まつすぐな道でさみしい (改)

暫くガラ携で書いていたブログが、スマホに機種変した事で継続困難になり、新装移転!

主にプロレスの話、たまにプロレスの話、ほとんどプロレスの話。

たまに違う事も、話すかも?

基本、旧ブログの続きです!

一般受けする内容ではありません。


テーマ:
























私と馬場は最初からライバル関係だったと言われるが、それは後々のことで、当時一番仲がよかったのは馬場だった。世間知らずで幼い私と違って、馬場は五歳も年上だし社会人経験もある大人だ。その当時は好きな人がいて、それでも一緒になれないといった悩みも持っていた。彼がアメリカへ行っている間に誰かが別れさせたのだと思う。

私にとっては頼れる兄貴といった感じの存在だった。お互いに貧乏だったし、お金を出し合ってラーメンを食べたり、ダブルの背広を貰ったりした記憶がある。背広はブカブカだったが。とにかく、私と馬場は、あの頃はいい関係だった。
(猪木寛至自伝)



















2000年 4月7日  東京ドーム
試合終了後、橋本に歩み寄り声を掛けるアントニオ猪木




一切皆苦/いっさいかいくう
人生とは何事も思い通りにはならないもの。



四苦八苦していた。

あの時代のプロレス界…

いや、あの時期の男の行動をひと言で表わすなら、この言葉が1番妥当なのでは無いだろうか…



お釈迦様の教えによると、どうやら人間の一生というのは苦しみの連続らしい。

ここでいう苦とは、痛いとか痒いとかの肉体的な苦痛ではなく、何事も思い通りにならない様をいう。


生・老・病・死
生まれること、年をとること、病気をすること、死ぬこと。この人間のもつ根元的な四つの苦悩を四苦といい、これに人として生きて行く上で避けて通ることの出来ない苦悩…

求不得苦/ぐふとくく
(求めているものが得られない苦しみ)

怨憎会苦  /おんぞうえく
(恨み憎む者に出会ってしまう苦しみ)

愛別離苦 /あいべつりく
(親愛な者との別れの苦しみ)

五蘊盛苦/ごうんじょうく
(心身を思うようにコントロール出来ない苦しみ)

この四つを加え八苦という。












諸行無常しょぎょうむじょう
刹那、この世のあらゆるものはすべて移ろい行く。

当然、それは時代を彩ったヒーロー達でさえ例外はなく、若々しく逞しさを誇っていた肉体も時の流れと共に老いさらばえる。



諸法無我しょほうむが
全ての物事は因果関係によって成り立っており、他と関係なしに独立して存在する物などは無い。

あの時代のプロレスバブルも、その後に訪れるプロレス界の崩壊も、一見まったく関係のないような事柄が繋がり因果関係を形成し、すべては起こるべくして起こった。



涅槃寂静ねはんじゃくじょう
人生とは何事も思い通りにはならないものだし、築き上げた地位や名誉や栄光も決して自分ひとりの力で手に入れた物では無い。そのすべては時間の経過と共に変化し失われて行くことと知り、執着を捨て去ってしまえば良い。

すべての苦悩は誰かのせいではなく、自分の心が生み出しているものだと悟り、煩悩を消し去り心穏やかに過ごせば、あらゆる現象に一喜一憂することなく幸せに生きることが出来る。



そんなことは分かっている。


分かってはいても、煩悩を捨て去り心穏やかに生きるなどいうことは、そう簡単に出来るものではない。


年老いた自分が昔のような求心力を失っていることなど認められるはずも無く、過去の栄光にしがみつく。


いつまでも自分が中心で脚光を浴びていなくては気が済まず、様々な出来事に一喜一憂し、思うようにならないと腹を立てては右往左往する。


本来人間とは、そんな浅ましい生き物ではないだろうか。


ましてや無我の境地などという言葉とは対局にあり、剥き出しの欲望、怒り、人間のもつ煩悩というものをさらけ出すことで観客を魅了し続けて来たあの男の魂は、周りの人間たちを巻き込みながら無間地獄を彷徨い続ける。




「ちょっとぐらい人気が出たからって偉そうなことを言うんじゃねェ〜 新日本プロレスは俺が作って成長させた会社なんだ。そこのところをよく認識しておくんだな」【注①】













『顔面を蹴られているレスラーの名前は分からないが、この足が誰のものなのかは分かる』
そんなレスラーが他に居ただろうか?





