美唄川 337

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話がはずむにつれてナツの心に少しの痛みが走った。それはずっと忘れていた良心のとがめだった。古い井戸から顔を出したみたいに自分が子ども時代にもっていたずる賢さの一面を気づかされたのだ。。

「タマちゃん。私あなたに悪さをしたわよね」

「何のこと?」

「覚えてない? 私ったらけっこうずる賢いことしたんだよ」

「そうだった?」

「ええ、今にして心が痛むの」

「それってちょっと大げさに言ってるでしょう」

「うん、ちょっとはね。あなたよく遊ぼうって来たわよね」

「よく行った。うるさかったっしょ、まとわりついてばっかしでね」

「可愛かったわよ年下だから。それなのに私はよくあなたをからかったのね」

「そうだっけ?」

「私はよくタマちゃんに言ったの。おやき持ってこないと遊ばないよとか、別の日はお餅もってこないと遊ばないよなんて」

「そうだった?」

「そうなの。私は冗談半分だったけど、タマちゃんは素直だからすぐ家に戻って二つおやきやお餅を持ってきたもの。あるとき私、タマちゃんに言ったこと母親に見つかって叱られたのなんの。私ったら。タマちゃんの家がお店をやってたたから簡単に言ってしまったの。今にして謝るわ。許して」

「なんもだよ。そんなことあったかな。ナッちゃんのお母さんけっこう怖かったもんね」

「厳しいなんてもんじゃなかった。ほんとのお母さんじゃないと思ったことあるくらいだから」

「そうだったの? だって顔がそっくりだったじゃない」

「そうなんだ。一時の気の迷いというやつよ。今となればなつかしいだけ」

「ほんとに、すごく懐かしい」

 ナツは我路が炭鉱で賑わっていたころの時代を思い出した。美唄川のほとりは青春そのものだった。遊びだけでなく、教師になることを夢見て勉学にも励んでいたのだ。やがて三度の火災にやられ、その町から離れて長い歳月が過ぎたが、やはりそのころが自分にとって一番明るい時代だったことを改めて実感した。

 

 

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美唄川 336

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 懐かしさのあまり二人は手をとりあった。それにしても、どうしてタマちゃんがここにいるの? とナツは聞いた

「あたしは営林署の人と一緒になったもんで、あちこち転勤があるの。今は静内に住んでる。ナッちゃんが小樽に行ってから何年になるだろう?」

「わたしが十五のときだから、もう数年で三十年になってしまうよ」

「そんなになるの? 驚きだね。それにしてもまさかここで会えるとは」

「静内にいるタマちゃんが、どうしてここに来たの?」

「このあいだ小樽駅前でおもいきり滑って手首をやられたの。主人に電話したらここの病院に行くように言われた。評判がいいからって」

「奇遇だね。よく来てくれました」

骨を折って、よく来てくれましたって何かおかしくない?」

「そうだね」

 二人は子どものときみたいに笑い合った。それから二週間ほど、ナツは空白を埋めるようにタマと話しをした。クラスで一番小さくて、痩せていた女の子がすっかり太って肌につやがあり、貫禄さえ漂う婦人になっている。お互いの子どもの話にもなったが、美唄時代に話題が移ると明るい表情はにわかにくもったナツがタマの姉についてふれたときだ。

「私と同級だった美佐子ちゃんが川遊びのあと急にぐったりして倒れてしまったことがあったよね。そのあとすぐに亡くなったときはみんなショックだった」

「あれは疫痢にかかっていたからなの。それからもずいぶんうちの兄弟は死んじゃったわ。七人もいたのに今は三人よ。美佐子姉さんのあとは兄が二人とも戦争で死んだし、長女のミチ姉さんも結核で十年前に亡くなったから」

「まあ、寂しいわねあんなにみんなを笑わせてばかりいたお兄さんたちだったのに。ミチさんはよく本を読んでくれたの覚えてるよ」

「頭のいい姉だった。みんな土の下よ」

 タマは過ぎ去った時代がいかに過酷なものであったかを吐露した。ナツは戦時中に三歳の男の子を亡くしたが、それ以外は全員が元気で生きている。善一と別れたのは辛い経験だったが、それが周囲に比べてさほど大きな悲劇ではなかったことを考えさせられた。

