『告白』----こんなの「映画」じゃない! | アディクトリポート

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大半のシネコンで上映終了の、20日にようやく鑑賞。
$オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-こくはく

絶賛の世評と大ヒットに、むしろイヤな予感が……
そしてその予感は、当たってしまった。

おおよそ予想はついてたけど、ホントにくだらなかった。
ラストは原作とは違う……らしいが、そんなこたぁどうでもいいし。

※ここからネタバレ

一説によれば、実際に爆破はされてないそうだが(そうだったのか……)、それも作品のくだらなさを左右したりしない。

※ネタバレおわり


伊坂幸太郎原作の『重力ピエロ』(2009)(他、こいつの全映画化作品)も、
$オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-ぴえろ

東野圭吾原作の『さまよう刃』(2009)も、
$オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-さま

はたまた、作品としてはかなりまともだった、横山秀夫原作の『クライマーズ・ハイ』(2008)も、
$オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-はいはい
そこで取り上げられる犯罪や事件、事故は、あくまでも物語のモチーフとして扱われるだけで、そのものずばりの真相究明だとか、ではどうすればいいのかという解決策は示されず、物語の筋立てが優先されたり、別のテーマにすり替えられてしまう。

作家の社会的使命とか道義的責任とかには、まるで思いもよらないらしい。
「小説だから」「フィクションだから」が免罪符になって、出版社の担当も「先生、すごいですね」と褒めそやすばかりで、「先生、ふざけないでください! こんなの発売できるわけないじゃないですか!」とはならない。

山田悠介とか伊坂作品を出してる出版社とか、どう考えても「まとも」じゃないよね。
犯罪計画書とか、犯罪者を正当化するようなものを、実行さえしなければ無責任に書いていいってことには、ならないと思うんだけどなあ。

で、『告白』の原作者の湊かなえとやらも、書いてることや、やらかしてることは変わらないし、それを無批判に出して、「スゴイですね、先生!」と褒めそやしてる出版社も推して知るべし。

ついでに、こんなのを大賞(=一番売りたい本)にまつりあげてしまう「本屋」たちもまた、病巣が深い。
$オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-ほんや
これじゃあ本が売れずに、書店がつぶれてもしかたないよ。

さて、監督の中島哲也は、
$オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-てつや
『下妻物語』(2004)
$オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-まつこ
『嫌われ松子の一生』(2006)
$オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-atuko
『パコと魔法の絵本』(2008・原作は舞台『MIDSUMMER CAROL ガマ王子vsザリガニ魔人』)
$オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-ほんと
等の過去作品の選定からもわかるように、自分より格下の作品、つまり手に負える作品の映画化にしか取り組まず、自分の手に余る題材には見向きもしない。

つまり映画化した作品内の話の本筋や、キャラの心情にみじんも引きずられずに、「フン、くだらねえ、バッカじゃねえの」と、冷め切って突き放してるからこそ、常に中島テイスト(自分色=原作者の意図などおかまいなし)で淡々と割り切ってまとめている。

中島監督が、これまでコメディ基調の作品一辺倒だったのに、『告白』みたいにシリアス(=笑いと無縁)な作品を手がけられるのか、とか疑問視されたけど、原作の中身の破綻ぶりとか支離滅裂ぶりは、ほとんどコメディで、特に----

※ここからまたネタバレ

低能な夫と結婚した高IQ女性が、子供に過剰な期待を抱いて厳しくあたるくだりは、「ねえよ!」と失笑してしまった。

※ネタバレおわり


ヒットに合わせて海外でリメイクされるそうですが、日本人がマジメなつもりで作った『LIMIT OF LOVE 海猿』(2006)のクライマックスで、
$オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-いき
アメリカの観客は爆笑したとか、
『インセプション』を
オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-shuugou
アメリカ人はケタケタ笑いながら見通すという目撃証言に接すると、
リメイク前の本作『告白』も、
$オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-えんじ
日本人観客の大半は静まりかえって観てたけど、アメリカ人に見せたら、大笑いされるんだろう。