プロレスとはファンタジーである。



大切なことは2度言います。



プロレスという世界観を構築する上で最も重要な要素は、ファンタジーである。












1954年 プロレスを中継する街頭テレビの前には黒山の人だかりが出来ていた


まだ戦争の記憶が人々の脳裏から離れない時代。日本プロレス界の父である力道山は、自分よりも身体の大きなアメリカ人を空手チョップで次々と薙ぎ倒し国民を熱狂させた。


当然この時代から、こんな物は八百長だ!  プロレスなんて見世物だ!  との批判の声は上がっていたのだが


だから何だと言うのだ?


ほんの数年前まで本当に人を殺すための訓練を受け戦地に赴いていた国民にとって、それが真剣勝負なのかどうか?  そんなことは、どうでも良い些細なことでしか無かった。



東京の空に焼夷弾の雨を降らせ、街を火の海にし…



広島や長崎には原爆を投下し、大量の非戦闘員の命を奪った。



そんな米国人を思いっきりぶん殴ってやりたい!  



ずっとGHQの占領下に置かれていた敗戦国民が、心の奥底に抱きながらも口に出すことすら憚られて来たそんな願望が…




プロレスを見ているほんのひと時の間だけは叶えられるだからそれだけで十分だろう?




もっとも、それを演じてい力道山は日本人ですら無かったのだが…









1963年  アメリカ武者修行から一時帰国した馬場は、師匠力道山と人気テレビ番組・スター千夜一夜に出演し足の大きさを比べ合っている。
とても入門3年目の若手とは思えぬ、破格の扱いを受けていたことが分かる1枚。



いつからだったのだろうか?


胸のうちに、あのドス黒い感情が芽生えてしまったのは…



1960年 9月30日 馬場正平は田中米太郎、猪木寛至の相手は大木金太郎と、それぞれが先輩の胸を借りてデビュー戦を終えた。

試合後、師匠の力道山は記者団に対してこのようなコメントを残している。

『見ての通り馬場は身体も出来ているし、半年から1年鍛えたらすぐに海外遠征に出すつもりだ。猪木はまだ子供だから俺の手元に置いてじっくり育てる』


まだ17歳で世間知らずだった俺にとって、5つも年上で社会人経験のある同期生は随分と大人に見え、ライバルというよりも年の離れた兄貴といった存在だった。

しかし師匠の言葉通り、半年もすると馬場さんは海外遠征に送り出されてしまった。ちょっと寂しい気もしたが、海の向こうでの馬場さんの活躍を聞くのは自分のことのように嬉しかった。


これは余り大きな声で言える話ではないのだが、いつも力道山が得意気に語るアメリカ修行時代の自慢話はかなり誇張されているらしい。

本人はアメリカ中で引っ張りだこの人気レスラーだったように語っているが、実際のところは、この頃もっともプロレスが盛んだったニューヨークから五大湖周辺・カナダに掛けての北東部のテリトリーには足を踏み入れたことも無く、ハワイでの修行後は西海岸の日系人の多く住んでいる地域を回っていただけの、いわばご当地ヒーロー程度の活躍でしかなかったという話だ。







馬場と力道山のアメリカ遠征地図
ハワイでプロレスを覚えた後の力道山はサンフランシスコからロサンゼルスと西海岸の日系人が多く住むエリアを転戦して帰国している【注②】



