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美唄川 12

テーマ:ブログ 2012-05-30 12:36:39 posted by ab7229

 ナツとセツが母親の背中をさすった。ミネは荒い呼吸のまま健一に向かって言葉をついだ

「今日はとりあえず講堂で寝る以外にないですね。広志たちもいないし、ノブ姉さんは亡くなってしまったし、頼る人は誰もいませんね」

 ナツ自身も母親をさすりながら頻りにくしゃみや咳きをしていた。明らかに寒さで風邪をひいたようだ。頭が割れるように痛くなっていた。

「大丈夫かナツ?」と父はナツの頬にふれながら訊いた。「熱があるみたいだ。どうやら風邪をひいたみたいだな。いつから熱が出た?」

 ナツは返事をする元気もでなかった。そのとき向こうから駆け足で近づいてくる人がいた。

「お父さん。あれ山本先生じゃないかしら?」とセツが言った。

「広志の学校にいたあの先生か?」

「きっと捜しに来てくれたんだわ。よかったねナツ」

 ナツの目に輝きが戻った。

 山本先生が慌てた様子で走り寄った。

「芦原さん、やっと見つかった。すぐ僕の家に来て下さい。寒い中で風邪をひきますよ。ナッちゃん大丈夫かい。咳をして震えているじゃないか。一刻もここにいてはいけません」

 山本の親切な申し出に甘えるほか道はないのだった。この寒空ではどうすることもできないのだ。起きあがったミネが申し訳なさそうに頭をさげた。

「ではお言葉に甘えて少しの間そうさせていただきます。ナツを先に連れて行っていただけますか? 私たちは、運び出しておいた売り物の商品を、安全な所に移してから伺うことにします」

「荷物はどこですか? ナッちゃんを家に連れていったら私もお手伝いしますので」

「和井内さんの下の広場です」

「そうですか。ではすぐ行きますからね」

 そう言って山本は川沿いの低地にある自分の家にナツを連れて行った。ナツの両親とセツは移動しておいた品物のある広場へ行った。そのとき全員が凍りついた。荷物が跡形もなく消えていたのだ。

 いくら探してもどこにも商品は見つからなかった。ミネが顔を歪め、思い出すように言った。唇が寒さと不安で震えている。

「そういえば大源さんがいつか言っていたわ。火事のどさくさに紛れて泥棒をはたらく、ふてぶてしい集団がいるってね。もしかしてさっきの人たち」

便りにしていた品物がなければ芦原家は路頭に迷うことになる。ひごろ冷静なミネもショックと落胆でわなわなと震えている。

「ミネ、俺はすぐ常盤台へ行って確かめてくる」 

 健一はそういって血走った目で飛び出して行った。二時間ほどして帰ってきたときの健一の顔は、泣き出さんばかりにげっそりと落ち込んでいた。誰が見ても駄目だったのは一目瞭然だった。騙されたことを全員が悟った。再起のための頼みの綱はこうして切れた。ナツはこのときほど、両親が落胆しているのを見たことがなかった。芦原家の全員の運命が、土台から揺すぶられたのだ。

 ナツはそのとき十五歳になっていた。山の上にある三菱炭鉱が経営していた実業学校の専科に通って八ヶ月が過ぎたころだ。勉強と本を読むのが好きだったナツは教師になることを夢見ていた。だが、ナツは好きだった学校を辞めなければならなくなった。ナツの心にやり場のない想いが駆け巡った。予期しない運命の嵐はこうして人を襲い、見えない歯車の駆動は有無も言わせず誰かを引きずっていくのだった。




美唄川 11

テーマ:ブログ 2012-05-29 08:54:07 posted by ab7229

火が迫ってきたとき芦原家は家族総出で家財道具より先に仕入れていた商品を守るために死に物狂いで外に出した。炭鉱夫やその家族が使う作業服や下着、軍手等の品物だった。それが燃えてしまったら収入の道が絶たれるのだ。

