円環の記憶。本、読書、言葉遊びブログ。

てきとうな読書記録その他。勝手にどうぞ。引用などは作法を守っているのであれば、ご自由にどうぞ。

このごろ、過去に書いた記事の誤っている箇所が気になり始めてきた、直したい箇所もいくつかあるが、なかなかできないでいる。

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「疑惑」は晴れようとも―松本サリン事件の犯人とされた私 (文春文庫)/河野 義行

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『「疑惑」は晴れようとも』 河野義行(こうのよしゆき)

『「疑惑」は晴れようとも』には死刑制度の話題は登場しませんが、河野義行は死刑制度は廃止されるべきと考えているようですね。

河野義行は宗教的信念により死刑制度を肯定しないし、犯罪加害者への死刑を望まないのかもしれない。

河野義行は

『「疑惑」は晴れようとも』では信教の自由がある以上、自らの宗教を明らかにする義務があるとは思えない(p271)

と書いているので、正確には河野義行の宗教はわからないが、おそらくはキリスト教だろうと推測できる。

結婚式は二人だけで軽井沢の教会であげた。(p230)

今、穏やかな顔をして、寝息を立てている妻をみると、神に感謝する気持ちでいっぱいになる。(p234)

と書いているので教派まではわかりませんがキリスト教を信仰しているのだろうなと推測しました。

仏教徒が神に感謝することはないでしょうから。キリスト教だという推測は的外れではないだろう。

キリスト教徒は死刑制度を肯定したがらない。

大抵のキリスト教徒が死刑を肯定しないのは、倫理に拘束されているがゆえだろう。個人的信念として死刑廃止を主張しているというのとも意味が違う。キリスト教徒がキリスト教徒であるためには倫理の保持がどうしても必要なず。キリスト教徒が、キリスト教徒であるためには倫理を保持しなければならないので結果として死刑も肯定しない。

そういう事情があるのだろうなと考えました。

日本人は大部分が非キリスト教徒であるがゆえに倫理を持っていないので、キリスト教徒がなぜ死刑を認めないのかがなかなかわからないのだろう。この問題に気がついている日本人はあまりいないのだろう。

『「疑惑」は晴れようとも』は主要部分を河野義行が語りおろし、中川一徳が構成をし編まれた本です。1994年の松本サリン事件、1995年の地下鉄サリン事件からずいぶん時間が経過していますが、この本の価値は下がっていない。貴重な資料と言える本ですね。

この『「疑惑」は晴れようとも』の感想の記事は以前どこかで書いたような気がしましたが、検索しても出てこない以上、書いていなかったのかもしれない。思い出せないな。


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フランスの子育てが、日本よりも10倍楽な理由/横田 増生

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『フランスの子育てが、日本よりも10倍楽な理由』 横田増生(よこたますお Masuo Yokota)

以前も、このブログでこの本を少し紹介したのですが、もう一度紹介しなおす。

2009年に出版された『フランスの子育てが、日本よりも10倍楽な理由』が2011年ですでに品切れのようですが、非常に勿体ない。増刷か文庫化をしてほしいですね。

『フランスの子育てが、日本よりも10倍楽な理由』は、増刷の価値はあります。出版社はもうすこし宣伝に力を入れるべきです。

『フランスの子育てが、日本よりも10倍楽な理由』の内容を見ると、社会学的な観察は、それほどの水準でもない。しかし、あくまでも横田増生はジャーナリストなので、学問的な正確さを要求するのは、過大な要求になるのだろう。

参考文献を見るとかなり多くの書物に目を通しているのがわかる。

主要参考文献の一部を列記すると

山田昌弘『パラサイトシングルの時代』『希望格差社会』、赤川学『子どもが減って何が悪いか!』、橘木俊詔『日本の経済格差』『格差社会』、ミルトン・フリードマン『選択の自由』、中島さおり『パリの女は産んでいる』薬師院仁志『日本とフランス二つの民主主義』

等ですね、その他にも多数の参考文献が記載されています。

私は赤川学や薬師院仁志の著作のタイトルを見て、実力がある研究者の著作は、こういう本の中にも参考文献として、登場する権利が生じるのだと興味深い思いをした。

『フランスの子育てが、日本よりも10倍楽な理由』の内容に戻りますが、著者である横田増生による、日本、アメリカ、フランス、それぞれの社会の子育てをめぐる社会状況の観察と、フランスのいくつかの家族へのインタビュー、そして、日本社会が今後、子育てにおいてどういう政策を採用するのが望ましいのかの展望を示している。そのほかに。EQの話題やマズローの話題も登場しますが、それらの箇所は特に必要なかったかもしれません。

特にインタビューの箇所が興味深いですね。おそらくは手間がかかっているのでしょう。

フランスで子育てをしている人たちへのインタビューをしているのですが、移民出身の人たちへのインタビューもあります。日本出身フランスで子育てをしている女性たちへのインタビューも収録されている。