まあ、いつもの中島哲也映画の、正しいあり方ではあるが。

で、その中島監督は、今回も与(くみ)しやすい原作と見込んで、まさにそのとおりになったまでのこと。

これまでのケバケバしい極彩色と忙しいカット割りを、彩度を落としてスロー(高速度撮影)を多用という正反対の手法に転換しただけで、やってることはいつもと変わらない。

少年凶悪犯罪やケータイ、ネット社会、モンスターペアレント、児童虐待やいじめ等々の現代の闇の世相を鋭くえぐった問題作とか衝撃作
と評する向きもあるようだが、違いますよ。

この無茶苦茶な話が成立するためには、いくつもの異常、特殊な事情が重ならなければならない。
しかも個々の特殊な事情や状況も、極端で誇張が大きく、その時点ですでに「ありえない」。

一つ一つが「ありえない」事象が、さらに重なることはもっと「あり得ない」から、つまりは全体がうそっぱちすぎて、まるで現実味も真実味も説得力もない。

ウソというのは、10のうち9までがホントだから、そこに潜ませた1のウソが巧妙に働く。
10のうち10が全てウソでは、ウソがバレバレすぎて、信じこめないし、まともに取り合う気が失せる。

この物語が成立する要件として、いくつもの偶然が重ならなければならない例を挙げると----

※ここからまたネタバレ

*健康促進モデル校に指定されて、牛乳が支給される。
*主人公の女教師のダンナは、海外放浪を本に著した英雄教員だが、その海外経験がもとでエイズを発症。結局死ぬ。
*しかし女教師はエイズを発症せず、シングルマザーで女児を育てている。
*その女児は学校のプールを横切って、面倒見のいい老夫婦の家に行き来する。
*第一主犯は天才肌で、それは母親のいびつな選民思想の影響
*松たか子の娘が欲しがっていたものを、少年は偶然知っていた。
*第二主犯はいじめられっ子で、母親はこの息子を溺愛
*クラス替えもなく、中一から中二へそのまま持ち上がり
*松と入れ替わりの熱血漢(岡田将生)は、松のダンナの信奉者
*体育館(か講堂)を爆破する前日の夜に、犯人はネットに素顔の動画をさらして犯行声明
*少年が母を訪ねた時には旅行中。ところが犯行前日に都合良く帰国してくれている。(ニセ情報の可能性あり)


※ネタバレおわり


等々々。
どうですか?
一つでも、身の回りに、「あるある、こういうこと!」って思い当たることがありますか?
まあ百歩譲って、2、3はある……かも知れないが、それが全部重ならずに一つでも欠けたら、この筋立ては成立しないんですよ。

これはどういうことかというと、作者が現実生活や人生を乗り越える力をまるで持ち合わせておらず、自分の卑屈で矮小な作品世界の方に、現実を無理やりケタ揃えさせたり、強引な辻褄合わせをしてるからなんです。

別の言葉で言えば、自分のでっち上げた身勝手な筋立てが可能かどうか、検証を怠っているというか、それをやったら成立しないのが目に見えているので、リサーチしようとすらしない。

現代はネット社会で、それこそ調査は昔と比べたら、格段に簡単なはずなのに。
いかにも、個人で書き殴って一丁上がり体質の、社会性の欠如した、むかしながらの作家(物書き)らしい姿勢だけど。

「現実社会や時代とまともに向き合っている」作家なら、「この筋立ては破綻してるな。もう一回やりなおさなくちゃ」となるだろうに、復讐劇の完遂という思いつきに囚われてしまうと、その筋立てを成立させるために、どんどんていねいに扱うべき事柄に気を遣わなくなっていき、筋立てに不都合な事柄には無視を決め込んでしまう。

このため、最後の瞬間に行きつくのに邪魔な要素は、平気で続々と適当にカタをつけてしまう。

※ここからまたネタバレ

木村佳乃も、主犯に共感的な女生徒も殺されていく。

※ネタバレおわり


メインの筋立てと無関係と言うだけで。
乱暴だなあ。

現実社会を舞台に作劇を展開しながら、現実的でない解答や結論に行き着かせる意味がわからないよ。

たとえば、パソコンのメモリを増やそうとする時、
ふつうは(現実的な問題解決の仕方は)、メモリを買って実装しますよね。
オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-tuuyou
画面表示のメモリの値を書き換えたって、本当に書き換えた値になるわけがない。
オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-memori
だけど『告白』原作小説(未読・今後も読む予定なし)がやってることは、これと変わらない小手先操作なんですよ。