そのとき知らない男が三人で店にやってきてこう言った。

「大変だから手伝ってあげましょう」

 彼らは、商品をせっせと外に出すのを手伝ってくれた。猫の手も借りたいほど切羽詰まっていたので本当に助かったのはいうまでもない。そのおかげもあって品物を建物から離れた安全と思える場所に置くことができたのだ。手伝ってくれた男たちにナツの父は言った。

「本当に有難うございました。おかげで大事な商品を守れました。恩に着ます」

 ナツの母親も続けて言った。

「本当にご親切に、なんとお礼を申したらよいか。後で改めてご挨拶にうかがいますが、とりあえずこれはお礼でございます。お持ちになって下さい」

 そう言って手ごろな品物を箱から出して渡した。たずねると、その人たちは常盤台から来ていて、たまたま通りかかったのだと答えた。名前を訊いても名乗るほどの者ではないからといって教えてくれない。執拗に訊かれてしぶしぶ彼らの一人がメモに書いた。そこには常盤台の住所と名前が書かれていた。

 ナツの家族は近くの高台へ避難した。歩きながら父の健一は言った。

「奇特な人もいるものだ。あんなふうに知らない人でも他人のために一生懸命になってくれるなんて」

「本当に助かりましたね。あの品物さえあれば当面の生活はなんとかなりますね」

 母のミネも安堵の表情でそう答えた。ひどく疲れてはいたが、燃え残った商品がかすかな支えであり救いだった。避難してきた誰もが飛んできた煙や煤で汚れていた。ミネは顔の汚れを落としながらさらに言った。

「改めてお礼に行かないとね、落ち着いたら住所を捜してみましょう」

「ああそうしよう。とりあえず消火を待つよりないな。鎮火するまで暫らくかかるだろう。真冬にこんな目にあうとはな。なんでこんなに火事にばかりあうのか」

 痩せ細った健一は力なく嘆いたが、それはミネにとっても同様だった。四十代の母がナツにはやつれ果てた老婆に見えた。

「お父さん。私はもう限界です」とミネは言った。「せっかくがんばったものが一瞬のうちに灰になるなんて。もう火事はこりごりです。溜息さえ枯れてしまいそうです」

 ミネは木箱にくずおれるようにへたりこんで、激しく咳きこんだ。

美唄川 10

テーマ:ブログ 2012-05-28 12:08:42 posted by ab7229

 火事のあと、ナツの姉であるセツが言った。

「丸正呉服店のヤッちゃんが何も言わないでいなくなったの。あんなに仲良くしていたのにショックだわ。こないだも、春になったら小樽に遊びに行きたいと話していたんだよ」

 セツは下唇を噛んだ。丸正の娘の八重とは小学校時代から大の仲良しだった。その八重が火事のあと突然いなくなったというのだ。セツは我路に滞在しているあいだ探し回ったが消息を知るものはなかった。家族は美唄に一時的に住んでいるが八重だけがいないという。セツは小樽の呉服店に帰らねばならず、駅でナツが見送るときも気にしていた。

 暫くしてから八重の消息が入ってきた。ある寺に出家したというのである。ナツの家族もそうだが、人々の間では噂になった。それは丸正を知らない人々の間にさえ広がった。火事の数ヶ月後に呉服屋の一人娘が唐突に尼になったのはなぜかという噂だったが、真相は闇の中だった。

 ナツの家は焼け出された七十六軒のひとつだった。芦原家が火事にやられたのはこれで三度目だった。二年前の火事はさらに大規模だった。石炭列車からの火の粉が原因で二〇四軒を焼き尽くしたのだ。

 そのときも芦原の家は全焼している。昭和四年のことでナツは十三歳だった。この時代は家と家の間隔がほとんどなく火がついたら瞬く間に広がる。薪や石炭を炊くため煙突から絶えず火の粉が飛ぶ。とにかくやたらと火事が多かった。そのたびに、洋品店をしていた芦原家の財政状態は悪化した。貧しい家計では十分の保険もかけられないのだった。二年前の火事のとき、すでに店を失っており経済的には瀕死に近い状況だったから、料理屋をしていた大源さんの所に家族みんなで間借りして、細々と商売を続けていたのだ。それが追い討ちをかけるように今回の火事に遭遇してしまった。それは取り返しのつかないほどの大きな痛手となった。

