拾い読みあれこれ

きょ~も適度に息抜き、よいかげん。ゆっくり歩いて遠くまで


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ことにあたって、なにごとも前例にあたり、無難にやり過ごすというのはよくある。

「・・・なにしろ、あなたは、(・・・)、番所の古帳面ばかり、ひっくりかえしていられる酔狂な方だから、前例のあることなら多分ご存じだろう。・・・もし、そうだったら、それはどういう次第で、どういうおさまりになったものか、(・・・)」
(久生十蘭、「咸臨丸受取」)

ウム、そしてたしかに前例をよく知っている人が探せばいるもんだ。

変化ははやい。世間の片隅にいても、新奇で目新しいこと、予想もつかなかったことも起こる。しらんぷりできればいいが、当事者として直面することになると、処理にホネが折れる。

それで、できたら、前例に詳しい酔狂な方がいないか、となる。でもそういう人は減っているんだな、これが。前例のないことが起こりすぎるのか、なんだか知らないが、難しいことに限って尻が持ち込まれる。

やれやれ、ぼくだってわかんないよ・・・
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人生に悩むときってのはあるなあ。

どっちの道を選ぶか悩むうちはまだいい。四方八方、どこに行く道があるのかみえない、どうしたらいいんだ、わからない。そんなときもある。

それを十方もないというようだ。

「細川幽齋の心得を書きたる中に道筋不案内にて俄の時十方なきものにて候云々」
(喜多村信節、『嬉遊笑覧』)

そうか、そういうときは、俄(にわか)の時ってことなのか。

”にわか”って急になにか変化するときだ。そんな時は、どっちがどっちだかわからない。

変わるってのはいつも、にわかだ。そんなときどうする?

エィヤッと決めるしかないか。

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うらないを信じない人でも、気持ちのどこかによいことを聞きたいと思うのか、半信半疑でもうらないで楽しんでみたいという好奇心というか、そういうものがあるみたいだ。

昔はこの占ってくれる人を”ありまさ”といったそうだ。

で、

この「占者をありまさといふとかやと云へり 思ふにありは明の義にて世にありありといふ 是なり まさは正しくをいへり」(喜多村信節、『嬉遊笑覧』) と。

なるほどなあ、あきらかに正しいって意味か。

うらない、そ~いうものとして、受け入れるのが正しいのかな。疑ってかかっても、占いに向き合うちょっぴりドキドキする楽しさがなくなるし。
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理屈っぽい人がいる。摩訶不思議なこと、それをありがたいと説く人も理屈好きのようだ。他人にまでそれを押し付けようとしたり。

でも、いつもそんなこと気にかけているほどヒマでもない。

理由?たいした理由なんてなくてもいい、大事なことは別にある。

「江戸ッ子は智慧なんか重んじない。総てのことを語呂で合して居るのです。・・・お隣り来ましたからお蕎麦を配りませう。或は運のいゝやうに饂飩を食ふ。だが、是は是でいゝのです。」
(諸岡存、「精神病学から見た邪教迷信」、昭和11年。)

たとえば江戸っ子のごろあわせだなあ。

ソバに引っ越してきたから近所に蕎麦を配る。

運がいいように、運を食う(饂飩を食う)ということがあったようだ。

理由や理屈が問題じゃあない、語呂あわせがどうとかというわけでもない。

引っ越した先のご近所と仲良くなれる、それが問題。うどんを食べて運が向いてくるかが大事。

なんでお蕎麦を?はは、お側に来ましたので、ひとつお蕎麦を、でいい。

これで人の付き合いや関わりが円滑にいくならけっこうってこと。
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いったいそれってどうなのよ。しかし、いいとも悪いともわからないし、決めかねる。なんともあやふや。

このあやふやな気持ち。スッキリしない。

江戸時代、あやふや人形というのがあったという。気儘頭巾(奇特頭巾)という目だけ出すようにしたずきんをかぶっていたと。

「是元禄の俤にて其時代をしるべきものなり 狂歌に”半面は美人やら悪女やら この人形のかほのあやふや(あやふやは危ぶむにて疑ふ意となれり)”」
(喜多村信節、『嬉遊笑覧』)