メモリの件だったら「んなアホな!」とたちどころにわかるのに、小説だと、「いいんじゃないの、それが小説だから」とか「そもそも小説なんて、そういうもんじゃないの」と思われてしまう。
つまりこの場合の「小説」っていうのは、「フィクションだからなんでもあり」とか「マンガ(=荒唐無稽の代名詞)以下のしろもの」と同義で語られてしまっている。
小説をそういう無価値なものに捉えていない作家には、たいへんな不名誉であり、迷惑な話である。

映画『告白』のヒットに際した分析で、アメリカでは『ダークナイト』のようにダークな作品がヒットする下地はあっても、
オレにやらせろ! 作家浪人Addicto救出プロジェクト-ポッド
日本にはないと思われていたが、『ゴールデンスランバー』(はぁ……タメイキ)
オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-ふりむき
のヒットもあり、今回の大ヒットにつながった。
だから今後もこういう作品が増えるのでは、と分析があった。

その分析自体は間違ってないと思うが、『ダークナイト』で描かれている犯罪者の姿や筋立てを、『ゴールデンスランバー』や『告白』の稚拙なレベルと同列に扱うべきではない。

『ダークナイト』が、映画という総合芸術として見事に昇華していて、それは
*異常心理者やそれが引き起こす犯罪への深い洞察にもとづき、
*倫理的浮動層が、ジョーカーに勝って欲しいと入れ込む状況を巧みに作り上げながら、
*最後に意地でもバットマン(ダークナイト)に勝たせている
----つまりモラル的に成熟しているのに対して、
上記の邦画2本は、引きこもり小説家の幼稚な戯言、まともな大人が取り合うべきでない妄想に、いい年こいた大人が寄生してでっちあげたポンコツで、およそ映画とは呼べない不良品、欠陥品だから。

原作者の湊かなえは、これが「いっぱいいっぱい」で、自分がどれだけ愚かしいことを垂れ流ししてるのか自覚してないのかも知れないが、中島哲也の方は、それを十分承知の上でやってる確信犯だから、余計にたちが悪い。

映画の最後に、
*実在するブランドや製品名が登場するが、それを侮辱する意図はない。
という、『下妻物語』での「エルメス」や「ジャスコ」に関してと同義のテロップが流れ、
その後に、
*劇中の人物の思想や行動を肯定するものではありません。
とも出る。

はあ?

ってことは、劇中の展開(小説『告白』の話の中身)が、「あってはならない」し、そもそも「ありえない」し、「よしとできない」わけだよね。

だったらなんで、肯定できない話の中身を、そっくりそのまま映画にするのさ。
「最後にテロップ出しときゃ、それで済むだろ」なんてことに、なるわけないじゃないですか!

ところが、「どうせ観客はそこまで見抜けやしないさ」と見込んだ通り、『バベル』(2006)よろしく、
$オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-ばべる
ありえないデタラメの羅列にすっかり平常心をかき乱されて、まんまと術中にはまってしまうマヌケの、なんと多いこと。

まともな映画を見慣れてれば、『告白』がまるで正反対の出来損ないだと、すぐさま見分けがつきそうなもんなのに。

なんか傑作とか言って、作り手に賞賛を与えてる人まで、たくさんいるみたいだし。

作り手だって完全な狂人でないかぎり、「これでいいのか?」と不安や疑問を抱いてる。
だからこういう小説家は、表に顔を出さないし、小説以外で意見表明もしなければ、インタビューも受けない。

なのに、これを認めてやっちゃうと、「やっぱりよかったのか」と勘違いするし、「私も湊かなえさんみたいな小説が書きたい」とかいう、勘違い人間の模倣犯を生み出しかねない。

映画に年齢制限もあるのは、そういう意味もある。
大の大人だって、こぞってだまされてるんだから。

読者に対して不誠実な小説
観客に対して不誠実な映画
自分の独善的な屁理屈を押しつける行為
それでお金を得て(=大衆から少しずつお金を巻き上げて)、その人の生活が成り立ち、職業として機能する。

私にとっては、金と時間をドブに捨てるうえに、儲けさせたくもないやつらに、まんまとお金を巻き上げられる体験だったんですけど?

こういうのも、搾取(エクスプロイテーション)っていうんじゃないの~?

関わった全員、有罪だと思う今日この頃。


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