 とりわけ、今回の火災では経済的な破たんをさらに決定的なものにする出来事が起こっていた。

美唄川 9

テーマ:ブログ 2012-05-27 04:06:17 posted by ab7229

 当時の家はほとんどが木造だ。おまけにどの家にも,真冬のために用意していた大量の薪と石炭をぎっしり貯め込んでいた。火の回りは恐ろしく速かった。けたたましい半鐘とサイレンが鳴り出した頃はもう火の勢いは止められなかった。黒い煙と火の粉がおびただしく空に舞う。七十六軒が全焼した。不審火であった。 

 詳しい調査がなされた。火元は呉服屋の物置であることは分かったが、普段は火の気がない場所からして放火の可能性が大きいとされた。だが何の証拠も目撃者も発見されなかった。だが人々の間でこんな言葉がかわされるようになった。

「聞いたか? かなりの保険金が呉服屋に支払われたらしいぞ。何かおかしくないか」

「あそこは借金で首がまわらなかったというぞ」

「消防や保険屋だけでねくて、警察も調べているらしい」

 たちまち噂となった。その広まり方も火の速さとたいして変わらなかった。何もかもなくなった跡に残ったものは疑惑だった。八十年後の今でさえこのとき少女だったナツは疑問に思っている。なぜならそれによって自分の運命が大きく変えられたからだ。

 しかし火事で焼け出された関係者は、そんなことに係わっている暇はない。どこでどうやって暮らしていくかは急を要する問題だった。季節は真冬である。それぞれが知人や親戚を頼って急場をしのいだが、戻ってこない家族が何軒もあった。芦原ナツの家族も行き場がなかったが、ナツの兄と親しかった中学教師の家の離れで一時的に住まわせてもらった。

美唄川 8

テーマ:ブログ 2012-05-26 07:20:21 posted by ab7229

美唄市街に入ってまもなく、町の中心部から右に折れる東明通りという美唄山を含む深い山々に向かっていく道路がある。そこを三キロほどさらに進んで行くと、やがてその道は石狩川の支流、美唄川に達する。 

その道は美唄湖に向かって延びている。川の上流には昭和五十七年に完成した美唄ダムがある。川に沿ったこのベルト地帯こそ、かつて三菱と三井の大資本を筆頭に、日石や他の多くの企業が入り乱れて栄えた巨大な炭鉱町であった。そこが純一の歩いてきた場所なのだ。

その一帯には、幾つかの街が点在していたが、彼の母親がいたのはその炭鉱地帯の真ん中より少し奥まったところにある。純一の母親が生まれ育った街の名前は『私の道』という意味の漢字があてられている。その我路(ガロー)で芦原ナツは生まれ、十五歳の娘時代まで暮らしていた。


(2)  旅立ちの車窓


「火事だ、みんな逃げろ! 火が出たぞ!」

 料理屋の大源さんが大声で叫びながら近所を走りまわると、辺りからは一斉に悲鳴があがった。

 小樽から十七歳になる姉のセツが遊びにきていて、大源さんはナツの家族とおしゃべりしていたばかりだった。自らが消防団員も兼ねていたので対応が早い。近所からあがった煙の匂いに誰よりも早く気がついた。我路の街は上を下にの大混乱をきたした。昭和六年十二月十六日のことだった。呉服屋の丸正から出火したその火事は、おりしも谷の下方から吹き上がってくる冬の風に煽られて、瞬く間に我路の街を焼き尽くした。



美唄川 7

テーマ:ブログ 2012-05-25 06:01:28 posted by ab7229

あきらかに料理屋だったのかと思われる建物や、映画館に違いない廃屋もあった。土台だけを残したものも多い。それらすべてが壊しもせず雨と風に曝されていた。純一はすぐにも大風に運ばれてしまいそうな廃墟を見て、次に母親を連れてくる頃には全部なくなっているかもしれない気がした。