だが馬場さんは、この黄金テリトリーで力道山を遥かに超える大活躍をしているという。


今は力道山の付き人をやらされているが、もう少し身体が大きくなればお前もアメリカ遠征に行かせてやると言われてる。

 もう少しの辛抱だ。

俺だってチャンスさえ貰えれば、馬場さんみたいに大活躍して力道山を超えることが出来るはずだ。


海外遠征に出る日が待ちどうしい。














1962年 アメリカでの馬場はトップヒール

NWA、WWWF、WWAの三大世界タイトルに挑戦するなど、押しも押されぬメインイベンターとしての地位を確立していた。




1964年 4月27日 サンディエゴ
『寛ちゃん、これ持っていけ。俺はもう使わないから』

これから日本に帰る自分には必要ないと、ポケットに押し込まれた紙幣は700ドル。(現在の紙幣価値で約140万円)

ほんの小遣銭程度しか持たされずに単身日本を送り出された俺にとって、このときの馬場さんの気遣いは涙が出るほど嬉しかった。


力道山の死後、自分の帰国と入れ替わるように米国武者修行へやって来た寛至は、馬場にとっても本当に可愛い弟のような存在だったのだろう。
















馬場と猪木のアメリカ遠征地図

いま僕の頭の中にあるのは、ブラジルに行くことと、ルーテーズから世界タイトルを奪取することの二つです。どんなことがあってもこの二つは実現してみせます。(中略)
アメリカ本土に渡ったらできるだけ早くにミズリー州に行きたい。数回来日して日本のファンに馴染みのサニー・マイヤースがいろいろ面倒見てくれるんです。ロサンジェルスもいいが、いわゆる正統派のレスラーが多くいるのはミズリー州セントルイスから東部かけてですからね。
(プロレス&ボクシング  1964年 6月号)


木のいうセントルイスから東部かけてとは、セントルイス、シカゴ、ニューヨーク、デトロイト、フィラデルフィア、シンシナティ、コロンバス、さらにカナダのトロント、モントリオールのアメリカ北東部を指す。要するに最もカネになるテリトリーのことであり、馬場が転戦した地域なのだが、見ての通り猪木の遠征ルートは力道山よりは少しマシという程度で、馬場の活躍には遠く及ぶものではなかった

しかし、これは猪木の遠征が全く泣かず飛ばずの大失敗だったという訳ではなく、日本人レスラーの武者修行としては結構頑張っている方なのだが、馬場のアメリカでの活躍があまりにも桁違い過ぎて比較にならないというだけの話で、比べる相手が悪すぎのだ。













1966年 3月13日 ホノルル  
2年間の武者修行を終えた猪木は帰国途中に立ち寄ったハワイで、日本プロレスの吉村道明、ジャイアント馬場にレフリー沖識名を加えた4人でワイキキ・ビーチを走っていた。


3月13日から15日までの3日間はこの4人で3月25日から開幕する『第8回ワールド大リーグ戦』に向けての合同トレーニングに当て、16日夜、ホノルル市内のレストランでミーティングを兼ねた食事会が開かれ、ここで猪木は日本プロレス協会の幹部である吉村と“今後”についての会談をもった。

吉村、馬場、猪木の3人は19日夕方の便で帰国し、25日から始まるシリーズの中でアントニオ猪木凱旋試合を行うという段取りだった。


しかし帰国当日の午後になって猪木は吉村に「急用が出来た為、今日は帰れません」との電話を入れている。


この日の早朝ハワイにやって来た、豊登の発する一言が今後の流れを大きく変えることなった


「日本プロレスに戻れば、お前は永遠に馬場の下だ。俺が新団体を作るから、お前はエース兼社長になれ」


確かにその通りだ。

俺は豊登の言葉に黙って頷くしかなかった


この一連の流れは、後に太平洋上猪木略奪事件と呼ばれることとなる。









1966年 10月12日 蔵前国技館 写真上】
時間無制限1本勝負 
○アントニオ猪木 [31分56秒リングアウト]
ジョニー・バレンタイン× 

同年 11月21日 元都電・板橋停留所前広場
写真下】
寒空の下なんの説明も無いまま数時間待たされた挙句、唐突に開催中止を告げられた観衆は暴徒化し、リングを破壊し火を放つという暴動に発展。警察が出動する騒ぎとなった
(通称・板橋事件)



