先の台風で亡くられた方々のご冥福と被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

 

私の所は幸い、何ら被害はありませんでした。

 

知り合いに連絡をしても皆無事で、安堵した夜のラグビー・ワールドカップでは日本チームが躍進する姿を観て盛り上がりました。

 

 

しかし、翌日のニュースから災害のあまりの大きさを知るところとなり、またその場所は私がルーツを調べる為に立ち寄った場所でもあることに胸が痛み、ブログの更新に気持ちが向きませんでした。

 

ラグビーと同様、困難に見舞われても決して諦めることなく、立ち直って欲しいと思います。

 

 

この台風被害の前の日に、宮城県気仙沼の方から旬の秋刀魚が送られてきました。

 

今年は、秋刀魚漁は不漁で、ようやく水揚げされたものを届けて下さったのです。

 

本当に今も続く「」、有難いことです。

 

その方とのご縁は、東日本大震災の時に始まります。

 

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お金も時間も何もない私が、何かの役に立ちたいとの思いから一人で、岩手県から福島県の被災地の避難所をまわりました。

 

そこで被災者支援をされていた方から、小学生の為にイベントを依頼して下さったのです。

 

そのイベントは、企業の支援や地元の学生リーダーの高校生と子供たちの親御さんの協力で無事に行うことが出来ました。

 

その当時の小学生であった子供たちは高校生になっていて、きっと今回の災害で被災された人たちの力となっているものと思います。

 

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個々が出来ることを協力し合って、頑張っていきましょう。

 

そして、今日の天皇御即位に対して、心からお祝い申し上げます。

 

 

即位の礼が行われるまで、天候は風雨に見舞われて最悪な日和でした。

 

    大阪府・ 阿倍王子神社

 

私は、自身が大阪の安倍晴明神社阿倍王子神社や、宮城県の塩竃神社に参拝した時に荒れ模様だった天候が、神社に着いたとたん晴れ上がったこともあり、「雨よ上がれ」と願っていました。

 

      宮城県・鹽竈神社

 

多くの国民が私と同じ気持ちであったと思います。

 

子を思う親として生前退位された上皇后様は、特に心配していたことでしょう。

 

こうしたお気持ちが海外の要人をお迎えする皇室の中で、ただお一人だけ頭を下げていた上皇后美智子様のお姿に表れていたように思えます。

 

またその行為は、礼節の本当の在り方をお示しになっていた様に思え、とても印象的でした。

 

 

そして、即位礼正殿の儀が始まると、国民の願いが日本の神々に届いた様で、報道の通り雨は降り止み、空には青空が広がりました。、

 

やはり、天皇陛下は見えない力に守られていると私は思います。

 

 

このおめでたい日に力を下さった神々へ、お礼にと近くの出雲大社(相模分社)へ参拝に向かいました。

 

   神奈川県・出雲大社(相模分社)

 

おめでたい日の為、御執印には紅白のお餅付きでした。

 

 

出雲大社(相模分社)へ向かう途中、灰色の雲間に見える青空には、天皇御即位をお祝いするかの様に鳳凰のような雲とが現れていました。

 

 

私と同じように感じた人なのか、沿道に車を止めて、その雲をスマホで撮っている方がおられました。

 

ブログに載せた写真では分かりにくいのですが、実際はその雲だけしっかりと形になっていて、明らかに違和感というか、存在感というか、不思議な感じを受けるでした。

 

そして、大日堂(大日如来)と阿夫利神社(大山寺)が鎮座する大山の裾野から、湘南江の島方面に繋がるようなの架け橋が出現!

 

こちらも、多くの人々が車を止めて写真を撮られていました。

 

 

天皇陛下が述べられた「国民叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好平和人類の福祉繁栄に寄与することを切に希望致します。」とのお言葉が示すように、日本人として生まれたことの使命がそこにあるように思います。

 

 

22日の当日、富士山では初冠雪が確認されました。

 

そして翌の23日には、祓い清められたかの様な青空の中に、白い衣を纏った霊峰・富士山が浮かんでいました。

 

      地元から見える富士山

 

令和の時代、古来より繰り返される一部の人間の私欲によって、罪なき者が絶望的な思いに駆られる事のない世の中であるように願うばかりです。

 

 

力を合わせ、悲しみ少なく笑顔が多いい社会へ。

 

 

一人は皆の為に、皆は一人の為に。

     (one for all ,all for one

 

今日、東京都町田市に鎮座する金森杉山神社のお祭りにて歌謡ショーが行われることを知り行ってきました。

 

 

仕事を終え、私服に着替えて最寄りの駅に向かい、発車3分前の小田急線ロマンスカーに乗車して、町田駅に19時20分に到着。

 

町田駅からタクシーに乗り、「金森神社まで」と告げると、「金森神社?わからないよ」と言われ、番地を告げると運転手さんは取り合えず向かってくれました。

 

運転手さんいわく、「このナビ、古いから検索できないんだよ」とのお話し。

 

「まじか・・・。」

 

結局、予め神社の所在地をメモしていたので、着くことが出来ました。

 

 

運転手さんいわく、「杉山神社と言われればわかったのに」とのことでした。

 

住宅街の中に鎮座する分かりにくい神社でしたが、何とか19時30分に現地到着。

 

既に歌謡ショーも後半。

 

美空ひばり似の歌声が境内いっぱいに広がっています。

 

 

歌声はすれど、ステージに歌手の姿がないので、取りあえず焼きそばでも食べようと思い、境内の隅で軽めの夕食。

 

焼きそばを食べ終え、よくよく見ると、歌手の方はステージを降りて観客の中で握手をしながら歌を歌っていたのでした。

 

「わぁ~っ、なんて贅沢な」

 

神社で行われる秋祭り、考えてみればもう何十年も行っていなかった。

 

まして、神社で歌謡ショーなんて初めて観覧しました。

 

 

観客との距離が凄く近くて素晴らしい!

 

しかし、距離が近すぎる故に失礼なこともする観客もいます。

 

それを上手にあしらうのも優れた芸のひとつのように思える。

 

 

そんなこんなで、ブログに「いいね!」を付けて頂いた白石恭子さんの出番となりました。

 

恐らくブログへの「いいね!」はご本人ではなく、マネージャーさんがしてくださっているのでしょうが、有難く思います。

 

歌謡ショーにご出演の皆様はさすがにプロの歌手です!

 

 

歌のレパートリーは様々なジャンルに渡っていて、なんと白石恭子さんにあっては童謡を歌われたのです。

 

 

その歌唱力に圧倒されました。

 

素晴らしかったです!

 

その方の歌が終わると、とりを飾られたのは宮路オサムさんでした。

 

 

宮路オサムさんのトークの中で印象的だったことは、病気の時の事でした。

 

お話しによると、宮路オサムさんは10年前にすい臓がんで余命3年と医師に告げられたそうです。

 

がんの宣告を受けたときは恐怖もあり、気持ちが落ち込んだそうですが、歌を唄っている時は嫌なことを忘れられたとのこと。

 

しかし、歌終えると、「あぁ、俺は死ぬのか・・・」とまた落ち込んだとか。

 

そんな思いが続き、気が付くと余命宣告の3年を過ぎてもまだ生きている。

 

 

医師に診てもらうと、歌が体を支えていると言われ、生かされている自分を感じるようになったとのことでした。

 

それを聞いて、音楽療法の効果を改めて考えさせられました。

 

 

宮路オサムさんのご苦労と長年のご活躍に心を打たれました。

 

 

歌謡ショーが終わると、歌手の方のCDが販売されます。

 

私は、会場に着いて歌を聴いた方のみのCDを購入して、会場を後にしました。


 

歌謡ショーが終了したのが21時30分頃。

 

徒歩で町田駅までは10分程度の道のり。

 

電車に乗り込み、ホッと一息つくと、自分の嫌な面に気づかされ落ち込んだ。

 

それは、歌謡ショーが終わり、歌手の方々がCDの販売に声を掛けてくださっているのに、お目当てで行った方のCDしか買わなかったこと。

 

もし、自分が歌手の立場だったら、隣の人のは買われるのに自分のものは買っていただけないとしたら、悲しい気持ちになってしまうことだろう。

 

それに気づかず、お目当ての方のCDを買い、握手までしている自分が情けなく、器の小さい男に思えて嫌になってしまった。

 

CD自体そんなに高価なものではないのだから、全員のCDを購入するくらいの度量がないとダメだよね。

 

 

今日は朝から新しいプロジェクトにおける仕事で、昼休みも取れない程で疲れていたことも多少影響したと思いますが、そもそも自分の人間性の問題と思う。

 

いい歳をして、体ばかり大きいくせに気配りと配慮に欠け、器の小さい自分が本当に嫌いです。

 

せっかく声を掛けて下さったのに、本当にごめんなさい。

 

歌が好きで、歌を唄うことで周りの方々に元気を与えることができる素晴らしい歌手の方々のご活躍を心から応援しております。

 

それなのに・・・。

 

今回はごめんなさい。

 

結局、午前0時前に帰宅し、憂鬱な気持ちで反省ブログを綴っています・・・。

 

まだまだ子供だなぁ・・・。

 

 

反省。

 

 

このたびは ぬさもとりあへず 手向山

 もみぢのにしき 神のまにまに

          菅原道真

 

 

私のルーツを知って、その安倍貞任の最期がこの時期であったと想うと感慨深いものがあります。

 

 

そもそも前九年の役の発端は、源頼義の私欲によるものからなのです。

 

陸奥話記」によると、源頼義が陸奥守として5年の任期を終えて都へ帰る別れの祝宴の夜に発端となった事件が起こります。

 

その事件とは、源軍の武将の一人で藤原光貞(みつさだ)の兵馬が何者かによって殺傷されたというもの。

 

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源頼義藤原光貞に犯人を問うと、光貞は「安倍頼時の次男貞任は先年、私に妹を妻にくれと言ってきた。」

 

「その時私は、賤(いや)しいお前なぞに妹をやれるか、と断った。」

 

「それ以来、貞任はいやしめられたと悔しがっていた。」

 

「だから貞任にちがいない。」

 

「貞任以外にこのようなか仇(あだ)をする者は他にない。」と答えた。

 

ここにおいて将軍・源頼義は怒っていわく。

 

貞任に間違いない。貞任を処刑する。貞任を差し出せ!」と言って戦に発展したというのが経緯と語り継がれています。

 

 

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この言い掛りは、現代になっても物語として安倍貞任を侮辱し、品格を損なう内容で語り続けられているのです。

 

真実は、安倍貞任には妻子もあり、伝説となった千代童子丸という素晴らしい息子もいたので、武士道を重んじる一族にとって色事で人を恨み、なんの罪もない馬を殺すようなことは絶対に無いといえます。

 

