バサラのブログ







アメブロでは初めてのブログとなります。よろしくお願いしますm(_ _)m


早速ですが、震災ボランティアにGWに行ってまいりました。その報告の日記です。


ボランティアに興味がある、行って来た、これから行きたい、などの方にも読んで頂けると嬉しいです。




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GWに、短い期間でしたが、現地をこの目で見るため、なにかお手伝いをするために車で被災地に行ってきました。

この日記は、他の人にボランティアに行くことを強制するものではありません。個々の事情やサポートの仕方もいろいろあるわけですから。

なので、現地を見てきた人の状況報告として見て頂ければ幸いです。

そして、これを読んで現地へ行ってみようと思う人がもしいれば、もっと幸いです。






現地へは自分の車で行きました。子供は実家に事情を話して預かってもらい、妻と友人2名(主婦とカナダ人の英会話教師青年)の4人で早朝の東京を出発しました。救援物資は、食料、衛生用品、水そして幼稚園で集めた子供服などです。


行程は、仕事の都合などもあり2泊3日。


東京=>栗原=>気仙沼市本吉(ここでボランティアで2泊)=>石巻(被災した親戚宅へ立ち寄り)=>東京

というものです。


栗原は、同行のカナダ人がかつて地元の中学で2年間英会話教師をしていた町です。彼がお世話になった人に久しぶりに会いたいので乗せてほしいと言ってきたので、最初の目的地にしました。

栗原は、仙台の内陸側の北にあり津波の被害はありませんでしたが、最大震度を記録したことで名前を聞かれた方も多いと思います。

彼が栗原の友人の家に泊まるということなので、栗原に着くと我々3人はそこで別れて、気仙沼へ。彼の中学の教頭先生が学校にいらっしゃって、一番いいルートを教えてもらいました。国道で1時間半~2時間くらい掛ったでしょうか。


着いたのは気仙沼市本吉町。そこで見てきたものは、リアルな被災地の姿でした。これまで、ブラウン管の向こう側のものとして見ていた光景が、まさに目の前にありました。津波が押し寄せた地域に私たちが近づくまでは、何の変哲もない日常の光景が広がっています。もちろん、地震の爪痕で道路が少し隆起していたりヒビが入っていたりはしますが、ぱっと見は普通の田舎のよくある風景です。

その光景が、被災地に入った瞬間、一瞬のうちに様相が変わるのです。突如がれきがあちこちに散らばり、そのままになっている風景が目に飛び込んできます。月並みな表現ですが、言葉を失います。これが津波の恐ろしさなのでしょう。運命を分ける境界線がはっきりと、残酷なまでに分るのです。無傷の家と、隣合わせなのに無残に壊されて無くなってしまった家の跡。

本吉町のボランティア受付センターは、「はまなすの館」という町の体育館と図書館がある場所にあります。ここもぱっと見は普通の景色が広がります。



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しかし、この場所から道を一本入っただけで恐ろしい爪痕の残る光景が広がるのです。







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この辺りは、山あいを縫って流れる小さな川を津波が逆流して、洪水のように海水が川の土手からあふれ出し、近くにあった家を次々と破壊していったそうです。この場所から海までは4キロもあり、山があるために全く海を見ることは出来ません。初めて目の当たりにした現場に、私たちはただ立ち尽くすしか術がありませんでした。





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ボランティアをしようと考えるときどこへ行くのか。まず最初の大きな選択だと思います。




GWのボランティアの募集は、大きな都市では、事前に締めきられたところがほとんどでした。メディア上の報道では、「県外の方のボランティアは受付を終了しています」「テントを張る場所も確保できません。」などの情報が溢れていました。

事前登録に間に合わなかった私たちは、現地に行って待ちぼうけになり無駄足を踏んでしまうかのようにさえ思われました。しかしあれだけ広範囲に渡る被災地です。ボランティアが余る訳は無いんです。必ず人手を必要としていることろがあるはず。そう思って、インターネットでアタリを付けた地域のボランティア受付窓口の連絡先を幾つもメモして行きました。結果、東北自動車道を北上中に連絡をした一発目で、是非来てください!お待ちしています!との回答を運よくですがもらえた次第でした。


