。
風呂上りにはソファに座って缶ビールを1本飲む。
ベッドに入って「おやすみ」と耳元で言った後、
ユノは僕の体を背中からめいっぱい抱きしめて眠る。
その温もりにまどろんで。
僕は眠りに誘われてゆく。
でも
僕は知ってる。
真夜中。
ユノは一人で起き上がって
ベッドを抜ける。
そして冷蔵庫から缶ビールを取り出し、
ベランダで静かにそれを飲む。
街を見下ろし。
空を見上げて。
やがて外に背を向けると
指先で缶を掴んだまましゃがみ込む。
髪の毛を掻き毟って。
膝に腕を乗せ、ダラリと項垂れる。
ユノは、
僕を抱かない。
頭を撫でて、
そっとキスをして、
柔らかく抱き包んでも。
ユノは
あれから一度も僕を抱かない。
最初は僕が「汚れた」からだと思った。
けれど、
彼がそんなことを思う人ではないことは
この僕が誰よりもわかってる。
ユノは
僕を壊すのを恐れてる。
僕の体を大事にしたくて
触れるのを恐れてる。
触れること以外で、
体を繋げること以外で、
僕に大事なものを伝えようと。
そのために
もがいて
もがいて
手探りしている。
それが解っているから
彼を追い詰めないように心がけた。
――守れなくてごめん。
彼の背中がそう叫び続けている。
精一杯を僕にくれようと、
ユノは「誠意」を形に示そうと
ただ必死で。
必死で、抱かずにいる。
わかってる。
わかってるよ、ユノ。
君が謝ることなんて、
なにひとつないんだよ。
亡霊に取りつかれたように僕に尽くし続ける君を見て、
僕はただ
それを受けることでしか答えを返せないでいる。
だけど、
つらいよ。
ユノ。
僕は、君のそんな姿見たくないよ。
十分すぎるほど僕と向き合って、
その身までも削ろうとして。
ユノ。
ユノ。
ユノ――
ベッドの中。
毛布に潜ると、
いつものようにユノは背中から僕をふわりと包み込んだ。
「今日のビーフシチュー美味かったなぁ」
「ほんと?」
「うん。明日も食える?」
「まだちょっと残ってるから大丈夫だよ」
「やった。じゃあまた食わせて」
「わかった」
「おやすみ、ジェジュン」
僕のうなじに顔を埋めて、
これ以上ないくらいの優しさに満ちた声で告げる。
ウトウトと眠気がやってきて、
僕は小さく静かに呼吸を刻む。
それからしばらく時が過ぎて、
ユノは音を立てないようにベッドを抜けた。
僕はその背中をじっと見つめる。
白いTシャツの上に
ベッドの横にかけていた黒のパーカーを羽織って
ユノは寝室を出た。
そのままいつものように冷蔵庫に向かって、
ビールを1本取り出す。
プシュッ、という栓の音にも気をかけて、
なるべく物音が立たないように開けて一口飲む。
小さくため息をついた空気の揺れが、
静かな空間に響く。
そのままベランダに向かい、
ユノはフェンスに手をかけジッと街を見下ろしている。
その背中を
寝室のドアの隙間から
気づかれないようにそっと見つめる。
雲間から顔を覗かせた月が
優しく明かりをおろして彼の肩を照らしている。
月が
彼を連れて行ってしまうんじゃないかと思った。
慈悲深く、
自分を犠牲にしてまでも僕を愛そうとするユノを
月がすっかり気に入って
僕を置いて空へ連れてってしまうんじゃないか。
そう思うと動揺して、
僕は寝室のドアを抜け
一歩、リビングに踏み入った。
シン、と静まる夜の空気。
素足に冷たく伝わる床の感触。
声を発することもできず、
僕はただじっとユノの背中を見つめ続けた。
こんなに
人を好きになったことはない。
何から伝えればいいかわからないほどに、
僕の喉は言の葉を失って。
こんなに
人に愛されたこともなくて。
「愛されてる」とわけなく自覚を持てるほどに、
ユノのそれは確かで、強く瞬いて。
一時の不安が僕の足元を幾度となくさらってゆき、
何度も何度も彼から離れようとした。
子供みたいだ。
この場所以上に、
僕が僕でいられる場所などないのに。
ユノ以上に
僕が僕でいられる人などいないのに。
「ユノ…」
微かに、声にならないような声が漏れる。