藤原氏といえば、藤原不比等をはじめ欺瞞の代名詞のように思えてなりません。

 

 

中臣鎌足と血縁ではないにも関わらず、出自を装う為に藤原鎌足中臣鎌足の死後に名前を変えて実権を握り続ける一族とはそもそもの人格が異なるのです。

 

こうした源頼義の言葉に、彼らの横暴に耐え忍んでいた貞任の父・安倍頼時は、堪忍袋の緒が切れたのでした。

 

 

ましてや、息子の貞任にありもしない濡れ衣を着せ、陸奥守の任期が切れたうえ朝廷の命令がないのに戦いを仕掛けてきたのですから。

 

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安倍頼時いわく「人の道の世にあるは、皆妻子の為にあるものなり。

 

貞任我が子なり。

 

父子の愛を棄てて忘れること能(あた)わず。」(あたわず=できない)

 

安倍軍、皆いわく「我ら統領の言うことその通りである。」

 

 

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こうして前九年の役は発起したのでした。

 

 

勝てば官軍」という言葉が古代からあるように、源氏は誉れ高き武将のように云えれていますが、事実はそうではないと私は思います。

 

それは、源頼義軍についていた藤原経清(つねきよ)が安倍軍に寝返り、安倍貞任の妹・有加と婚姻を結びました。

 

 

このことに腹を立てていた源頼義は、戦いで藤原経清を捕まえて処刑するのです。

 

その処刑の方法はというと、刀の刃をボロボロにして切れにくくした鈍刀で、時間をかけて少しずつ切ってなぶり殺すというものでした。

 

こうしたやり方は、中国の拷問を連想させます。

 

他にも頼義の行いというと、ある兵士が「腹が減っては戦にならぬ」と戦の始まる前に粥を食べて出陣しました。

 

しかし、その戦いで敵兵に腹を切られ討ち死にすると、腹から食べた粥がはみ出したそうです。

 

戦いが終わって頼義はその兵士を見るや、「武士としてあるまじき見苦しい死にざまよ」と言い放ち、屍を足蹴りしたということも記されています。

 

こうした行いは、「陸奥話記」に載っているところで、武士道精神から外れ、大将のとるべき態度ではなく、小人の怨嗟の行為として頼義の人間性を伝えているものです。

 

その源頼義は晩年になって多くの人々を殺め、数々の悪行を悔い改めるかのように出家して僧侶となったということです。

 

 

因みに頼義に鈍刀で斬首された藤原経清の妻となった貞任の妹の有加は、後の奥州平泉藤原清衡を生みます。

 

             (平泉FAN-TVより)

 

そして、有加経清亡き後、安倍軍を裏切った同族の清原氏の元に後妻として嫁ぎ安倍氏の血脈を繋げるのです。

 

             (平泉FAN-TVより)

 

結局、安倍軍を裏切った同族の清原軍は親族同士の争いとなり、それが発端で後三年の役に発展し、源義家軍によって滅亡させられます。

 

まったく皮肉なものです。

 

 (森鴎外・著)

 

三男の安倍宗任(貞任の異母兄弟)については、前九年の役で投降して年齢の近い源義家に助けられる形で命拾いをしたようです。

 

英雄視される義家ですが、調べると教養は乏しかったらしく、大伴家持らが教育したとの話もあります。

 

安倍貞任源義家との戦いの中で和歌を詠む場面が語り継がれていますが、実際のところは義家にはそれだけの和歌を嗜むまでの能力はなかったものと思われます。

 

 

その根拠として、源義家貞任との戦いの中で詠ったとされる「衣の館(たて)は綻(ほころ)びにけり」以後、彼が残した和歌はみられないのです。

 

               (平泉FAN-TVより)

 

この義家の母は、桓武天皇に縁を引く桓武平氏で、上野守(こうずけのかみ)の平直方(たいらのなおかた)の娘であるとのことです。

 

 

清和天皇の縁として台頭した清和源氏ですが、結局は欲に駆られて血族間での争いが絶えず源氏は没落していきます。

 

鎌倉幕府滅亡もそうした争いが原因といえるのではないでしょうか。

 

その中で、安倍氏に内心こころを寄せていた源義家の最期は、畳の上で往生できたそうです。

 

これは、因果応報といえます。

 

 

平氏の血をひく源義家には、義綱義光という二人の弟がいました。

 

そのうち三男の義光は、系譜をたどると武田信玄に繋がっているのです。

 

武田信玄は、源氏と平氏の両方の血を受け継いでいることがわかりました。

 

 

やはり、私の母方の叔母が私に話したように、「源氏平氏も同じなんだよ」という意味が分かたように思えます。

 

源義家について、は八幡太郎義家という名前があり、八幡神社といえば源義家を思い浮かべる方もおられると思います。

 

その八幡太郎義家のいわれは、八幡神社元服(げんぶく)したことに由来しているのです。

 

 

義家の弟で次男の義綱にあっては、賀茂神社で元服して賀茂次郎と呼び、三男の義光は、新羅(しんら)明神で元服したので新羅三郎とつけているだけの事なのです。

 

元服とは、奈良時代以降に成人(11歳~16歳)になったことを示すものとして行われた儀式のことをいいます。

 

八幡太郎義家とは、後の信奉者が義家を武人の神の如く偉そうにつくり上げ呼んだものだったのでした。

 

前九年の役で、安倍軍は何度となくその源頼義頼家親子の命を助け(見逃して)ています。

 

 

これは前回のブログの中でも紹介した通り、福島県の木幡の戦いもその一例です。

 

戦いを頑なに拒んできた安倍氏の思いは、戦になると開墾をしてきた田畑は荒らされ、罪なき多くの者たちまでが巻き込まれるのを避けたかった為なのです。

 

日々の喜びと平和に暮らす罪なき人々が、欲に目がくらみ暴悪となった者たちによって掛け替えのない大切な命が奪われて、その争いによって多くの子供たちが飢えに苦しむことが目に見えていたのです。

 

 

しかし、人間という生き物は怖いものです。

 

時の勢力によって損得を判断し、道理が間違っていると知っていても勢いがある方に加担してしまうものです。

 

そんな暗黒の世界にあっても、道理を重んじて、どんな状況下でも命を懸けて曲げることなく貫く精神こそがが武士道の基となる「」の精神なのです。

 

安倍一族の精神は、武士道精神の礎となるものと私は思っています。

 

 

安倍貞任の最期について「義経記(ぎけいき)」という古書に次のように記されています。

 

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貞任は、剣を抜いて官軍に斬りかかった。

 

官軍は鉾(ほこ)をもってこれを刺した。

 

大楯にのせて6人で将軍の前に担いできた。

 

その長(身長)は、6尺有余(約1.8m)容貌魁偉(かいい=人並み外れてたくましい)で皮膚は肥白(ひはく=こえて色白)であった。

 

 (安倍貞任・絵図)         (貞任の衣柄・菊九曜紋)

 

将軍、罪を責めた。

 

貞任、一面して死んだ。

 

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一面して死すとは、罵倒する頼義を最後の力を振り絞って睨みつけたて絶命したのであろうと読み解けます。

 

この一文で貞任の無念さが強く伝わってきます。

 

 (赤坂迎賓館・屋根彫刻)

 

貞任の首は、1063年2月16日に藤原経清安倍重任の首と共に、近江国甲香郡(おおみのくに・こうがごおり)に送られたそうです。

 

現在でいえば、滋賀県の琵琶湖の南側に位置するとのこと。

 

この護送に当たったのは、藤原季俊と軍曹の物部長頼、そして歩兵二十人余りであったと記されています。

 

その護送に当たり官軍側が記録に残した「陸奥話記」には、安倍貞任の死を悼むエピソードが記されています。

 

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貞任の首を運ぶ者は、貞任に仕えた投降者であった。

 

一行は京都に入る前に一休みをとり、いでたちを整えた。

 

 

その時、貞任の従者であった者が首筒から首を取り出して、その顔や髪を洗った。

 

そして官軍の使者である藤原季俊に「髪が乱れているので、櫛(くし)でけずりたく、櫛をお貸し願いとうございます。」と願い出た。

 

すると藤原季俊は、憮然として「お前たちに貸す櫛など持ってはおらんわ。」と言い放った。

 

従者は黙って自分の櫛を取り出し、貞任の首の髪をすすり泣きながらけずりつぶやいた。

 

「我が主君(貞任)が生きておられたとき、私たちは主君を天日の如くにあおいでいた。」

 

 

「それを今は、私の如き者の垢のついた汚い櫛でけずるとは、なんてかたじけないことであろう。」

 

「もったいないことだ。」と泣き偲んだ。

 

 

この言葉に、一行を見物に取り巻いていた群衆も皆思わずもらい泣きをしたという。

 

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陸奥話記」にわざわざ記されているということは、いかに下級の従者とはいえども、忠義の心は人を感動させることを示しています。

 

そして忘れてならないのは、貞任の長男で13歳になる千代童子も勇敢なる立ち振る舞いであったそうです。

 

 

その勇ましい姿に武士である誰もが殺すには惜しいと思ったそうです。

 

しかし、清原氏の意見もあり、頼義千代の命を奪ったのでした。

 

当時の戦では、女性iはてごめにはするものの、一般的に子供や女性、そして僧侶の命を奪うことはなかったのです。

 

 

まだ元服もしていない幼い子供の命を奪うということは、武士としての道にも外れ、恥にあたいするのでした。

 

その為、千代の命を奪った事実は源氏の汚名となる為、武勇伝の中に記されることはなかったのです。

 

官軍と偽り、周辺地域の武士を集めて非道な戦いを行った源頼義に対して、武士道を貫いた安倍氏の戦いぶりは「忠義」の教えとして語り継がれるのです。

 

(母方の阿部家本家の家紋)

 

以後、安倍(阿部)一族にみる武士道精神千代童子の勇ましさは平安時代から江戸時代までの名だたる武将たちに受け継がれ、それが幼名にみることができるのです。

 

 

幼名とは、平安時代から江戸時代までの武家貴族の子供が元服するまでの期間につけられる名前をいいます。

 

 

千代を幼名に持つ武将は私の知る限り以下の通りです。

 

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・徳川家康-竹千代  ・松平清康千代  ・北条氏綱-千代

・徳川家光-竹千代  ・松平広忠千代  ・北条氏康-伊勢千代

・徳川家綱-竹千代  ・松平信康-竹千代  ・北条氏政-松千代丸

・徳川頼房-鶴千代  ・松平忠輝-辰千代  ・太田道灌-鶴千代

・徳川光圀-千代松  ・前田利家-犬千代  ・武田信玄-勝千代

・徳川家茂-菊千代  ・細川忠興-熊千代  ・上杉謙信-虎千代

・井伊直政-万千代  ・武田信吉-万千代  ・阿部正次-徳千代 

・土井利勝-松千代  ・浦生氏郷-鶴千代  ・青山忠俊-伊勢千代 

 

