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水曜日の満福寺ヨーガ教室では瞑想の前に、『みちしるべ  正語 八正道シリーズ』の中から 「この生死はすなわち 仏の御いのちなり」(pp.156-160)というお話をしました。ここでは以下のように言っています。
 

    この章のことばは、道元禅師(曹洞宗の開祖・一二五三年寂)が『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』に書いておられる、有名なことばです。仏教で「生死(しょうじ)」というのは、生きたり死んだりする「苦しい迷い」のことであります。その迷いがそのまま仏のいのち、つまり「悟り」だといわれるのです。これではちょっと理解に苦しみますね。

     私たちの日本仏教は、大乗仏教(だいじょうぶっきょう)を引き継いでいます。そして大乗仏教の思想は、思想としてたいへん深く、迷いの真っただ中にこそ、本当に救われる道があると説くのです。たとえば大乗仏教の経典として代表的な『維摩経(ゆいまきょう)』に、「泥中(でいちゅう)の蓮華(れんげ)」という教えがあります。美しい蓮は、陸の上には咲かない。蓮は泥沼にこそ咲くのだ、という教えです。
    
    ここまで来るとこの章のことば「この生死はすなわち仏の御(おん)いのちなり」の意味が少し見えてきます。生死を繰り返すこの苦しみの世界こそが、仏さまのいのちだというのです。

     昔、中国で、仏について夾山(かつさん)と定山(じょうさん)という二人の修行僧が大梅山に住む法常禅師(八三九年寂)を訪ねる道すがら、二人の意見が真っ二つに分かれたという話が伝えられています。道元はこの時の話を『正法眼蔵』生死の巻で採りあげているのです。

    夾山は「生死の中に仏有れば、生死に迷わず」と言い、定山は「生死の中に仏無ければ、生死に非(あら)ず」と言って相互に譲らない。苦しんでいる時仏さんがいてくれたら、それこそ「地獄に仏」じゃないかと、夾山。ところが定山は苦しい時には仏なんか無い方がよい、とはねつけたのです。

    道元はこの話に続いて、次のようなコメントをしています。もし人が生死の苦しみの外に仏を求めれば、それは車を北に向けて南の越の国に行こうとするようなもの、あるいは南に向かって北斗七星を探しているようなものだ。そのようなことをしていると、ますます生死の苦しみの種を蒔いているようなもの、仏になる道が見えなくなってしまうだろう。

    だから生死の苦しみがそのまま悟りの安らぎだということを悟って、生死の苦しみから逃げることなく、また、安らぎの世界を願うこともなければ、その時こそ苦しみを離れることができるのだ。
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苦しみと幸せはふたつで一つであると知ることが大切だと思います。
私は気候や気圧の変化で、体調が悪くなり、呼吸が苦しくなることがあります。
その時はとても苦しいですが、一方で体調が良くなり、普通に呼吸ができるようになると、それがとっても気持ちよく幸せに思います。苦しい体験をしたことで、普段当たり前なことにも感謝ができるようになるのだと思います。
このように、不幸と幸せは別々のものではなく、ふたつで一つであり、どちらかだけでは存在しないと思えたら、苦しみがただ苦しいものではなくなり、感謝の心で頂けるようになると思います。


最後まで読んで頂きありがとうございます。
茶話会の差し入れにとお煎餅を頂きました!いつもありがとうございます。

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帰り道に緑の紅葉〜照れ
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