日本大百科全書(小学館)
地位の下の者が上の者をしのぎ、あるいはとってかわることを意味する語。 「下克上」とも書かれ
る。
社会の変革期には、新しい勢力の台頭に伴って下剋上の現象はつねにおこるが、とくに南北朝
期から戦国期にかけて、主として支配者の側から、秩序を乱す動きとして反感と侮りを込めて用
いられることが多かった。
建武(けんむ)政権の混乱を風刺した「二条河原(にじょうがわら)落書」に「下克上する成出(なり
で)者」と記されたり、興福寺(こうふくじ)の大乗院(だいじょういん)門跡が、応仁(おうにん)の乱
(1467~77)中に自衛する大和(やまと)布留郷(ふるごう)民の動きを「下極(剋)上の基(もと
い)、神威を失うべき条、以(もっ)ての外の次第なり」と嘆いたごとくである。
課役に苦しむ百姓が領主に抵抗し、あるいは荘(しょう)域を越えて連合した民衆が土一揆(つち
いっき)として蜂起(ほうき)する動きなどが、下剋上の運動の基盤であった。
百姓のなかから地侍(じざむらい)が成長し、彼らが室町幕府と守護の支配体制に対抗して党や
一揆などの新しい在地支配秩序をつくり始めると、これに押されて支配者の間での上下・新旧の
勢力の交代劇が広範に引き起こされた。
応仁の乱で越前(えちぜん)国守護の斯波(しば)氏が家臣の朝倉氏に領国を奪われたのに始ま
り、各地の守護家の実権が守護代や有力国人(こくじん)の手中に帰して、そのなかから戦国大
名が生まれた。
今川氏の食客から身をおこした伊勢長氏(いせながうじ)(北条早雲(ほうじょうそううん))が1491
年(延徳3)伊豆国韮山(にらやま)の堀越公方(ほりこしくぼう)、続いて95年(明応4)相模(さが
み)国小田原の大森氏を滅ぼして戦国大名に急成長した例、あるいは美濃(みの)国守護土岐
(とき)氏の家臣の名跡を次々に継いで出世し、ついに主家を纂奪(さんだつ)した斎藤道三(どう
さん)などが下剋上の顕著な例として知られるが、支配者をもっとも恐れさせた下剋上は、守護を
滅ぼして「百姓ノ持タル国」を実現した加賀(かが)国の一向(いっこう)一揆であった。
室町幕府は、1493年管領(かんれい)細川政元(まさもと)が将軍足利義材(あしかがよしき)(義
稙(よしたね))を追放して以後、細川氏の政権と化し、乱世の傾向に拍車をかけた。
細川氏は16世紀中ごろに家宰の三好長慶(みよしながよし)に実権を奪われ、三好政権は家臣
の松永久秀(ひさひで)に崩された。
その間に戦国大名は、家臣団に組織した地侍層が下剋上の温床にならないように、農民支配と
主従関係を強化した。
しかし、激しい抗争に追われて早急な軍事力増強を果たさねばならなかったので、在地の古い秩
序に依存することが多く、下剋上の危機にみまわれ続けた。
動乱を収束した豊臣(とよとみ)政権の統一政策、とくに兵農分離の断行によって、ようやく下剋上
の根が断たれた。