思うに、大きな都市やメディアが現地入りしているような地域は報道も良くされているので、人々の関心が集まりやすく、ボランティアの応募が殺到します。しかし小さな町などでは、人出が足らず、ボランティア募集の告知をインターネット上ですることすら、ままならないことが多々あるのだと思います。現に、私が連絡して行くことになった本吉町は、一日前にやっと募集の告知を出したそうです。しかもたった2行の告知です。ですので、大きな市、テレビで報道される市に目が行きがちではありますが、違った視点で見てみると突破口はあちこちにあるのだと思いました。人出を必要としているのは、東北の沿岸部すべてなのですから。。。。


そして。。。。


本吉町でのボランティア活動について、何か参考になればと思い体験上で分る範囲で記しておきたいと思います。


【一日の活動の流れ】

はまなすの館の受付にて登録をします。ここでボランティア保険も加入できます(無料でした)。朝は8:45に集合となります。掲示板があって、案件が張り出されます。案件は、基本的に地元の方でこの場所までリクエストの申請をしに来れる人から出されたものだけです(このシステムの問題点が、ここにあります)。案件の用紙には、場所・人数・作業内容が記されており、どこに行くのが良いか大体のあたりを付けます。そして実際にセンターの方が、案件ごとに希望者を挙手でつのり、調整してゆきます。







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【活動時間】

朝9時から午後3時まででした。状況に応じて延長も可能です。現場へは近ければ徒歩となります。遠い場合は車となりますが、車を出せるボランティアがいればそれを使い、無ければボランティアセンターの手配した車で現場まで送迎されます。案件ごとにリーダーを決めて、終了後は簡単な報告書を作成します。

【道具】

案件により必要な道具なども違ってきます。ボランティア受付に、貸し出し用の道具(スコップ・ハンマー・ノコギリ・ワイヤ―カッター等)があるのでここで必要なものを調達します。長靴も貸してくれました。昼飯や飲み物は持参していきます。現場のお宅で出して頂くこともありますが、基本は持参という心構えで。ちなみに、私が話したり一緒になったボランティアの方々は、宮崎、福岡、奈良、京都、名古屋、神奈川、東京、千葉、山形から駆け付けていました。

【作業内容】

作業内容は、がれきの撤去・泥掻き出し・家財道具の洗いや整理などでした。1時間ごとに10分の休憩を入れるようにセンターから通達がなされていました。がれき撤去などで気を付けたいのは釘の踏み抜き(木造の家の柱や建材が多数がれきに交じっている)。破傷風にもなりかねないので、十分気をつけねばなりません。




妻が行った現場です。家はすべて流されて、蔵が1つ残ったのみだそうです。



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私が行った現場の写真です。船が林に乗り上げています。



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【宿泊】

ボランティアの宿泊は、はまなすの館の脇にある芝生の広場があり、そこにテント設営をするように言われています。もしくは、車だったら駐車場で車中泊もできます。トイレは仮設トイレが4つ。食料は向かいのショッピングセンターが開いているのでそこで買えました。



なんか寂しげww



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でも後ろをみると、こんな感じで仲間がいます指でOK




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この日は風が猛烈で、テントが飛ばされないよう建物のすぐわきに設営しました。夜はカエルの鳴き声が子守唄です。



【情報収集】

はまなすの館には体育館があり、そこが避難所になっていました。駐車場の一角には自衛隊の給水車が待機しており、日中は給水を貰いに来る地元の方が来ています。また対馬と湯布院の部隊が設営した風呂もあり、当然地元の人が優先で入れるようになっています。時間を区切って、男女を分けていました。




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本邦初公開。自衛隊の湯の内部。




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地元の子と自衛隊の、ちょっといい光景をパシャ



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ボランティア受付の入り口の自動ドアに、本吉から主要な駅などへの交通手段と往路復路の時刻表がある。本吉へは、気仙沼からバスが出ているのでボランティアの方はそれを使ってくる人が多いです。その他の人は、車やバイクで来ていました。他にも、本吉のライフラインの復旧状況やお知らせ、様々な手続きの申請の仕方など、そして被災地のみなさんへの熱いメッセージが張ってありました。ここに来る地元の方に直接必要なものを聞いて、持ってきた救援物資を手渡すようにしました。センターでは、足りているので。。。。と言われましたが、やはり個別に訊いてみると、ニーズがあります。


