タロット「悪魔」と「砂の女」
自分の居場所はここじゃない
とか
ほんとうにやりたいことは他にある
とか
そんなことをはっきりと感じながらも
日々日常の慌しさの中で
あるいは
タイミングや意欲が伴わないために
担っている役割や責任のために
行動を先延ばしにしたり、時の流れに飲み込まれてゆくことって、大人になると、けっこう増えてしまうのかもしれません^^;
どれもこれも、自分で創っている現実ではあるのですが(-_-;)
そういうときに生きている「日常」って、どこか「砂」に似ているのかもしれない。
そんなことを思ったりしました。
昔、読んだ小説なのですが『砂の女』というのがあります。
- 砂の女 (新潮文庫)/安部 公房
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安倍公房は、一時期、夢中になって読んだのですけど、ひときわこのお話は映像となって脳裏に焼きついているお話でした。
文字で読んでいるだけなんですけどね。
そのイメージが、先日、踊るときに浮かんできました。
(映画になっているので、検索してみたらいろいろ出てきました^ ^)
このお話は「自由を求める男性と、それを日常の中に取り込む女性」という図が物語の主軸として捉えられていることが多いのでしょうか。
男女のそうした基本的なジェンダーの問題もそうなのかもしれないけれど
延々と繰り返されるかのように思える毎日の中で生きること
と
かき出しては降り落ちてくる砂を、くる日もくる日もかき出してゆくこと
とを結びつけて描き出しているのかな、とも思う。
砂って、崩れやすいもの、形を残さないものなどの象徴として描かれることが多いですよね。
そうした安心感のある状態とは言えない中でも、それが日常と化すと、人はそれを守ろうとする。
その日常の中にあるものに執着し始めていったりする。
ある意味、人ってどんな状況にも慣れるという、たくましさが見えてくる氣もする。
お話の最後で、主人公は、砂の穴から去ることのできる状況を得ながら、穴に留まることにしました。
「水」を生み出す装置を発明しつつあったからです。
主人公は「自由」よりも、穴の中から見る「希望」を選んだのだとも言えると思う。
彼には、手を伸ばせばそこにある「自由」よりも、「希望」のほうがリアルになっていたのですね、きっと。
この「自由」と「希望」とのコントラストがとても興味深い作品だな、と改めて思ったりしました。
このかんじ。
タロットカードの『悪魔』にとても近いと思うのです。
カードの中の男女はゆるい鎖につながれています。
鎖に強制力はないんだけれど、でも、虚ろな目をしてそこにいる。
逃げようと思えば逃げられるはずなのに。
もしかしたら、鎖がはずれることに氣づいていないのかな?
わたしたちの日常には、けっこうこういうこと、起きているのではないでしょうか。
「自由にやっていいですよ~」と言われているのに、あえて型にはまっていこうとすること…。
自分の中で、当たり前となっていること、習慣、記憶、「わたしってこうなのよね」という自分の性格…。
自由じゃないな、とかんじるとき、じつは自由を制限しているのは、環境でも運命でもなく、他ならぬ自分の中の価値観や考え方、だったりします。
自分で自分に鎖をかけていないかな
そんなふうに、自分の「当たり前」を見直してみることは、新たな可能性を開く最短の道となり得ます。
『砂の女』もいちど読み直してみよう^ ^
また、違う印象があるかな。
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