最近ようやく松任谷由実の「Hello, my friend」が入ったアルバムを買いまして。歌詞だけを追うと、語りかけている相手との別れが、生きて会えないのか亡くなったから会えないのか分からない余白がある気がします。自分の人生に重ね合わせると、逃げて逃げて逃げて来た様な人間なので、生きながらにして会えない思い出の人、その人の為には踏ん張れなかった人の方が多く、そういった人達を思いながら聴いてたりもします。
んで、美術の展覧会って「一回性」と言えばいいのか、その場所その時にしか観れない作品や触れられない空気感ってのがあると思うんですが、この曲を聴いてると、そんな事にまで想いを馳せてしまいます。特に現存の若手作家がギャラリーでやった場合なんか、その人が大物になって回顧展が開催されるならまだしも、僕たちの「時代」の人だった場合、その作家さんとの関係を繋ぎ続けるか、自分が作品を買うかしないと、見ず知らずの他の人がその作品を買った時点で、まず再会するのは難しい気がします。
美術との出会いは人の出会いと同じく。本当に心を震わせる恋人や友人との出会いがそんなに多い訳ではないからこそ、心と足を使ってひたすら美術鑑賞を続けていく訳です。
あの、それっぽく書いてみたけど、上のセンテンス同士、特に脈略ないよ。むしろあったら教えて欲しいw
http://www.mori.art.museum/contents/roppongix2010/index.html
とよく分からない文章を一番最初に書いたのは、六本木クロッシングが現在開催されている展覧会に当たるので、一応ネタバレ防止策、みたいな?頭が随分と長くなった割に、グループ展とか大回顧展って、まとめるのが難しい対象だと感じているので、こっから下は適当です。
芸術は可能か?という意味ありげな言葉の出展は、以下の通りだそうです。
「芸術は可能か?」アーティスト・グループ、ダムタイプの故・古橋悌二がバブル経済崩壊直後、1990年代のアートを考え、アートがアートの枠の中に留まらず、社会に影響を与えることにより成立する可能性を問いかけた
考える単位が「社会」との関連性になった時点で、僕にはよく分からないのですが、今後も美術をお仕事として関わって行くなら、絶対に考えなきゃ行けない大切なテーマではありますね。難しい事は分かりませんが、同時代に生きる人達がそれをアートとして捉える事は出来なくても、500年後に生きる人達がそれをアートとして捉えるなら、やっぱりアートになる訳で、様々なメディアから出展作品を選んだ今回の内容は、企画テーマに沿っていると個人的には思いました。そしてそれらが主張し交わっている今回の展覧会。
芸術なら、映像作品に付随する「音」だけではなく、そのまんま「音楽」が出展されていてもいいと思うけど、今回は宇治野宗輝さんが出展していた、車から家庭用品やら色んな「物」が組合わさった巨大な装置が奏でるリズムがそれに当たるのかな?ダムタイプに関しては、上映時間に間に合わなかったので観れず、内容は分かりませんでした。身の回りにダムタイプに熱狂していた世代の人達がいるので、メンバー各々の個展だけでなく、最盛期の活動の一旦に早く触れてみたい物です。中山ダイスケさん、須田悦弘さんらが属していた「スタジオ食堂」やダムタイプみたいな集団は、果たして今存在しているのかって言うのと、未来の芸術にそういった形態が機能するのかってのも、気になる所です。
ルイス・ブルジョア作「ママン」のあるフロアが、森美術館に繋がる長いエレベーターの上り口(正確には階段で1フロア上がってからの話になりますが)、その入り口にChim↑Pom(以下、チンポム)のエリィさんが被写体となったバナーが貼ってあって「ギャルと出会わない人生だなぁ」と思いつつ、森美術館へ向かう。美術館の中に入るエスカレーターの上には、チンポムの映像作品が。時間が余りなくて内容は把握してません。済みません。色んな街の上空をカラスが飛んでいましたね。
ここからはいくつか作家さんを抜粋して書いて行きます。実は、先にそれぞれの作品について感想を書こうとしたのだけれど、途中でダレたのと時間が勿体無過ぎると。
