フェンダーの救世主、ビル・シュルツの功績(その4) | John's BOOROCKSブログ-I Love The Beatles, Fender Guitars & Movies!

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ハンドメイド・エフェクター・ブランドBOOROCKS(ブロックス)のスタッフによる、音楽(BEATLES & Fender)と映画の気ままなブログ。

昨日の続きです。1985年にCBSからの独立を勝ち取ったシュルツは、さらに強力なリーダーシップを発揮して、フェンダーを牽引していきます。今日はメキシコ工場設立の話です。

メキシコのエンセナダにあるフェンダー・メキシコ工場は、現在では広大な土地に設備の整った大工場の偉容を見せていますが、1987年に最初に作られた工場では、すぐにギターの生産には取り掛かってはいませんでした。最初に稼働したのはフェンダー・ブランドのギターとベースの弦を製造するラインでした。そこには1970年代のCBS時代から使われていたギター弦製造のための機械も持ち込まれて稼働を始めました。そして1988年、ギターを生産するための準備が始まりました。

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(フェンダー・エンセナダ工場)

メキシコ工場でのギター生産までの準備期間中に活躍したのは、ビル・シュルツの要請で日本から来た、フェンダー・ジャパンの製造に携わっていた技術者たちでした。彼らはコロナ工場の立ち上げ時でもアメリカ人(比較的ヒスパニック系アメリカ人が多い)に技術指導を行っていました。と言うのも、CBS末期のフェンダーでギター製造に従事していたアメリカ人技術者の多くは、CBSフェンダーの閉鎖を前にして、転職を余儀なくされていたのです。そのため、技術者の不足を補うために日本から技術者が呼ばれていたのでした。

1989年、メキシコ工場がギターの製造を開始しました。日本からの技術者が技術監督を務めたことで、工場の技術は猛烈なスピードで向上し続けます。その成果として、初めて出荷が認められるようになったのでした。昨日お話しました通り、現在でもそのクオリティ・アップのためにマスタービルダー達が定期的にメキシコを訪問して、技術の指導に当たっているのです。それもシュルツのリーダーシップの現れでした。

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(フェンダー・エンセナダ工場の事務棟)

メキシコ工場を訪問すると気がつくことがあります。それはアメリカ工場の工員と比較して、勤勉さに於いてはメキシコの方が上回っているのです。聞いてみたところ、フェンダー工場で働けるということは、メキシコ人にとって非常に大きな名誉であり、生活レベルもアップできるとのこと。給与がやはり、格段によいのだそうです。現在のメキシコ工場には、コロナ工場を上回る最新設備が整えられ、非常に整理整頓が行き届いた素晴しい環境で製品が作られています。その工程を見れば生産地がどこであれ、フェンダーはフェンダーであるという事実を実感出来ます。実際に米国内では、日本のように「フェンダー・ジャパン」「フェンダー・メキシコ」「フェンダーUSA」などと、生産地を表示して販売することはありません。フェンダーというブランドを名乗ることが、その品質を保持している保証でもあるのですから。これこそ、まさにシュルツの望んだことでした。CBS時代の轍を二度と踏まない、という強い意志を感じる事象でした。

この続きはまた後日に。