◆「裁判長には、メナド付近の守備隊長をしていた人物が就きました。彼は自分たちと違って現地の人々に慕われた堀内に報復感を抱き、銃殺刑に処したのです」
拳骨卓史『昭和の戦争の真実、語り継ぐ70の秘話』(育鵬社)の「第4章 アジア解放のために、インドネシア解放のために戦った日本人」の堀内豊秋・海軍大佐の話が、本書の中でも、特に印象に残ったいくつかの話の一つなのです。
拳骨氏が、私の友人だから持ち上げているのでは決してありません😊。実際、本書には、とても多くを学ばせて頂きました。
堀内豊秋は、戦後、戦犯としてオランダ人によって告発され、公開裁判もなく、昭和23年に処刑されたのですが、その内実は、報復裁判であり、まさしくリンチだったのです。
昭和17年、日本軍が当時オランダ領であったインドネシアのメナドを攻撃、約2時間の激戦の後、勝利を得ました。この時の指揮官が、当時中佐だった堀内豊秋でした。
オランダのインドネシア支配は、まさしく愚民政治で、インドネシア人からは恨まれ憎まれるという状況だったわけですが、日本軍の統治下では、とても人間的な扱いを受けたことから、堀内豊秋ら日本軍は、とても尊敬されたといいます。
また、日本が敗戦を迎えた昭和20年8月15日から2日後の17日、スカルノらによる独立宣言が出されると、2000名ともいわれる日本兵たちが、帰国を取りやめて、インドネシア独立のために戦ったのです。
そうしたことが、さらにオランダ人は、癪に障る許せないことだったようです。
『昭和の戦争の真実、語り継ぐ70の秘話』に、こうあります。
「裁判長には、メナド付近の守備隊長をしていた人物が就きました。彼は自分たちと違って現地の人々に慕われた堀内に報復感を抱き、銃殺刑に処したのです」(同上)
「インドネシア攻略戦で、日本はオランダと9日間しか戦っていないにもかかわらず、4年間戦ったアメリカに次ぐ1038名の被告を出し、死刑・獄中死は296名にものぼり、各国の中で第一位となっています。インドネシアという植民地を奪われたオランダの日本に対する怨恨の凄まじさがわかります」(同上)
この時の裁判長は、元歩兵大佐F・W・M・ティウオン(F・W・M・Tiwom)、そのほかJ・H・Warowo、W・G・VAN・de Leasar の計3名のオランダ人が裁判を主導したのです。
堀内 豊秋(ほりうち・とよあき):1900年(明治33年)9月27日 - 1948年(昭和23年)9月25日)。大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。熊本県熊本市(飽託郡川上村)出身。享年47歳。
当時のオランダ人の態度には、白人目線からの人種差別を感じます。
詳細は、以下にあります。ここには書ききれませんでしたが、堀内大佐のお人柄の立派さもよくわかります。ぜひ、ご一読ください。
【堀内豊秋海軍大佐といわゆる戦犯裁判について】
http://www.tamanegiya.com/ura/2015/05/08/horiutitoyoakitaisa/
▼堀内豊秋大佐
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