***********************

 

              (平泉FAN-TVより)

 

 岩手県和賀、胆沢地方に今もなを受け継がれる鬼剣舞獅子踊りは、安倍氏が出陣の時に踊ったものと云われています。

 

 

 

本当の日本の歴史が壊された明治時代まで、安倍(阿倍)一族武士道精神は脈々と武士貴族に受け継がれてきていたのです。

 

 

と、私はそう思います。

 

    (埼玉県行田の古墳)

 

夏草や兵どもが夢の跡

                    芭蕉

今日、何気にスマホの記事をみると、「前九年の役終結の日」とありました。

 

 

その記事が気になり、先日購入した書籍で確認すると、そこには「衣川敗戦の日」と書かれていました。

 

              (平泉FAN-TVより)

 

(阿)貞任は秋深まるこの時期、美しい月を眺めて欲が支配する暗黒の世の中を大そう悲しんだに違いありません。

 

だけれども貞任のことだから、きっと天上に輝く美しい月を見上げて一句、素敵な詩を皆に詠んで聞かせたであろと私は思います。

 

 

先日購入した安倍宗任の末裔とする安部氏の書籍の文章から、心を打たれた一文がありますので紹介します。

 

 

「第二章 貞任、千年の想い」の中から******************************

 

貞任は、泥まみれのまま指令を待つ兵卒達を前にして、

 

「みんな、よく聞いてくれ。 今我々が戦っているのは、この国の平和を願うからだ。

 

 

平和とは何か、皆が毎日の仕事に生きがいを感じ、明日も妻や子の為に頑張ろうと思ってくれることだ。

 

もしお前達が、俺と一緒に死んだなら、村の仕事は誰がやる?

 

妻や子は誰が養う?  そうだろう。

 

俺のことなら心配はいらぬ。

 

俺には仏が付いている。」

 

と諭すように言った。

 

すると、観念したか、初老の頭分(かしらぶん)が列の奥から人を分け、貞任の前で跪(ひざまず)くと、「あなた様は日頃から、文字も読めぬ者たちを分け隔てなく、ご自分の家族のように思い、優しく接して下さった。

 

 

お父上と同様、お上の強要からも身を盾として守って下さった。

 

だからこそ我々はあなた様を信じ、ここまで付いてこれたのです。

 

命を惜しいなどと思った者は一人もおりません。

 

たとえ、今日ここでお別れしようとも、あなた様のことは子から孫へ、孫から子へと必ずや語り継ぎ、千年の後も、(阿)倍貞任(あべさだとう)の名を忘れる者はないでしょう。

 

どうか、ご無事で。」

 

これを聞いた者たちは、皆こらえきれず、咽び泣いた。

 

貞任の命の炎が短いことを、それとなく感じていたからです。

 

「皆どうした、泣かないでくれ。」

 

春になったらまた会おう。  きっとだぞ。」

 

そういいながら、目に薄っすらと光るものがあった。

 

「それにしても千年とはながいな、だけれども有難いことだ

 

俺も皆の事を決して忘れない。

 

千年の後もな。

 

貞任は兵卒の一人一人に声を掛け別れを告げました。

 

 

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(阿)倍貞任(あべさだとう)・享年43歳であったという。

 

今昔物語では44歳としている)

 

 

話は、先日行った福島県郡山市の話題に移りますが、ここにも(阿)倍貞任と同じようなお話が語り継がれています。

 

その民話は、「鬼五郎と幡五郎」です。

 

(鬼五郎と幡五郎・像)

 

この話のストーリーは、安倍貞任のイメージにも重なります。

 

           (Alltamura.TVより)

 

田村神社から望む田園風景に先人の想いを馳せます。

 

 

季節柄なのか、心が淋しく悲しい気持ちになってしまいます。

 

 

ここから福島県郡山市田村町に鎮座する田村神社をご紹介しましょう。

 

ここもまた、「阿倍神社」と検索してヒットした場所です。

 

この神社の主祭神は、坂上田村麻呂です。

 

田村神社の由来は、坂上田村麻呂が本尊に大元師明王(だいげんすいみょうおう)像を安置して鎮守山平寺としたのが起源とされています。

 

 

大元師明王については、古代インド神話に登場する鬼神(アータヴァカ)に由来し、中国では「荒野鬼神大将」と漢訳され、「林に住む者」または「林の主」という意味になるそうです。

 

また、密教において大元明王は、弱者を襲って食らう悪鬼神であったが、大日如来の功徳により善神へと変じて国を守護する神へと転身され、不動明王に匹敵する霊験を有したといわれる神だそうです。

 

 

もしかすると、東日本でみられる「アラハバキの神」の由来は、この「荒野鬼」が語源なのかもしれませんね。

 

 

そしてその後の東日本に登場する武人たちは、悪を懲らしめる神として大元明王不動明王らを同一身とする毘沙門天に習合して信仰したのかもしれません。

 

私はそう考えます。

 

そして文字通り、坂上田村麻呂鎮守府将軍でもあったので、そこから「鎮守山」と名付けられたのでしょう。

 

また、「平寺」からは、平家に由来されると考えられます。

 

 

私の叔母が話していましたことに、「平家も源氏も関係ないんだよ」とあります。

 

確かに歴史をみると「源平合戦」もあり、平家源氏の対立がクローズアップされていますが、(阿)倍一族の婚姻関係をみると「平家」や「藤原家」とも姻戚であり、源家とも繋がっています。

 

そうなると、坂上田村麻呂平氏の祖に当たるのかもしれません。

 

 

さて、その田村神社ですが、参道の階段で驚かされました。

 

 

階段を上り際に気づいてしまったのですが、よく見るとここの小高い山全体の表面部分には巨石を積み上げて造られているのです。

 

 

田村麻呂をただお祀りする目的であれば、ここまでの大規模な工事は行わないはずです。

 

 

ここまでの石工の技術の高さを視ると、田村麻呂の生きた時代以前に造られたものであると考えられ、恐らくは田村麻呂の出生地が田村市との伝承もあることから、田村麻呂の先祖がここに城を築いていたのではないかと推察されます。

 

階段を上りきると山門が現れます。

 

 

その山門には仁王像が睨みを利かしています。

 

その山門をくぐり振り向くと、そこには足を投げ出した格好で座っている右・左大臣の像があります。

 

 

右・左大臣の像が本殿の方角に向いているのは珍しいと私は思いました。

 

 

そして太鼓が中央の天井に吊るされている舞台のような建物を抜けると本殿が鎮座しています。

 

 

社紋を視ると、「三つ巴紋」と「葵紋」でした。

 

恐らく江戸時代にあっては、徳川家からも大事に信仰されていた神社であったものと思われます。

 

 

そしてこの神社で重要に思ったのは、諏訪大社同様に境内に相撲の土俵があること。

 

 

そして、前回紹介した木幡山隠津島神社と同じに養蚕神社をお祀りし、彫刻は龍が渦を巻くものでした。

 

 

更に興味深いのは、石造りの祠の彫刻です。

 

 

これらは古代の神々の謎を紐解くカギとなるものと思いますが、ブログの字数も増えて、まとめるのも大変な作業になってしまうので、この辺で切り上げたいと思います。

 

 

最後は安倍貞任のことを少しだけ綴りますね。

 

 

昨年、宮城県安倍貞任の出生地とされる場所に行ってきたときの話です。

 

安倍貞任毘沙門天を信仰していました。

 

 

また、貞任自身も毘沙門天の化身と言われていたそうです。

 

私の母方の実家の側に、その貞任縁のお堂があります。

 

お堂の在る場所は、まるでお堂を守るように集落になっています。

 

私が行った時、その集落の住人の誰一人とも会わず、更にはお堂の扉は鍵が外されていました。

 

私はそのお堂に招かれるように上がりました。

 

 

そこには、優しいお顔の毘沙門天像が「よく来たな。」と言わんばかりに鎮座していました。

 

 

お堂の中は、安らぎを感じられる空間で、心から有難く思いました。

 

 

ただその時の私の目には、その毘沙門天像が安倍貞任に見えました。

 

安倍貞任は、本当に優しいお人柄であったと思います。

 

 

後で考えてみると、お堂の在る集落の住人に一人すら合わなかったことや、お堂の扉の鍵が何故開いていたのか不思議に思います。

 

私は先祖の顔に泥を塗るような生き方をしないように、残りの人生を生きていきたいと思いました。

 

 

ありがとうございます。

 

 

みや人に 見せばやいかにめずるらん 

   日和の山の秋の夜の月

 

福島県二本松市木幡の山に鎮座する隠津島神社に行って来ました。

 

 

この神社は769年に勧請され、明治時代神仏分離令により厳島神社と称したものの明治35年に神社名を隠津島神社に復旧したという経緯があります。

 

木幡山は海抜666mあり、阿武隈高地の北辺近くに属するそうですが、「666」とは何とも言えない数字ですね。

 

そして地名が示すように阿武隈(あぶくま)とは、阿倍(安倍)氏から由来されていることは推測できます。

 

私の考えを説明すると、「」は阿倍(安倍)氏、「」は武人、「」(くま)は久万球磨などにも当てられ、中でも「」という意味合いが強いように思えます。

 

九州熊本は昔、「隈本」と表されていたそうで、加藤清正が「熊本」と改名したと伝えられています。

 

宮城県仙台も、かつては「千代」(せんだい)と書き表されていたものを、伊達政宗が「仙台」に改めたと伝えられているのです。

 

こうした改名には、何らかの意図があったものと私は考えます。

 

そして調べて驚いたことは、「」も一文字で「くま」と読まれていたとのことを知りました。

 

それを知り、熊野神社の「」は、「」であり、(安)一族に関係する隠語ではないかと思い浮かんだのです。

 

私の母方の阿部家の山にも熊野神社が鎮座していることからも繋がります。

 

そして、本家のお墓がある場所は、昔は龍巻山といわれていた場所です。

 

 

神社に観られる龍が渦を巻いている彫刻も、阿部(安倍)家本家のお墓が在る龍巻山に関係があるように思えてなりません。

 

既に調べて確信していることに、熊野神社に関する「八咫烏(ヤタガラス)」は、実はカラスではないということが分かりました。

 

これは、またの機会で説明したいと思いまが、調べると私たちはデタラメな教えにより本当の真実を知らされていないことが多くあることに気づかされます。

 

かつて権威ある学者とされる人物が説いたことが間違った教えであったとしても、それを訂正しないのは何故でしょう?