そのわずかな響きに気づき、
ユノがこちらを振り返った。
「どうした、眠れないのか?」
少しだけ困ったような笑顔で僕を見るユノに、
僕は歩み寄り、
その胸に黙って顔を埋めた。
「…ジェジュン?」
心配そうに僕を呼ぶユノの声。
その優しい声が
僕の胸のもどかしさを余計にこじらせる。
ユノの背中に手を伸ばし、ギュッと捕まえる。
ユノの手が僕の背中でほんの少しだけ躊躇うのがわかる。
その間のあとに、強く抱きしめ返すユノの手のひら。
僕は
ユノの顔を見上げた。
何かを言いたげに、でもそれを封じるように噤まれた口元。
その口元に
僕はそっと自分の唇を近付けてみる。
口づけを、迷う。
その迷いが僕の唇を震わせ、
重なることへの1歩を踏み出せない。
あんなに容易くできていたはずのことが
心の惑いで
こんなにも
こんなにもむずかしくなっていく。
想いが強ければ強いほど
たったひとつの触れ合いが
尊く、遠く、狂おしくて。
震える唇をジッと見つめながら、
ユノは言葉を発そうとかすかに口を開いた。
けれどすぐに目を閉じ、
少し決意を仄めかして
僕の唇を埋めた。
浅く。
それから深く。
唇が押し付けられ、そっと離れた。
「ユノ、あいしてる」
「…」
俺もだよ、という言葉にすら慎重になっているユノ。
たまらなくなった。
胸が、キュッと詰まって。
愛しさが、体の奥から叫び声を上げそうになって。
「ユノ…抱いて、いいんだよ」
小さく、囁いた。
ユノは、眉をひそめる。
「俺は…」
「わかってる。
ユノが、『それ以外』で僕を大事にしようとしてるってこと。
わかってるんだ。でも…」
ユノの背中のシャツをギュッと掴み直す。
「僕は…ユノがくれるものは全部「愛」だって感じてる」
ユノの心臓に耳をあてる。
心地良い鼓動が聞こえる。
「君が僕を叱るときも、
君が僕を突き放すときも、
君が…たとえいつか僕のもとを去るときが来ても、
それは全部僕への愛だって、今は、そう思えるんだ」
いろんな人の腕の中で眠った。
寂しさを紛らわすために、
誰でもいいから傍にいてほしいと思うときがあった。
けれど、
ユノに巡り会ってはじめて分かった。
「安心する」っていう感覚を。
「繋がってる」っていう感覚を。
「君が僕に触れてくれるとき、
僕はね、
傷口を癒してもらっているような気持ちになるんだ。
古傷も、新しい傷もぜんぶ。
君が撫でてくれるたびに、それが癒えていくんだ。
真っ白な新品のタオルで体を拭ってもらってるような、
そんな優しい気持ちになるんだ」
背中から手を離す。
そして、
ユノの広い胸の上にそっと両手を乗せた。
「僕は、汚れてる。
だからきっとユノを汚しちゃう。
それが嫌だと思ってた。
でも…もし君がいいというのなら…
それでもいいって言ってくれるなら…」
あたたかい鼓動。
それを包み込むように、
離さないように、
手のひらで握りしめた。
「僕は、ユノに拭ってもらいたい。
これから先もずっと。
ずっと。ずっと。ずっと…」
声が、詰まる。
うまく言えない苛立ちが唇を噛む。
けれど、ちゃんと言いたかった。
「僕は、ユノに拭ってもらいたいんだ」
ユノの指が、僕の背でピクリと動いた。
そしてその手が
今度はとても強く抱擁した。
「ジェジュン…!」
僕の首元に顔を埋めて、
ユノは小さく震える声で僕を呼んだ。
手探りであてどなく答えを辿っていた不器用なユノの手が、
ようやく解放されたようにめいっぱい力を携えていた。
僕たちは
どっちも不器用なんだろうね。
「あいしてる」のたったひとつの答えだけなのに、
こんなにもたくさんの道で迷ってしまう。
「ユノ…」
答えを定める確かなものなんて
もしかしたらどこにもないのかもしれない。
「ユノ…」
けれど
僕の中に宿るこの小さな灯が
僕の命を燃やし続けるだとと思う。
その炎のために
僕は生きていくんだ。
「僕を、抱いて…ユノ」
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