2007年に大統領選に出馬したジャン=マリー・ルペンの批判も紹介されている。ルペンは外国人家族にまで手当を支給するのは問題だと考えたという。

ロザン氏は、ルペンの批判は知っているとしながらも、次のように答えた。
「この点に関するわれわれの立場は明快です。外国人であろうとも合法的にフランスに住んでいるのならば、フランス人と同様に扱うというものです。同じように税金を納めているのなら、享受する社会保障も同じであるべきだと考えています。また、国籍に関係なくフランスで子育て家族を支援することが、CNAFの使命だからです。(64ページ)

フランスではときおり移民にたいして否定的な意見も公的空間に出現するようですが、結局は、たとえ移民であっても権利保障の枠の中に収めるべきだという、立場が優性になるのだろう。

移民の扱いについては、日本はとてもフランスを手本にできる社会状況ではないですね。

アメリカでは女性の権利がどういう経緯をたどって保障されるようになったのかの観察がある。アメリカでは60年代半ば頃に男女平等均等法にあたる雇用平等法が一応、成立した。ただ、ルールのうえで権利が保障されても雇用における女性差別は簡単に消えなかった。アメリカの女性たちは、女性差別をする企業などを積極的に、訴えてきたという。アメリカの女性たちは訴訟を起すことにより権利の獲得をしてきたのだという。

横田増生は、日本の女性たちには、訴訟により権利を獲得するというアメリカ流の行動を期待するのは無理であると見る。

横田増生は日本もフランスのような高福祉社会政策を採用することにより労働や子育て等の女性の権利保障をはかるのが望ましいのではないかと考えている。

横田増生は日本もフランスのように国民負担を高くしても、子どもを安心して育てられる社会になってほしいという意見を主張している。横田増生の主張は、日本の有権者が社会保障の充実と引き換えに高い税負担を引き受けるという意志を持てば実現可能な主張である。重要なのは有権者の意識なのだろう。

フランスでは夫婦の財布を妻が握るという慣習がないのが日本とは違っている。日本では妻が財布を握るので専業主婦は自分が社会的に不安定な立ち場に置かれているという事実をいくばくかは誤魔化すことができる。フランスではそうはいかないので、既婚女性も労働者としての権利行使をしなければいけない。

『フランスの子育てが、日本よりも10倍楽な理由』はいい本ですので増刷をしてもらいたいです。

リンク 『パリの女は産んでいる』


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ヤノマミ/国分 拓

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『ヤノマミ』 国分拓 NHK出版

ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を国分拓が読んだという箇所などはわざとらしい演出であり、読んでいるとつらくなってくる。いちいちそんな演出はしなくてもいいです。他にもわざとらしい、というのかいかにもな演出的な記述がある。わざとらしい演出が嫌いな人は読まないほうがいいです。

ヤノマミとはブラジルとベネズエラの国境に跨る森に住む先住民である。

ヤノマミとは人間を意味する語である。そして、ヤノマミはヤノマミ以外のよそ者をナプという差別語を用いて表現する。

ヤノマミの推定人口は25000人から30000人と考えられている。200から300程度の集落に分散して居住しており、ヤノマミ自身もブラジル政府もともにヤノマミの実数は把握しきれていないようだ。

国分拓はヤノマミから見てナプの立場でヤノマミの生活を観察し、TV番組を制作し、そして『ヤノマミ』を執筆した。巻末を見るとクロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』が載っている。『悲しき熱帯』は講談社学術文庫版では『悲しき回帰線』と同一の内容。しかし、『親族の基本構造』載っていない。それでは本質に踏み込んだ観察ができなかったであろう。

ヤノマミはいわゆる文明化された暮らしをしていない人々である。

ではなぜ、現代にいたるまで文明化された暮らしをしないままに部族としてのまとまりを維持できたのだろうか。私のブログを読んできた人はには、かつての記事と重複する説明になってしまい、心苦しいのですが。ここでもあらためて説明しなおす。

答えは、ヤノマミに固有の結婚のルールつまりは女性交換のルールを維持し続けてきたからである。国分拓がレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』を読んでいさえすれば、この答えを出せたはずです。レヴィ=ストロースは、社会は女性の交換ルールによって成立している。女性の交換ルールこそが社会であると、社会の本質を見抜いた。

イギリスの王家にも、アラブ社会の王族にも、日本の天皇にも、それぞれ固有の結婚のルール、女性交換のルールがある。この場のルールとは法というよりも慣習と捉えてください。そして、それらのルールはどれかが優れているのではなく、どれかが劣っているのでもない。欧州の庶民も、中東の庶民も、日本の庶民もそれぞれ違う結婚のルールがあるが、やはりそこには優劣はない。

欧州こそが文明であり、それ以外の地域は非文明というみなしは成立しないということです。どこの地域にもそれぞれ種類の違う結婚のルールがあるだけである。そして、南米に住む先住民であろうが、欧州に住む市民であろうが、結婚のルールからは逃れられないということです。結婚のルールなしに人間社会は人口の再生産ができないからです。

