放影研 その14 4.3事件 | 夢破窓在のブログ

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放影研 その14 4.3事件

 

1950年の国勢調査に基き「国民」の中から、被曝者集団と被曝してない集団のサンプリングを行なったのだから、二つの集団に遺伝子の違いが存在するなどとは考えられない?

果たしてそうでしょうか?

 

Wik: 済州島四・三事件 より

日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日韓国人となった人々も多い。

1954921日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。 事件前に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減した。
 

法務省編 在留外国人統計(1974年版)
在日外国人の中で上陸年度不詳である者の割合は、米国人で約14%、米・中・韓朝以外で約18%と少ないのに対して、中国人で約53%、韓国・朝鮮人では約85%と極端に比率が高くなっている。この割合の違いは、日本に密入国した者が在日韓国・朝鮮人に非常に多いことを示すと思われる。

 

済州島は半島から政争や犯罪でパージされた人々が暮らす島だったそうです。

日本併合後は、両班などの身分制度は名目上なくなりましたが、差別は酷いものがあったと言われます。半島から列島への移動は禁止されていましたが、上記にもある通り、多くの島の住民が密入国をしたようです。

 

「20万人の内の大半が済州島出身」という記述からして18万人が済州島出身であったとします。この内3分の2が戦後帰国したとありますから、12万人が帰国した計算です。

事件前に28万人の島民がいた、というのですから、この内の12万人は日本から帰国した人々です。1957年には島民が3万人にまで減ったというのです。

8万人の島民が虐殺されたと言うのは推測ですが、28-3-8=17万人が消えたということになります。

半島に逃れたか?日本に再密入国したか?実はもっと殺されていたか?になります。

帰国した人々の内で虐殺されずに済んだ人の大半は、勝手知ったる日本に再度密入国したと考えるのが妥当でしょう。

 

戦前に、禁止されているにもかかわらず、20万人が日本への渡航を果たしたと言うことは、そこには船の手配から密入国後の生活の面倒まで見るブローカーの存在が窺えます。彼等を囲って警察の目から隠して、安い賃金で働かせるような仕組みがないと、10万人を超す人が紛れ込むのはむずかしいと思われます。

浮浪者として公園や橋の下で暮らすにしても、数が多ければ警察の手入れがあるでしょう。

 

警察からの追求を逃れるために、当然ながら、日本人に化ける事は出来ないかと考えます。日韓併合期間は35年ありました。日本語が上手になってくると、結婚や養子縁組などで、うまいこと日本人に化ける人が現れ、更には軒先を借りて母屋を奪う、いわゆる「背乗り」の成功例なども耳に入るようになります。そうなると、背乗りブローカーのような人間も現れ、金で戸籍の売り買いが行なわれたことも考えられます。

 

戦前から、密航-職業斡旋-背乗り、までブローカーは暗躍していそうです。

密航者が女性なら、現在なら東京では鶯谷、戦前なら玉の井・鳩の街あたりに仕事はありそうです。身を隠し易い場所です。

慰安婦像が問題になっています。朝鮮で親に売られて慰安所に行かされた人がいたと言われますが、済州島→ブローカー→青線→海外慰安所、という経路の女性の方が多そうですね。戦前20万人が密入国したというのです。半分は女性だとして彼女達の職場はどこだったのか?男なら橋の下でも生きていけますが、そのへんどうだったのでしょうか?痛ましい話ではあります。

 

1945年、戦争に負けそうだ、米軍が来て皆殺しにされる、などという噂も流れ、敗戦が決まると彼等は一斉に島に帰りました。しかし島に着いてみると差別は昔のまま、食べていく術もない、米軍に日本人が蹂躙されているという話もない。戻ってくるのじゃなかった、焼け跡の日本の方がまだマシだった。なんとかまた密航するチャンスはないものか?と考えているところへ李承晩の大虐殺が始まります。多くの帰国者が日本への再度密航を望んでいたであろうと思われますから、一斉に密航が始まったと推察されます。その数は1950年までの3年間でも相当な数に及ぶと考えられます。

日本側も戦後のドサクサで当時はこれを取り締まる余裕がなかったでしょう。

 

大虐殺が起きて、日本への密航が企てられると、戦前同様のブローカ組織が暗躍する事になります。

虐殺を逃れた人々は、再度の密航に成功した後、相互の助け合いを考えると同時に、かってあこがれた背乗りの機会を窺う事になります。

大空襲や原爆で何万人もの人が死んだ場所には、奇跡の生存者に化ける絶好の機会がありました。ブローカーはこの辺りのやり方に精通していたと思われます。

帰国しなかった人々が6万人(3分の1)いたとして、彼等も終戦直後から、後日再入国する人と同じ行動をしていたと思われます。

 

終戦後、食べる事に困って米軍相手に身を売った女性がいたことは確かですが、案外、日本人の比率は少なかったりして。

 

朝鮮戦争は1950年に勃発しています。ここでも相当数の密航者があったと思われます。放影研では1950年の国勢調査に基き被曝者集団を選んだと言いますから、朝鮮戦争で入り込んだ人々は対象ではないと考えられますが、当時の戸籍の管理状況によっては、疎開先から戻った人、大陸から引き上げてきた人(?)などが追記された可能性も否定できません。

被曝者健康手帳が1957年に200984名に発行されています。被曝者はこの時点でサンプリングされていたものと思われますから、1950年以降1957年までに被曝者が捏造された可能性はあると思われます。