2008-12-09 12:45:15
それでも文学を貫く
テーマ:鹿鳴館サロン
朗読会だとか読書感想会というものを、一年以上も続けるようなマニアサークルが他のあっただろうか。そうしたことをしたことのあるマニアサークルは、それはいくつあったことだろう。そして、朗読だとか、研究会のようなものがイベントとして行われることも少なくなかったことだろう。しかし、一年以上という長きにわたってそうしたものを定期的にきちんと行ったという話を私は知らない。
そうしたものは、知的ぶりたいマニアが行い、結果として、お茶をにごすていどになり、やがては日常の下世話に紛れてしまうものなのである。参加する人たちはもちろん、主催する側にしても本気ではないからなのだ。
知的ぶって集まって、集まったら下世話な話をするのである。どんな朗読がそこで行われようと、どんな小説の感想を述べるために集まったのだとしても、結果は同じなのだ。いつも、私の元の彼はね、私が彼女を愛していた理由は、私たちが別れたのは、私がセックスを嫌いなのは、と、私という誰かどうでもいい人の個人的な話で終わるのだ。どんな高尚な小説も、屋台のおでん屋の愚痴話に結論させられてしまうのである。
しかし、鹿鳴館サロンはこだわりつづけた。文学を個人の恋愛話や会社の愚痴に貶めようとする人たちを排除し、退屈で実りも利もない話に熱中してきた。その無意味さこそが遊びなのだと主張するように。
もちろん、朗読会も読書感想会も指示されていたわけではない。女が裸になって縛られる会のほうが人は集まったことだろう。足の細くて長い女が全裸の男を踏むという儀式のほうが人は集まったことだろう。
退屈で実りもなく、快感もなく、恋愛もないようなところに、お金を払ってくれる人は少なかったし、少ないに決まっていた。それでも鹿鳴館サロンは諦めなかったし、今も諦めてはいない。本当の遊びとは、ただの観客になることではなく、観客を魅了する演者となることだと鹿鳴館サロンは知っているからだった。席に座って提供される快楽を受け取るだけの消極的な遊びでは物足りないと思う人たちがいる。それを信じて、鹿鳴館サロンはあり続けようとしているのだ。
朗読会も読書感想会も、最近では、O嬢の物語イベントを企画する会も、書き方講座も、人の集まりは悪くなった。直接的なエロのないものには人は集まらないものなのである。それでも、鹿鳴館サロンはそうしたものをたいせつに維持して行くのだ。なぜなら、それこそが鹿鳴館だからなのだ。そして、そうしたイベントの横に、緊縛や鞭や性的実験のイベントを並べたいのだ。それが並ぶこと、それこそが鹿鳴館サロンのエロだからなのだ。理解されないかもしれない。共感されないかもしれない。しかし、それでも、私たちは、踏ん張らなければならないのだ。そこで踏み止まらなければ、もう、そこにあるものは鹿鳴館サロンではなくなってしまうからなのだ。
鹿鳴館サロンは仲良しサークルではない。鹿鳴館という思想であり、鹿鳴館という遊びそのものなのだ。人がいても鹿鳴館サロンにはならないのだ。私という執事がいるから鹿鳴館サロンなのではない。鹿鳴館サロンがあるからこそ、私という執事がいるのである。その覚悟が私にはある。あればこその鹿鳴館なのだから。
そうしたものは、知的ぶりたいマニアが行い、結果として、お茶をにごすていどになり、やがては日常の下世話に紛れてしまうものなのである。参加する人たちはもちろん、主催する側にしても本気ではないからなのだ。
知的ぶって集まって、集まったら下世話な話をするのである。どんな朗読がそこで行われようと、どんな小説の感想を述べるために集まったのだとしても、結果は同じなのだ。いつも、私の元の彼はね、私が彼女を愛していた理由は、私たちが別れたのは、私がセックスを嫌いなのは、と、私という誰かどうでもいい人の個人的な話で終わるのだ。どんな高尚な小説も、屋台のおでん屋の愚痴話に結論させられてしまうのである。
しかし、鹿鳴館サロンはこだわりつづけた。文学を個人の恋愛話や会社の愚痴に貶めようとする人たちを排除し、退屈で実りも利もない話に熱中してきた。その無意味さこそが遊びなのだと主張するように。
もちろん、朗読会も読書感想会も指示されていたわけではない。女が裸になって縛られる会のほうが人は集まったことだろう。足の細くて長い女が全裸の男を踏むという儀式のほうが人は集まったことだろう。
退屈で実りもなく、快感もなく、恋愛もないようなところに、お金を払ってくれる人は少なかったし、少ないに決まっていた。それでも鹿鳴館サロンは諦めなかったし、今も諦めてはいない。本当の遊びとは、ただの観客になることではなく、観客を魅了する演者となることだと鹿鳴館サロンは知っているからだった。席に座って提供される快楽を受け取るだけの消極的な遊びでは物足りないと思う人たちがいる。それを信じて、鹿鳴館サロンはあり続けようとしているのだ。
朗読会も読書感想会も、最近では、O嬢の物語イベントを企画する会も、書き方講座も、人の集まりは悪くなった。直接的なエロのないものには人は集まらないものなのである。それでも、鹿鳴館サロンはそうしたものをたいせつに維持して行くのだ。なぜなら、それこそが鹿鳴館だからなのだ。そして、そうしたイベントの横に、緊縛や鞭や性的実験のイベントを並べたいのだ。それが並ぶこと、それこそが鹿鳴館サロンのエロだからなのだ。理解されないかもしれない。共感されないかもしれない。しかし、それでも、私たちは、踏ん張らなければならないのだ。そこで踏み止まらなければ、もう、そこにあるものは鹿鳴館サロンではなくなってしまうからなのだ。
鹿鳴館サロンは仲良しサークルではない。鹿鳴館という思想であり、鹿鳴館という遊びそのものなのだ。人がいても鹿鳴館サロンにはならないのだ。私という執事がいるから鹿鳴館サロンなのではない。鹿鳴館サロンがあるからこそ、私という執事がいるのである。その覚悟が私にはある。あればこその鹿鳴館なのだから。