 

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美唄川 335

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 丸川医院はわりと評判がいい病院だったので地方からも患者がやってきたが、ときに珍しい出会いもあった。勤めてしばくしてから、手の骨折で入院していた患者が、食事を運んできたナツをじっと見ていた。最初はやり過ごしていたが、何回も続くとさすがに気になった。じっと相手の顔を失礼のないていどに見つめる。なつかしさが一気に襲ってきた。だが細部が思い出せない。

「あら?」

 ナツが気づいたのをきっかけに患者は話しかけてきた。

「おたく、もしかしたら美唄の我路にいたことない?」

 彼女がそう言ったとたんナツの記憶の回路もつながりだした。

「ええいましたけど? えーとあなたは……」

「おたく、我路橋のそばにいた芦原さんじゃなくて?」

「ええ、そうです」

「やっぱりだ! 芦原のナッちゃんでしょう?」

「はい」

「あたしよ、今は小泉だけど旧姓は重森よ」

「ええ? 重森さんってあのころうちの横にいた?」

「そうよ、我路の重森よ、隣り同士だったでしょう」

 ナツが急いで名札を見ると小泉タマと書いてあるのが目に入った。

「タマちゃん? 重森タマちゃんなの?」

「そうよドタマよ」

 すっかり記憶が戻った。気の荒い父親に怒られて、こらドタマと言われていた女の子の姿が浮かんできた

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美唄川 334

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 紀代子に関する負のエピソードはもうひとつある。

 丸川医師は小学生のころ父親と生き別れていたが、このころ三十年ぶりに再会した。知らせを受けて会いに行ったのは病院で、すっかり老いた父親が横たわっていた。幼いころは父親っ子だったらしく、涙を流してわびる父親の手を握って長い年月が作り上げた空白を埋めようとした。

 父親はもうこの世に思い残すことがないと感じたのか十日後に亡くなってしまった。丸川医師の母親と別れてから再婚もせずに孤独な一人暮らしをしていたようで、遺骨は長男である丸川医師のもとに来た。初めての供養が近くの斎場で行われる日の朝、紀代子は何を思ったのか出席をこばんだ。さっさと食事をすませてゴルフに行ってしまったのだ。ナツはそのいきさつまでは知らないが、丸川医師が出かけようとしている紀代子を不満げに見ていたのを目の当たりにして、いったいどうしてなんだろうと思った。

 このあと事情はうっすらとナツの耳にも入ってきた。紀代子が親戚の人と居間で話していたのを耳にはさんでしまったのだ。

「たく、あきれちゃう。亡くなったお義父さんには何の財産もなくて、病院代から葬式代にいたるまで全部うちの人が出したのよ。弟も妹も都合よく口実を作っていっさい引き受けようとしなかった。わたし腹が立ってしょうがなかったの」

 お茶を運んだ短い時間しかナツは聞けなかったが、そういうことかと少しは納得した。法要をボイコットすることで義兄弟たちに抗議したのだろうが、それは人がよすぎる夫への反抗でもあったろう。

 紀代子の竹を割ったみたいな性格は良くも悪くも他の面にも表れた。ある美貌の看護師が勤めてからのことだが、夫が何かと美人看護師をちやほやするのに気がついた。その人はきれいなだけでなく、ナツの目から見てもてきぱきと仕事をする有能な女性だったが、紀代子は口実を作り出してこの女性を首尾よく辞めさせた。

そんな事情をを知る人たちが、勤めていてさぞ大変でしょうとナツにいうことがある。だがナツは紀代子がときどき示してくれる寛大さや、親切に人の世話をやく面もわかっていたので聞き流すことができた。

美唄川 333

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丸川昌代は小樽の隣町にあたる塩谷の人で、ここにも丸川医師の評判を聞きつけて治療してほしいという患者がたくさんいた。それらの人たちを診療するために週に何日かをさいて朝早くに車で出かけて医師は治療にあたっていた。朝の六時から患者が来て待っていて、さっそく聴診器を当てて注射を打ったり、薬を処方したりする。それからトンボ帰りして朝食をとり、丸川医院で本来の患者を診るという大変なスケジュールをこなしていた。