 

確かに多くの国民は、古代のことに無関心であることは事実です。

 

私も2年前までは古代の歴史や先祖のこと、またルーツ等について全く興味がありませんでした。

 

ネットのブログ記事を読むと、私と同じように50歳代になって、己のルーツを調べる方が多くいることに気づかされます。

 

私は思います。

 

こういった人々は同じルーツであるDNAを受け継いでいる者たちであると・・。

 

さて、本題に戻り、なぜ隠津島神社へ行ったかというと、福島県で「阿倍神社」と検索して表示された神社であったからです。

 

所在地だけは事前に調べたので気軽な気持ちで向かったのですが、隠津島神社へは、車1台しか通れない道幅の山道で対向車が来ないかと到着まで不安でした。

 

神社へ着くと、そこはロータリーになっていて広く、トイレも併設されています。

 

 

当日は土曜日でもあり、参拝客がさぞかし多いかと思いきや、私ひとりだけでした。

 

ロータリーに車を止めて、参道へ向かうと急な階段が続いています。

 

 

軽い登山をする気分で誰もいない参道を登っていきます。

 

すると、最初に現れるのは門神社といわれるお社です。

 

 

この場所の入口には石碑があり、また正面に大きな杉の木が聳え立っています。

 

なんでもこの杉は、木幡の大スギと呼ばれ国指定天然記念物に指定されているとのことです。

 

 

そして大スギの脇に門神社本殿は鎮座しています。

 

       (菊の彫刻・菊紋)

 

この場所は空気が澄んでいて、木立の間から望む景色は素晴らしいものでした。

 

 

門神社本殿を参拝して先に進むと、蝶が私を道案内するかのように前を飛んでくれて、不安な気持ちを解いてくれました。

 

 

そして左手に素晴らしい石積みがあり、上に2階建ての第一社務所が見えてきます。

 

 

建物の構造から宿坊のようですが、この日は誰も居ないようでした。

 

 

第一社務所を後にして先に進むと、参道脇の岩が気になり立ち止まって見てみました。

 

 

よく見ると、岩には仏様が刻まれていました。

 

 

一人で行ったからこそ気が付くことができたのでしょう。

 

そしてその先に見えてきたお社へ向かいました。

 

 

お社は、手前から足尾神社白山神社疱瘡(ほうそう)神社八坂神社熊野神社養蚕神社が並んでいます。

 

私は手前のお社から参拝をしていったのですが、疱瘡神社を参拝した時に養蚕神社の方向から「う、う、うぅ、うぅ」と女性の声聴こえてきたのです。

 

  (疱瘡神社)

 

もう、大の中年おっさんですが、霊能者でもないので背筋がゾクゾクして、少し怖くなりました。|д゚)

 

    (養蚕神社)

 

それでも奥の養蚕神社までしっかりと参拝しましたよ。

 

    (養蚕神社の菊彫刻・菊紋)

 

ブログを綴るにあたり、足尾神社疱瘡神社をネットで調べてみました。

 

それによると足尾神社は、茨城県に多くみられますが、中でも栃木県日光市足尾町の神社によると猿田彦に繋がり天狗のようです。

 

そして疱瘡神社ですが、疱瘡は天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つで、 平安時代の『続日本紀』(735年)に朝鮮半島から伝わったとあります。

 

当時、朝鮮半島は交易の窓口であったので、九州の筑前国(現・福岡県)の大宰府に左遷された菅原道真の御霊信仰にも関連づけられ、疱瘡は怨霊の祟りとも考えられたそうです。

 

その病を軽く済むよう疱瘡神を祀ったそうです。

 

そして、隠津島神社九州宗像大社の神が祀られている理由にも繋がるのです。

 

 

疱瘡神にまつわる話として、明治8年の『日新真事誌』という新聞には、疱瘡除けに赤い物を身に着けるとよいとされていた頃、本所で人力車に乗った少女がいつの間にか車上から消えたという不思議な記事があり、赤い衣服を身に着けていたことからそれが疱瘡神ではなかったのかと騒ぎになったそうです。

 

 

私に聞こえた女性の声は、もしかして疱瘡神だったりして・・・。

 

 

そして、本殿へ!

 

 

本殿は、1789年に二本松藩主の丹羽長貴公の命により造営された流れ造りの様式の社殿です。

 

 

そして社紋を見てみると、なんと「✖」です。

 

 

この「✖」の社紋は、「丹羽直違紋」(にわすじかいもん)というのですが、由来は諸説あってはっきりしません。

 

似ている家紋としては、島津家の紋があります。

 

 

また青森県では、キリストの墓とされる場所もあり、その地域に赤子の額へ「十字」を書く風習があります。

 

(赤子の額に十字を書く風習)

 

ネットで「バッテン」と検索すると「鷹の羽」も表されるので、もしかすると「鷹の羽」紋を簡略化したものなのかもしれません。

 

それに「丹羽(にわ)」とは、「二枚の羽」とも読み解けます。

 

無理があるかな・・・。

 

 

山の中でオヤジ一人、妄想に耽る・・・。( ^ω^)

 

本殿のある場所から下を見下ろすと、朱色に塗られた三重塔がありました。

 

 

内心「参拝コースを間違えてる・・・。」と思いながら、階段を下って三重塔を拝観しました。

 

 

深緑の木立の中に鎮座する朱色の三重塔のコントラストが絵になります。

 

 

少し怖い体験をしましたが、神聖なる静かな空間に一人、心が洗われる気持ちになりました。

 

帰り道、御朱印を頂くために山を下った場所にある第二社務所へと向かいました。

 

 

そこでのお話の中で「養蚕神社の裏側に在る鐘楼(しょうろう)へいきましたか?」と問われました。

 

「えっ、そんなところあるの?」

 

   (㈱ドリームズカンパニーPR動画より)

 

私は下調べもせずに参拝に向かったので、境内にある重要な史跡などを見落としてしまいました。

 

それにしても、養蚕神社といえば女性の声が聞こえてきた方角です。

 

お話を伺うと、ちょうど養蚕神社の裏手側に鐘楼があるのですが、戦争で鉄が必要とされた時代、そこに吊るされている梵鐘も取り外されたそうです。

 

しかし、そのが淋しい音を奏でるので、元に戻されたという曰く付きがあるそうです。

 

すると、私が聞いた女性の声は疱瘡神ではなく、梵鐘からの音色だったのかもと謎が増えました。

 

それにしても山奥にある場所まで梵鐘を戻すとは大変な作業なのに、戻さなくてはならないと思えるほどの何かがあったのでしょうね。

 

    (お祭りナビ動画より)

 

 

隠津島神社の第一鳥居の側に治陸寺という寺院があります。

 

 

治陸寺は、安達三十三観音の「第一札所」になっており、お顔は見えませんでしたが素晴らしい千手観音菩薩像がお祀りされていました。

 

 

寺紋は、「卍紋」と「菊紋」でした。

 

 

機会があれば、再び参拝に行きたいと思います。

 

 

そして、この地に残る安倍貞任の伝承には、源頼義、義家らと木幡の戦いで交戦中、雪が降ってきて源氏率いる軍の昇り旗がほったらかされて白く変わるや、安倍軍は白旗を揚げたと受け取り陣を引き上げました。

 

九年間の戦いうち、こうして何度となく源頼義らの命を助けてやったであろうか。

 

なんせ奥州(阿)氏の信条は、「平和をもって尊しとする」なのですから。

 

を信仰する(安)一族は、非道な戦いを好まず古来からお人好しなんだよなぁ・・・。

 

 

しかし、残念なことに木幡山隠津島神社の案内書を読むと、そこには逆賊として全く逆な説明が記されていました。

 

 

内容はこうです。

 

***********************************

 

「1055年、天皇の命を受け陸奥征伐に出向いた源頼義、義家父子ら官軍勢は、戦いに敗れわずか数騎で逃れ、木幡山に立てこもった。

 

そして神社に戦勝を祈願した。

 

安倍頼時貞任・宗任を従え伊達信夫(だてしのぶ)に出向き陣をかまえた。

 

   (安倍貞任・像)

 

その夜折からの雪で山上の木は全て源氏の白旗のようになり、貞任・宗任らの目には官軍が多数いるかに見え、戦いもせずして引き返してしまった。

 

************************************

 

これは訂正しなくてはいけませんね。

 

何故なら源頼義天皇の命を受けたのではなく、黒幕であろう関白太政大臣の藤原頼通にそそのかれ、私欲からデマを流して坂東武士を集めて戦ったのです。

 

 

もし、天皇の命を受けた官軍であるならば、大軍で押し寄せるために、戦いが九年という年月を掛けずに制圧できたはずです。

 

 

更に山上に雪が降り、その山の木々が源氏の掲げる白旗に見えて、官軍が多数いると勘違いして戦わず逃げたかのような内容も、宮城県から岩手県青森県を領地とする安倍軍が見間違うはずはありません。

 

 

また、九年もの戦いを行い、安倍氏を討った源頼義義家らに朝廷は恩賞を与えることがなかったのです。

 

なぜ、朝廷は恩賞を与えなかったのでしょうか?

 

それは、その戦いに大義がなかったからなのです。

 

 

源頼義はその為、安倍氏を討って得た戦利品や領地を戦いに参加した武人らに恩賞として分け与え、源氏の面目をなんとか保ったと言い伝えが残っています。

 

今も源頼義に信望を抱く人々は、こうした恩賞を得た者の末裔と考えることができると思います。

 

少し考えれば分かりそうなデマも、こうして現代に伝承され続けているのは本当に悲しいことです。

 

       (引町の宗像文子様、口伝に感謝致します。)

 

この木幡山隠津島神社へ行くことになったのは、(阿)一族についての汚名な伝承を正すためであったのかもしれません。

 

ブログを綴っていて気が付いたのですが、木幡山隠津島神社の宮司のお名前はなんと安部さんでした!