取り残された空間。我路のかつての繁華街はまさしくそうだった。霊に敏感な人たちが心霊スポットだと騒ぐのも無理はないと思った。遠くの方で谷間を通り抜ける低い音が響く。すぐ耳元では高い音が聞こえる。二つが絡まって鼓膜をふるわせる。

  ヒュ―ルル―ゴ―。

幼いころの母たちも道端で遊んでいたに違いない。目を閉じると八十年前がぼんやりと浮かんできた。自分の記憶にあるはずもなく、知らない時代なのに、映像が浮かんでくるのが不思議だった。その映像はモノクロかセピア色のようにくすんでいる。若かった母や家族たちの声が聞こえてきた。

「きゃあ、おねいちゃん。あぶないぞ、こっちへおいで。まーだだよ。こら! よしよし。だめだめ。その調子だよ、いい子だな」

 賑やかだったこの街の雑踏も響いてくる。その時代のそこにも谷間特有の風が吹いていた。 

   

 岩見沢市から国道十二号線に沿って二十キロほど北へ行くと美唄市に着く。美唄は昭和元年までは沼貝と呼ばれていた。北海道の大動脈である石狩川と美唄川が交差する場所に開けた街である。

『美しい唄』という詩的な名前は川や沼によく生息していた、鳥のピパとかピパイからきたという説や、ピパはカラス貝をさしているのだと考える人もいる。アイヌ語の『ピパオイ』がカラス貝の多い所を表すのが根拠としてあげられる。

 いずれにしても、美唄という命名は見事の一語につきる。土地につける名前はやはり大事なのだ。アイヌ語が語源のシコツも死骨を連想させることで千歳に改名して正解だろうし、シコツ湖も支笏湖にして良かったにちがいない。子供を捨てた名前が残る東北の童子河原(わらしがわら)など気味の悪い名前のついた所もあるが、やはり街の名前はできれば美しくあるのがいい気がする。

美唄川 6

テーマ:ブログ 2012-05-24 18:04:44 posted by ab7229

 再び水路沿いの道を下りはじめ、もういちど円形校舎を見た。もうめったに来られないだろう。次にここを訪れるときは壊されているかもしれない。そう思ってゆっくりと建物に近づいた。五十メ―トルほど進むと二本の立て札があり、チェ―ンが道を塞いで通れなくなっていた。

  倒壊危険立ち入り禁止  熊出没注意 

 純一はそれ以上行くのを諦めて周囲を見渡した。やはりここも、美唄川の瀬音と風に揺れる樹木や熊笹の葉ずれの音以外は何も聞こえない。夏の終わりが近い夕方の空高く、ただカラスの群だけが茜色の空を横切って行った。

 霧が一段と深まり、急に辺りが薄暗くなってきた。もう少し早い時間に来るべきだった。ただでさえ山の谷間は暗いのだ。少し急ごうと純一は思った。

 それにしても寂しいところだ。聞いてはいたが、これほどとは。そう思いながら足を速めた。一匹の土色の蛇が道路をぬめぬめと横断していった。やはりいるのだ。蛇がやたらに多い場所だよと母親から聞いてはいた。

 彼は後ろをふりむいた。歩いた距離からすれば、そろそろ我路の市街地跡に入っているはずだ。彼は地図を見てひとりうなずいた。すると、それらしい物が目に入ってきた。人間の背丈を越すほどの藪の向こうに、無残に崩れ、朽ちた家がいたるところにあったのだ。川辺にいた老人が目印だと話していた。