だから、レヴィ=ストロースの主張は、文明の頂点に立っている欧州の人間やアメリカの白人が、南半球に住む無文字社会の人々を自分たちより劣っていると捉えながら、劣ってはいるがその文化を尊重してもいいと言っているのではない。しかし、そんな誤解が生じやすいようで困ったものなのである。

どの地域の人間であっても人間であるからには結婚のルールから逃れられない。レヴィ=ストロースは、そんなふうに観察したのです。

『ヤノマミ』にも性、恋愛、結婚、出産、等の話題も登場しますが、『親族の基本構造』が参考文献に載っていないことも影響しているのか、人間社会を観察するにあたって本質的な記述は、できていなかったですね。

ヤノマミがTシャツやズボン等の品物やポルトガル語やスペイン語といういわゆる文明と接触したのは20世紀になってからなのだという。

それまで、そして現在もなぜ、ヤノマミが生き延びているのか。その理由はやはり、ヤノマミが固有の結婚のルールを壊さずに保持す続けたおかげなのである。結婚のルールさえ保持できれば人間は人口を再生産できる。ヤノマミも同様であったということなのでしょうね。人間が人間であるためには、文字や貨幣やさまざまな道具類。光沢を放つ金属や、プラスチックの製品というようなものを使用する必要はないということです。

もちろん、そういった道具類を否定する必要はない。近年はヤノマミの社会にもさまざまな商品が流入しだしている。そして学校に通えるものも出始めてポルトガル語を使用できるヤノマミも出始めている。

今後はヤノマミも都市化された暮らしを選択するかもしれない。しかし、ヤノマミに固有の結婚のルールを保持できる限りヤノマミはヤノマミでいられるはず。

アメリカでも高層ビルが職場であるという先住民もいるはずだが、その先住民に固有の結婚のルールを守っている、あるいは見方を変えれば、逃れられないならば、先住民は先住民のままなのである。

もし、ヤノマミが全員都市に住むことになったとしても、民族としてのまとまりは簡単には喪失しない。

最近のブラジルでは、ヤノマミの住んでいる保護地域を開発したくて仕方がない人々が多く出現している。ヤノマミを保護しようと真剣に考えている人々もいる。保護か開発かという問題に直面し悩んでいる人々もいる。しかし、結婚のルールが保持される限りは、ヤノマミは消えない。

ヤノマミがなぜいわゆる文明化しなかったのか、私なりに考えてみる。ヤノマミには文字がないというのも大きな理由ですが、その他に最も大きな理由があると信じている。徴税権をもつ人間がいないからだろう。いわゆる文明社会には税制が必ずある。この場合の税というのは、物品や貨幣、労働力の負担等をすべて含んでいると考えてください。税を受け取る人間と負担する人間が出現すると階級の分化が起きる。文明社会の基礎には税制がある。ヤノマミには実質的な徴税権を持つ者がいない。これにより、富の偏在が起こらず、いつまでも平等ないわゆる未開社会の段階にとどまっていたのだろう。

それから、ヤノマミの女性たちは出産後に生まれた子どもを育てるかそれとも育てないかを選択できるルールになっている。ヤノマミの女性たちは、森で出産する。そこで生まれた子どもを連れてかえって育てるか、それともそのまま森の中に放置し天に返すか、選択しなければならないのである。

このルールは現代の日本人には結構衝撃かもしれませんが、私は引っ掛かりを持った。子どもを育てるのかそれとも天に返すのか、女性が選択できるとしたら、男の子と女の子の比率がどうなるかということが気になって仕方がなかったのです。

生物学的事実として、生まれてくるのは男の子のほうが女の子よりもいくばくか高い比率になる。これはヤノマミであろうがなかろうが人間ならばなからずそうなる現象である。しかしヤノマミの女性たちが森で出産したあとに連れてかえってくる赤ん坊の性別の比率がどうなっているのだろうか。これが気になって仕方がない。

社会の中で、男の子の比率が高く、女の子の比率が低くなったほうが、文明化される度合いが高くなるのです。要するに結婚できない男を人為によって作り出すと、男が簡単に結婚できなくなるので、労働を引き受けなければいけなくなる度合いが高くなるのです。男女の比率を意図的に操作するという人口の人為的な調整が統治の本質だとも言えるでしょうね。それによっても文明化が進行するのです。社会の中で男の比率が高くなると労働という形式で税を負担する人間が出現せざるをえないともいえる。ヤノマミの社会がいわゆる文明化がされていないということは、社会の中で育てられる女の子の比率が男の子の数と比較して目立つほど低くなっていないという推測ができます。この推測があっているかどうか、どうなのだろう。

気になるが、わからないままにしておくしかないのだろう。

追記。二つ上の段落はややわかりにくいので補足説明しておきます。出生時の男女比は自然の数字だとしても、社会のルールにより結婚できない男性を作り出すような統治をすると、その社会は文明化しやすいのです。経済力や社会的地位など有力な男性が多くの女性を独占するという複婚制の社会のほうが、そではない単婚制の社会よりも文明化というのか都市化しやすくなります。

ヤノマミの結婚制度は複婚制ではなく、どちらかというと単婚制に近いのではないかと推測します。


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