求不得苦/ぐふとくく
(求めているものが得られない苦しみ)

豊登には、私の兄に少し似たところがあった。

日本プロレスの次期エースはお前だと、以前から俺のことを買ってくれていて、随分と可愛がってもくれたのだが、何よりもこの男はギャンブルに依存し過ぎている。

もう無理だ、ついて行けない。



1966年 10月12日 蔵前国技館  アントニオ猪木の2年7ヶ月振りとなる凱旋試合は、日本プロレスでは無く東京プロレス旗揚げ戦として蔵前国技館行われ、このときの観客動員数は9,000とも11,000人とも言われ、試合内容もストロングスタイルの原点と呼ばれる名勝負を展開し、順風満帆の船出を切ったように見えたのだが、残念ながらこの団体は選手に対するギャラの未払い、同年11月21日  板橋事件など様々なトラブルを繰り返し、翌67年1月  たった3ヶ月で活動を休止している。





1966年 東京プロレス旗揚げ時の豊登と猪木


この豊登という人物 1963年 12月15日 力道山の死後、日本プロレスの社長兼エースとして暫くのあいだ団体を支えていたのだが、66年1月5日 日本プロレスは尿管結石の悪化を名目に豊登の社長辞任と現役引退を発表している。

この持病の悪化というのはあくまでも表向きの話で、実際のところ公金を横領し競馬や競輪などギャンブルへ流用するなど、放漫経営の責任を問われての失脚だった。当然その裏にはG馬場の帰国によるお役御免という側面も否定出来ない。

事実上日プロを追放された豊登は、日蓮宗感通寺住職である新間信雄を後ろ盾に東京プロレスを設立。団体のエースとして新人の頃から目を掛けていた猪木に白羽の矢を立てたのだが、新団体旗揚げ後もそのギャンブル狂いは一向に改善されず、興行の売上金を持ってそのまま競輪場に通うなどの破天荒ぶりで東京プロレスは早々に経営破綻に陥り、翌67年 1月8日 猪木は豊登と新間を「3千万円の業務上背任横領容疑」で告訴。この行動に激怒した豊登らは1月9日には猪木を「背任容疑」で逆告訴するなど泥仕合の末東京プロレスは崩壊に至るのだが、面白いことに1972年の新日本プロレス旗揚げの際、このとき既に引退していた豊登はテレビ局が付いて団体の運営が軌道に乗るまでという条件でカムバックし暫くの間、助っ人参戦している。


一時はお互いに告訴し合うという泥沼の関係に陥っていた相手とも時間が経てば、またアッサリと手を組んでしまう所が一本気の馬場には無い懐の深さというか?  節操が無いというべきか?  この感覚が如何にも猪木らしいのだが…

若手の頃の猪木を見ていると馬場といい豊登といい随分と先輩レスラー達に可愛がられていたようだが、猪木自身も相当に甘え上手でオカダ・カズチカのような弟体質だったのではないか?  なんて一面が垣間見えるのが面白い。


因みに東京プロレス旗揚げの際、豊登を住職に紹介したのは新間信雄の実子の寿であり、後に猪木vs.アリ戦を実現させる燃える闘魂と過激な仕掛け人コンビの因果関係はこのときから既に始まっている。










日本プロレス史に残るタッグチームBI

選手としては俺だけじゃなくてみんなも素晴らしいと認めていると思う。お互いに会社を作った後、試合じゃない勝負みたいなものはずいぶんやった。口の勝負だったな。常に俺は負けたね。
【馬場語録】
1989年7月10日 札幌でのトークイベントにて)