つまりそんな頭巾をかぶっているから、美人なのか悪女なのかわからない。人形の顔があやふやだからあやふや人形。

どっちなのか心配になり危ぶむ、不安になっちゃうんだ。それで、あやふやとは疑うという感じの意味になったと。

そういわれれば、あやふやな人や物事に直面すると、懸念を抱いて疑惑が生まれてくるということがある。

だからじぶんばかりは、なるたけあやふやな姿勢、振る舞いは避けようと思うが、見回せばあやふやばかりで、こちらもツイ、あやふや~

アブナイ世の中だ。
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近辺では桜の花も散った週末、気分を変えようと、折口信夫の「花の話」を読む。

「花と言ふ語は、簡単に言ふと、'ほ'・'うら'と意の近いもので、前兆・先触れと言ふ位の意味になるらしい。'ほすゝき'・'はなすゝき'が一つ物である事などを考へ併せれば訣(わか)る。物の先触れと言うてもよかつたのである。」

と折口は語り始め、「雪は豊年の貢」との言い伝えに言及し「土地の精霊が、豊年を村の貢として見せる、即、予め豊年を知らせる為に降らせるのだと考へた。雪は米の花の前兆なのである。」と述べる。「雪を稲の花と見」、その一種の象徴とみなしてきたわれわれの気持ちのありようを指摘するんだ。

そうして桜の花につきこう述べる。
「三月の木の花は桜が代表している。屋敷内に桜を植ゑて、其を家桜と言つた。屋敷内に植ゑる木は、特別な意味があるのである。桜の木も元は、屋敷内に入れなかつた。其は、山人の所有物だからと言ふ意味である。だから、昔の桜は、山の桜のみであつた。遠くから桜の花を眺めて、その花で稲の実りを占つた。花が早く散つたら大変である。」

そうして、万葉集の歌に、「桜の花を誉めて居ない」として、

「此花の一弁(ひとよ)の中(うち)に、百種(ももくさ)の言(こと)ぞ籠れる。おほろか(いいかげんにする、なおざりにするの古語)にすな」(藤原廣嗣)とその返歌の、百種の言保(ことも)ちかねて、折らえけらずや、を挙げ、「花が一種の暗示の効果を持つて詠まれて居ることが訣る」という。

つまり桜の花にはあらゆることが暗示されているということだ。だからそれに立って、これまた暗示を込めた歌をメッセージとして送る。桜の花が暗示だという人々の受け止めがあるから藤原廣嗣の暗示を込めた歌が可能になるんだ。

そうして、折口は、「桜は暗示の為に重んぜられた。一年の生産の前触れとして重んぜられたのである。花が散ると、前兆が悪いものとして、・・・早く散つてくれるのを迷惑とした。其心持ちが、段々変化して行つて、桜の花が散らないことを欲する努力となつて行く」、「桜の花の散るのが惜しまれたのは其為である」と述べる。

なるほどなあ、前触れが暗示するもの、百種の可能性のうち、なにが将来来たるかの兆し、一年の生産の先行きへの期待と懸念、桜が散るを惜しまざるをえないのは、われわれの社会活動の先行きへの暗示を感じ取りたいからなんだなあ。

さて、今年の桜の散りゆくうちにひとは何の暗示をえたか?

