輜重兵第八聯隊について詳しく書かれているブログをみつけました。
すばらしい内容です。
久々のブログ更新です。最近忙しく、今回はたまたま近くに行く機会があったのでそのついでに携帯で写真をとっただけの手抜きブログです。
和徳城跡。築城年代不明。藤崎城主安東氏庶流の安倍氏によって築いたとされる。南部氏津軽侵攻の際この和徳城も攻められる。城主安倍伊予守もよく防いだが家臣の小山内讃岐守の内通により落城。その後その小山内氏が南部の家臣として城主となる。その後満春、讃岐(祖父と同じ名前?)と代を重ねるが、津軽為信の石川城攻めのあと攻められ落城。父子は戦死。その後津軽為信の家臣森岡金吾信元が城主となる。
和徳城の場所については諸説あるのだが土淵側から見たこの様子で、和徳城趾はこことみて間違いないだろうと個人的に決め付けている。
小沢館(こざわたて)。弘前市小沢にも中世の城があった。土淵川とアップルロードが交差するあたりにある。
和徳城主小山内氏に仕えていた猪股市郎左衛門の居館跡。ご存知のとおり和徳城は津軽為信に石川城落城後すぐに攻められ落城したので、その後津軽氏家臣森岡金吾信元が使用した。その森岡信元も後にこの城の近くの久渡寺で津軽為信に暗殺されたとも言われている。
墓地公園前のアップルロードからみると土淵川に張り出している城跡がはっきりわかる。
城の東側は土淵川が蛇行し段差があり自然の防御となっている。サイクリングロードが整備されているので当時のままの姿ではないと思うが面影は残している。
城の西側から北側かけて堀跡と思われる小川が流れており、それに沿って土塁も確認できる。
アップルロード側からリンゴ畑となっている城内部にお邪魔させてもらった。平らな面が数面ありきれいに段差がある。曲輪跡なのか、農業用に後で整備された段差なのかは判別できない。
小栗山館(こぐりやまたて)。築城主、年代不明。南北朝時代に倉光孫三郎という武将が拠っていた。南朝方であったため北朝方の曾我氏に数回攻められるも撃退している。その後歴史には登場せず、津軽為信の石川城攻めの際、小栗山館主で野武士の首領である小栗山左京が参加している。小栗山は後に津軽氏家臣森岡信元の所領になると記述があるが、小栗山館についての記述はない。
小栗山沢辺のなだらかな丘陵地帯にあった。下の写真にあるリンゴ畑の細い道を自転車で登って行った。
かなり登った位置から弘前市市街地を眺望できる。かなりの丘陵地帯であることがおわかりいただけると思う。
この地形をフルに活用して平賀方面から攻めてきた曾我氏を撃退したと想像する。
下記ブログ地図に記された地点はこの辺と思われる。畑になっており遺構はやはり見当たらない。
西には大和沢川がながれ断崖となっている。こちらから攻め入ることはほとんど不可能か。
大和沢館 弘前市大和沢にあった。 築城年代、館主いずれも不明。
現在はりんご畑で素人には遺跡発見できず。
http://www.mapion.co.jp/m/40.5497327777778_140.468348611111_8/
最勝院五重塔。弘前人であれば誰でも知っている。にわか歴史ファンの私が言うまでもないが最勝院の歴史のポイントだけまとめさせて頂く。
最初は堀越城下にあったそうである。弘前城築城にともない城の鬼門においた弘前八幡宮のある田町に移転、八幡宮の別当寺であった。また、弘前藩領内の寺院を取り仕切る立場にあった。
前ブログでのべた明治政府による神仏分離令により八幡宮周囲にあった最勝院以外の寺(11つ)は廃寺となり、それらの檀家を引き連れて現在の地に移転する。そこにあった大円寺は大鰐に移転した。
現在でも大円寺の呼び名は残っている。未だに大円寺の宵宮と言い、最勝院の宵宮と呼ぶ人より多い。バスの停留所も昭和50年代前半まで大円寺であった。さすがに最勝院からクレームがついたらしく大円寺という停留所はなくなった。江戸時代のくせがまだ抜けていないのである。最勝院のかたにはすこし悪い気がするが、大円寺がそこにあったというこの名残ぐらいはぜひ残って欲しい。
説明するまでもない五重塔である。4代藩主信政のとき完成。津軽統一戦の犠牲者敵味方を問わず弔うために建てられたが、碇ヶ関を越えて桝形方面つまり東南の方角から敵が攻めてきた際の見張り塔の役目もあるのか?東南方面は堤、御岳神社、桝形と防御を厳重にしているように思える。
大円寺の時代からある通称六角堂
弘前が誇る大工堀江佐吉の碑
聖徳太子を祭った太子堂。建物の古さからみて大円寺の時代からあるのかな???
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