1967年 46 東京プロレス崩壊後、猪木は『若い猪木は豊登に騙された』という見解で日本プロレスへ復帰を許されるのだが、その際、永源遙、高崎山三吉(北沢幹之)、柴田勝久は猪木とともに日本プロレス復帰。

豊登、木村政雄(ラッシャー木村)、寺西勇、仙台強、マンモス鈴木、大磯武、田中忠治、竹下民夫らは国際プロレスへ移籍。

また斎藤昌典(マサ斉藤)は単身海外に活路を求めるなど、それぞれに新しい道を模索している。




怨憎会苦  /おんぞうえく
(恨み憎む者に出会ってしまう苦しみ)

アンタにいったい何が分かるって言うだ?

亡くなった力道山のことをふり返り、人間的には何ひとつ良い所の無い人だっなんて言ってるのを耳にしたが、俺はその何ひとつ良い所の無かった人間の下で、死ぬまで付き人をやらされていたんだ。【注3

たった半年程度で海外遠征に行って、スター気取りで帰って来たアンタに力道山の何が分かる?  その下で俺がどんだけ苦労させられたかなんて想像も付かねえだろう。


俺は絶対に、このママじゃ終わらねぇ。



日本プロレス復帰後の猪木は馬場とのタッグでBI砲を結成するのだが、これは馬場が大将格で猪木はあくまでも2番手の引き立て役というポジションで、皮肉にも豊登の忠告通りの結果になってしまったのだが、この時点での馬場と猪木の人気・実績を考えればこの待遇はある意味仕方の無いことだと言える。



猪木は隣りに並ぶ大きな背中を見上げながら、タッグパートナーにつけられた圧倒的な差を思い知らされていた。


2メートル19センチ 145キロという絶対的な記号性に加え、元読売巨人軍のピッチャーという抜群の運動神経を持つ男は、師匠の力道山が記者達の前で語っていたアメリカでの大成功という法螺話をいとも簡単に現実のものとして帰国。そのダイナミックなプロレスは観客の心を捉え、力道山を凌ぐほどの人気となっていった。


2年間のアメリカ遠征では何ひとつ手に入れることも出来ず、帰国後に旗揚げした東京プロレスはあっという間に崩壊。借金しか残されていない自分に対してこの男は、アメリカのプロモーターからの信頼があり、世界最強の“鉄人”ルー・テーズを破ったという実績があり、腰には力道山の象徴であったインターナショナル選手権のベルトが巻かれている。


日本人レスラーが手に入れたいと願うであろう物は、すべてこの男のもとに揃っている。


更には、日本一の人気球団である読売巨人軍のミスタープロ野球が『僕が巨人に入団したとき、最初にキャッチボールをしてくれたのが馬場ちゃん!ま~当時は馬場投手』と思い出を語れば、負けじと世界のホームラン王も『元々ピッチャーとして入団した高卒ルーキーの自分がバッターに転向を命じられたとき、自らバッティングピッチャーを買って出て練習を付けてくれたのが馬場投手だった』と国民的スーパースターが口を揃え、自分はジャイアント馬場の後輩だということを自慢する。








(写真上)1965年3月26日 リキパレス/ドン・ダフィ
(写真下)1966年2月28日 東京都体育館 /ルー・テーズ

全盛期のジャイアント馬場と言えば、プロレス史上最も美しいドロップキックと呼ばれた32文ロケット砲を真っ先に思い浮かべてしまうのだが、この男の真骨頂はその巨体が豪快に宙を舞う壮絶な受け身であり、その桁外れのバンプでバックドロップを受ければ、50歳の誕生日を目前にしたルー・テーズでさえ、観客の目には世界最強の鉄人と呼ばれた全盛期にタイムスリップして見える。




