正史の「三国志」は、呉書が意外に面白い。
人物の様子が何か生き生きと描かれていると感じるのだ。
Mac OS Leopard に 標準の国語辞典で調べると
「呉下の阿蒙」について、次のように書かれている。
《「阿」は親しみを表す語。呉の魯粛(ろしゅく)が呂蒙(りょもう)に会って談議し、呂蒙のことを武略に長じただけの人物と思っていたが、今は学問も上達し、呉にいた頃の阿蒙ではないと言ったという、「呉志」呂蒙伝注の故事から》昔のままで進歩のない人物。呉下の旧阿蒙。
正史の呉書「呂蒙伝」には、次のように伝えられている。
魯粛は周瑜の後任にあたることになった。呂蒙の陣の近くを通りかかった。魯粛は内心では呂蒙を軽蔑していたが、ある者が「呂蒙将軍は功名が高くなっているので挨拶すべきだ」とアドバイスしたことから、寄っていくことにした。
酒宴が盛り上がってきたところで、呂蒙が魯粛に尋ねた。
「あなたは重い任務を授けられ、関羽と境を接することになる。どうやって対処するつもりか」
魯粛は深く考えずに答えた。
「臨機応変に対応するさ」
呂蒙いわく。
「関羽は熊や虎の如き勇将ですから、前もって彼に対処する計略を立てておく必要があるのではないでしょうか」
そして、魯粛に5つの策略を献言した。
それを聞いた魯粛は、座を超えて呂蒙の側にいき、呂蒙の背中をとんとんと叩きながら言った。
「呂子明どの、私は、あなたの才略がこれほどまでとは知らずにいた」
その日、魯粛は呂蒙の母親に目通りし、友達になることを約して別れた。
以上は、
呉書そのものの内容である(小南一郎訳『正史 三国志7』ちくま学芸文庫から)
「呉下の阿蒙に非ず」なんて、言ってないではないか!
と思われる人もいるでしょう。
呉書には、陳寿が記した本文に加えて、裴松之がつけた注として『江表記』に残る逸話が残っている。
そこには、
魯粛が呂蒙の背中をとんとんと叩きながら、こう言ったと書いてある。
「私は大弟が武略一点ばりだと思っていたのだが、今では学識もすぐれてひろく、呉の町にいたころの阿蒙(=蒙ちゃん)とは見違えてしまった」
なんでも孫権にいわれて読書に励んだのだという。
学問に身を入れ、昔からの儒者(=学者)でも太刀打ちできないほどの読書量だったそうだ。
ちなみに、三国志を記した陳寿は蜀の終わり頃に蜀に仕え、後に魏・晋に仕えた歴史家である。
裴松之は、陳寿よりも100年ほど後に生まれた歴史家。時代でいうと晋の末期、宋の始め。裴松之が拾った史料は、今は現存しないものもある、三国志の注に引用されているものしか残っていないものもある。
裴松之よ、よくやった。
三国演義という、世界中で親しまれている物語が生まれたのも、また吉川英治の三国志、さらには横山光輝先生の三国志、さらにまた三国無双シリーズなどが生まれたのも、淵源をたどれば裴松之のおかげである。
この話を、生々しく読むまでは、自分は、関羽のほうにかなり肩入れしていた。
実際、小学生のころに、吉川英治の三国志を読んで(そのころは、横山三国志は、まだ赤壁あたりだった)、関羽の死に涙を流した。自分がそこにいたら、呂蒙の計略があることを教えてあげられたのに、と悔しく思った。
でも、敵だと思っていた呂蒙も相当な努力をしていたのだなあと、大人になってから思った。
こういうことを息子にも伝えたいのだけどなあ。
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呉の名臣伝

