黒曜石の産地(姫島)と出土地(津雲貝塚・帝釈観音堂洞窟遺跡) | 日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)

日本史をつまみ食いして旅する(旅人は721列車)

中央公論の「日本の歴史」を読んで、歴史が起こった現場に行ってみたいと思い、実際にその場所に行ってみた記録です。本当は通史で行くべきでしょうけど、いろんな都合で時代はバラバラです。

大学の考古学の講義で、初めて黒曜石を見た。


それは大分県姫島の黒曜石だった。


姫島の黒曜石は、他の地域の黒曜石とは明らかに違う特徴がある。
他の地域の黒曜石は、読んで字のごとく、黒光りする石なのだ。しかし、姫島の黒曜石は、灰色や白っぽい紋様や斑点が入っている。
だから、姫島の黒曜石は素人でも区別できるのだ。

私は、黒曜石といえば黒光りする石ではなく、姫島の黒曜石のような石だと思っていた。
大きなまちがいであった。


姫島の黒曜石の産地は、海岸に露出しているので、カンタンに見物することができる。
ちょっと行ってみたくなった。

そこで私は、大分に用事があったついでに国東半島の伊美港から姫島丸というフェリーに乗って見に行くことにした。


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運が悪いことに、台風の余波で姫島丸は大きく揺れた。しかし、怖がっているのは私だけだった。


ちょっとスリリングな20分の船旅が終わって、ゆれない島の土地に安心しつつ、一目散に姫島のレンタサイクル屋さんに駆け込んで、自転車を一台借りた。



フェリー乗り場の姫島観光案内図によると、黒曜石の産地は観音崎にある

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人影まばらな姫島を南北に横断して、観音崎の入り口に着いた。



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レンタサイクルを置いて急な階段の遊歩道を観音崎に向かって歩いて行った。

途中に幕末の歴史に関する案内があったが、今回は無視して、岬の突端にある千人堂にたどり着いた。




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小さなお堂が立っているが、このお堂は大晦日に悪人から逃れる人を千人収容することができるという伝説のお堂で、千人堂という。
その千人堂の立っている岬全体が黒曜石でできている。



ここが姫島の黒曜石産地である。



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辺りを見回してみたら、こんな感じで、あちらこちらに黒曜石が露出していた。

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西日本各地で出土した姫島の黒曜石はほとんどここから産出されたのだ。
それに、この写真の場所は縄文時代の特殊な黒曜石というレアメタルの産地だったのだ。

今でもこれだけ露出していると、採掘して何かに使えないかと想いを巡らしてみたくなるが、国指定の天然記念物だから不可能だし、それよりも腹が減っていたから、フェリーの港に引き返して、車エビの塩焼き定食を食べて姫島を後にした。




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姫島の黒曜石がどこまで流通していたのかと調べてみたら、岡山県の津雲貝塚や広島県の帝釈観音堂洞窟遺跡あたりが最遠であるらしい。
よくぞこんな遠くまで流通したなと思うと同時に、津雲貝塚はサヌカイトという石器の産地である五色台に近いし、帝釈観音堂洞窟遺跡は山の中だから、瀬戸内海の離島である姫島の黒曜石が縄文時代にそこまで流通していたとは信じ難い気がする。


津雲貝塚は、姫島産の黒曜石が出土したということよりも、多量の屈葬された人骨が発見されたことで有名な遺跡で、私のように、黒曜石目当てで行く人間はいないだろう。

地図を頼りに、クルマを走らせたら道路脇に案内看板があったので、路上駐車して津雲貝塚に行った。

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案内看板には姫島の文字はなかったが、津雲貝塚からも姫島の黒曜石が発掘されたのは事実である。


津雲貝塚は道路から坂道を50メートル駆け上がった民有地の中の畑にあるので、近所の人に断りをしようかと思っていたが、誰もいないので、悪いと思いながらも不法侵入した。

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遺跡の中から来た方向に振り返ったら、今は田んぼだったりするけども、縄文時代はすぐ目の前は瀬戸内海の波打ち際だったのだ。