 

そして先日のこと、仕事で出張中にブックオフに行きたくなり立ち寄ると、「逆説・前九年合戦史」という書籍が目に留まり購入しました。

 

 

内容は九州は大分県(豊後)にお住いの安部貞隆氏著書の本で、安部宗任(貞任の弟・異母兄弟)から35代目の血脈の家に代々受け継がれてきた秘蔵の古文書から一千年の封印を解いてまとめられたものです。

 

 

この書籍を購入して、私が感じ得ていた思いが次々と確証へと変わっていくことができました。

 

深い内容は次回に紹介するとして、(阿)一族の新たな家紋を知ることができました。

 

それは、宮城県鹽竈(しおがま)神社出雲大社との繋がりがみえてきたのです。

 

 (亀甲鷹羽紋)

 

因みに宮城県・鹽竈神社ですが、創建以来の社家は阿部家とのことです。

 

   (宮城県・鹽竈神社)

 

短期間で様々なご縁で次々と明らかになる自分のルーツ。

 

  (二本松観光連盟PR動画より)

 

本当に目には見えない不思議な力ってあるのですね。

 

 

人論在世皆為妻子也。」   (阿)倍頼時(頼良)(安倍貞任の父)

人の道の世にあるは、皆(みな)妻子の為にあるものなり

 

昨日、福島県に行ってきました。

 

   (田村市のお人形様)

 

目的は、安倍文珠堂への参拝です。

 

 

現地へ行ってみた感想は、福島県田村市は以外に広域で、明るい気に溢れていると感じました。

 

そして、(阿)倍文珠堂でも新たな発見がありました。

 

やっぱり現地に行かなくては分からないものですね。

 

    (阿武隈川)

 

何せ私のスタイルは学者ではないので、他人がまとめた文献を読んで答えを導き出すものではなく、先ず感じえ得たものを確かめる為に文献にて紐解いていくのです。

 

その文献も、手に取ってこれは違うと感じてしまうと、一頁で読むのをやめて、著者を確認して「やっぱり」と納得して閉じることがしばしばです。

 

因みに私は霊能力やスピリチュアルがあるのか分かりません。

 

また、何らかの宗教団体や何某かの学会などにも入ってはいません。

 

ただ、ご先祖のお墓があるお寺が浄土宗なので、「南無阿弥陀仏」と手を合わせはします。

 

手を合わせて供養をするお念仏は、宗派を問わず、全て根源は一つで同じと思っています。

 

そんな自分ですが、安倍文珠堂に行った時に偶然でしょうが「おっ」と思うことがありました。

 

私は、音楽をUSBに記録して聴いているのですが、記録している曲のうち、安倍文珠堂手前で安倍貞任を詩う吉川団十郎氏の「白河以北一山百問」が流れたのです。

 

        (岩手県・鬼剣舞)

 

私は、その曲を口ずさみながら運転して、駐車場に車を止めるタイミングでその曲は終わりました。

 

本当に偶然でしょうが、なんか歓迎されているような気持になって嬉しくなりました。

 

嘘のような本当の話しで、後で考えると不思議なことと思います。

 

 

そして安倍文珠堂の参道前に立つと、「おぉ、alltamura.TVのシオンちゃんが紹介していた場所だぁ」と感動しました。

 

 

杉並木を入ると直ぐ右手にお地蔵さんがあります。

 

 

とてもお顔がお優しい表情のお地蔵さんです。

 

 

参道へと続く杉並木は歩きやすく、時折涼しい風が吹いてきて気持ちが落ち着きます。

 

 

先に行った木幡山隠津島神社でもそうでしたが、参道の行き返りも二匹の蝶が私を導いてくれるように付いてきてくれました。

 

 

そして、いよいよ本殿です!

 

 

もう、こんなところで感動しちゃってます。

 

 

階段を上がりきると、決して大きくはない本殿ですが、その存在感は威風堂々としています。

 

 

思わず心の中で「来ましたよ」と語りました。

 

 

とにかく彫刻が素晴らしいい。

 

木立に囲まれているのに何故か明るく安心できる場所!

 

 

そして、ここに来て確認できたことは、安倍文珠堂奈良県桜井市安倍文珠院長野県戸隠神社善光寺と同じ「」紋でした。

 

 

更に屋根をよく見ると、「鷹の羽」紋が掲げられていました。

 

 

長野県上田市鹿教湯文珠堂の屋根には天皇家を象徴とする「」紋と副紋の「五七の桐」紋でしたが、本殿裏の石碑には「鷹の羽」紋と「」が刻まれていたので繋がりがあるように思えます。

 

そして、境内を見回すと奥に祠があることに気づきました。

 

 

何を祀っているのかを確認すると、そこには「明治100年記念の碑」と共に「文珠護国神社」がありました。

 

 

私は心の中で「なぜ?」と何故か納得のいかない思いになりました。

 

徳川時代までの日本は古来からの武士道精神が色濃く、映画「ラストサムライ」に視られるように明治時代以降は西洋の思想が全て正しいが如く洗脳され、血統などという考えは壊され弱体化されたと言っても過言ではありません。

 

廃仏毀釈」の命により神社仏閣や伝承などの破壊活動を行った人々は、古代から日本に住んでいた人々ではなく、その殆どは隣国から渡来した貧しい人々によるもので、明治政府がその者たちへ賃金を支払い行わせたようです。

 

日本人には、こうした「罰当たり」な悪行を行うことはできないものです。

 

こうした悪行を行った明治政府が、護国神社を祀ることに矛盾を感じてしまいます。

 

廃仏毀釈を命じながらいざ他国と戦争になると、やっぱり頼り縋る処は神様なのですね。

 

 

誠に勝手なことです。

 

アイヌの物語の中にはフクロウの話として興味深いものがあります。

 

その話は「むかし、裕福な人々は、今は貧しくなっている」というものです。

 

 

明治時代までの日本は、お互いが譲り合い、助け与え合って生きていました。

 

神奈川県小田原城の城主であった伊勢早雲も、庶民の為に奮起して戦い、領主に成るや税の負担を下げて庶民の暮らしを楽にしました。

 

早雲は当初、北条とは名乗っていないことを考えると、その戦いは私欲からくるものではなかったからなのかもしれません。

 

その早雲北条氏は平家の末裔です。

 

 

そして民を大事に思う行いをした人物として古くは、仁徳天皇も「民の竈(かまど)」にみられます。

 

日本人の本質は、他人の為に自らの欲を我慢することができる精神性が身についているのだと思います。

 

しかし現代はどうでしょう・・・。

 

今の日本は、ガラスのコップに例えると、汲んだ透き通る水に黒い滴が一滴一滴と入り込み、汚れていくように私には思えます。

 

 

これは時代の摂理であり、受け入れなくてはならない。

 

しかし、この国を守る見えない力は、やがて汚れた水を浄化することと思います。

 

浄化の方法は分かりませんが、その時には私の体はこの世にないでしょう。

 

ただ、その時代を生きる人々を思うと憂いてしまいます。

 

今を生きる人々は本来、これから生まれてくる人々が幸せで暮らせるように知恵を使い、伝統を伝え、一生懸命に体を働かして己の魂を磨く生き方をしなくてはいけないと私は思います。

 

なんて、少し哲学的な話になってしまったので路線を戻しますね。

 

文珠菩薩様に行ったせいでしょうか、柄に似合わない偉そうなことを綴ってしまいました・・・。(;´∀`)

 

 

安倍文珠堂へ行って、私に降りてくるかの如く閃く内容を確かめることができて本当に行ってよかったと思いました。

 

帰るとき、文珠堂がある地域を見渡すと、「見てごらん、ここに広がる田畑は皆で力を合わせて開墾をしたのだ。」という言葉が入ってきました。

 

 

そうした思いの気持ちで車を運転して地域を廻ると、古代の人々の素晴らしさが心に伝わってきます。

 

福島県田村市へ行って本当によかったです。

 

 

因みに田村市の地名の由来は、坂上田村麻呂にあるのですね。

 

 

宮城県ではなかったのは残念ですが、やっぱり坂上田村麻呂の生誕地は東北だったのです。

 

坂上田村麻呂は、朝廷の命を受けて東北に討伐に向かったと武勇伝が広まっていますが、本来は本気で討伐に向かったわけではないのです。

 

田村麻呂の行った行動は、主に説得であったとも伝えられています。

 

その理由は、敵とする相手が同族だったからなのでしょう。

 

阿倍比羅夫もまた同じです。

 

 

坂上田村麻呂の場合は、田村麻呂の説得に応じて、それを信じて朝廷に赴いた阿弖流為でしたが、朝廷阿弖流為を斬首の刑にしてしまいます。

 

 

坂上田村麻呂自身も本当に無念だったのでしょう。

 

 (宝塚歌劇団・星組)

 

その深い悲しみと強い鎮魂と後悔の念から阿弖流為と蝦夷の族長の母礼を弔うために建てた寺が京都・清水寺なのです。

 

 

安倍貞任にも繋がる阿弖流為坂上田村麻呂のはなし。

 

私の母方の阿部家の墓がある山には、田村麻呂所縁の石碑があります。

 

2年前まで先祖のことなど全く興味がなかったのに、調べると歴史の勉強にもなり興味が湧いてきます。

 

しかしながら、なんでこんな行動を起こすようになったのかと考えると、本当に不思議に思います。

 

今回廻った福島県には、観光ガイドやカーナビにも登録されていない「」紋や「」紋を掲げる神社や寺が数多くあることに気づきました。

 

時間があればもっと色々観て廻りたいのに、残念です。

 

本当に有意義な日となりました。

 

 

次回は、(阿)氏に所縁のある木幡山隠津島神社と、坂上田村麻呂の所縁の田村神社を紹介したいと思います。

 

 (木幡山隠津島神社)

 

      (田村神社)

 

帰り道、東北道と圏央道の2か所で事故を目撃しました。

 

くれぐれも車の運転には、スピードの出し過ぎなどに気をつけましょう。

 

 

人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、

平等相互のくらしをするを以て祖来の業とす。

 安倍頼時(貞任の父)  阿(安)倍一族・救生の誓理より)

 

今年のお盆もご先祖の墓参りは勿論ですが、大日堂にも参拝をしてきました。

 

そして今年も大日堂の境内で、誰とも会うことはありませんでした。

 

 

私には大変有難く思える場所なのですが、参道入口の銀杏の木は切り倒され、建物の屋根や外壁は朽ちていく一方です。

 

 

重要文化財の指定を受けているにも関わらずこの有り様は、この地域の人々の心の現れなのでしょうか?

 

本当に悲しいことです。

 

 

しかし、そんな状態にある建物ですが、境内は善良なるボランティアの活動によって、清掃が行き届いていることは大変嬉しく思います。

 

大日堂の参拝の帰り、駐車場で休憩すると首筋に変な違和感を覚えたので手で払うと、なんと山ヒルが付いていました。

 

 

山ビル、初めて見ました!  あ、わ、わ、わ~

 

きっと大日堂の境内を歩いた際、一か所だけ草の生える小道を通った時に付いたのでしょう。

 

もうビックリでした。

 

透かさず車内に置いてある殺虫剤を噴霧して速攻で家に帰り、シャワーを浴びました。

 

草の生い茂る山道を歩く時は、くれぐれも気を付けましょう!