「これはひどい。これほどの廃屋があるなんて。どうしてちゃんと壊していかないのか」

 壁は破れ、戸は開け放たれている。中の古い家具や調度品もそのまま放置されている家も少なくない。まるで、取るものも取らずに急いで去っていったように見える。

「これがオフクロの故郷だというのか。まさしくゴ―ストタウンだ」

 川に向かって下る小道を行くと、石造りの古い蔵があった。壁や屋根に苔や草が生え鳥の糞で汚れていた。かなりの資産家が使っていたのだろう。母親の話では質屋が少なくとも三軒はあったというから、その一つなのかもしれない。

 ずっしりと大地から生えたような石蔵は、今でさえ当時の宝物が置いてありそうなたたずまいをみせていた。純一は先ほどまで感じていた妙な恐怖心がなくなり、タイムスリップしたような旅を楽しみはじめていた。

美唄川 5

テーマ:ブログ 2012-05-22 20:50:30 posted by ab7229

 純一は言った。「あまりにも寂しいので驚きました。ところで、そこに立っている円形の建物は何だったのでしょうか? 何か学校に見えますけど」 

「そのとおり、ここには()尋常小学校と沼東の高等科があったんだ。できたのは昭和の初期だから、あんたの母さんも通っていたのとちがうかな。そのころは平屋だったが、戦後に建て直されて中学校になったはずだ

 純一はもう少し知りたい気持ちをおさえられずに質問を続けた。歩いていても人に会うのは稀なのだ。このチャンスを逃すわけにはいかなかった。少し前に見た巨大な建物のことが知りたかった。

「もうひとつお聞きしてもいいでしょうか」と純一は言った。老人がうなずくのを見て言葉をついだ。

「ここに来る途中、工場みたいな古い建造物がありましたが、あれは何ですか?」

「あれは滝の沢発電所だ。三菱炭鉱が持っていたものだが、とっくの昔に閉鎖されたまま使っとらん。この地域には、ほとんど人がおらんからな。わしも昭和四十五年まで住んでおったが今は美唄の街中に移っている。炭鉱がなくなったら暮らしていけんもな」

 純一は腰をおろしていたカラマツの倒木から立ち上がり、少し朽ちかかった木の皮がズボンにまとわりついたのを手ではらった。

「いろいろ教えてもらって助かりました。帰ったら母に話してあげられます」 

 純一が礼を言って離れようとしたとき老人が最後に訊いた。

「あんたの母さんは何という名前なのかな?」

「はい、芦原ナツといいます。もしかしてご存知ですか?」

 老人はタバコを口元にもっていき、視線を遠くにとばしながら首を横に振った。
「これから我路の市街地があった場所に行ってみます」

「まっすぐ行きなさい。ここから一キロは歩くことになるだろう。古いコンクリートの橋を渡ると民家の残骸が至る所に現れる。それが目印だよ」

 純一は歩き始めたが、老人がずっと自分を見ているような気配を感じた。振り返ると、確かに老人は純一を見ていた。その視線を気にしながら彼は坂道を上っていった。

美唄川 4

テーマ:ブログ 2012-05-21 20:35:12 posted by ab7229

 純一は言った。「何かを採っているのですか?」

「川セリが生えてるのだよ。クレソンも少しある。花が咲いてしまって、食べるにはちょっと時期はずれだがな」

 老人は話しながら水路から上がってきた。頭に被った手ぬぐいをはずし、水路わきに横たわっていたカラマツの倒木に腰をおろした。

 老人の動きは、何もかもがスローモーションの映像のようにゆっくりしていた。腰にぶらさげていた袋をおろし大きく息をついてからポケットをさぐり煙草を取り出して一服し始めた。

