やっとやっとの金曜日。明日は晴れるかしら?

おはようございます。サンドルです。

 

さて

 

前回、サンファンバウティスタミュージアムでのイベントを紹介したせいもあって、今、頭の中が支倉常長さんでいっぱい。

( ̄▽ ̄)

 

 

慶長遣欧使節団の責任者を仰せつかった支倉常長(はせくらつねなが)さんは、そらもう優秀な人なんだ。

 

山口さんちの次男坊に生まれながら、叔父様にあたる支倉本家に跡取りがなくって、養子に。

でも、小十郎のときと同じで、後から嫡男誕生で用済み扱いとなり、支倉家1200石のうち600石を財産分与してもらって独り立ち。

小十郎が養子親から実家に返されて終わりってのに比べれば、高待遇よね。

 

政宗公の「使番」衆の一人で、伝令や密偵みたいな働き方をしていたみたい。朝鮮出兵にも同行していて、見知らぬ土地の探査や情報収集スキルはそのころに培われたんじゃないかって話もあるよ。

 

ただ、仕事振りの割に順風満帆な人生ではなくって、実の父親が政宗公の財産に損を出した(横領でもしたのかしら?)ってんで罪人となり、切腹。

 

常長は養子に出されたけど、まあ実子じゃん?ってことで斬首の予定になったところを、逆転サヨナラでの遣欧使節団のお役をもらって命拾いしちゃうのだ。

 

命にかかわる大旅行だから、死刑のかわりに遣わされたとも

帰ってこれないかもしれない旅路に先祖代々の重臣や伊達の血縁なんか出せないから、身分は低いながらの抜擢だったとも言われています。

 

それにしたって一大事業なわけなんでして、背景がなんにせよ、実力を買われてのことだったには違いねえよにゃ。

 

扱いがひどいと思われるでしょうが、糸1本引き間違えればオシマイって戦国の世では、物事は幾重にも背景があって決まっていくんだよ。命がけなんだ。何するにも。

 

この、支倉常長さん

実に名前が多くってびっくりするのよ。

 

幼名は与一(よいち)興一とも

 ※余されっ子なのは名前のせいなんじゃ?

   ( ̄ー ̄;

 

んで、ご存命中に名乗られた名前が

「山口与一(やまぐちよいち)」

「支倉五郎左衛門(はせくらごろうざえもん)」

「支倉五郎左衛門尉(はせくらごろうざえもんじょう)」

「支倉六右衛門(はせくらろくうえもん)」

「支倉六右衛門尉(はえくらろくうえもんじょう)」

「はしくら六右衛門どんひりへい長常」

 

おまいはいったい誰くんなんだと突っ込まずにはいられにゃいよにゃ。

左うえもんから右うえもんに、左右逆転してんぢゃねーか。

常長だと思ってたのに、長常なんかい!左右ばかりか上下も逆転してんのかい!何回転してんだYO!

 

ってなもんよね。( ̄▽ ̄)

 

ほいでもって、一番耳に慣れているあのお名前。

「支倉常長」

 

皮肉なことに、生前名乗られたことは一度もない名前なのだ。

常長亡きあと、しばらく支倉家は断絶。

その後、江戸も後期に復活して、その際に家系図も整えられますが、キリシタンが先祖にいた事実は伏せたい。しかし、家系図の流れは正しくのせたい。しかも海外とか行っちゃったすっげえ先祖だし・・・でも・・・だって・・・

 

ってな葛藤があったかどうかわかりませんが、そのまま載せるのは具合悪かろうということで、長常は「常長」とされ、一般に今の世に知られることになったのでした。

よく考えると渾名ですらない名前が後世に残るという奇跡。

( ̄▽ ̄)

 

ところで

 

もしかしたら死罪の代わりに海外派遣となった常長は、いったいどんな気持ちで役目に就いたのでしょうか。

何か月も、大会の上で揺られての危険な旅路。自分が罪人だとか、この役を成功させなければ命がないと逼迫した気持でいたのでしょうか。

 

どうかな。

 

私はね、常長さんは案外

『死罪免れた!ラッキー!セーフ!俺セーフ!殿のためにまた、ひと働きしちゃうぞ~!海外楽しみ~!!』

 

くらいの明るい方だったんじゃないかなあ、なんて思っています。

なんせ、真に鬱々たる気質の子であれば

 

 

いくら異国とはいえ

こんなはしゃいだレインボーの着物を着て、ポーズなんか決められないのである。

( ̄▽ ̄)

 

さて、帰国後の処遇には諸説ありますが、今朝はここまで。

 

しからば、ごめん!

 

 

 

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