 丸川紀代子の気位の高さは、ときに優しさの欠ける行為に出てしまう欠点もあった。義母の昌代としばらく同居したことがあるのだが、紀代子は義母にいっさい自由をあたえなかった。あまりにも細部にわたって目を光らせているものだから、家の冷蔵庫ひとつ勝手に開けさせてもらえなかったし、ストーブも許可なく点けることができなかった。献立もすべて紀代子のペースで決まる。

 あるとき昌代は嫁がいないときに話しかけてきた。ちょうどナツは台所に立って昼食の準備を終えようとしてい

「ねえ、ナツさん忙しいとこごめんなさい」

「はい、どうかなさいましたか」

「ちょっとお願いがあるんだけど聞いてくれる?」

「はい、どうぞ何なりとおっしゃって下さい。わたしにできることでしたら

「わたしサツマイモが食べたいの。ここに来てからずっと肉やら魚やらご馳走ばかり食べてるけど、なんか飽きちゃったのね」

「いいですよ、簡単です。あとでお持ちしますね」

「どうもありがとう。嬉しいわ」

 ところが、届けようとしたときに紀代子が帰ってきて睨まれた。余計なことをするなという。

 万事がその調子なものだから、昌代は時ならずして気持がひどく落ち込み、ストレスがたまったせいか胃潰瘍になって小樽病院に入院するはめになり、退院後は再び塩谷に帰ってしまった。

 それでも昌代はときどき遊びに来ると、一緒にバスに乗ったときのことをもちだして、「あなたは頭がいいのだからこんな所にいるのはもったいない」といって辞典やノートをプレゼントしてくれた。息子の病院をこんな所というのもおかしな話だが、めったに人の悪口をいわない昌代もナツにだけは何でも本音を打ち明けて嫁との間で生じるストレスを発散しているようだった。

 

美唄川 332

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 あるときナツにまかされた仕事は丸川医師の母親を引率する役目だった。ライオンズクラブ主催の集いが登別で開かれるという。このころ小樽から登別までは汽車にしろバスにしろ三時間はたっぷりかかる。本当は嫁である紀代子が連れていくはずだったが別のイベントにどうしても出なければならなくなり案内役がナツにまわってきたのだ。

 季節は春の終わりで、小樽駅前は人であふれていた。少し離れた道路沿いにチャーターされたバスが停まっている。そこまでは紀代子がタクシーで義母とナツをおくってくれた。

「では芦原さん、よろしく頼むわね」

「はい、承知しました」

 もう七十を過ぎた丸川昌代は総髪が純白で、漂白した絹糸みたいに光っている。大島の着物に紺色の羽織をつけた小柄な人で、目鼻立ちが丸川医師の涼しげな、すっきりした面立ちと似ていた。

「あれあれ、すごいゴージャスな格好の人が何人もいるわね」

 席についてすぐ昌代は苦笑しながら小声でいった。まるで誰かの結婚披露パーティにでも行くような着飾り方をしている人が何人もいる。ありったけの宝石をつけた人や映画でしか見たことがない羽根付きの帽子をかぶっている人もいる。昌代のいいかたには品のある皮肉がこもっていた。ナツはバスに乗り込むときから自分の安い着物に気後れしていたから、どこか救われる思いがした。「これ舐める?」

「はい、ありがとうございます」

小樽名産の水晶飴が入った袋がナツに手渡された。ナツはひとつをつまんで口に入れた。舌の上が甘い蜜に満たされる。空は晴れているし、すずかけの並木も美しい。昨日から緊張していたが、昌代の気の張らない性格のおかげで気持ちが楽になってきた。昌代は登別でのスケジュールを書いたパンプレットを広げて見ていた。歌謡ショーがあり、講演もあり、豪華な会食もあるという。病院での仕事から解放されて、こんなふうにバスにゆられて行く。急にナツは嬉しくなってきた。

