自分を見つめるってことは。
テーマ:超勝手な共依存論。自分を見つめるってことは、自分を客観的に見つめることとは全く違う。
だってね、自分を客観的に見つめるってことは基準がまわりにあるってこと。
世間で言うところの「一般的」「普通」そういうものと比べるっていうことなんだってところに行き着いた。
父が公務員で母親が専業主婦の家庭で育った私は、
客観的に考えることで自分を取り囲む世界の歪みを認知できないまま大人になった。
客観的になればなるほど、贅沢な悩みに感じてくる。
雨風をしのげておまけに食の心配は無い。
父と母は傍から見れば、健全な人間だ。
その「傍から」ってのが、やっかいなものであることにある時気づく。
そこにはどうやっても私の苦しみは反映されないから。
昔、試験勉強の時あったでしょ?
赤いペンで書いた文字に、赤い下敷きを重ねると字が消えるような。
あんな感じで、私の苦しみだけが消えてしまう。
私が感じている苦痛は、どこの家庭にもある「普通」のことなんじゃないか、
私が過剰に反応しているだけなんじゃないかって。
でもある時、私は客観的に見ることをやめた。
私が感じている苦痛や、悲しみを真正面から見てみた。
そうしたらやっと親から虐待されていたことを認知できた。
そうやって認知できるようになるまで、あれほどの暴力と支配の中、
まだ「あんなこともあったが本当は愛してくれていたんだ」と、現実から逃げていた。
そしてそうやることでしか私は生き残れなかった。
自分を見つめるっていうのは、一切の比較を排除してこそ成り立つ。
「私は何を感じているか」に集中すること。
案外、みんな自分の感情には鈍感だ。
好きでやっているのに「我慢」と言ったり、本当はイヤイヤのくせに楽しそうなフリをしたり。
本当は自分の言葉に従わせたい納得させたいくせに、そうじゃないようなフリをしてもっともな言葉を吐いたり。
腹の中では煮え繰り返っているくせに、そうでもないフリをしたり。
その時々の新鮮な感情にフタをしている人は多い。
感情にフタをするってことは、否認するってこと。
その感情を認めないってこと。
自分の本当の感情にフタをしたくせに、くすぶってどうしても表現したい。
そんな時、共依存的な行動が出てくる。なんだかんだ勝手な理由をつけて、自分の行動を正当化してしまう。
Aさんは、好きでやっているくせに「嫌だけど、私が我慢すればいいから」と言う。
私がこの人を助けないと、Bさんが困るから、と言う。
でも「我慢するくらい嫌だったらやめたら?」というと、こんなに頑張っているのに立つ瀬が無いワ、と言う。
Aさんは「私がいるからBさんは助かっている」と信じている。
そして「こんなに助けてあげているんだからBさんは私に感謝すべきよね」とも思っている。
こんなに頑張っている姿を見たら、誰も私が怠けているなんて思わないワとも思っている。
あまりにもAさんが大変そうだったから、Bさんは「もういいよ」と言う。
そうしたら、Aさんは困ってしまった。
なぜか、あんなに我慢するほど嫌だったこの世話をやめることで一番困るのはAさん。
貢献できている満足感と、感謝される立場が無くなってしまうからだ。
もともと、自分というものが無いから、そういった他からの評価が無くなることで
一瞬にして透明な存在になってしまう。
だからまた救いを求めていそうな人を探し、Aさんがいなくては生きていけないような
過剰な世話焼きやコントロールをする。
その満足感を養分として生きる。
その満足感は、賭け事やアルコールと同じくらいの陶酔感があるらしい。
一見、いいことをしているように見えるから曲者。
ACが育つ家庭の共依存の例を挙げてみる。
母親は常に娘を心配している。
娘が何か行動を起こそうとしても、何もかもを把握しようとやっきになる。
娘はそれが息苦しくて、自分で行動しようとするが失敗する。
そんな時、それみたことかと「お母さんの言うことを聞かないからよ」と結局後始末などを全部母親がしてしまう。
好きな男の子と電話で話をしていたら、電話を切ってしまう。
娘の部屋から電話を取り上げ、電話禁止令。
「あなたのためを思ってしているのよ。好きでこんなことしてるんじゃないの」なんていう。
逆らえば逆らうほど、娘が間違っているようになってしまうから不思議だ。
日記は当たり前のように見る。そこにキスのことなんて書いていたら大変。
制服を匂ったり、カバンの中を漁ったりもする。
その行動も、母親にすれば全てが「娘が変な道に走らないように」という正しい行動だと思い込んでいる。
そんな自分の異常な行動は棚に上げて、「若者の性の氾濫」のニュースに眉をひそめて、「最近の子はどうなっているのかしらね」なんて言っている。
でも私が監視している限り、うちの子は大丈夫だと思っている。
監視は親の務めだとも思っている。
そのくらいのことで、我が子を把握した気持ちになっている。
じき、その娘は過食嘔吐を始める。
母親は大慌てで、そこいらの本を買いあさって娘を理解しようとする。
「私の愛情不足だったんだわ!」と、監視が愛情だと信じ込んでいるから以前より厳しくする。
するとリスカまで始めてしまう。
「娘がおかしくなった!」と、娘をカウンセリングに連れていく。
そのカウンセラーには、その母親の方がよっぽど危ない状態に見える。
「中学くらいまではいい子だったんです。ねぇ先生、娘にどう言えばわかってもらえるんでしょうか」という。
言い換えれば「どうコントロールすれば娘は私の言う通りに動くのですか?」ということが言いたい。
この期に及んでまだ娘をコントロールしようとしていることに気付けていない。
「お母さんが手を離すことだけですよ」
そういってもキョトンとするだけの母親。
きっとこの母親は、自分の行動が娘を追い込んでいることには気付けない。
自分こそが正しいからだ。
そしてまた「娘を救えるのは自分しかいない!」と息巻いて、監視して干渉して娘の人生に入り込んで邪魔をする。
娘はある程度諦めて家ではいい子をやって、一歩外に出るとなんとなく体を売ってみたりする。
ささやかな親への逆襲だ。
案の定、門限を守っていい子のフリさえしていれば母親はおとなしい。
母親も「私の愛情が娘を救ったのね」とか考えている。
私は、こういう母親が大嫌いだ。
そんな人間になるような出来事があって、その親から受け継いだ関係の持ち方で娘に接しているのだとわかっていても、あまりにも酷い。
狂っているとしか言いようが無い。
共に依存と書いて「共依存」。
だけど内容はその文字通りではない。
私が言葉にするなら「寄生依存」。これぞ、ぴったりなネーミングだと思う。
宿主を死なない程度に生かし、寄生し続ける。
寄生しているくせに、自分を宿主だと思っているような横柄さがある。
その謙虚のフリの影に隠された横柄さが嫌いだ。
※2005/04/03 に書いたものです。







1 ■うわわ
いま自分を見つめることについて考えながら何となくブログをみたら
衝撃的な記事を見つけてしまった(* ゜Д゜)!
「自分がない」と思い続けてそれについて考え続けて
でもそれ自体贅沢な悩みでそんなこと考える暇があるなら
何か有益なことをしなくちゃなんて考えて
そのこと自体も一般的な「普通」で「端から見て有益なこと」なのに
頑なに信じて
自ら自分が作り出した世間の型にはまろうとして…
ありゃりゃ、そんなのポイッチョすればよかったんだわさ~(゜Д゜
アイヤ~
帳面帳面!
また読みに来ます