 乳白色の煙をゆうゆうと風に漂わせてから口を開いた。


「あんたはどこから来なさった」             

「私は苫小牧から来ました」と純一は答えた。

「そうなのか。あそこは紙の町だな。わしも王子製紙には親類が勤めておった」

「そうですか、ご親戚は今でも苫小牧におられるのですか?」

「もうとっくに引退して今は札幌にいる。ところで、あんたはこんなさびれた場所に何をしに来たの?」

「少しこの辺のことを知りたくて来ました。私の母が昔この奥に住んでいたものですから」

「ほう、あんたの母さんが……いつごろのことかな?」

「ずいぶん前なんですよ。母は大正六年に生まれてから、15歳になった昭和七年まで住んでいました」

「えらい昔だのう。わしがまだ小学校にも行かないガキのころだな」

「おじいさんは昔からここに住んでおられたんですか?」

「昔も昔、親父の代からだ。わしの親父は青森から美唄に入植した。いつまでも貧乏から抜け出せない農家に見切りをつけて金になる炭鉱に入ったのさ」

 老人は腰を浮かして純一にも横に座るよううながした。歩き疲れていたので老人の行為は彼にとってありがたかった。純一がカラマツに座ると同時に老人は話を続けた。

「親父が来たころは戦争のためにいくらでも石炭が必要だったんだ。国策にあおられ、三井や三菱が競争して石炭を掘っていた。わしの親父らは三井だったから磐の沢に住んでいた。あんたの母さんはどこに暮らしていたのかな」

「母は我路(ガロー)地区です。地図によれば、もう少し先ですよね?

「そういうことだ。我路の市街地があった場所はもう一キロほど歩かないとな。あんたの母さんは三菱のほうだだったわけだ」

「そうらしいです。母の両親が三菱炭鉱の労働者相手に商売していたそうです。母から聞いたのですが、この辺は当時すこぶる賑やかだったらしいですね?」

「賑やかなんてもんじゃない。いつでも祭りのように大賑わいだったのさ。とにかくすごかった。今はまさに宴のあと、夢のあとだ」

 純一が老人の横顔を見ると、老人は目の前に情景を想い描くように目をしばたかせて語っている。

「町には何でもあった。大きな料理屋があり、映画館や芝居小屋があった。居酒屋は何十件も軒を連ねていて、どこも満杯だった。時計屋や宝石屋が並び、財閥が経営する大病院が幾つもある。学校だって五つや六つはあったのではないかな。他にも山の上にはたくさんの寺社があり、火葬場の裏には墓が延々と続いていた。ようするに、あのころはあらゆるものがあったのだよ。だが炭鉱が次々と縮小され、昭和四十年に完全に閉山してからはこの通りだよ」


美唄川 3

テーマ:ブログ 2012-05-20 08:07:15 posted by ab7229

「冷えるなあ、これでも夏なのか」

 そう言いながら純一がジャケットのボタンをはめて顔を上げると、さっきまで目に入らなかった円形の建造物が現れた。二階建てのようであり、角度を変えると三階建てにも見える。目をこらすと形が美しい。ヨーロッパの片田舎にあるチューダー風のおもむきがある。今は見る影もないほど荒廃しているが、かつては緑に映える壮麗な白壁だったであろう。その建物が戦場の跡に残るモニュメントのように藪の向こうに存在していた。

そこは古い昔の校舎だろうか。いかにも得体の知れない魑魅魍魎(ちみもうりょう)が住んでいそうな建物だ。

毒蛇や、たちの悪い蜘蛛でも刺されたら大変だと真面目に思いながら、純一は弧を描く道を恐る恐る進み、建物の方に歩いて行った。すると水路のなかで七十をとっくに過ぎていると思われる老人が腰を屈めて何かを採っていた。

「あ、人がいたんだ」

 純一は安堵の声をあげた。美唄の街から一時間足らずで訪れた場所なのに、何日も人に会わなかった気がする。この老人なら昔のことを何か知っているかもしれない。こんにちわと声をかけて近づいた。老人はいぶかしげに頭を上げた。深い皺が刻まれ、顔は土色をしていて長い髭があった。どこか仙人のような風貌を持っている。

「実にきれいな水ですね」

老人は答えた。「そりゃあそうだ、この辺はめっぽう水が澄んでいるからな」

「この水路は美唄川に注いでいるのでしょうか。ずっと川沿いを歩いてきましたが、実にいい川ですね、自然そのままで」

「そうだろうとも。美唄川は昔のままなのだよ」

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