 流れる景色を眺めるのは楽しい。朝里をぬけ、張碓の崖っぷちを通り、銭函まで青い海が続く。それはいくら見ても飽きない景色だった。バスガイドがその日の予定を説明している。そのあと客を退屈させないようにいろいろなクイズを出した。バスの中には医者の奥さんたちや会社の重役夫婦もいたのでクイズの内容は易しいものから高度なものまでいろいろあった。そのとき難しくて誰も答えられない質問にナツがスラスラ答えたので昌代は目を丸くした。

 

美唄川 331

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 ナツはその年の十二月いっぱいでフジモトを辞め、翌昭和三十四年一月四日から丸川外科の賄いの仕事についた。稲穂町は小樽の町の中心近くにある。国道のそばなので交通事故の患者がひんぱんに運び込まれた。盲腸の手術でも跡がわからないほどきれいな処置をするので評判がよかった。

 ナツは毎日十四人の入院患者に加え、住み込みの看護婦や丸川家族の食事を作った。そのころから丸川医院の食事が美味しいという噂がたった。口コミでそれが広まり、治療の評判とあいまって病院はいつも満杯の患者で溢れた。

 普段はけっして人に弱みを見せず、あまり慣れ親しむことをしない丸川紀代子は不思議とナツに心を許した。早くから自宅の鍵を預けもした。病院と通じている住まいは和洋おり交ぜた豪華な作りで、牛革のソファーがリビングの真ん中におかれているが、軽く十人は座れる大きさだった。壁ぎわには紫檀や黒檀で作った家具が黒光りしていて、絨毯はペルシャの長毛が使われていた。寝室や仏間、医師の書斎に紀代子の弟の勉強部屋、客をもてなす洋間と和室など、合計八つの部屋を掃除する役目もまかされた。

 紀代子は医師会主催のイベントには積極的に参加していた。夫が行けないときにも代理で出席する。ときどき中央から人が来て講演会が開かれるが、紀代子は看護婦ではなくどういうわけかナツを誘った。こうしてナツは何度も著名な医者や学者の講演を奥様と聞きに行くことになった。医学に関する最新の知識や、さまざまな人脈の相関図が知らないうちにナツの頭に残った。

美唄川 330

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面接の帰りの道、稲穂町の坂道を下りながら帳場さんが顔をほころばせて言った。

「いや珍しいこともあるものだ。あの警戒心が強く気位の高い奥さんがあんな内輪事を話すなんて。きっと芦原さんを気に入ってくれたのさ」

「そうでしょうか? だといいのですけど」

「間違いないと思うよ。僕とは一応親戚にあたるから信用してくれたのもあるだろうけど、初対面であれほど警戒心なく話すのは初めて見たよ」

「ありがとうございます。なにもかも帳場さんのおかげです」

「なんのなんの。芦原さんは今の安月給なら大変だ。丸川の奥さんには率直に話しておいたから今よりは給料を増やしてもらえると思うよ。そのかわり、フジモトにはない厳しさもあるだろうけど」

 帳場さんは腕組みしながら言葉をのみこんだ。どんな職場も甘くないのはナツも覚悟はしている。大通りはすっかりプラタナス並木の葉が落ちて木枯らしが吹いている。ナツは肩にかけたショールを襟元に深く巻いて敷石を踏んだ。背の高い帳場さんは四十を過ぎたばかりだというのに髪がかなり白い。肩を丸める癖があるので余計に寒そうだが、ときどき手をこすり合わせながら役に立つと思われる情報をナツに聞かせてくれる。

「ここの病院を取り仕切っているのは完全にあの奥さんですよ。札幌の女学校を首席で卒業しているというから頭は確かにいいはずです。あの人の親は園村といって僕の親父とは従兄弟の間柄です。小樽と銭函、それと余市に石造りの蔵を七つも所有しているんですよ」

「すごいですね。大金持ちですね、きっと」

「それは間違いないと思う。うなるほど現金を貯め込んでいるという噂です。幾つもの銀行や証券会社が競ってやってくるけど、あそこの親父さんは昭和初期の金融不安を経験したせいか、なかなか人を信用しないわけで、極端に用心深く、儲けたお金をどこに保管してあるか謎なんです」

