幸福の科学の信者が幸福実現するブログ

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グネッキ・ソルディ・オルガンティノは、戦国時代末期の日本で宣教活動を行ったイタリア宣教師
人柄が良く、日本人が好きだった彼は
「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」
と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で織田信長豊臣秀吉などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となった。


生涯は、以下のとおりです。
【ここに感想を入れます!】

⬇︎

1533年北イタリアのカストで生まれたオルガンティノは22歳でイエズス会に入会した。

【幸福の科学にも、イエズス会のようなエル・カンターレ信仰伝道精鋭部隊のようなものを誰かが創設して、在家の各国への宣教と在家伝道研究を推進するものがあればいいなと思いますし、266代教皇はイエズス会から出てて、いまも2万人も活動中です。

イエズス会なかりせば、キリスト教徒、20億人いたかはあやしいですね。

これについて、意見があるので、後の気が向いたときに。】

ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教えた後日本に派遣された。

来日は1570年6月18日元亀元年5月15日)で、天草志岐にたどり着きました。

【長い船旅お疲れ様でしたーヽ(^o^)】

着任後まず日本語と日本の習慣を学び、

【ここがイエズス会のエラいところだよね。】

1573年天正元年)から1574年(天正2年)にかけて法華経を研究した。

【これは本当にスゴイなぁ〜。

法華経の研究なんて普通はできないですよ。

伝道の情熱を感じるね。】

 オルガンティノははじめから京都地区での宣教を担当し、ルイス・フロイスと共に京都での困難な宣教活動に従事した。

1577年(天正5年)から30年にわたって京都地区の布教責任者をつとめた。

持ち前の明るさと魅力的な人柄で日本人に大変人気があった。

【当時の日本人から人気があったのは本当に凄いと思う。】

パンの代わりに米を食べ、仏僧のような着物を着るなど、適応主義を取ったことで日本人からの受けがよく、着任3年で近畿地方における信者数を1500から1万5,000に増やしたという。

【3年で、異教徒の地で、当時の外国人で、信者を10倍に増やした。

適応主義で頑張ったんだなと思う。

原理主義的で、ここは違う、あれは間違っているとことさら言う宣教師は、逆に敵対意識をもたらしたと聞きますので、

現代もそうですが、反面教師として気を付けたいと思いますね。】

 オルガンティノとともに日本に来て九州での布教責任者となったフランシスコ・カブラルが大名の大村純忠を入信させたにもかかわらず、その頑固で短気な性格から多くの日本人を教会から遠ざけたのとは対照的だった。

【そう、このフランシスコ・カブラルは徹底的に日本や日本文化に否定的で遅れているとさえ見てました。

適応主義で上手くいってた日本の伝道をぶち壊し、日本の信徒と宣教師に大きな溝を作りました。

後に、カブラルから日本人が布教に適していないという悲観的な報告を受け、衝撃を受けたため、日本に巡察に来た巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノから徹底的な批判をカブラルは受けます。

畿内においてヴァリニャーノは多くの優れたキリスト教徒たち、キリシタンの武将たちに会って感激し、日本布教区の問題点が実はカブラルにあると考え、日本文化尊重をし、日本の礼儀作法を学ぶ重要性を宣教師たちに指摘しています。

逆にカブラルは、ヴァリニャーノを批判する失態を犯しています。

こういう人はどこの世界でもいるんですよね。こういう人が、伝道を止めてしまうのです。】

オルガンティノは1576年(天正4年)に京都に聖母被昇天教会いわゆる「南蛮寺」を完成。

1578年(天正6年)、荒木村重の叛乱時(有岡城の戦い)には家臣と村重の間で板ばさみになった高山右近から去就について相談を受けた。

1580年(天正8年)には安土で直接織田信長に願って与えられた土地にセミナリヨを建てた。

オルガンティノはこのセミナリヨの院長として働いた。

最初の入学者は右近の治める高槻の出身者たちであった。

第一期生の中には後に殉教するパウロ三木もいた。

しかしこのセミナリヨは信長が本能寺の変横死した後で安土城が焼かれた時に放棄された。

1583年(天正11年)には豊臣秀吉に謁見して新しいセミナリヨの土地を願い、大坂に与えられたが、結局、右近の支配する高槻に設置された。

【時の権力者から、相談を受け、かつ、教会の土地も寄進を受けてるのは、この人の徳としか言えないのではと思いますね。

また、政治力もある証拠だと思いますし、弟子に殉教者も出ています。

殉教者が出るか出ないかは、良い悪いは別として、キリストの愛の教えや情熱を正しく伝えた宗教家であったことは間違いないと思います。】

1587年(天正15年)に最初の禁教令が出されると、京都の南蛮寺は打ち壊され、高山右近は明石の領地を捨てた。

オルガンティノは右近とともに表向き棄教した小西行長の領地・小豆島に逃れ、そこから京都の信徒を指導した。

翌年、右近が加賀国に招かれると、オルガンティノは九州に向かった。

1591年(天正19年)、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。

前田玄以のとりなしによって再び京都在住をゆるされた。

【禁教令が出ても、その総本山である人物この人自身は、なぜか秀吉に拝謁でき、前田玄以の取りなしで許されているのは不思議で、やはり、この人の人徳なんだろうと思う。

キリスト教は、ダメでも、お前はいいよ的なものがありますね。】

1597年慶長2年)には日本二十六聖人の殉教に際して、京都で彼らの耳たぶが切り落とされると、それを大坂奉行の部下から受け取っている。

オルガンティノは涙を流して、それらを押し頂いたという。

【これは、光景が浮かぶようで( ; _ ; )涙

グッと抱き締め、抱きながらいつまでもさざめくように泣いている光景が思い浮かびます。

せめて、聖職者オルガンティノに渡しておけと云うのが、精いっぱいの武士たちのとむらいだったと思いますね(涙)

あいつなら、デウスの下に魂をきちんと送り届けるだろうと。

それだけ、日本人に信頼されていたと思います。】

半生を日本宣教に捧げたオルガンティノは最晩年、長崎で病床につき、1609年(慶長14年)、76歳で没した。

【禁教令が出ても、この人はおとがめなしだったのでしょうか?そうでしたら、真に不思議な魅力です。】

日本に好感を持っていたオルガンティノは、
書簡の中で
「われら(ヨーロッパ人)はたがいに賢明に見えるが、彼ら(日本人)と比較すると、
はなはだ野蛮であると思う。
(中略)私には全世界じゅうでこれほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる」
と述べている。

また、
「日本人は怒りを表すことを好まず、
儀礼的な丁寧さを好み、
贈り物や親切を受けた場合はそれと同等のものを返礼しなくてはならないと感じ、
互いを褒め、
相手を侮辱することを好まない」
とも述べている。

【このオルガンティノが述べてる言葉こそ再発見されなければならないと思います。
怒りを表すことを好まず、
互いを褒め、
相手を侮辱することは好まないと、
それが日本人だと。
互いの意見を尊重することが日本人の特質であります。
その日本人の特質を忘れた者が、日本で日本人の振りをして、大手を振って跳梁跋扈してるのが現代の姿であるといえます。
どうか、皆様は、このオルガンティノの生き方を忘れないで、何が正しい道かを判断していただければと思います。】

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