焼肉竹公式ブログ 笑売日記

焼肉屋の親父から見た今、世の中のありとあらゆるものを考察して行きます。
もちろん、焼肉を始めとするグルメについても。
脂滴る焼肉の七輪の煙の向こうに、私が見たものとは……。


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空に向かって放り投げたどんなボールも必ず落ちてくる。

悲しみや喜び、苦しさや楽しさという人の感情も、頂点に達すると変化する。

「悲しみに笑い、喜びが嘆きはじめる」(ハムレット/シェークスピア)

それは決して不自然なことではない。

人は極致、あるいは極微のことを知らずして喜びや悲しみを繰り返すこの生命、また生死について語ることはできない。

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この時節、以前から思っていたことだが、紫陽花の蕾を観察しながらいつも思うのは、そこに宇宙を観じることだ。

愛らしい姿が表現しているのは、宇宙の織物として、縦糸と横糸どころか縦横無尽に織り込まれ、分別できずにすべてが関連し合う宇宙の本質。

したがってそれは、紫陽花に限らず、私たちを含めた万物に当て嵌まる真理になる。

そのことを仏法では「南無妙法蓮華経」の法身とし、老子の思想を拡げた荘子の道教では無為自然の「タオ(道)」、ヒンズー教では「ブラフマン(真実在・絶対者)」、キリスト教で「神」と呼んだ。

しかし、それを言葉で説明することなどできない。
もちろん、私に理解できるはずもなく、想像の域を脱しない空論になるかもしれないが、現在の感覚的思考の痕跡を残しておきたい。

たとえば禅では、論理思考の左脳ではなく、直感の働く右脳でしか捉えられないとされ、仏教の目的である「悟りを開く」とは、「宇宙の本質、万物に潜在する仏性を直感すること」と説く。

禅を組み、厳しい修行を経て、悟りの体験を希求する先には、「悟りは言葉では表せず、体験によって固定観念から脱出したところにのみある」との信念がある。

つまり、巷で悟りを開いたなどと豪語する人は、自ら偽者であると宣言しているようなものだということだ。

言葉でもなく、思考でさえなく、論理は意味をなくし、体験による宇宙の本質、宇宙意思の直感しかそこにはない。

その本質とは、自然や神である天と人の関係、天人合一を感じ取ることなのだが、甚だ人は分けたがりで、分かるとは分けると書くように、何もかもを分別して物事を理解しようとする。

冒頭の喜びと悲しみ、楽しさと苦しさ、つまりは幸不幸、また生死、善悪、美醜、この世とあの世、見えるものと見えないもの、こことあそこなどなど。

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卑近な例、山登りを趣味とする私は、山頂で以前登った山々を眺めるたびにいつも不思議な感慨に浸る。

今日はこの前に登った山を眺め、明日は昨日眺めた山から昨日眺めてた山を眺め返す。

昨日ここだったところがあそこになり、あそこだったところがここになる。

どちらもその時々の自分のいるところがここにもなればあそこにもなる。

不思議な感覚に包まれてややこしい。
同じ自然の中にいるのに、分別し、相対的に空間を捉えるからだ。

そうではなく、そうした感覚や概念をすべて捨て去った後に残る一体感になってはじめて、ありのままの自然や宇宙、ひいては生命を差別することなく受け入れられ、自らの生命によって包み込むことが可能になるのではなかろうか。

自己のちっぽけな考えや思い込みにとらわれることを仏法では「無明」と名付けた。

これこそが人の不幸の根本原因だと。

真理にたどり着くことができない。

宗教の本質とは、この無明を取り払い、宇宙のリズム、生命と冥合すること、つまり本来の仏性に目覚めることである。

ところがこれは、言葉では言い表せない体験となる。
それは例せば、一次元の点から二次元の線が、二次元の平面から三次元の立方体の全貌が見えないように、私たちの住む三次元の真実の姿を見るには、その世界の外に出て、四次元から見る必要がある。

そして四次元の言葉でこそ、三次元の世界が表現できるのだろう。

その言葉があるとしたなら、それを三次元にいながら使えたなら、まったく新たな文学作品が創出されるかも知れない。

ただし、三次元に囚われ、三次元で進化してきた私たちの言葉ではそれを語るのは不可能であるに違いない。

この次元の虚像、ホログラムをもう嫌というほど見せ続けられる間には……。

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