 

その後、また秦野方面を走ると、道路沿いの小高い森に何かを感じました。

 

 

カーブの続く道のため、横目ではあったのですが、木々が生い茂る間から大きな石柱らしきものが見えた気がしたので気になり戻って確かめてみました。

 

すると、小高い森の中に大きな忠魂碑が祀られているではありませんか・・・。

 

 

忠魂碑」とは、天皇に忠義を尽くすという想いを誓った記念碑なのです。

 

カーナビ等にも登録されていない場所にひっそりと祀られていたのです。

 

忠魂碑を見ると、「陸軍大臣 山梨半蔵 書」と刻まれている立派な碑でした。

 

こうした機会がなければ、山梨陸軍大臣というお方が神奈川県出身の方と知る由もなかったので、なんの因果かはわかりませんが、お盆の時期だからこそこの場所に導かれたのだと思います。

 

忠魂碑に手を合わさせていただいた後、周囲を見回すと、少し離れた場所に祠がある事に気づきました。

 

 

比較的新しく作られた祠で、お稲荷さんのようでした。

 

 

不思議なお導きを頂き、改めて我が国を守るために身を投じて戦った英霊たちへ感謝の意を捧げます。

 

(室内写真は撮影禁止の為、資料から)

 

さて、前回予告した迎賓館での阿部一族との関連について新たな発見があったことをお伝えした内容をまとめてみたいと思います。

 

 

少し無理やり感も否めませんが、迎賓館へ行ったこと自体も目に見えない力の導きで教えて頂いたように思えてなりません。

 

 

現在、赤坂にある迎賓館は誰もが入館できるようになっています。

 

 

ただし、入館には持ち物チェックや館内撮影の禁止の他、備品等に触れることが出来ないのでご注意下さい。

 

 

私が館内の内装を観て驚いたのは、洋風の装飾デザインの中に甲冑が描かれていたことでした。

 

海外の要人を迎える洋式美の迎賓館に、戦いを表す日本の鎧を描写したデザインは、どこかアンバランスにも感じます。

 

しかし、日本人の精神を表すデザインとしては「あり」なのかもしれません。

 

また、船が描かれている部屋には、菊の紋が付いている船の対象にある船には紋が付いておらず、一方は外国船を表しているのだと思いました。

 

 

そばで説明をされていたガイドさんの話によると、「菊の紋」は海軍を表しているとのことです。

 

そうなのです!!

 

白村江の戦い」で指揮をとった長野県(阿)穂高神社に祀られている阿倍比羅夫の像は「菊紋」を掲げています。

 

(安(阿)曇野・穂高神社: 阿倍比羅夫・像)

 

また、長野県大町にある阿部神社の屋根には水軍(海軍)を示す「」と付されていました。

 

(阿部神社・屋根の紋)

 

平安時代に生きた安倍貞任安倍晴明の伝承による物語には、何故か「」というキーワードが出てきます。

 

   (鹿と菊紋)                   (安倍(阿部)貞任)

 

更に平安時代に描かれた絵巻には、安倍貞任菊の九曜紋の衣を着ています。

 

   (九曜菊紋)

 

菊紋」は本来、阿倍(安倍)氏の紋であったのではないでしょうか?

 

調べてみると、「菊紋」が天皇家の家紋と定められたのは、明治時代になってからなのです。

 

 

もしかすると副紋とされる「五七の桐」紋こそが天皇家の家紋ではなかったのかと思うのです。

 

私は「五七の桐」家紋は、豊臣秀吉が掲げた豊臣家の家紋と思っていました。

 

しかし、ガイドの説明によると、昔の天皇家は貧しく、援助をした者たちにお礼として家紋の使用を許し与えたとのことです。

 

豊臣秀吉は、権力の象徴として「五七の桐」家紋を広く用いたために、いつしか「五七の桐」紋といえば豊臣家のイメージが定着してしまったのかもしれません。

 

そんなことを考えながら、素晴らしい館内を見終え庭へでました。

 

 

庭を散策しながら建物の外周を飾る装飾に見惚れていると、屋根にのモチーフが掲げられていることに気づいたのです。

 

 

それも左右に前立てが異なるのデザインを付したものです。

 

 

神社山門にもみられる武人でいえば、建物に向かって右側が左大臣、左側が右大臣で、左大臣の方が格上です。

 

 

その左大臣にあったる前立ては、阿倍氏の所縁を示す鹿であったのです。

 

 

菊の紋」や「鹿」、そして「」に「」は阿倍一族に繋がるキーワードです。

 

 

ここで前回のブログ「もしかして天子なのか」で紹介した安倍晴明の父、安倍保奈を題材にした映画「恋や恋なすな恋」の予告を思い出しました。

 

その映画の俳優は、大川橋蔵と嵯峨美智子さん。

 

嵯峨とは珍しい苗字です。

 

 

もしかすると、安倍(阿倍)と嵯峨天皇の関係を昔の人は「暗号」のようにして真実を後世に伝えようとする意図がそこにあるのではと私は感じてしまったのです。

 

この嵯峨天皇の父は、平家ゆかりの桓武天皇であり、藤原種継(たねつぐ)が暗殺したと伝わっています。

 

  (桓武天皇)        (嵯峨天皇)

 

平家ペルシャ人であったと考えられており、ペルシャ人は「胡人」と中国では書き表され、「」(こ)=「」(こ)となり、安倍(阿倍)氏ゆかりの「白狐」とつながるのです。

 

深読みはこの辺りにして、先日ブックオフで目に留まった書籍があったので新たに購入しました。

 

その書籍のタイトルは、「もうひとりの天皇」です。

 

 

この本を読むと、皆さんも承知の通り「廃仏毀釈」など明治時代には様々な日本古代からの伝統を壊した時代であったと改めて気づかされます。

 

私の父方の家も最近知ったのですが、「小作人達に土地を分け与えろ」という命により小さくされたとのことでした。

 

「もうひとりの天皇」の著者である小野寺氏は自らを天皇と語られています。

 

その証拠は、三種の神器十戒石板を持っているからとのことです。

 

確かに小野寺の苗字の人口分布を調べると、全国で宮城県気仙沼市が一番多く居られるのです。

 

小野寺氏が所有するといわれる三種の神器の写真が雑誌ムーに掲載されていたので紹介します。

 

 

なんと!十戒石板には、安倍(阿倍)氏ゆかりの「鹿」が描かれているではありませんか・・・。

 

 

もう一度歴史を振り返ると、福島県白川以北から東北一帯を統治していた安倍(阿倍)氏。

 

現在、世界で流通している殆どの「」は、安倍(阿倍)氏が統治していた時代に産出されたものともいわれています。

 

(東北で使用金貨)    (阿部神社(仁科)でのニホンカモシカ)

 

しかし、そうした「」の殆どは、前九年の役の戦いで安倍貞任公が倒され、朝廷に尽く没収されてしまったのです。

 

 

そして残された財産を引き継いだのが、安倍貞任公の甥にあたる奥州平泉藤原清衡なのです。

 

 

私が思うに東北にある三種の神器は、源氏率いる朝廷軍が攻めて来た時に寺の僧侶としていた小野寺氏が安倍(阿倍)氏より預かり、隠し持っていたものだったのではないかと思えるのです。

 

小野寺さん、もしこのブログを読んでいたら、勝手な解釈をしてごめんなさい。

 

ただ、私は不思議なことに、3.11の東日本大震災の時に一人で各地を廻ったのですが、その時に縁をもらったのが、岩手県一関であり、宮城県気仙沼だったのです。

 

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今思うと、私はあの時、何かに駆り立てられて行動を起こしたのかもしれません。

 

また、小野寺氏と母方の阿部家の人相が似ている事にも繋がりを感じます。

 

 

私には「金欲」や「権利欲」などはありません。

 

ただ、プライドを傷つけられることについては、決して許せない思いになります。

 

阿部の血統は皆そんなところがあるように思えます。

 

 

蘇我一族や平将門公、菅原道真公、弓削道鏡安倍貞任公ら正義心のある者は、過去から現在においてなおも「汚名」を着せられ、「名誉」を踏みにじられています。

 

それを後世に正すために私はブログを書かされているのかもしれません。

 

こうしたことが次々に導かれるが如く浮かんでくるのですが、これ以上の先はタブーの領域に入ってしまうような気がしてなんだか怖くなってきます。

 

それでは、今回はこの辺で・・・。

 

 

 

この世は浮き世ぞ。 生きてこの世にいるも、死んで滅することも同じことなのだ。

この世には、はじめも終わりもないのだ。 人は皆同じぞ。 敵も味方もない。

ただ、天地と共にまわるだけ・・・

              安倍良昭(安倍貞任の伯父)

年月の流れるのは早いものですね。

 

先日、東京の迎賓館に行ってきました。

 

 

そこで阿部(安倍)一族に関する新たな発見をしたので、次回のブログに載せたいと思います。

 

今回は、2017年の「靖国参拝」の記事を再度ご紹介したいと思います。

 

日本人なら、今の平和日本国や、人々の為に身を挺して戦って下さった先人のを忘れてはいけないと思います。

 

 

◆ 小野田寛郎氏の遺言 ◆*************************

 

日本人だからって、誰構わず信用するとか、友愛なんて云う考え方。

 

こんなのは喰うか喰われるかの国際社会では通らない。

 

一代限りで我が世の春を謳歌して、他の問題も何も考えないような日本人ばかりにはなっていないと信じている。

 

地球がある限り、日本民族を残そうと思う人がいるはずなんだがなぁ・・・。

 

日本人の本当の日本人の国であって欲しい。

 

 

大東亜戦争の終結後も上官から命令が解けるまで、30年にわたってフィリピン・ルバング島で戦闘態勢を継続し、帰国後は子供たちへ「生き方」の指導にあたられた立派な日本人でした。

 

2014年、肺炎のためにお亡くなりになりました。91歳でした。

 

心からご冥福をお祈りいたします。

 

ありがとうございました。

 

************************************

 

◎ 以下、2017年8月のブログから

 

今日は、時間が空いたので靖国神社へ参拝に行ってきました。

 

 

行きは小田急ロマンスカーMSE車両でした。

 

 

車内は木調インテリアで落ち着きます。

 

新宿まで殆んど寝てました( ^ω^)・・・。

 

幸い雨も小降りになり、心洗われる思いで英霊の御霊に感謝の意を込め手を合わせてきました。

 

 

靖国神社の第一鳥居は、日本一の大鳥居として大正10年造られましたが、経年劣化により撤去され、現在あるものは昭和49年に奉納されたものです。

 

 

第一鳥居の高さは25mあります。

 

 

神門中央扉には、直径1.5mの菊花の紋章が取り付けられています。

 

 

中門鳥居は、埼玉県産の檜が用いられています。

 

 

拝殿は、明治34年に建てられ、通常はここで参拝をします。


 

靖国神社は、明治天皇が日本国家の為に尊い命を捧げた人々の霊を慰め、その事績を後世に伝える事を目的に招魂社として創建されたものが改称したものです。




この「靖国」という社号には、「国をあんずる」という意味で、「祖国を平安にする」、「平和の国家を建設する」という願いが込められているのです。


 