「へえ、面白い」

「だから家に泊めてもらった人は枕や布団の中身が紙幣かもしれないと思うくらいですから」

 そう言って帳場さんは高らかに笑った。そのとき歯が一本抜けた部分に夕日が当たり、人のいい小皺のある顔が観音様みたいにナツには見えた。

「まあ、いろいろあるだろうけど体に気をつけて頑張りなさいね」

「はい、帳場さんのお顔に泥を塗らないよう頑張ります」  

 ナツはそう答えながら、新しい生活の道が開かれたことに新たな闘志を燃やしていた。不安は絶えずつきまとったが、ナツは明らかに打たれ強くなっていた。幾つもの仕事を経験してきた。そうしたささやかな自信がナツの表情を凛としたものにしていた。

 

美唄川 329

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「この人がお話した芦原ナツさんです」

フジモトの帳場さんはそういってナツを病院の奥様に紹介した。ナツより明らかに若い。身長が高く、背筋がそるように伸びていて、はっきりした眉は上向きにひかれ、二重の瞳はすきがなく冷静な光をたたえ、少し厚い唇と鼻梁の高さが意志の強さを感じさせる。全体としてどこか怖い感じがする奥様だった。

「はじめまして、芦原ナツと申します」

「私が丸川の家内です。お口の方はもう大丈夫ですか」

奥様はかすかに微笑をうかべた。

「はい、おかげ様でもう大丈夫です。先生によく治療して頂きました」

「それはよかった。先生が笑っていましたよ。医者になって十五年になるが、ああいう症例は初めてだといってね。ご本人は大変だったでしょうに」

 帳場さんが吹き出し、ついで奥様は高らかに声をたてて笑った。ナツは緊張していたので、わざとらしい愛想笑いを返した。

 話は予想外にはずんだ。丸川紀代子はナツより五歳ほど年下で、医者である夫との間には子どもがなく、歳の離れた弟を同じ家に住まわせ子どものように可愛がっているという。この辺りは病院が多く競争が激しいこと。看護師たちもけっこうわがままで、食べ物の好き嫌いが激しくて困るのだともいった。

 そんな内輪のことを表情も変えずにたんたんと語る紀代子は途中で電話に出たり廊下を通った看護師たちにてきぱきと指示を与えたりした。

 一時間ほどで面接を終えて外に出た。ナツは疲れがどっと出た。体の関節ががたがたする。よほど緊張したせいだろう。歩きながらも、丸川紀代子のきりっとした表情が頭に焼き付いて離れない。目から鼻に抜けるように利発な人とはあんな人をさすのではないかとナツは思った。

美唄川 328

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よりによってあの病院かとナツは思った。思い出しても恥ずかしい。口の中で栗を爆発させ、ただでさえ受け口のタラコみたいな唇が三倍にもふくらんでみんなに笑われた。ナツは病院でそんな思いをしたのがはじめてだった。そこに勤めるなんて。想像するだけで背中から火が出る心地でだったが、やはりフジモトの安月給では子どもたちを養っていけない。

「どうぞよろしくお願いします」

ナツは帳場さんに頭を下げた。

そのあとナツは考えていた。ずっと以前に父の健一が話していたことを思い出したのである。美唄の我路で三度の家事に遇い、結局は経済的な理由から小樽に来た。ナツは学校をやめざるをえず、父母も用品店をたたんでゼロからやらねばならなかった。実家から離れて安田家で奉公するようになったわけだが、芦原家の人々が美唄を離れてすぐに大雨と大洪水が襲ってきて、ナツたちがいた家は近所もろとも流されたのだった。

死者が何十人も出たから、ナツたちも例外でなかったかもしれない。それで父は人間万事塞翁が馬なのだと言っていた。深刻さはまるで違うが、今の自分もそうかもしれない。火傷をしてあんな痛い思いをしたけれど、それがきっかけで新しい職場が得られるなんて、やはり不思議なめぐり合わせである。

その年の暮、ナツは帳場さんに連れられて丸川外科の面接を受けた。すべてをしきっている奥様との対面だった。ナツは奥様とは初対面だったが先生や看護婦たちとは治療で何度か会っていた。やはり恥ずかしかった。焼き栗爆発事件からまだひと月しか経っていないのだ。きっと私の顔を覚えているに違いない。そう思うと熱い背中や脇の下から汗がじっとりと流れた。