敵うはずが無い。



日本プロレスの父である力道山は、体の小さな日本人が大きなアメリカ人を空手チョップで薙ぎ倒すという夢物語で敗戦国民のコンプレックスを開放し、戦後最大のスーパーヒーローに成り上がった。


まだテレビ放送の歴史も浅く、奥様は魔女や逃亡者などのアメリカ版のテレビドラマがヘビーオンエアされ、日本人が豊かさの象徴としてその登場人物たちのライフスタイルに憧れていた時代。



そんなアメリカ人ですら見上げてしまうこの男は



その存在そのものが、
ファンタジーだったのだから。



どんなに抗おうとも敵うはずの無い絶望的な差を前にして、なおも自分の未来に悲観すること無くその大きな背中をひたすら追い続ける23歳のアントニオ猪木の姿は、さながらON砲の王貞治を彷彿させる。


長嶋茂雄の持つスター性を前にこの人には絶対に人気では敵わないと観念しながらも、その背中を追い続けることでホームラン記録という全く別の価値観を生み出しファンの記憶にその姿を刻みこんだ王貞治


プロレスと野球という全く別のジャンルでありながら、奇しくも共に5歳という歳の離れた多くの共通点を有するライバルストーリーなのだが、ON砲とBI砲の唯一にして最大の相違点といえば、王貞治が日本中誰もが知る人格者であり、「尊敬する野球選手は?」という質問に対しては、ハンク・アーロン、川上哲治とともに、必ず長嶋の名前を入れ、ライバルに対する尊敬の念を表し続ける王貞治に対して、この男と言えば…












チキショ〜話が中途半端だけど、これ以上写真貼れないから、ここで一旦終了!





実は私、色々と知ったかぶったようなことを書いてはいるが、子供の頃に馬場がメインでハンセンやプロディと闘っていた最後の時代、80年頃の試合にはなんとかギリギリ生で触れることが出来てはいるのだが、全盛期と言われる1960年代のジャイアント馬場の動く姿(動画)というのは見たことが無い。



今回載せた32文ロケット砲や、馬場自身が生涯最高の出来だと言っていたピンと足の伸びた完璧なバンプの写真を見るたびに、全盛期の馬場はいったいどんな動きをしていたのだろうか?  オカダ・カズチカが後20cm大きくなったみたいな感じの選手だったのだろうか?  などと勝手に空想して心躍らせる。




まるで伝説の想像上の生物のようだが、ジャイアント馬場は確かにそこにいた。




しかし私が子供の頃に見た、一般的にジャイアント馬場と言って思い浮かべるイメージとは全く別のジャイアント馬場が存在していたらしい!





そう考えるだけで、何だかワクワクさせてくれる。






これもジャイアント馬場のファンタジーなのだろう。











つづく












【関連リンク】

本来は注訳のところにリンクを貼り付けるべきなのですが、話が長過ぎてデータ容量が目一杯のようで、リンクを貼るとアップ出来無いという非常事態に陥りました。


お手数ですが、興味のある人は、ブログ一覧から以下のタイトルをせんたくするか?  アドレスをコピペして見てやって下さい。





「ちょっとぐらい人気が出たからって偉そうなことを言うんじゃねェ〜」【注①】

『Re:>ざっくりと荒鷲 その② レインメーカー』

  http://ameblo.jp/970azteca/entry-12206600169.html




力道山のアメリカ遠征【注

『巨人⑰創世記 終章 260戦5敗 』 

http://ameblo.jp/970azteca/entry-12073089301.html?frm=theme




人間的には何ひとつ良い所の無い人だった【注③】

『巨人 ⑲ おとぎ話 第二話 さるかに合戦  第2部 めばえ』

http://s.ameblo.jp/970azteca/entry-12092362019.html




馬場投手とON砲【注④】

『巨人⑦  多摩川』

http://s.ameblo.jp/970azteca/entry-12034227316.html


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