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津雲貝塚にやって来て疑問に思うのは、すぐ近くに五色台というサヌカイトの産地があるのに、なぜわざわざ遠い姫島の黒曜石が発掘されたのかということだ。

当然、五色台のサヌカイトを使った石器も出土している。

使用目的が違うのか、それとも西から東へ行く部族と南から北へ行く部族がそれぞれ黒曜石やサヌカイトを持っていて、津雲貝塚あたりで仲良く共同生活でもしていたのかなどなど、考えても結論が出ない。



津雲貝塚は海のそばだけど、姫島の黒曜石は山の中の遺跡からも発掘されている。

その中で最遠方なのは、広島県の帝釈観音堂洞窟遺跡である。


帝釈観音堂洞窟遺跡に行くために、広島県の神石高原町役場に行った。
山の中だから、クルマで行けるかどうかを聞きたかったのだ。
しかし、役場の窓口カウンターで、来意を告げたら、「勝手に行けばいい」というような対応だった。
当時の神石高原町では不審火が相次いでいたから、あまり他所者を歓迎しない風潮だった。役場が悪いわけではない。

でも、こちらに落ち度はないのに対応が面白くなかったから旧東城町の役場に行って、帝釈観音堂洞窟遺跡について訪ねたら、わざわざ詳しい地図と帝釈峡のパンフレットを出して来た上に、「帝釈観音堂洞窟遺跡近くの観光地にぜひ立ち寄ってください。」と熱心な対応だった。
ちょうど紅葉の時期だったから、、クルマで行けば、帝釈峡を通って帝釈観音堂洞窟遺跡に行かなければならない。
せっかくだから、ちょっと紅葉狩りをすることにした。

帝釈峡から細道をクルマでおよそ20分も走った。

道が細いのに、いくつか集落があったが人がいなかった。
家屋は石州瓦を載せた農家が多い。
廃校になった小学校もあった。
なぜか、郵便局だけが真新しい建物で存在していた。

そんな集落をいくつか抜けて山道を走って行けば、寂しい村はずれの陽のあたらない山影に帝釈観音堂洞窟遺跡があった。

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夕方の3時過ぎだったが、遺跡の前に、何台もクルマが停まっていた。
まさか、私と同じように歴史探訪をしているのかと思ってその中の一人に「何をしているんですか?」と訪ねたら、「ロッククライミングをやってます」と答えた。
遺跡の部分は天然記念物なので、クライミングは禁止されているが、その周辺は、わざわざ名古屋辺りからやってくるほど有名なクライミングスポットだと言う。

彼らは、私の格好を見て「何をしに来たのか」と言うから、簡単に黒曜石の話しをした。
彼らの中のひとりから「我々のやることは理解してもらえないけども、あんたも変わっているな」と言われて、お互い爆笑した。

陰気な洞窟が明るい雰囲気になったような気がした。

しばらくして、彼らが引きあげたから、一人でじっくりと洞窟や遺跡の案内看板を見た。
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帝釈観音堂洞窟遺跡の案内看板には、姫島の文字があった。
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この「姫島」の文字を見ただけで、ひとり興奮してしまった。
それに、ここに来て初めて気がついたけど、産地が観音崎で、出土地が観音堂という具合に、「観音」という共通した文字がある。
多分偶然だろうけど、何かをあらわす符合なのかと疑ってしまう。
もし誰か他に人がいたら、絶対に不審な人にしか見えなかったと思うが、わかる人にはわかる興奮だと思う。


この前見た姫島の産地から、こんなに遠くまで黒曜石が流通していることが不思議なのだけど、縄文時代には黒曜石が重宝されていたのだし、そのことは遺跡から出土することからもハッキリしている。

今は何の役にもたたない石ころなのに、その石ころを追っかけて行く私も相当な変人だ!
しかし、こういう理解不能な旅の記録がこのブログの本来の目的のような気がする。


もし私が縄文時代にタイムマシーンで行けたら、帝釈観音堂洞窟遺跡で黒曜石を使っている縄文人に、「その石の産地の姫島を知っているか?」と聞いてみたい。


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