「さあ若いの、迷っている暇はないぞ。私を博士のところへ連れていくか、それとも<ドクター>たちの暴挙を見逃すのか……。私にはこの状況を遅らせる手段がある。しかしモタつけばその分、手段は効果が薄れていく。どうだ、今ここで決めろ」
僕はひび割れた空を再び見上げる。すると迷っている暇はないぞとばかりに、今度は地面が跳ね上がるように揺れた。
「貴方が大河たちの仲間ではないという確かな証拠はありますか、ご老人」
「そんなものはないよ」
「では……」
「信じてもらうしかないね。現象を遅らせることができるのは私だけだ。それは保障しよう」
顔を包帯で覆った断面男を僕はまっすぐに見た。目の奥は包帯の影になっているものの、真剣な眼差しは爛々と輝きを放っている。それは酒臭く泥まみれのスーツ姿とは正反対の揺らぎのない意思を宿しており、僕の視線を逃げずに受け止めていた。
「……瑠璃子さん」
「はい」
「お手数ですがご老人の着替えを用意してください」
「九条さん……?」
「……お願いします」
瑠璃子さんは最初こそ戸惑いを見せていたが、やむを得ない状況を納得したのか、「はい」と短く答えてパタパタと廊下を駆けていく。その様子を横目で見送りながら断面男が言った。
「いい判断だ、若いの。さあ行こうか」
電人博士の地下研究室では、博士とレイがすでに裏返り現象への対応策に取り掛かっていた。鋼鉄の巨大な顔をした博士の本体が見下ろす室内では、瑠璃子さんの背丈ほどある円錐形の装置が中央で鎮座しており、レイがそれを難しい顔で睨んでいる。
壁際には移動式の黒板。訳の分からない数式で埋め尽くされており、博士とレイの努力を滲ませるように、数式を何度も書き直した跡が見受けられた。おそらく裏返り現象への対抗作だと思われるが、一筋縄ではいかない現実がそこにはある。
しかし断面男にとって、博士たちの苦悩など取るに足らないものらしい。僕の先に立って室内に突入すると、珍入者に目を丸くする博士とレイを尻目に黒板と対峙したのだ。そして呆気にとられたままの僕たちの目の前で、スラスラと数式を訂正していく。
「……私とはロクに話をしなかったのに、いったいどうなっているんだ」
愚痴をこぼすレイに、僕は断面男の作業を眺めながらため息をついた。
「振り回されているのは僕も一緒さ。ところでこの装置は?」
それに答えてくれたのは電人博士だった。頭上の巨大な顔が、断面男の集中力を削がないよう声のトーンを落として告げる。
『次元の穴をつなぎとめる、いわゆる電磁のホチキスさ。でも波長が安定しなくてね、せっかく本体はできているのに10%も稼働しない』
「ではこの数式が完成すれば……」
『すぐにでも使えるよ、それに突貫工事だが3台まで完成している。帝都のすべての穴をふさぐには数が足りないが、被害の大きな穴に使えば充分に時間を稼いでくれるだろう』
「ふむ……」
僕は装置をまじまじと眺めた。
「対症療法はこれでいいとして、原因は判明したのですか?」
『雷音寺たちの研究だよ。私は時空獄の研究に携わったことがあったから、<ドクター>だった頃に彼らの研究に対する見解を求められてね。その時に見せられたレポートに今回と酷似した現象が記されていたよ』
博士によると、ふたつの空間を入れ替えるには基点となる装置を、対象となるエリアの中心に設置する必要があるのだという。今回で言えば帝都の中心にひとつ、そして『壁』の向こうの世界にひとつ。そこでレイが警官を総動員して装置を探しているのだが……。なにせ帝都の中心部とは言っても建物が多く捜索は難航しているらしい。
空間の断裂を防ぐ作業と装置を探す作業。このふたつの作業が今やるべきことだ。そしてその障害となっている数式と格闘しているのが正体不明の断面男。本当に任せていいものかとレイがチラチラとこちらを見ているが、僕たちに選択肢がないのも事実である。
