電車で病院へ向かっていました。
荷物を持ったご年配の夫婦が乗って来ました。
俺は回りを見渡してから席を譲りました。
しかしその後立ってから優先席が空いてる事を見つけました。
なぜ?老夫婦は優先席に座らなかったのか?
答えはすぐにわかりました。
ベビーカーが通路を塞いでいたからです。
俺がそれを残念そうに眺めていると、隣の優先席にそのベビーカーママのママ友が乗っていたようで、自分の方の席に誘っていました。
そして4人席を2人で座り、話し込んでいました。
その後、ベビーカーママさんが降りてからわかった事ですが、誘われた方のもう一人の子連れママさんは親子で乗っていたようです。
つまりその子連れママのママも乗っていたという事です。
こう書くと何だかそのママ達の批判をしているようだけど、そして俺の行いを自慢しているようだけど、そうじゃないんです。
考えたんです。
ベビーカーのママさんも、御年配の夫婦も優先される対象です。
その腕に抱いている我が子にこういう時何を優先するべきと教えるのか?と。
それはなぜかと聞かれたらどう教えるのか?と。
そしてその子連れママのママはどう教えて育てたのか?と。
究極の選択なんて遊びが昔流行りましたが、まさにリアル究極の選択だと思うんです。
そしてこんな事は日常にたくさんあります。
日常はまさに究極の選択の繰り返しです。
そこでまた考えたんです。
答えは無いんだろうか?と。
もし答えがあるとしたらそこには普遍的な価値観と不変的な絶対価値が要ると思うんです。
そんなものは無い。臨機応変に変わっていくものだ。
そう考えもしました。
だけどその臨機応変に変わる時にも一つの「基準」があると思うんです。
そしてその基準には不変の絶対性が必要なことを感じました。
次の世代につなげていくために、より良い世の中にしていくためには、こんな選択を答えられないようではダメだと思うんです。
次の世代に何を伝えて教えていくか?
教育は大事だと思います。
そしてこの選択の答えを納得いく理由で教えられない大人は、学生時代とはまた違う大人の学校が要るのではないかな?とも思いました。
席を譲った譲らなかったの話をしているわけじゃないので誤解しないで下さいね笑
俺も気分や体調で譲らない時なんて何度だってありますから。
何かを判断する時の基準というのは時代背景や国や性別や職業年齢などで変わってはいけないものだと思うんです。