ぼくも遠くの山の桜を眺めさせてもらった。すべてが手遅れかもしれないジャパンで、かなり暗い気持ちで。

サクラはなんだか不穏だ・・・

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あ~、どうしよう、どうしよう、奇跡でも起きてくんないかという困ったときがある。

そんなとき、まあとにかく、パニックに陥らない、落ち着いて状況を点検しなおす、で・・・当然次にしなくちゃならないことをする、それしかないんだよなあ。そうすれば前向きな見通しも出てくるというもの。

しかし、それがなかなか難しい。パニクるほどにポジティブな方向がみえない。でさらにパニクる・・・

でも、落ち着いて、状況を捉え直し、なにから手を付けるか考え、それをする。しているうちに、抜け出る方向がみえてくるか。

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うかうかしているうちにというべきか、生活のためにただ働くだけで、なんの余技も身につけず、芸のないつまらない無芸大食できてしまったと、カラオケでもなんでも、芸達者な人をみると、つい思っちゃうんだわ。

で、人気のある人間には程遠く、地味に生きてきただけだな~、と。

ことわざにも「芸は身を助く」ともいうらしいし、一芸があればなあと思う。

そこで、芸なしのつまらないじぶんに向き合って、さあ、特色のないじぶんに向かってなんと声をかけたらよいか。

じぶんのしていることは本業だ、本業に精を出せばいいんで、余芸・余技で助けなきゃならんほどの本業なら本業が不十分ってこと。つまらぬ人間だなんて思わずに本業に励めよってか。

そうだなあ、むかし、錦花翁隆志という俳人の句に

「芸が身を たすくる程の ふしあわせ」

とあるという。

俳諧の遊びで前句付けのさいに使われ広く知られるようになったという。 そうだよな~、芸で身を助けなきゃならんとはそれだけ生活も仕事もうまくいってないからかもしれない。

マ、そう考えておくか。 そうして、面白みのない人間だな、お前は、とじぶんに向かっていうのも止めておこう。

どうせ飽きっぽいし、余芸を身に付けるほどの力はないし。
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人様がご趣味でなさっていることは、はたからみて、そんなことがなんで面白いんだろう、なんかいいことあるのかな、と思ってみたりする。じぶんがあきっぽいせいかもしれない。

およそ趣味のたぐいは、好きですることだから、とくに関心もなく好きになれない人には、いくらそのことに熱心なひとがいたとしても、不要、無用の、要らざる物にすぎない。

しかし、この「いらざる物」につき、喜多村信節の『嬉遊笑覧』では「備前老人物語」からとして、

「ある人の云しは 常にいらざる物も久しくたしなみ持ちぬれば 不思議に用に立て名誉となること侍り」

との指摘を引いている。

そしてその例として、池の坊に花を所望したひとが、花がなかったので薪のなかから苔が生えた木をみつけ、花瓶に添えて出してきた時の話をしている。

「池の坊みて珍しき作分やと云て其木を有の儘に花瓶に立て鼻紙の中より蔦紅葉を取出し面白く引まとひて立退ければ一座の人々目を驚し暫く堪ざりけり 池坊いひけるは三十年ばかり心がけ たしなみしに此時に当りて本意を達しけりと悦びしとぞ」

池坊は30年もこころがけ、たしなんできて、ようやく本意を達したわけだ。

およそ他者にいらざるものと思われることを、こころがけ続ける。じぶんから、これいいでしょ、どうよ、どうよなんてことはいわない。じぶんの趣味、楽しみである。しかしそれが、こころがけ続けるうちに披露する機会を得て賞賛を受けることもある、ってわけ。

好きなことはとことん続けるもんだと思わせてくれるお話だ。

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桜の季節でもあり、近所の公園に見に行った。

よちよち歩き始めたお子様連れの若いご家族。また、車いすを押されて花を見に来られたご高齢の方と介護のご家族とみえる一組も。

桜と桜見る人を眺めながらも、人間ってのは歩くってことなんだなと思う。よちよちでも一生懸命歩き始める。そうして最後は椅子を押されて動くところに行き着くまで。

喜多村信節の『嬉遊笑覧巻之六上』に

「小児の詞に足をあんよといふはあゆむ事を教ゆるにあんよは上手といふ 是なり」

とある。

あんよは上手といわれて、みんな歩き始めた。いろんなことがあったが、毎年、桜は咲き、歳は重なる。そうして桜をみるたびに、歩み来たこれまでを回想するんだろう。

やっぱり日本人だから、

「さまざまのこと思出す桜かな」(芭蕉)

なんだなあ。


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