戦後日本の間違い | アディクトリポート

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ちょうど1年前、
まだ「いいとも!」終了が発表される前、
二つの大災害を生き延びた人の話を取り上げた

まあ、あれは都市伝説の域を出ないが、
このたび(2014年8月9日)、
よりによって、
広島、長崎の両方の爆心地から、
1.6~2キロ圏内に、
原爆投下の当日に居合わせてしまった人の話を知った。

ジョン・ローザム(John Rozum)氏伝いで、
たどりついた記事より。

あさ

ヤマグチ・ツトム(※後述の経緯により、漢字はわかりません)氏は、
1945年(昭和20年)8月6日の朝早く、
翌日には帰郷予定だったのに、
勤務地の広島の三菱造船所に忘れた印鑑を取りに戻って、
その帰り道(爆心地からおよそ2キロ地点で)、
上空に飛来する米軍爆撃機と、
そこから投下された1発の爆弾が、
空の黒いシミのようだったのを、
まのあたりにした。

そしてその直後、
原爆のすさまじい轟音と爆風と熱線と放射線にさらされた。

しばらく意識を失い、
気がつくと、粉塵まみれのジャガイモ畑に横たわっていた。

肩からひじのあたりを激しくやけどしていたが、
周囲をみまわすと、
もっと悲惨な状態の死体だらけだったので、
まだ自分はましな方だと感じたらしい。

どれぐらい意識を失っていたのか、
どうしていいのか何も思いつかず、
とりあえず造船所に戻ってみたが、
そこは跡形もなく吹き飛んでいて、
何もなかった。

次に思いついたのが、
故郷に戻ることで、
どうやらかなり離れた鉄道駅は、
まだ動いているらしいと聞き、
そこを目指した。

その駅に行くには、川を渡らねばならず、
それには川を埋め尽くした死体の山を這いつくばって渡るしかない。
ここに来て、自分が目を覚ましたジャガイモ畑は、
実は無数の死体が横たわった状態だったことに気づく。

結局そのやり方では川を渡りきれず、
(死体が途中で途切れて、渡りきれない川幅があった)後戻り。
少し下流の、鉄道橋の残骸を綱渡りして、
向こう岸にたどりつき、
我先にと殺到する群集をかきわけて、どうにか電車に乗り組んだ。

その電車の向かう先は、ヤマグチ氏の故郷、長崎。

8月7日に長崎に着き、奥さん等の家族と再会。
翌日の8日は泥のように丸1日眠り込み、
8月9日を迎える。

ヤマグチ氏は長崎の三菱支社に向かい、
広島の件を話すと、技術畑の集団だけに、
「たった1発の爆弾で、市全体が壊滅するほどの大規模な破壊につながるのか」
と話題になった。

まさにその話題の最中に、
ヤマグチ氏は3日前と同じ衝撃に見舞われる。

この時、「あれ」が広島から自分を追いかけてきたのではないかと思ったそうだ。

ヤマグチ氏のように、広島と長崎、二つの原爆を経験した日本人は、
ほんの一握り、5人にも満たなかったと言われる。

2発の原発に見舞われたヤマグチ氏は、
髪の毛は抜け落ち、顔と全身がむくみ、
皮膚が剥がれて、鯨肉のように赤黒い皮下組織がむきだしになり、
何度も嘔吐し続けた。

妊娠中の被曝者が出産すると、小頭症や知能障害の子供が生まれる例も聞かれたため、
2度の被爆を経験したヤマグチ氏は、やはり長崎で被爆した奥さんとの間に、
子供をもうけることを断念。

しかし、
戦後5年以上経ってから、
2人の女児をもうける。

2人とも、生まれたては健康に異常は見られなかったが、
年を経て十代から成人にかけて、免疫性の障害が現れた。
とはいえ、記事が追跡する限り、
娘さんのお2人とも、今も健在。

何よりも、ヤマグチ氏ご自身が、
戦後2年ほどで三菱に職場復帰し、
(戦前も戦後も、とにかく三菱一筋!)
2度の被爆から65年後の、
2010年に93歳で亡くなられた。

記事は、そこから別の話題になるのだが、
それはUPWORTHY(アップワージー)の本記事の英語で、自分で聞いてもらうとして、

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私が言いたいのは、
広島、長崎の被者とか、
福島原発の被者こそ、
被害特権で政治に参加させる仕組みでも作らない限り、
そういう人たちを無視した(いないことにした・ないがしろにした)政治がくり返される

ということである。

おわり。