そうしているうちに断面男の着替えを取りに行っていた瑠璃子さんが研究室にやって来た。それとほぼ同時のタイミングで断面男が「……よし」とチョークの粉を払いながら一歩下がり、黒板いっぱいに記された数式を見渡す。
『うむ、完璧な仕上がりだ。実に美しい……』
「ではこれでやっとこの機械が使いものになるわけですね、博士」
レイが内線の受話器を手に取りながら巨大な顔に振り向く。
『ああ、早速取りかかろう』
電人博士のひと言が作戦開始の合図となり、レイが受話器の向こうで待機している巡査に、組み立て中の機械をひとつでも多く使える状態にしてトラックに積み込むよう指示した。その間に瑠璃子さんが断面男に着替えを手渡し、「奥にある宿直室を使って下さい」と伝える。そして自身は断面男の提案を受け、ここで治療中の<『壁』の向うから来た男>を『壁』の向こうの世界へ避難させるべく研究室を出ていった。
<『壁』の向うから来た男>は大河たちに襲撃され負傷している。だから断面男の提案はもっともであり、この混乱で再び襲われないよう安全を確保する必要があった。
レイはすぐに了承し、瑠璃子さんが<『壁』の向うから来た男>の病室に到着する前に手筈を整えようと、再び内線で部下に搬送方法を指示する。これら一連のやり取りは迅速であり、断面男が数式を解いて3分も経たないうちに僕たちは次の行動に移ることができた。
「私は機械を載せたトラックで帝都に戻る。九条はどうする」
「電人博士と一緒に行くよ。基点となる装置の近くには状況を把握するために大河たちが潜んでいるはずだ、彼を見つける」
「私も行くぞ、若いの!!」
宿直室から声を上げたのは断面男だ。
「きっと役に立つ!」
『彼のお目付役なら私が引き受けよう』
そう言って巨大な顔が急に沈黙した。そして顔の中央から真っ二つに割れ、中から身長2メートル程の人型ロボットを吐き出す。彼も電人博士で、ここにある巨大コンピュータとつながっていた。いわば博士の分身である。
「それなら博士、段取りについて少し話しませんか?」
『少し待ってくれたまえ、レイ。その前に九条くんに渡したいものがある。こいつだ……新しいオモチャだよ』
博士が棚から持って来たのは2丁の拳銃だった。僕が今まで使っていたシリンダータイプとは大きく異なり、全体をカバーで覆ったような“四角い”形状をしている。
「こいつは……自動拳銃じゃありませんか。使えるんですか?」
僕はグリップの下からマガジンを引き抜いたり、スライドを引いたりして早速、一通りいじってみる。
『これまでそのタイプは部品数が多く故障も多かったからね、懸念は当然だ。それにコストがかかりすぎて、とてもではないが使える代物ではなかった。やっと改良に成功したのだよ』
「……うむ、確かに挙動が素直だ。それに軽くて扱いやすい」
『キミが使っている骨董品もこれでお役御免だね』
「ええ……まあ……」
僕は金属繊維のコートの下にブラ下げた警部の拳銃にそっと触れてみる。確かに命を預けるとなれば武器として優秀な方が安心できるだろう。ちょっとした感傷が穏やかにこみ上げてきた。
そんな僕の異変に気付いたのか、博士は取り繕うように声のトーンを一段上げた。
『帝都警察でも採用される予定の最新型だよ。シリンダータイプと違い、グリップの下からマガジンを挿入するタイプだから弾の補充が楽になり、また装弾数も6発から7発になっている。キミにも同じものを用意してあるよ、レイ。だから羨ましそうな顔をしないでくれたまえ』
「……べ、別に私はそんな。子供じゃあるまいし……」
その時だった。再び大地が震え、立っていられない程の震動が床を突き上げた。棚やら装置やらが倒れ、天井に吊るされていた電灯が右に左にと大きく触れる。今度の地鳴りは今までで一番大きい。いよいよ裏返り現象が本格的に始まったのだろう。
さらにそこへ帝都警察の巡査が駆け込んでくる。
「み、見つかりました! たった今、装置を見つけたとの報告が!」
「どこだ!」
レイが壁に手を突きながら声を上げる。
「帝都電波塔の3階、ラジオ局のスタジオです!」
……つづく。