境内を歩くと様々な銅像が目に入ってきます。

 

 

戦歿馬慰霊像は、戦場で死んだ軍馬の霊を慰める為に昭和33年に奉納されたものです。

 

 

鳩魂塔は、戦場で誠実な伝令として活躍した伝書鳩を慰める為に昭和57年に奉納されたものです。

 

 

軍犬慰霊像は、兵士たちにとって最愛の仲間であったシェパードの銅像で、平成4年に奉納されたものです。

 

 

母の像は、苦難と孤独に耐えながら子供を育て上げた戦争未亡人への敬意と感謝を込めて昭和49年に孤児たちが奉納したものです。

 

 

 

遊就館は、明治15年に開館し、遺書や遺品、収蔵物を展示する施設になっています。

 

 

館名の「遊就」とは、高潔な人物に交わり学ぶという意味をもっています。

 

零式艦上戦闘機52型

 

二式艦上爆撃機「彗星」12型

 

特別攻撃機「桜花」

 

九七式中戦車(チハ)

 

 

現在、遊就館で甲冑武具特別展が開催されていたので拝観してきました。

 

 

 

 

 

徳川幕府時代の甲冑は着用することが無くなり、主に装飾用として古式風のものが製作されるようになったとのことです。

 

 

帰りに場違いと思いながらも「おみくじ」を引いてみました。

 

 

おみくじは「大吉」でした。

 

今の私には、もう花を開かせる力はありませんが、「おみくじ」のお言葉に「ありがとうございます」と言いたいです。

 

 

私には靖国神社から暗く悪い霊的なパワーは感じません。

 

むしろ清々しく感じます。

 

 

それはお祀りされている御霊が安らかにあるからだと思います。

 

今を生きる子供たちの笑顔に嬉しく思い、優しく見守ってくださっているのだと思います。

 

 

靖国神社にお祀りされている多くの英霊に対して、ただただ感謝の気持ちしかありません。

 

 

私たちは安らかにある御霊を再び騒がすようなことがなきよう未来に努めていかなくてはいけないと思いました。

 

 

ありがとうございます。

 

 

治まっている時に 乱を忘れない

これが兵法である。

                          柳生宗矩

私もそうでしたが、我が国日本の始まりはイザナギイザナミからと思っていませんか?

 

 

前回にも紹介した通り「大祓詞」の意味を調べるとイザナギイザナミの前に別天津神(ことあまつかみ)という神々がいたのです。

 

古事記」神代の巻頭にある宇宙の始まりからが開けたときに最初に「高天原」に出現した5柱の神々を「別天津神」というのです。

 

実は高天原宮城県一帯(岩手、青森、秋田、福島)であり、そこは神聖なる神の国として定まったということです。

 

最初に現れた三柱の神の中心は、天之御中主神(あめのみなかぬし)といわれ、宇宙の創造神で、妙見信仰と習合して北極星北斗七星の神とされています。

 

 

そして、「」の全てを作り出す神が高御産巣日(たかみむすび)で、「」の全てを作り出すのが神産巣日(かむむすび)なのです。

 

天之御中主神の名前を知って気付いたのは、奈良県阿部山にあるキトラ古墳に埋葬された人物は、竹取物語かぐや姫に求婚したうちの一人の阿倍御主人に似ていることです。

 

 

キトラ古墳の天井には、宇宙との関りを示す星座の図表が描かれています。

 

 

そして、「阿倍」(あべ)=「」(あめ)から由来しているようにも思えるのです。

 

また、「」には、阿字観と言って宇宙を表す意味として知られており、「」と同じ意味を持っているのです。

 

 

日本国の始まりは、この三柱の後に二柱の神が現れ、その後に幾柱の神々が現れたのですが、姿を隠したと言い伝えられています。

 

その後、イザナミイザナギが現れて、天津神(高天原の神々)が地上世界(西日本)を固めつくり上げよと託されて天下ったのでした。

 

何故、イザナギイザナミの前の神々が多くの人々に認知されていないのか?

 

そこには天皇家の系譜に影響を及ぼすからとも考えられます。

 

それはつまり「中華思想」的な考えを持つ学者によって、機内が日本の中心であるかのように教育がなされていったからなのです。

 

私が中学生の頃に習った歴史には、関東地方に古墳が無いように示されていたように記憶しています。

 

 

調べると宮城県にも古墳は存在していました。

 

それどころか古墳時代が始まる以前の縄文時代青森県で異形の遮光器土偶が出土したことは有名ですが、宮城県でも出土しているのです。

 

                      (縄文時代・漆塗り)

 

遮光器土偶は、形状から氷河期時代の人々の姿を模したものともいわれています。

 

また、縄文時代漆塗りの櫛や器なども出土しているのです。

 

これは、太古より東日本には高度な文明社会が形成されていたことを裏付けるものです。

 

最近、私に降りてくる教えというか閃きでは、畿内に大和国を築くのにあたり、阿倍氏と蘇我氏は強く繋がっていたと思うのです。

 

その閃きからくる教えを調べると、次から次と驚く発見がありました。

 

先ず、私が生まれ育った父方の家の周辺は寺院に囲まれています。

 

その二つのお寺の寺紋を確認すると、「葵の御紋」と「鷹の羽二つ巴」で、「赤穂浪士」を連想します。

 

実際、住職の弟さんは教師をされていて、自身の出生を調べたところ山口県の方から神奈川の地に移り住んだということでした。

 

浅野藩も安芸国を領地としており、阿部氏所縁の厳島神社がある場所でもあります。

 

 

実際に我が家の墓を見ると、古い墓石の字は読めませんが、確認できる文字では忠臣蔵が起きた「元禄」の時代の年号が刻まれています。

 

 

また、我が家の墓の位置は、本殿の真裏であることから寺が建立された以前からこの地に住んでいたとわかります。

 

昨年、住職に聞いた話によると、我が家は「名主」であったとのことで聞かされ、想像をしていなかっただけに驚きました。

 

私の父からは、一度も昔は「名主」であったなど一言も聞いたことがなかったからです。

 

今まで何も気にしていなかったのですが、改めてカーナビを見ると、我が家は「葵の御紋」を持つお寺と、「鷹の羽二つ巴」の紋を持つお寺に、山岳信仰をしている寺院とに守られるように存在していることに気付きました。

 

私の家の隣の家の屋号は「観音屋敷」といい、そして私の家の屋号といえば「こうや」です。

 

叔父さん達もそうでしたが、「こうや」といえば一般的に「紺屋」が思い当たり、昔は染め物業を営んでいたと思い込んでいました。

 

しかし、私の閃きでは「紺屋」ではなく、弘法大師が開いたとする高野山と同じ「高野」ではないかと思ったのです。

 

私の家の場所は、古代寺院が建っていた場所でもあります。

 

その地域から発掘される瓦の紋を見ると、奈良時代に建立された東大寺と同じ紋であり、また更に古い飛鳥時代の紋の瓦も見つかっています。

 

   (廃寺瓦紋)                (東大寺瓦紋)

 

飛鳥時代といえば、蘇我氏や聖徳太子が活躍した全盛期ともいえる時代です。

 

そんな古い時代に、まして茅葺ではなく瓦葺の屋根をもつ寺院が存在したことは歴史的にも重要であるにも関わらず、その痕跡は忠魂碑のみで時代とともに人々から忘れされようとしています。

 

 

私がカーナビの画面で他に気付いたことに、阿部氏と蘇我氏の関りが隠されているのではと思ったことがあります。

 

それは、我が家の前に並ぶように存在する2件お寺の名前の組み合わせを変えると「安宗」(阿蘇)という名称が浮かんでくるのです。

 

更にカーナビから近隣の山にある宗我(そが)神社の参道が私の家の方向に向いていることに気付きました。

 

 

私は地図を用いて地図上に線を引いてみました。

 

すると、宗我神社は私の家から鬼門の方角に存在していることがわかりました。

 

 

宗我(蘇我・曽我)神社寺紋は、五七の桐紋三つ巴です。

 

 

「五七の桐紋」は、皇室副紋になります。

 

 

宗我(蘇我)神社の本殿裏に回ると祠があり、その一つにダルマ虫が群がっていて不思議な光景を目にしました。

 

 

私の家から宗我(曽我)神社への線を更に地図上で伸ばしていくと、は「菅原神社」を通り、「出雲大社」、「大日堂」、「大山・阿夫利神社」、「八王子駅」、「氷川神社」、「行田古墳群」、「宇都宮駅」、「郡山駅」から「宮城県多賀城」「塩釜神社」、「登米市」、「岩手県・宮古」、「北海道・知床」へとつながり、は「熱海市・来宮神社」、「伊豆・阿弥陀三尊岬」へとつながるのです。

 

そして、その直線に対して私の家を起点に90度の角度で直線を引くと、「富士山」を通り、「岐阜県・御岳山」、「福井県・白山」、「九頭竜川」とつながるのでした。

 

更には、茨城県鹿島神宮九州阿蘇神社を結んだライン上に「我が家」が重なる他、鹿島神宮から見ていくと、「千葉駅」、「横浜駅」、「小田原駅」、「豊橋駅」、「伊勢神宮」、「奈良県・桜井市」、「奈良県・橿原」、「和歌山駅」、「徳島駅」、「四国・剣山」、「阿蘇山」、「天草半島」と、古代日本の重要な神々が祀られる場所に重なるのです。

 

 

茨城県・鹿島神宮から九州・阿蘇神社を結んだラインは南海トラフ地震や東海地震が懸念されている中央構造線の断層にも重なります。

 

鹿島神宮にタケミカヅチ、阿蘇神社にはタケイワタツノミコトが地震を抑えています。

 

 

その重要なラインの支点となる我が家の場所は、資料を調べる弓削氏の氏寺で、山号補陀落山という寺院が在ったと記されていました。

 

補陀落とは、観音菩薩が降り立つ場所をいうそうです。

 

 

私の家のお隣が「観音屋敷」との屋号を持つことからも確証といえるでしょう。

 

 

そして伝承によると、その寺は孝謙天皇阿倍内親王)が失脚した際、側近として支えてきた弓削道鏡鑑真から頂いたとされる十一面観音像を納めた場所とのことです。

 

 

弓削道鏡については、出生や青年期までの消息は不明であるにも関わらず、位の低い地方氏族やら、色欲僧侶などと悪評が伝えられていますが、これも藤原氏によって意図的に風評したものと考えられます。

 

その道鏡が奉納したとされる十一面観音は、現在別の寺院に移されています。

 

 

別の寺院に移された十一面観音については、災害で流されて辿り着いた場所が飯泉観音であると私は聞いています。

 

 

二宮尊徳(金次郎)も参拝に訪れていた場所になります。

 

  (境内にある二宮金次郎・像)