そして、東北の方は遠慮がちで、少なめにしか取らないんです。なので、何度か時間をあけていろんな方に声を掛けてすべてお渡ししてきました。







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【規模】

私が参加した時の実際のボランティアの総人数は、40~60人くらい。最初に参加した日は、約60名の求人に対して、参加総数44名。次の日は参加が60名以上に増えていたが、GW過ぎてガタっと減るのではと心配。案件の数は、10か所以上あったと思います。


【生の声】

被災した方たちは、話を聞いてほしいのだと思います。東京ナンバーを見て地元の方に何度も話しかけられ、その人の体験談をよく聞かせていただきました。そこで語られたのは、生の体験談、悩み、そして県外から手伝いに来る人への感謝の気持ち。来てみなければ分らなかったことが本当にたくさんありました。


【ライフライン】

私が参加した時、(5月2日あたり)では、はまなすの館付近は電源が復旧。しかし、それ以外の地域はまだのところも多かったです。水の復旧も給水しているくらいなので大分遅れていた印象。あれからもうすぐ2カ月になろうとしているのに、まだこんな状態なのかとショックでした。





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私ががれき撤去をお手伝いした現場へは、ウチの車を足に出しました。通常はセンター手配の車なので、午後3時には迎えが来てそこで終わってしまうのですが、我々は、家のご主人が

「どうぞどうぞ、あがってお茶でも飲んで行って下さいー。」

とおっしゃったので、作業も少し延長してそれからお茶を囲んでお話をうかがう機会を得ました。


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一番手前がご主人。後ろは、近所の方。右は元町長さん。


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このご主人の言葉で忘れられないものがありました。ここに紹介いたします。


「GWに貴方達のような若い人は何処かに遊びに行くのが普通だろうに、自費でしかもテントに泊まってまでわざわざ来てくださって本当にありがとう。」絆や希望を失わないことを教えてもらい、本当はこちらがありがとうです。言葉に詰まりました。


「何より、こんな時に手伝いに来ようと思うあなたたちを育ててくださったご両親に本当に感謝しています。ご両親にこの言葉を是非お伝えください。」自ら被災し、母親も無くされた方が、そこまでの気配りをなさっておっしゃる言葉に、そこにいたみな涙があふれました。


「夜が一番不安なんです。一刻も早く朝が来るように、そればかり祈りながら眠りについて、そして朝を迎える毎日です。」この人々の力になりたいと心から思いました。


被災されてライフラインが途絶え、3週間のあいだ全くどんな地震でどんな規模の津波だったのか、そして福島の原発のことすらご存知なかったそうです。。。



お話を聞いているところへ、町長さんが偶然やってきました。
内閣情報調査室参事官 鈴木耕一氏 に、状況を逐一報告していらっしゃるとのこと。


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被災して、家が半壊、全壊、もしくは浸水といった状況になると仮設住宅への移転や、集団移転も視野に入れて検討しなければならない。。

この町は人と人で結びついたコミュニティーなんです。個々が町から一人抜け、二人抜けといったようにバラバラになってしまうと、町の力が成り立たなくなってしまうのです。そういった悩みを打ち明けていらっしゃいました。


また、このお宅でボランティアを頼むのは、4日目なのだそうです。それも、本吉地区のボランティアセンターに行って、申請をして初めて案件として掲示されるそうです。車のないお年寄りの家などは、ボランティアの手伝いがあることを知らなかったり、知っていても行けない方も多くいるそうでした。