まずは入館して一番最初に展示していた照屋勇賢さん。紙を素材にした作品が数パターンありましたが、白眉だったのはマクドや百貨店など、買い物をした時に貰う紙袋の側面を切り、袋の中に「木」を作り出す立体作品。木の部分と紙袋は繋がっているので、どうやればああいう風に作れるのか全く想像付きません。テーマにエコがあるのか分かりませんが、皮肉さを感じさせない位ただただその技術に敬服。
志賀理江子さんの写真作品が、観客を取り囲む感じで丸く展示されていました。実際に作品に対峙しても、ウエブサイト等で作品を見ても強い印象が残る、個人的に気になる作家です。作品の物語性云々だけでなく、技術的なアイデアの面で、今後の写真表現における試金石になるんじゃないかなぁと妄想。逆に、米田知子さんの作品は美しいなぁと思うけれど、積極的に意味を読み取りたいと思う程ではない、一般的な風景写真に思えます。彼女の作品を堪能したければ、多分背後にあるコンセプトや想いをちゃんと知らなきゃいけないのかも。ていうか、著しい結果を残してる作家さんなんだけどね。あんまり、自分の好みだけで判断はしたくないんだけれども。
相川勝さんは昨日のアートフェア東京の感想にも書いていますが、ロックレジェンドなミュージシャンのCDジャケットを数分の一サイズで精巧に再現している作家さん。さらに、そのCDに収められた楽曲全曲を鼻歌で収録し音源にして、作品として出展しています。実際に相川さんが歌っている姿が映像で観れた、アートフェアでのeitoeikoからの出展の方が、一枚上手だったかな。
青山悟さんは、金糸など様々な色で輝く糸を、ミシンで支持体に縫い付けて行く事で作品を制作する作家さん。去年位にミヅマアートギャラリーの個展を見に行ったりもしました。身近なモチーフから社会的な事象まで上記の手法で描いて行くのですが、まずミシンを使う事で絵画的な画面を作り出せる技術にビックリ。また、孕むテーマが重くとも、その糸の色彩の綺麗さは宝石の様で思わず見入ってしまうばかり。ちゃんと作品を見てもらえれば、作家さんの伝えたいメッセージも伝わるかもしれんしね。
小金沢健人さんは、大きめの部屋の中の四方を、指で紙を切る映像が占めてました。時間の都合、その映像の展開までは観れていなかったのですが、そんなスケールで紙切る所観させられても、とやたらシュールでした。ヒロミヨシイの作家さんだっけな?だったら泉太郎さんが(以下省略
高嶺格さんは韓国人の奥さんと結婚するまでの一部始終を、言葉付きで非常に横長い写真作品で表現。一部挙式の様子だか、映像もくっついてました。「私」及びその周辺を映し出す芸術も、あそこまで手を込んでやると、「あなたのことだから」と簡単には切れなくなりますね。社会とは個人の集積であり、そこに内在する問題もまた同じ構造をしているからこそ、民族を超えて結婚する事を決めた彼の覚悟そのものに、見入ってしまうのかも知れません。
ユニットなんでしょうか?HITOTZUKI (Kami+Sasu)は、スケートの巨大なランプを美術館に再現。とりあえずデカイ!ストリート然としているかと言えば、ちょっと外しを効かせた様なペインティングが、個人的には意外な感じがしました。あれだけのスケール感で見せられると、アートがどうとか言えなくなるって言う。森村泰昌さんの映像作品は、写美の個展に同じ物が出展されているので、後でまた書きます。
横溝静さんは、見知らぬ女性にコンタクトを取り指示を与えて、殆ど接触のないまま撮影を済ましたヌードの写真。焼けた様な怠い質感を持つ近作のいくつかはかなり気になっている、もともとフェイバリットな作家さんではあったんですが、今回はその色彩だけでなくコンセプト性もまた面白かったです。キャプション通りであれば、横溝さんと被写体となった女性は指示する/される以外の言葉は、最低限か一切交わしておらず、ヌードを映した作品と言えば濃いコミュニケーションを経て制作されると思っていた僕に取っては、衝撃的な物でした。
そんな感じ。どんな感じ?結局ほとんどの作家さん書いちゃったけど、書かなかった人については単純に作品と作家さんの組み合わせがあべこべになってるだけなんで、悪気はないお。
今日のこの日記が一番今までで適当かも知らん。量の割に。ある意味金字塔。