 

しかし、我が家の地は高台に在り、水害で流されるような場所ではないのです。

 

だからこそ「流されて」という言葉に素直に受け取れず、最近になって思いついたのは「質流れ」という言葉があるように、「流れ」=「売られた」のだと思うのです。

 

そしてその寺院の境内に弘法大師像が祀られていたことから、私の家の屋号が「紺屋」ではなく、「高野」であることが裏付けられた気がします。

 

 

思うと、父方も母方の阿部家と不思議な因果でつながっていたのです。

 

また、私は当たり前に思っていたのですが、父方と母方の阿部家との共通点は家柄にもみられました。

 

それは、財産は長男が受け継ぐというものです。

 

私はそれが当たり前と思っていました。

 

父方、母方ともに兄弟が多いのにも関わらず何ら揉める事がなかったのです。

 

父方の叔母さんにあっては、何か足りないことはないかとお金を持ってくるほどでした。

 

また、隣接するお宅とも土地の境界線をめぐり、隣のオヤジが境界となる杭を抜いて移動したことも他から聞いて知ってはいるものの、微々たることでいがみ合ってもつまらないと荒立てない姿勢も、世間からみるとあまり聞かない話です。

 

父方の叔父さんを改めて見ると大川橋蔵氏に似ていて、もうすぐ80歳になるのに気品があります。

 

        ( 安倍晴明の父・安倍保奈の物語)

 

この間、叔父さんが家に来た時、「叔父さんは大川橋蔵に似ているよ。」というと、「バカ!俺帰るは・・」と照れながら帰っていきました。

 

私には全く品がありませんが、叔父さん達には品を感じます。

 

母方の阿部家の方にあっては、周辺を地図検索すると「熊野神社」に隣接して宗像三女神を祀る「市杵島神社」がありました。

 

 

宗像三女神アマテラススサノオの十拳剣(とつかのつるぎ)から生まれた水の神で、その市杵島神社も池の畔に鎮座しています。

 

福岡県では、宗像大社として祀られている神です。

 

また、宗像三女神は、安倍文珠院の在る奈良県桜井市にも鎮座しており、広島県厳島神社の祭神とされる神様なのです。

 

母は幼き頃からこの神社を「弁天さん」と呼んでいたそうです。

 

調べると、宗像三神弁財天と同一視されている他、観世音菩薩の化身とも考えられているそうです。

 

私が以前から表している通り、弁財天はペルシャ系の女性であり、白狐であると思っています。

 

 

そして弁財天稲荷神でもあるのです。

 

阿部家の隣地にある市杵島神社の場所は、(むじな)坂といいます。

 

(むじな)には、「同じ穴の狢」という言葉がある通り、違う者同士が同一視されることを意味しています。

 

そして、宗像三女神の内の一人は、頭が人で体が蛇ともいわれる宇賀神とも習合されています。

 

安倍貞任宮城県に残る民話の伝承によると、「産屋を覗くと赤子を抱いて蛇がとぐろを巻いていた」と残されており、貞任の生地の近隣に市杵島神社が存在することに関係性があるように思えます。

 

余談ですが、その近隣には菅原道真をお祭りする菅原神社も鎮座しております。

 

菅原」姓の人口分布をみると、安倍・阿部姓と同じように菅原宮城県が一番多いのです。

 

 

恐らく、菅原道真の出生地は宮城県であると私は考えます。

 

だからこそ冤罪で流刑となった地は、出生地から離れた場所の九州だったのでしょう。

 

因みに安倍貞任の異母兄弟の弟の宗任も、前九年の役を生きて九州に流刑されているのです。

 

 

話は戻り、私の母方の阿部家の実家周辺を見てみると、本家の墓がある山の反対側の地名は、「御所入山」という地名が残されています。

 

 

更に山を背にして本家から海側に向かう地名は、「伊勢町」や「大宮町」といった地名が見られ、大宮町にあるお寺は「宮殿寺」という名の立派なお寺も存在します。

 

 

こうした事実を調べていくと、もしかすると叔母さんが言っていた通り、「天子様」という話は真実であったのではなかろうかと思うようになりました。

 

そして阿部家は、古事記でいうところの「別天津神」ではと思うようになったのです。

 

私が阿部家本家に伺った際に、長男から教えて頂いた口伝に、「昔、多くの刀などは水源地に埋めた」と口伝で聞いていると話されました。

 

その時は、「水源地に埋めるかぁ?」と半信半疑に話を聞いていましたが、今回地図を見ていて気付いたことは、熊野神社の脇に川があることが分かったのです。

 

 

母に「こんなところに川があるの?」と尋ねると、「記憶にない」と返事が返ってきたので、恐らく湧き水程度の水量しかない川なのではと思います。

 

このことから東日本大震災を機にこうした天津神安倍貞任につながる証拠が露呈して、その証拠や痕跡を隠蔽するために本家の長男が私に語ってくれた水源の場所にトンネルを掘る工事が進められているのだと理由がわかりました。

 

 

更には、復興道路の建設を理由に、安倍家本家解体と山にある先祖代々の墓を整理したのだと思います。

 

 

本家長男もお人好しだから「復興道路建設のため、協力を」と言われ、ある程度のお金を提示されれば誰もがきっと承知してしまうことでしょう。

 

しかし、本当に考えれば考えるほど、おかしな話です。

 

本家の在る地域は特別区に指定されていて、縁のない人は住宅が建てられない場所でもあるのです。

 

それ故に空き地は余る程在るのに、わざわざ本家の家を解体して、そこに復興道路という道を建設しているのですから・・・。

 

本家の長男も、まさか阿部家安倍貞任天津神を祖として繋がっているとを知る由もないのですから仕方がないのかもしれません。

 

   (阿部一族・宗家の家紋)

 

私が急に先祖のことが気になり、それを調べる為に宮城県に行ったことで、本家の解体の事実を知り得たことができたのも、目に見えない導きがあったからと思えてなりません。

 

私の母方の祖母は栄存法印と血縁の様で、霊力が強い人であったようです。

 

 

母方の実家に行ったとき、何も知らずに山にあった祠が気にとまり、手を合わせました。

 

その祠が後で栄存法印のものと分かった時、改めて導きを感じました。

 

阿部家に嫁いだ祖母は小柄ながら子宝に恵まれ、正直者で働き者であり、苦労もされたと聞いています。

 

 

母が同級会で会った級友から、「子供の頃にいろいろ叔母さんから助けてもらってありがとう」とお礼の品々を複数人から頂いたそうです。

 

私が生まれた時には既に他界されていたので、一度もお会いしたことはありませんが、写真や話を聞いて祖母も優しい人であったことが嬉しく思います。

 

そんな因果のある阿部(安倍)家の聖地を騒がす者たちには、恐らく無事には済まないことでしょう。

 

私はそう思えてなりません。

 

こうした開発行為は、愚かな者たちの振る舞いと思えて、昔に観た「大魔神」の映画を思い出します。

 

                  (穂高神社・阿倍比羅夫・像)

 

日本の神様は、道理に反することを行う者を祟るのです。

 

 

そのことを忘れてはいけないと私は思います。

 

子供の頃、母からの言葉に「人を呪わば穴二つ」と自分に返って来るので、決っして悪い心を起こしてはいけないと言い聞かされました。

 

私には感じませんが、思うに「強い霊力がある」からこそ禁忌として教えたのかもしれません。

 

なんだか怖い話になってきました・・・。

 

 

遮那(大日如来)は中央に坐す

遮那は「阿」の号ぞ

本是我が心王なり

              空海

 

一昨年の7月22日、愛犬のボンが18年の生涯を終え逝きました。

 

 

その日はとても暑い日で、仕事の途中に自宅に寄れる時はボンの好きなガリガリ君のアイスを買っていっていました。

 

その日もガリガリ君を買って帰ると、ボンが炎天下の芝の上で寝ているのです。

 

「何やってんだ」と思って近づくと意識の無い状態でした。

 

「ボン!」と声を掛けると、ハッと我に返ったのか起き上がろうとしました。

 

 

私は直ぐに氷水を持っていき日陰にして与えましたが、高齢と炎天下の影響もありそのまま息を引き取ってしまいました。

 

「ボン!」と声を掛けた時の嬉しそうに起き上がろうとした姿に、ずっと私の帰りを待っていてくれたのだと思い、申し訳ない思いでいっぱいになりました。

 

 

本当に彼は優しくて、賢くて、素敵な家族の一員でした。

 

今も、遺影を撫でてから会社へ出勤しています。

 

そして今日、東京へ出張の予定でしたが、上司からミーティングに出席して欲しいので予定を変更して欲しいとの依頼を受け、お陰で普段と同じ時間に帰宅することが出来ました。

 

すると娘から「パパ病院へ迎えに来て欲しい」と悲しそうな声で電話がありました。

 

「病院って何処よ?」と言うと、動物病院とのこと。

 

娘の部屋にはウサギと猫がおり、ウサギは高齢のため先日も病院に連れて行ったばかりでした。

 

私もボンが亡くなってからは、娘の部屋に行ってウサギと猫の顔を見るのが日課になっていました。

 

今日のウサギのシクの様子は、大好きな野菜スティックが残されていたので心配でしたが、いつもの様に撫でてから出社しました。

 

 

このウサギのシクも賢くて、病院でも「大人しい子だね。」と言われていました。

 

でも、家に帰るとやっぱり感情を表にだして、「ブーブー」と言いながら後ろ足で床を蹴って不満気でいました。

 

やっぱり自分の家が一番いいんだよね。

 

愛犬のボンも、狂犬病の注射等で吠えて騒いでいる周りの犬たちと違って、注射の時は私の顔を見て大人しく受けていたのが印象に残っています。

 

ボンは約18年間、わが家を守ってくれました。

 

そしてシクは8月に10歳を迎えるはずでしたが、7月9日、病院からの帰宅中の車内で、娘の腕に抱かれて息を引き取りました。

 

私がシクに声を掛けた最後の言葉が、「家に帰るから、大丈夫だよ」でした。

 

今年4月に就職が決まって社会人になった娘を約10年間、思春期などでいろいろあった娘ですが、側で寄り添い、支えてくれたシク。

 

本当に感謝です。

 

 

さっき、娘の部屋を覗いたら、安心した時の様にシクは横になって寝ていました。

 

約10年間、本当にありがとう。

 

私も君のお陰で癒されました。

 

 

本当にありがとう。

 

いつも一緒にいる猫のゴマも寂しそうに娘のタンスの上で寝ています。

 

また、心にポッカリと穴が空いたように寂しくなるなぁ・・・。

 

  (猫のゴマが我が家の一員になった時のビデオです。)

 

ありがとう。

 

そして、ご苦労様でした。

 

おやすみなさい。