ボランティアを束ねて、ニーズを拾い上げるボランティア


これも必要なのだと思いました。


妻の現場での話。

お手伝い先の地元の方に

「お子さんいるんでしょ?どうしたの?連れて来たの?」

と聞かれ、「実家に預けてきました。」と答えると、



「あー、実家も被災地になったねえ(笑)」



という冗談をおっしゃっていたそうです。2か月が過ぎ、人々は確実に前を向いて歩き出したんだと実感できる話で、これを聞いてちょっと嬉しかったです。



本吉地区に滞在の最中、早起きして気仙沼へ足をのばしました。本吉からは車で40分くらいのところに気仙沼の町はありました。

映像でもありましたが、気仙沼も地震・津波・火災というとんでもない事態に巻き込まれてしまった町です。

中でも、港の付近の地区が凄まじかったです。







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静寂しかないのです。



たくさんの人が生活していた痕跡が、がれきからもうかがい知れるのですが、いまとなっては何も音がしません。





あの瞬間から完全に時が止まっていました。 南気仙沼のあたりです。




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そして、強烈な悪臭が辺りにたちこめ、この付近でボランティアをした人は、手袋、洋服、そして体にこの臭いがしみ込んで、衣類は2度と着ることが出来なかったそうです。


うちの車も、何度か大きなどす黒い水たまりを越えて行きましたが、強烈な悪臭は車の外はおろか車内にまで染み付いて、しばらく臭いが取れない状態でした。

あっという間に2日間は過ぎました。別れ際に私が行った現場のご主人と握手をしました。


「みんなで撮った写真を送るから、ひとり一人住所を書いていってけろ。」


また来ます!と言ってお別れしました。これからも、ちょくちょく行ってみようと同じ現場のボランティアの仲間と話しました。


ボランティアを終えて、今度は気仙沼から石巻へ向かいました。親戚が市内に住んでおり、震災後数日は連絡がつかず最悪の状況も想定していたくらいでしたので、無事だと聞いて以来ずっと顔を見に行きたかったのです。


小さな商店を再開し始めた親戚の家の前に車を止めると、懐かしそうな笑顔が迎えてくれました。商売用の軽トラックに乗ったまま津波に流され、中から脱出してトラックの荷台につかまったまま近所の神社まで流されたそうです。

やはり津波の爪痕はここでも大きく、信号もまだ点いておらず、街中に車や
がれきが未だに放置されています。水もまだ復旧していないとのことでした。



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親戚に別れを告げて石巻の市街地をめぐると、女川の標識が。女川は石巻のすぐそばなのだと初めて認識出来ました。壊滅的な被害を被った石巻のすぐ隣にある女川原発に事故が無かったのは、奇跡とも思えました。


石巻付近の河口近辺を見て思ったのは、海面が異常に高い、ということでした。




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地盤沈下と海岸線の侵食によってだと思いますが、河口付近の地面とほぼ同じくらいの高さに海面があるんです。明らかに尋常でない景色でした。

最後に門脇地区を通ってきましたが、ここも辺り一面空襲にあったかのような光景が広がっていました。



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そこで見つけた一枚の看板。




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頑張ろうという言葉が、まるでどこか別の世界の言葉のようにも見えてしまいました。それくらいの凄まじい光景が広がっていました。


夕刻の石巻を後にして、一路東京へ向かいました。東北道上り40キロという、これまた凄まじい渋滞が orz


流石に帰宅までにかなりの時間を要しました。明け方にやっと到着。とても濃厚な時間の連続だったため、死んだように眠りにつきました。



最後に。。。

復興への道のりは、地元の方が自らの力だけで行うにはあまりにも厳しい現状です。政府、自治体、民間、ボランティア、すべてが2人3脚で進んで行かないと、とても間に合わないし、向かっていけません。膨大な量のがれきに気が遠くなるような思いを実際に数えきれないくらいすると思います。

そして一過性ではない、継続したサポートがこれから必要になってくると気がつくのです。地震から1週間、1か月、半年、1年と過ぎるにつれて、サポートの内容は変わってくると思います。常に、今なにが必要か、情報を集めながら支援を長丁場で続けるのが、本当の復興への第1歩なのだと思います。

縁あってお手伝いをさせてもらった本吉地区には、故郷のような感情を抱きました。これからも継続的に、現地へ足を運ぶつもりです。



最後まで読んでくださってありがとうございました。

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